19.バリエーションとしての T's

神名龍子


 「3.ジェンダー記号の種類と分類」で書いた通り、T's(TV/TG/TS = 広義の TG)とはジェンダー記号の操作です。ただし実態的に見る限りそこにはもう一つの条件があるようです。つまり、T's とは「既存の」ジェンダー記号の操作である、と。

 現代の T's が、例えばかつてヒッピーが独自の服装を持ったように、一目で T's と判るような特有の服装を共有することは、今のところありません。幾分なりともそれを実行しているのはドラッグ・クイーンドラッグ・キングといわれる人達くらいでしょう。彼ら(彼女ら)も、既存のジェンダー記号を過剰に強調するところに成り立っていることを考えれば、既存のジェンダーに対するカウンターという形で関係性を保っているとはいえますが、それが独創性の存在を全否定するものではないと思います。

 その限りにおいては通常、T's はステロタイプに対立するものではなく、ステロタイプのバリエーションとして存在しているのが実状です。ですから従来「ステロタイプ」と呼ばれてきたものは、実は「ステロタイプ」ではなく、「プロトタイプ」として捉える方が、より妥当ではないかと思います。なぜならこれまで示してきたように、T's もまた、ジェンダーという既存の文化と無縁な存在ではなく、例えどんなに特殊に見えても、原理的にはいわゆる「ステロタイプ」と同じものを共有し、かつ、その共有をやめる動機がないからです。これは、大半の T's が社会からの離反を試みるのではなく、反対にいかに社会に受け入れられるかに苦心していることからも判ります。大半の T's は、従来のジェンダーの在り方そのものから離反したいのではなく、「従来のジェンダーの在り方の固定化」からの自由を求めているのであり、「プロトタイプ」に対して、その「バリエーション」が存在する自由を求めているように見えます。

 逆に言えば、バリエーションの存在を認められない限りにおいて、既存のジェンダーの在り方が「ステロタイプ」(stereotype : 定型)と呼ばれることに妥当性があるのであって、バリエーションが認められれば、それは単に「プロトタイプ」(prototype : 原型)であるに過ぎません。

 現に MTF T's は、一部の男性にとって、既に女性のバリエーションであって(TS の場合、少なくとも本人の自覚においては「バリエーション」ではなく女性そのものですが)、「男」ではありませんし、私自身の経験から言えば、ありがたいことにそれ以上の数の女性からも同性として受け入れられています。また私の目から見る限り、FTM はこれまでのところ性的対象としての「男性」として捉えられる人にはまだお会いしていませんが(生まれながらの男性が相手でも、性的対象として捉える相手にはなかなか巡り会えないもので、この点、差はないと思う)、もっと広い意味で言えば、まがうことなく「男」ですね。私個人の趣味からいえば、もし一緒にバイクでオフロードに遊びに行ける人がいたら、すごく楽しいだろうなと思います。

 「MTF T's が、一部の男性にとって、既に女性のバリエーションである」というのは、どういう事かというと、例えば「私」をその男性から見て、「男」のジェンダー記号がほとんど見えず、「女」のジェンダー記号が見えるということです。もっとも現実の私はいわゆる「パートタイム T's」ですから、常にそう見えるわけではありませんが、ジェンダー記号の操作によって、そう見せることは可能です。

 つまりその男性が持つエロス性は、「私」の生物的な身体に反応するのではなく、ジェンダー記号に反応するのです。この場合の「ジェンダー記号」とは、「13.男と女の非対称」でいう性的信号としての身体性であり、それが「エロス的・全体的関係へ向かう可能性」として了解された場合に、「私」はその男性にとって「性的対象」として捉えられるということです。

 これは水商売の経験の中では、とても判りやすいんですね。具体的に何に反応するかは男性によって、「私」のしぐさとか、パンストに包まれた脚だとか、バラバラなんですが、何らかの身体性(ジェンダー記号)に反応していることには変わりありませんし、反応しない男性が相手では「私」つまらない(笑)。これはジェンダー記号や会話を媒介したコミュニケーションであり、私の考えではそのコミュニケーションの本質はゲームなのだと思います。ゲームである以上、そこには暗黙裡にせよルールがありますから、例え「私」のジェンダー記号に反応した男性でもルールを無視して、例えば痴漢めいたことをされればやはり不快になります。これはゲームが成り立たないということです。

