神名龍子
その前に、T's に限らず広い意味で、なぜ「性」について考えることが、非常に大きな問題として捉えられるかというと、私の考えでは「性」そのものが大きな問題なのではなく、「性」が、
という、きわめて根本的な問題につながっているからだと思います。逆に言えば「性」の問題それ自体は、これら根本的問題の一つの現われであって、「性」の問題が「根本的問題そのもの」であるとは思えません。
「ジェンダー」とは何かというと、これは「1.「性」の種類」で書いた通り、
であるわけですが、これを私なりにもう少し掘り下げてみたいと思います。すると、結論から言ってしまえば、
ということになり、これらの1〜3は、それぞれ上記の「根本的問題」の1〜3の一種であることが判ります。
ここでひとつポイントになるのは、「社会が共有する価値観」と「個々人の価値観」とは、必ずしもイコールではないということです。これもまた「性」に限らず、政治その他あらゆる社会問題等に共通するポイントです。この「イコールではない」というのは、つまり、T's あるいは同性愛等の問題も含めて、「社会」と「個人」のつながりにおける「ねじれ」なんですね。逆に言えば、その「ねじれ」を指して「問題」と呼ぶわけです。
ですからこの「ねじれ」を何とかしようとすると、往々にして「社会」を変えようとするか、逆にあくまで「個人」を貫き通すかという、両極端な形で二極化しがちなんですが、前者は「社会」を相手にする限りどうしても「個々人」それぞれの価値観というものを抑圧し勝ちになりますし、後者は逆に「社会」を無視する方向に走り勝ちになります。これはどちらにしても「社会」と「個人」をつなぐ視点がどこか抜け落ちているという点では同じで、「ねじれ」が嫌だからといって個人と社会の「関係」そのものを断ち切ってしまうようなものです。ですが私の直観では、そういう両極端な形でしか解決方法が存在しないはずがない。「社会」と「個人」のつながりを保ったまま、「ねじれ」を修正する方法が何かあるのではないかと思います。
先を急ぎすぎたので、もう一度立ち返って、ジェンダーについて見てみることにします。
まず、ジェンダーがある社会においての一つの価値観、つまり「真・善・美」の捉え方であるというのはどういう事か。これについては、まず「真・善・美」の説明から入る必要があります。つまり「真・善・美」とは私たちにとって何であり、私たち個々人がそれをどのように身につけてきたかということです。
順番は違いますが、まず「よい(善)」とは何かについて考えてみましょう。
その前に、人間に限らず、あらゆる動物は「快・不快」という価値基準を持っています。そして、現に目の前にあるものについて、あるいは現に体験していることについてだけではなしに「快・不快」の「快」の可能性を目指し、「不快」をあらかじめ避けるということをします。これは高等動物になればなるほど、時間的にも可能性の幅としても、広く長い射程をもって「快」を「めがける」ようになります。さらに人間だけは常に「自分が何であるか」を(肯定的か否定的かは別にして)了解しつつ、「自分が何でありえるか」を目指して生きています。
そのためには当然、「快(エロス)」を予測させる「何か」があって「めがける」わけで、「よい」とはつまり、「現に『快』を与えるもの、もしくは『快』を予測させるもの」ということが出来ます。そういうものを「よい」と呼ぶのだということを、幼い時期に習い覚えるのです。したがって、現に食べている美味しいものは「よい」ものであり、まだ食べてはいないけれども美味しそうなものは「よさそう」であり、空が晴れれば気分的にも「よい」天気であり、倫理的に「よい」ことは「よい」人間関係を保つために役立つものであるから、それ自体が「よい」こととして私たちに受け取られる(私たちによって「よい」と価値評価される)のです。
また私たちは、自分自身の「よい」を犠牲にしても親に怒られないようにする、つまり親との人間関係を保つのが「よい」子であるとも教えられて来ました。その後さらに、親子関係だけでなく、友人関係とか、恋人、職場の人間関係など(広くいえば、社会)についても、同様のものを身につけながら成長します。つまり、初期の「よい」は自分自身にとっての「よい」という価値基準とイコールですが、その後から人間関係にとっての「よい」という価値基準がそこに加わります。そして前者と後者の二つの「よい」や、異なる人間関係の「よい」の内容の違い(嫁姑問題で言うと、親子関係における「よい」と夫婦関係における「よい」の矛盾)が、時に心理的葛藤を呼び起こす原因になることもあります。
