神名龍子
まず「更進性」についておさらいしておくと、これはある事柄について、どの程度まで上達を求められ評価されるかという、その程度を意味します。「上達しうるものであること」、「上達を求められるものであること」、「その上達が評価の対象になること」の3つが更進性の条件です。例えば箸の使い方は人並みに出来さえすればよいもので、それ以上の上達を求められることはありませんし、してもその上達を評価されることはありません。こういう場合を「更進性が低い」といいます。逆に上達すればする程よいもの、当然上達すればするほど評価が高まる場合には「更進性が高い」ということになります。
社会的地位を男性が独占しているというフェミニズムからの指摘がありますが、これも正確に言えば、実は男性が独占しているのは「社会的地位」というよりは、「更進性と関係性」がその本質だと思います。例えば会社に勤めれば、社長であろうとヒラ社員であろうと、具体的な「地位」に関係なく、それぞれの立場なりの更進性があり、人間関係の網の中に位置しなければなりません(関係性)。しかし「三食昼寝付き」の主婦にそんなものがろくにあるはずがない。またOLになってもコピーとお茶汲みばかりでは、やはり更進性や関係性において満足できるわけがない。
この点において、近代以降の女性、特に「主婦」と呼ばれる女性には、更進性と関係性が充分でないということは、まず間違いないでしょう。しかし、それを男性が独占している状態が、はたして男性だけの責任によるものかというと、これにはかなり疑問があります。
女性が関係性の中に生きるといっても、やはりそれぞれの女性にとって、例えば近所付き合いなんか面倒くさいとか、関係性にも「よい・わるい」があるわけです。でも、それを嫌っていれば、どうしても地域社会で孤立する。現代は昔と違って、特に都市部では電車通学が当たり前の時代ですから、地域社会で孤立しても、その外側にかつての同級生がいて旧交を温め合えば最初のうちは何とかなります。しかしお互いに子供が産まれたり、いいアパートやマンションを見つけたとか亭主の転勤とかで引っ越したりしているうちに行き来が少なくなることも多いと思います。それが結局は自分の関係性をどんどん狭めてしまう。
女性が社会へ「出る」というのは、逆に言えば「家の中に閉じ込められている」という意識の現われだと思います。といっても、もちろん監禁されているわけではないので、これは「関係性における不満足」の現われではないかと思います。他国の事情は判りませんが、少なくとも日本ではアパートやマンションなどへの隣近所への無関心とか、そういった近所付き合いの喪失と核家族化による「主婦」の関係性の欠如、それに女性の社会進出の主張の声が大きくなったのとが、同時進行していたような気がします。
しかもそういう中で、亭主は会社で、子供たちは学校でそれぞれ関係性を持ち続けている。関係性だけではなしに、職場も学校もなんらかの「更進性」がある。とすれば、「主婦」は家族の中で自分だけが、更進性が低く、関係性が薄い立場にあるわけですから、それをなんとか回復しようとします。例えばカルチャースクールに通うとか、パートタイマーになるとか、ボランティア活動や社会運動に参加するとか、その他の社会進出を考える、あるいは直接に自分の更進性の回復をはかる代わりにその願望を子供に投影して教育ママになるとかですね。同じ理由から新興宗教にはまる人だっていると思います。これらは要するに、かつての「井戸端会議」の代替機能という一面を持っているといえるでしょう。
ですから主婦の更進性や関係性の回復のためにも女性の社会進出を可能にするなど、女性の選択肢を広げることは大切なのですが、本当に大切なのは、専業主婦のような既存の選択肢においても、女性の社会進出に伴う新しい選択肢においても、そこから更進性と関係性が失われないようにすること、あるいは失われた更進性と関係性を取り戻すことだろうと思います。私が知る範囲での現在のフェミニズムにはこの視点がまだまだ不充分で、問題の本質を突きはずしています。
例えば「家事労働に賃金を」という主張も、大多数の女性の声を代弁しているとは思えないんですね。もちろん「賃金」という形で欲しいという人もいるでしょうが、別に「賃金」に限定する必要はない。せめて感謝して欲しいとか、ほめてもらえなくて張り合いがないとか、そういう方が大多数の主婦の実感に近いのではないかと思います。大多数の女性が欲しているものの本質は「賃金」ではなく「評価」であって、「賃金」というのは更進性の観点から言えば「評価」の一形態に過ぎません。「評価」を「賃金」という一形態に限定するのは、女性を(あるいは主婦を)「(家事)労働者」としてのみ捉えていて、エロスの追求という人間の本質を見逃しているわけですから、おそらくこういう主張をするフェミニズムの一派が大多数の女性の支持を得ることは不可能だと思います。
かつて私の中学・高校を通じての英語の先生(故人・当時五十年配の男性)が、