 それはどういうゲームかというと、「私」は自分の身体にエロス性を持っていて、その存在をジェンダー記号を媒介して男性に伝える。平たく言えば色気とかセックスアピールといわれるものですね。それは男性にとって「禁止」された状態から始まり、男性は「私」とのコミュニケーションの中でいかにその「禁止」を解いてエロス性の獲得にチャレンジするかというものです。城攻めのようなもので、エロス性を獲得できれば「落ちた」ということになります(笑)。

 その前提として、「私」は男性が「獲得」したくなるようなエロス性を持っていなければゲームが始まりませんし、そのエロス性が「禁止」されたものであるというルールを男性が守らなければゲームが成立しません。男性がルールを守らない場合には、「私」はその男性から軽く見られたと解釈して不快を感じます。これは水商売の話ですが、世の恋愛というのは多かれ少なかれ、このようなゲームを含んでいると思いますし、逆にいえば水商売における男性客とホステスは、「疑似恋愛ゲーム」という遊びをしているのだと思います。要するに「女遊び」の本質というのは、恋愛の過程(その中にある風情やムード)を楽しむ「疑似恋愛ゲーム」なんですね。海外(欧米?)で娼婦を買ったら大股開きで「カモン!」とやられたとたんに気分が萎えた、という男性の話から察するに、少なくとも日本では売春といえどもどこかに「禁止」の要素を含んでいるのではないかと思います。

 ヘテロセクシャル(異性愛)の男性がゲイバー(ニューハーフバー)で遊ぶことが出来るというのは、ニューハーフがネイティブな女性と同質のエロス性を持っているからで、そういうところに遊びに見える男性は、ニューハーフ相手ならいいけれども、ホモバーは嫌だという人が多いですね。それはその男性が、女性のエロス性、もしくはそれと同質のエロス性に反応する人であることを示すもので、逆に言えばそういう人を「ヘテロセクシャルの男性」と呼ぶわけです。

 ですから「ヘテロセクシャルの男性」とニューハーフは、「疑似恋愛ゲーム」だけでなく、実際の恋愛も原理的には可能ですし、現にそういう例もあります。「ニューハーフ」に限らず、「女性と同質のエロス性」を身に付けてさえいれば、「ヘテロセクシャルの男性」と MTF T's との恋愛は原理的には可能であり(もちろん MTF T's の側の「性的指向」が男性に向いていることも必要です)、あとは通常の男女の恋愛と同様、誰と誰が恋愛関係になるか(ならないか)は個別的な問題だということになります。

 反対にホモセクシャルの男性は、身体が男であってもニューハーフを性的対象と見る人は、私の知る限りでは、まずいません。ただ、この場合も「どのようなエロス性に反応するか」という点で異なっているだけで、やはり既存のジェンダーの在り方のバリエーションとして捉えることが可能だと思います。

 「恋愛ゲーム」あるいは「疑似恋愛ゲーム」というのは、「エロスゲーム」の一種です。例えばお金を儲けるにも「騙してはいけない」とか「盗んではいけない」というようなルールがあって、そのルールに従わなければ非難されたり、犯罪になります。お金というのは「ものの価値の象徴」というよりも、この場合には、やはり自己の存在可能性というエロス性の象徴ですね。この「金儲けゲーム」も、ゲームの結果として差が出るのは当然ですが(私など、負けっぱなしですが)、少なくともゲーム(競争)の条件としてはフェアプレイであることが望まれるわけです。ですから、上記の他に就職差別などもいけないこととされていて、結果の平等性についてはともかく、機会の平等は出来る限り保証される必要があります。