「快」は身体的にあらかじめ備わった感覚ですが、その「快」を予測するためには経験と訓練が必要ですから、私たちはその経験と訓練によって、何が「よい」かを身につけて来たわけですね。
そして、成長段階を追っていうと、自分自身の「よい」を親子関係にとっての「よい」のために犠牲にする段階があるわけですが、そのためには、自分自身の「よい」よりも親子関係を保つ方が大事だと思う必要があります。そうでないと、親子関係を保つために自分自身にとっての「よい」を犠牲にする動機がありません。これを「ジェンダー」の問題について見てみると、例えば「赤い鞄」や「ピンクの服」が好きな男の子がいたとして、この子本人にとっては「赤い鞄」や「ピンクの服」が「よい」ものです。ところが親が「これは男の子のものではない」といって「青い鞄」や「青い服」を与える。それをこの男の子が自分から受け入れるかどうかは、この男の子にとって自分自身の「よい」よりも、よい親子関係を保つ方が大事だと直観される場合に限るということです。
「男(おんな)らしさ」や「男(女)の性役割」が身につくというのは、このような経験・訓練を経て行われるものであり、それが親の望む通りになるかどうか(親の「よい・悪い」を追体験して、自分の中にコピーするかどうか)は、その子が自分自身の「よい」と、親子関係にとっての「よい」について、どのようなバランスシートを持っているかの問題になります。これを言い換えると、子供は「よい自分(よい子)」という自己像がもたらすナルティシズムが、自分自身の動物的な「快・不快」や根本的な「よい・わるい」という快感原則を乗り越えて欲望の中心に据えられる場合にのみ、自ら親の「よい」に従うのです。
また、自分自身の「よい」を犠牲にするにも、二通りの方法があります。一つは自分自身の「よい」を親の望む形に書き換えてしまうことです。もう一つは自分自身の「よい」を無意識下に抑圧し、親の望む「よい」にしたがって行動する方法です。自ら進んで親の望むジェンダーを身に付けたいと思わないのに、強制的・抑圧的にあるジェンダーを押し付けられたような場合には、特にこの形になり易いと思います。親の望まない「よい」が意識的・無意識的に残り、場合によっては後年になって再び表面化するのは、こういう場合でしょう。
ここから考えると「性自認」が2〜3歳までに決定され、その後は変更不可能とする説にも疑問があります。原理的には経験・訓練によって得たものは、変更が難しいということは充分にありえますが、変更不可能ということはまずありません。ただ「現状において技術的に変更不可能」であるということは、当然ありえます。この説の「変更不可能」がどのような意味での「変更不可能」なのか、またそれはどのような人達を観察した結果得られた結論なのか等、再検討する必要はないでしょうか。「よい」の書き換えの痕跡を見つけるのは難しく、それに比べれば抑圧された「よい」の発見は容易かと思います。仮に被抑圧派だけを観察していれば、性自認は変更不可能に見えても当然ですが、その場合、必ずしも「性自認は変更不可能」という結論が「正しい」ということにはなりません。
「よい」の次に、「きれい(美)」とは何かについて考えてみます。
「きれい」は「よい」と同様、どういうものを「きれい」といい、どういうものが「きたない」かを習い覚えるものです。ただし最初に覚えるのは行為や領域ではなく、色や音、形などに関してでしょう。幼いうちから「美しい行為」という認識を持つかというと、これはちょっと無理があると思います。この場合の「美しい」というのは、その行動の持つ意味に対する評価です。しかし私たちは、それ以前に「きれいな色」とか「きれいな音」という形で「きれい」を覚えたと思います。これはつまり意味がもたらす「快」ではなく、感性的な「快」をもたらすものとしての「きれい」ですね。ですから発生的には、「よい」が意味的な「快」をもたらすものであるのに対して、「きれい」は感性的な「快」をもたらすものであっただろうと思います。
