神名龍子
と書きました。これは「近代」が単に「性」を無視して放置するということではありません。逆に、「性」を切り捨てるために、「性」に対してなんらかの働きかけがあるはずです。そして、さらに掘り下げれば、それが成立するための構造が何かあるはずです。
私には以前から一つの疑問がありました。トランス系が「性」に関わる存在であるとしても、必ずしも「性」を切り口に社会を見る必要はありません。そのことは「16.個人に属す『性』」でも示した通りです。それだけでなく、このことは【EON】においても「ひまわり」においても何年も前から主張し続けてきました。
それにもかかわらず、T's に限らず、人々が相変わらず「性」にこだわり続けるのはなぜでしょうか。私などから見ると、フェミニズムの主張にせよ、ジェンダーフリーなどの主張にせよ、そこに力点を置けばおくほど「性」についてこだわらざるを得ず、むしろ逆説的に「性」にとらわれて行くかのように見えるのですが、人々がそれほどまでに「性」から自由になれないのはなぜなんでしょうか。
その答えの一つは、「17.ジェンダーと『真・善・美』」で書いたように、「性」が、「真・善・美」というきわめて根本的な問題につながっているからだと思います。しかしそれ以外にも、人々の「性」というものの捉え方に原因があるのではないかと思います。
そして私の直観では、「近代」がもつ性の抑圧の構造と、人々の「性」というものの捉え方の間には、何か関係があるのではないかと思います。今回はそれについて考えてみたいと思います。
近現代においての「性」の捉え方の根底にあるのは何かというと、大雑把に言って、自然科学と人文科学、それに前近代から引き継いでいる道徳の三つが思い浮かびます。自然科学というのは医学や生物学などですね。心理学は通常、自然科学と人文科学のどちらに分類されているのか知りませんが、私の考えではこれは人間についての考察と解釈の学ということで、人文科学に属するかと思います。そして道徳というのは基本的には「近代」発祥の西欧におけるキリスト教が核にあると思います。
その中でまず心理学についてですが、これはフロイトやユングについての本などを見る限りでは、精神病もしくは神経症患者の治療の方法やその原理を取り出す過程で発達して来たもののようです。治療というのは、普通に考えれば「異常」を治して「正常」にすることだろうと思うのですが、では心理学や精神医学においての「正常」とは、どういう状態を意味するのでしょうか。
考えてみると、人間の精神もしくは心理において「これが正しい」といえるものはなく、それはその時代ごとの一般通念によって決まるものだと思います。つまり、ある人が自分の生きている時代の、その社会の一般通念に照らして、はなはだしく逸脱していない場合に「正常」と見られるわけです。したがって「正常」とは、各時代・各社会においての一般通念を基準として、正常と認められる許容範囲の設定によって決められるものです。この許容範囲が狭ければ狭いほど「正常」の在り方は画一的なものになり、息苦しい社会になります。逆にこの許容範囲があまりに広すぎるとまとまりがつきにくくなります。つまりその社会の成員の価値観がバラバラになり過ぎるために、共通了解が取り出しにくく、「ルール」の設定が難しくなります。
では、その社会の一般通念が何によって決まっているかというと、これはいわゆる道徳ですね。道徳の中には「性」についての決まりも含みます。そして道徳からの(許容範囲外への)逸脱は、その社会(共同体)において、その人の人間性を疑われる、もしくは人間性を認められない事を意味しますから、必然的に権力を生み出します。
ここでいう「権力」というのは、左翼なんかが好んで使う「国家権力」というような狭い意味ではなく、道徳から逸脱した人間の人間性を疑い、時に否定すら出来る力のことです。ただし必ずしも「権力=悪」というものでもありません。ある権力が「悪」であるかどうかは、その権力の在り方によって価値評価されるものです。「権力=悪」という図式は、権力が特定の立場にしか発生しないという考えにおいて「非権力者」が振り回す、あまりに短絡的な「弱者の論理」です。この場合、その「弱者」自身が一種の権力者であるという視点が、すっぽりと抜け落ちているからです。
このような権力は、抽象的には社会全体が持っているものであり、具体的には社会の各成員の間に普遍的に成立するものです。ですから社会の各成員(主体)の間にいかなる人間関係が成立する場合にも、そこには例外なくなんらかの「権力」が付随するということになります。
例え対等な成員の間であっても、そこにはいわば相互監視システム的な「権力」が発生します。この場合には自己制御が基本で、自己制御が出来ていることをお互いがチェックしあう形になります。ただし「自己制御」ということを突き詰めると、自分で自分を監視するようになり、この場合には道徳というよりも「美学」になります。日本の武士の理想形は、このタイプに属すと思います。しかしその「美学」も、通常は自分が属する集団の成員が共有しているものであって、他の成員とは異なる独自の美学を貫こうとすれば、その集団からはじき出されますから、相互監視システム的な「権力」が働いていることには変わりありません。その意味で、「集団が共有する美学」は、やはり道徳の一種だと思います。
権力にはもう一つ、非対等な関係、つまり統治者と被統治者の間に成立する権力があります。いわゆる国家権力はこちらに含まれますが、それだけではなく他に、宗教者と信者、親子、政治運動の指導者と運動員など、要するに上位者と下位者の間に発生する権力すべてをいいます。この場合には「道徳=真理」を上位者が握っていて、下位者がそれに反した行動をとっていないかどうかを監視する、一方的な監視システムの権力になります。統治者が複数になると、誰が真の道徳(=真理)を握っているかという、権力争いになります。