 ですが「恋愛ゲーム」というのはその点でちょっと違っていて、原則的に男女には、いわば攻守ともいうべき非対称性があります。これは人間に限らず、有性動物が普遍的に持っている非対称性でもあるのですが、人間の場合にはルールを設定することによって、それを文化という制度の中に組み込んでいるという点で他の動物と違っています。痴漢やレイプのようなルール違反(ルールに従わない一方的な「禁止」の破棄)は、個人としての女性の(あるいは MTF T's の)「かくありたい」という存在可能性を奪うものであるために、まず例外なく普遍的に「わるい」こととされているわけです。

 反対に、前述のような風情もムードもない大股開きの「カモン!」というのは、今度は男性の側から見てのルール違反だということになるのかも知れません。これは「禁止」がゲームとは無関係に解除されてしまうからです。だから「禁止」を破る(ルールに従って、ですが)ドキドキする感じを、男性が持つことが出来なくなって、興ざめしてしまうのでしょう。

 また、男女どちらかのルール違反によらない、一種の事故としての「禁止」の破綻という事もありえます。例えば風でスカートがまくれてしまったような場合ですね。これは男性からしたら、城攻めをしたいと思っていたところで、突然に目の前で城壁が一つ崩れ落ちたようなもので、「ラッキー!」と思う(笑)。

 しかしそれと同時に、ルールに従わずにエロス性に向けての実現が一つ進んでしまったことを後ろめたく思う気持ちもあるのか、あまりあからさまに喜んで堂々と見るわけにもいかないという居心地の悪さがあるみたいですね。「ラッキー」と思う気持ちと後ろめたさのどちらが勝るかは、個々の男性によって異なると思いますけど、そういう時の「居心地の悪さ」は、一種の葛藤ではないかと思います。ゲイバー(ニューハーフバー)でお店の子がスツールに腰掛けている時に、スカートが短いと見えちゃうことがあるんですけど、男性客でもそれをあからさまに喜ぶ人はあまりいなくて、「お前なぁ・・・(^^;)」と苦笑している人が多いですね。私自身のことを言えば、ニットのワンピースを着ていた時にスカート越しに下着が透けていたのに気がつかなかったことがあって、これもあとから気がついてものすごく恥ずかしかった覚えがあります。

 そういう時、指摘された方もすごく恥ずかしいのですが、この恥ずかしさは何かというと、自分の失敗によってゲームを破綻させた(破綻させかけた)事から来る恥ずかしさだと思うんです。麻雀で自分の手牌を一部でも倒してしまって他のメンバーに見せてしまった時、この場合には「恥ずかしい」とはちょっと違いますけど、やはり「気まずさ」がありますね。

 ましてスカートの中というのは、個人に属す「性」の一部であって、当然プライベートな部分です。つまり通常は「禁止区域」であって公開しない部分ですね。どこまでが「禁止区域」かというのは文化によって規定されたものですから、本当の意味で普遍的なものではないのですが、少なくともその文化の中で育ち、その文化が持つ価値観を身に付けた者同士は「恥ずかしいべきもの」という感覚を共有しています。そこには、スカートの中を見られても性器そのものが見えるわけではなく、単に布が見えるだけだから恥ずかしくないというような、唯物的な価値判断基準はありません。一般に男性にとってのパンティは、単なる布ではなくて女性器の延長としての身体性を了解させるものであって、見られた側もそれが判るから「恥ずかしい」のです。

 自分の不注意で「見えちゃった」のではなく、スカートをまくられたら、「見られた」という恥ずかしさはあっても、見られた責任は自分にはなくて相手のせいですから、恥ずかしさ半分、怒り半分というところです(いや、7:3で怒りの方が大きいかな)。少なくともその中には、自分の手牌を誤って倒してしまった時に感じる種類の「気まずさ」はありません。けれどもそれを自分の不注意で公開してしまったら、その「気まずさ」と「見られた」という恥ずかしさで、これは二重の意味で恥ずかしいんです。

 むろんこれらも既存のジェンダー(文化)にしたがって感じる「恥ずかしさ」であって、私は「従来のジェンダーの在り方の固定化」に反する存在ではありますが、「従来のジェンダーの在り方」そのものから無関係なところで性的な「恥ずかしさ」を感じる存在ではありえません。


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