さらに付け加えるならば、この初発的な「きれい」は、親が子供に与えたり指し示したりする、「禁止されない」エロス的可能性の対象であったと思います。
そこからさらに発展すると(つまり「きれい」を受け取る訓練が進むと)、人間が「生」の時間性を味わうという「快」をもたらす「きれい」を理解するようになります。例えば音楽で言うと、単に「きれい」な音だけでなく「きれい」なメロディを味わうことが出来るようになります。てんでバラバラな音が鳴っているだけでは、ただの音もしくは雑音ですが、音と音のつながりを理解するようになると、「きれい」なメロディというものが理解できるようになります。これは音楽の例ですが、優れた武術が、単に戦う技というだけでなしに、鑑賞に耐えるものになるというのも、無駄な動きを排し、動作を途切れさせない(途切れればその瞬間が隙となって現れる)ことが、武術的に必要であるだけでなしに、音楽の「きれい」なメロディと共通した「きれい」さを持つからです。
初発の禁止されない「きれい」は、同時に「よい」でもありますが、「よい」と「きれい」は必ずしも重なり合いません。禁止されない「きれい」とは「よい−きれい」ですが、後から禁止された「きれい」、つまり「わるい−きれい」が出てくるからです。エロティシズムとか「犯罪の美学」などは、その代表例でしょう。エロティシズムとは、つまり「禁止された美への侵犯」です。ですから社会的な倫理にとっては、「悪」として扱われます。
要するに、T's に限らず「性」全般が、社会的には「悪」であり、個人的にもどこか「わるい−きれい」なものであり、ゆえに「うれし恥ずかし」という実感的な言い回しが存在します(今は死語かしらん?)。
ここで、「13.男と女の非対称」を思い出して頂くと、女性の場合には、意味的にも感性的にも「関係」のエロス(よい−きれい)を求め、男性の場合には性的なエロス(わるい−きれい)を求めているように見えるんですね。男性が求める性的なエロスというのは、「きれい」と教えられながら、触れることを禁止されたものであり、その「きれい」はその時その時の、見て「きれい」というだけでなく、「この人と一緒になれたら」という時間性を味わう「きれい」でもあるわけです。この「時間性を味わう」ということは、自分自身が何で「ありうる」かという、未来に向かっての時間的射程におさめたエロスをめがけるということです。
ついでにいうと買春というのは、お金でエロスを手に入れる行為なわけですが、そこで手に入る(達成する)のは「その時」のエロスだけです。逆に、時間性に関するエロスの挫折は買春に必然的に伴うものです。つまり買春は「その場限りの性関係」であるために、あらかじめ時間性に関するエロスの達成が禁止されているという条件の上に成り立っているわけです。買春のあとで男性が味わう「わびしさ」の正体は、お金で女性を買うことへの倫理的な罪悪感ではなく、このエロスの挫折感ではないかと思います。
では、なぜ男性は女性に対して「きれい」を見るのか。これは「性的指向」の問題になるのですが、つまるところ「きれい」の習い覚え方の問題ではないかと思います。つまり「よい」の問題での「赤い鞄」や「ピンクの服」が好きな男の子の例と同じで、何を「きれい」と思うかは、自分が属する文化に規定された「きれい」の価値基準を自分の中にコピー出来たか、それとも別の「きれい」の価値基準を持ったかということです。
また、私の考えでは「性的指向」は、その人が身につけた「性役割」とも関係があると思います。これは「性的指向」が単に「男と女のどっちが好きか」ではなく、性的エロスを優先するか、関係的エロスを優先するかという、原理の違いが絡んでくるからです。男性に「きれい」を感じる場合にも「性的指向」は男性に向くでしょうが、例えば女性のジェンダーを身につけて「自分は弱い」と考えたら、守ってくれる人が欲しい。この場合にも「性的指向」が男性に向くことがありえると思います。また女子校などでは同じ理由で、スポーツの得意なりりしい先輩にあこがれるかも知れません。前者が性的エロスをメインとするのに対して、後者は関係的エロスに関わる選択ですね。ですから「性的指向」は必ずしも「性役割」から独立した項目ではないし、逆に完全に連動するものでもない、つまり別項目でありながら、完全に独立した項目でもなく相互影響関係にあるもの、ということになるかと思います。