といってたことを覚えているのですが、これを更進性という観点から、しかも女性の側から見ても、まったく同じ事が言えるのではないでしょうか。つまり、
と。ちなみに、男女どちらから見た場合でも、一番目と二番目は割と簡単に入れ替わる可能性がありますが、それに比べると三番目は、新婚家庭を別にすればあまり動きそうにないように思います。
「張り合いがない」というのは、更進性が低いか、もしくは相手から評価を受けることそれ自体に意義を感じないということです。後者の場合は、既に亭主に愛想を尽かしているわけで、これは女性問題というよりも、家庭問題というべきでしょう。前者の場合には、要するに懸命にやっても「評価」されないということです。「一番まずいのが女房の作った弁当だ」といわれたら誰でも作る気をなくすのが当然ですが、「美味い」とも「マズイ」ともいわれないのも、やはり張り合いをなくします。
私の場合、過去にある男性と付き合った時に、たまたま彼が休日に一人だけ出勤して仕事をしなければならなかったことがあって、その時にお昼にお弁当を作って持っていったことがあるんですけど、その頃の経験から言うと、恋人にお弁当を作るのは本当に張り合いがあるんです(笑)。しかも買い物中に知り合いのゲイバーのママと会ってしまって、照れくさいくせに、つい自慢してしまいました。もちろんあとで、それをネタに散々からかわれるというオツリが来ましたけど、それもまた当時は幸せのタネだったりして・・・。まぁ、私にもそんな時期がありました。
話が変な方にそれましたけど、これは夫婦でも恋人気分が残っている新婚のうちだったら同じだと思うんですけど、相手が感動して感謝してくれるという「評価」があるから、また作ろうという気になります。
年がばれるかもしれませんが、私が子供の頃に、確かインスタントラーメンのCMだったと思うのですが、恋人か新婚に見える若い男女が出てきて「私作る人、僕食べる人」というのがありました。これが女性団体からの「男女の役割を固定化する」という抗議で放映中止されたのですが、この抗議は行き過ぎだと思います。結婚して長年連れ添っているうちに、男性の方もだんだん新婚当初の感動が薄れて手料理の更進性が低くなってゆくと思うのですが、そういう夫婦関係においての家事労働と、恋人関係や新婚家庭においての家事労働とを同一に評価したら、これは間違いだと思うんですね。
一口に「男女」とか「夫婦」といっても、彼が食べるものを作ることがうれしい関係もあれば、作るのがアホらしくなる関係もあるわけで、これをまとめて「男女の役割の固定化」として排除してしまうのはあまりに短絡的です。例えハタから見て「男女の役割を固定化する」ように見えようと、「私作る人、僕食べる人」の両方が幸福を感じるような関係にある若い男女は現実にいくらでもいるわけで、そもそもこのCMに政治性なんかあるわけがないんです。抗議する側がそれを政治的に解釈しているに過ぎません。これはスポーツ用語に過ぎない「ストライク」や「ホームラン」を「敵性語」として排除するのと本質的に同じ事で、やはり行き過ぎだと思っています。また「敵性語」を排除しても戦争に勝てなかったのと同様に、そんなことで家事労働の更進性が高まるわけもありません。
これが例えばアメリカだと、家族(夫婦に限らず)でも友人関係でも、日本の基準からするとやたらとホメまくるんだそうですね。ですから文化人とかいう人達が「日本人は誉めるのが下手だ」といい出したりするわけですが、私の考えでは、これは日米の文化の違いが前提にあって、アメリカ式をそのまま日本に持ち込んでも仕方がない。欧米では「ホメる」に限らず何事も「はっきりいう」のが文化の基本です。しかし日本の場合には、はっきり言わずに「察しろ」という文化ですから、日本の「張り合いのない亭主」がある日突然に、「デリーシャス」だの「チャーミング」だの「ビューティフル」だのと口走り出したら、ロクなことにならないだろうと思います。
だいたい「張り合いのない亭主」というのは不器用なんですから、気味悪がられたり、あきれられたりするのはまだマシな方で、下手をするとあまりのわざとらしさに腹を立てられるかも知れません。ただ、せめて食事の時はおいしそうに食べて、女房が美容院に行ってきた日は「ほぉ」といって少しだけ見とれる。「ナニよ?」といわれたら「ん、いや・・・」といってごまかしてしまう。それだけでも、食事を無感動に食べ、女房が美容院に行っても気が付かないような「張り合いのない亭主」よりは、ずっといいでしょうし、「粗大ゴミ」扱いされる可能性は低くなると思います。家事労働の更進性の低下は、主婦にとって問題であるだけでなく、張り合いのない亭主が「粗大ゴミ」扱いされないためにも関係性の補強を必要とします。「女性問題」というよりは、両者にとっての危機的状況という意味で、「夫婦問題」だと思います。これだけでは飽き足らずに「はっきりいって欲しい」といわれたら、その場合には毅然として言い返す。
「でもなぁ、俺がそんなコトはっきりいったらオマエ、気味悪いだろう?」
あまり、毅然としてないかなぁ・・・?