ですが、MTF と FTM を比較した場合、FTM の「性的指向」が女性に向きやすいのに対して、MTF の「性的指向」が女性に向かう、あるいは両方に向かう率は高いようで(男性に向かう場合と、およそ半々くらい?)、どちらからも女性(ジェンダーにおいての)はもてますね(笑)。ここから見る限り「きれい」を主に女性が持っているという点では、T's でもあまり変わらないようです。
ただし、「きれい」を女性が独占しているからずるいとか、反対に「きれい」を女性に押し付けられた等、これについて肯定的な解釈をするか否定的な解釈をするかは、また別問題です。ただ「独占」か「押し付け」かの解釈の問題を別にしても、女性に「きれい」を求める価値観が、文化の中で個々人にコピーされつづけているのは確かでしょう。もちろん、それがコピーされなかった人が少数派ながらも存在することは、上記の通りです。
その例外をどう捉えるかという点で、もう一つの「ほんとう(真)」とは何かについて考えてみましょう。
まず押さえておきたいのは、「ほんとう(真)」といっても、「絶対の真理」というものは原理的に存在しないということです。これは単に「絶対の真理というものがあって欲しい」という人間の要請から想定されたものであったり、またある社会を一つの価値基準で統一したい場合に、それを「絶対の真理」であるとすれば、その他の価値基準を誤りだとして退ける口実にもなります。「絶対の真理」とはこのような要請によって作られた、理念的にのみ存在するフィクションです。
私たちは上記に見てきた通り、自分にとっての「よい」や「きれい」が、万人にとっての「よい」や「きれい」と必ずしも一致しないことを既に知っています。その、万人にとっての「よい」や「きれい」や「ほんとう」も決して「絶対の真理」なのではなく、万人の間に(間主観的に)共通了解として作り出された社会的な規範、つまり「ルール」なのです。「ルール」である以上は「こうでなくてはいけない」という真理として存在するのではなく、万人が「妥当」と認めたものが、その都度「ルール」になるわけですから、「絶対の真理としてのルール(絶対正義)」の存在は、民主主義の趣旨とも矛盾します。
それに対して、個々人が持っている「よい」や「きれい」や「ほんとう」とは、個々人の中での行為や態度、価値判断の基準であり、これは「ルール」ではなく「内的なモラル」です。いいかえれば自分自身がどういう人間で「ありうる」か(または「ありたい」か)と思っているかということです。「存在可能」についての自己了解と表現してもいいでしょう。
この「ありうる」が単に身体的な「快・不快」(エロス)だけでなく、「よい」や「きれい」という価値(エロス)をもめがけるというのが、人間と他の動物との違いです。単に身体的な「快・不快」をめがけるだけでしたら、個体間の「快・不快」というのは同じですから、「ほんとう」を求める動機がありません。その場合には「ほんとう」が自明のものになってしまうからです。人間が「ほんとう」を求めるのは、個々人の間によって「よい」や「きれい」が異なるからこそ、「ルール」を作る(共通了解を取り出す)動機が生じるのです。
ですが「ルール」、つまり社会的な「よい」や「きれい」を守るべきだという要請が外部から来ても、実際にそれを守るかどうかは、「よい」について考えた中での、「赤い鞄」や「ピンクの服」が好きな男の子の例のように、ある条件があります。それを認めずに、「ルール」が「絶対正義」になってしまうと、個々人が持つ「よい」や「きれい」を無条件に否定することになります。あるいは個々人が持つ「よい」や「きれい」は、社会的な「よい」や「きれい」と一致するべきだという考え方になります。これはどうしても転倒した「弱者の論理」になってしまいます。私の解釈では、カントやヘーゲル、マルクスなどの近代思想の問題もこの点にあって、彼らは「主観」に対して「客観(真理)」というものがあるはずだと考えた時点で、つまり前提において既に誤りを犯していたのだと思います。
したがって私たちは「真理」や「絶対」を求めるのではなく、個々人が「ルール」を守る条件とは何か、いいかえれば、個々人の間で「共通了解」が成立する条件と、それが守られる条件とは何かを問う必要があります。これは個々人の「よい」や「きれい」が「ルール」と一致するかという問いではありません(それは「絶対正義」につながってしまいます)。個々人が「ルール」を守ることと、個々人の「よい」や「きれい」そのものが「ルール」と一致することとは、別問題です。
上記の通り、「ルール」とは絶対にこうでなくてはならないという根拠はありません。その意味では「ジェンダーに根拠はない」というのは正しいのです。ですが私たち T's と社会の間にも何らかの「共通了解」が導かれる必要はあります。そうでなければ私たちの社会生活が、根本的に成立し得ないからです。
この見方からいえば、「性同一性障害」が社会的不適応を伴うのも、「性」やその他のことがらについて社会との間に「共通了解」がどこか欠けるからです。つまり、周囲から見た「自分」と本人から見た「自分」との食い違い、社会的な「ルール」と個人的な「よい」や「きれい」とのズレによって社会的不適応が起きるわけですね。
個人にとっての「ほんとう」とは、社会的な、あるいは理念的な「かくあるべき」という「要請」ではなく、反対に「命令」や「要請」を含まない自分自身の「こうありたい」から生じるものです。自分の「ありうる」が確かに「よい」ものだと了解されると同時に、その了解がエロス性を持って味わわれる時に、個人(自分)にとっての「ほんとう」を直観します。したがって、個人の「ほんとう」と、社会的な「ほんとう(ルール)」とは、単に内容が異なるというだけではなく、その本質を異にします。個々人が「ルール」を守る条件とは何かという問いは、その本質的に異なる本質を持つ二つの「ほんとう」をつなぐことの出来る条件は何かということなのです。
社会的な「ルール」とは間主観的な共通了解のことですから、その内容は一人一人が持つ個々人の「よい」や「きれい」の影響を受けて変化します。日本全体の「社会」を考えるとあまりピンと来ないと思いますが、これはもっと人数の少ない人間関係、例えば二人の個人間の人間関係における「ルール」の成立を考えれば判りやすいと思います。そして反対に、社会的な「ルール」は個々人の「ありえる」に対してその基礎的条件を与えます。あまりに社会が矛盾に満ちていると、個人は自分の「ほんとう」を現実に活かす機会を失い、「ありえる(自己の存在可能性)」を狭めてしまいます。つまり、両者は本質を異にしながらも、相互影響的な関係にあるという点では、はじめからあるつながりを持っています。
個々人が自分の「よい」や「きれい」が、社会(あるいはある人間関係)の「ルール」に沿うかどうかの条件はいくつかありますが、まず一つは、
これは偶然の産物か、よほど素直な人物の場合、あるいは民主主義が上手く機能している場合です。この場合はそもそも「問題」として捉えられないので、参考にならないかもしれません。しかし「ルール」の決定が、いかに個々人の「ありえる」に対してその基礎的条件を与えることが出来るかという視点で考えられている限りは、充分にありえることです。またそういう社会においては、社会の維持、つまり自分の「ありえる」の基礎的条件の維持のために、個々人が積極的に「ルール」を守る動機が生じます。
これについては前述した通りですが、悪くすると、人間関係ばかり気にして自分を見失う可能性もつきまといます。
「ルール」がどのように編み変えられるかにもよりますが、「ルール」の方が個人の「よい」や「きれい」に近づくという意味では、1番目や2番目とは逆になります。いわゆる社会運動の場合には、この形を目指しているわけです。しかし、運動団体もまた一つの「社会(人間関係)」ですから、自分の「よい」や「きれい」のために運動をしているはずが、上記の「2.」の原理で、いつのまにか運動団体という小社会の「ルール」によって、自分の「ありえる」を失う危険が常につきまといます。社会運動が「絶対正義」化しやすいのは、このためです。そのような社会運動とは異なりますが、三橋順子さん提唱の「リーク女装」もこれに分類されます。