後者の権力、つまり統治者と被統治者の間の権力とは、西欧では要するにキリスト教です。こういう「弱者の論理」の基本は自己否定や自己批判ですから、快楽に対して否定的であると同時に、快楽を伴う「性」そのものも悪」として扱われます。一夫一婦制の結婚がようやく「必要悪」程度に認められる程度です。つまり「性」の相手の限定ですから、カトリックで離婚を認めなかったのは当たり前で、結婚と離婚を繰り返すことで取っ替えひっかえ「性」の相手を変えることは出来ません。だから一度結婚したら「死が二人を分かつまで」夫婦であり続かなければならない事になるので、考えてみると、あれは別にロマンチックな言葉でも何でもなくて、要するにあちこちの女(男)に手を出しちゃいかんといっているんですね(笑)。
それに「自己制御」が加わったのがプロテスタントです。単に自己制御の道徳であるというだけならば「性」そのものを悪とみなす理由は何もありません。それは古代ギリシャや、日本の武士を見れば判ります。ただ、自己制御の道徳は、自己制御の道徳であるがゆえに、快楽をむさぼるのは自己制御が出来ていないと解釈されます。今でもアメリカでは肥満や喫煙者はそういう目で見られて出世できないということがあるそうですね。あれはいかにもプロテスタントが作った国という感じです。また、ラテン系が享楽的な印象を持ち、かつてのフランスの貴族が快楽を求めたのに対して、イギリスの貴族が自制的な印象を持つのも、カトリックの国とプロテスタントの国という違いから来るのかも知れません。
ここで、「16.個人に属す『性』」で挙げた、マックス・ヴェーバーの話を思い出してください。彼は「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で、キリスト教、特にプロテスタントに特有の「禁欲」の考え方が、資本制の成立にとって不可欠だったという結論を示しました。プロテスタンティズムとは要するに、「統治者と被統治者の間の権力による道徳」と、「自己制御の道徳」を併せ持つものです。プロテスタンティズムの「勤勉」は「性」の否定や、性の快楽に対する「禁欲」と不可分な性格を持っています。
これは日本で商業が発達した江戸時代を見ても同じで、商品をごまかさないとか、払うべきお金は期日までにきちんと払うとか、そういう自制的な商人(あきんど)の道徳の発達があって、そういうものを守らずに利を貪ってはいけないという商業道徳が、逆説的に商業の発達と富の集約をもたらしたのだろうと思います。ただ、当たり前ですが、同じ「自己制御の道徳」でも江戸時代の商業道徳の背景にはキリスト教がありません。
仏教の場合、私の理解では、基本的に「自己制御の道徳」であって、「性」そのものが悪なのではなく、その快楽にとらわれることがまずいのです。「とらわれること」というのはつまり煩悩のことで、これが人生においてのさまざまな「苦」の原因であるとしています。ただ、仏教とキリスト教の大きな違いは、仏教には「契約」の考え方がないために、「だから性の哀楽に溺れてはいけない」という「命令者」がいないことです。お釈迦様も「苦」から逃れる道を示しただけで、仏教には本来その道を歩くことについての強制がありません。それは仏教に、キリスト教でいう神のような「絶対者(=命令者)」がいないからです。だから仏教の場合、せいぜい「それはまずい」という程度で、キリスト教のように「それはいけない」という禁止の形を取りません。仏教にも戒律があり、その中には「不邪淫戒」もありますが、これは仏道を歩む上でのルールであって、キリスト教のようにすべての人類を従わせようとするものではありません。自由といえば自由であり、冷たいといえば冷たいとも言えます。
「阿含経」という原始仏典によれば、お釈迦様は悟りを開いて最初の内は、その悟りの内容(つまり仏教)を他の人に説くつもりがなかったと書いてあります。そへで梵天様があらわれて、どうかあなたの悟りの内容を他のみんなにも教えて欲しいと説得します。それでも、「ん〜、それじゃ七日間ほど自分の悟りを自分ひとりで楽しんでからね」といって、モラトリアムしちゃうんですね(笑)。これは新約聖書のキリストと比べると、かなり対照的です。
また、例え死んだら極楽に連れていってくださるという阿弥陀如来でも、これは阿弥陀様が「すべての衆生を救おう」と自分で勝手に決めたこと(弥陀の本願)によるもので、阿弥陀様と信者の間に「契約」があるわけではないのです。「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えたら極楽に行けますよというのではなくて、嫌だといっても極楽に連れて行かれちゃう(絶対他力)。「南無阿弥陀仏」というのは、極楽に行きたい人がそういう阿弥陀様に対して感謝する、つまり「ありがとうございます」というほどの意味です。まして自力本願である禅宗などは典型的な「自己制御」、それも「契約」に基づかない自己制御です。こういう宗教をベースにしては「近代」は生まれにくいでしょうね。ですからプロテスタンティズムと違って、仏教は最初から「自己制御の道徳」が基本になっているのです。
「近代」が「性」に対する抑圧を本質的に持つようになるのは当然のことで、これは、キリスト教から発生した「自己制御の道徳」から「近代」が継承したものだと思います。
もうひとつ、キリスト教の影響と考えられるのは、デカルトなどに代表される身心二元論です。キリスト教というのは「魂の救済」です。デカルトやカントなどの時代の哲学というのは、神学の代わりの役目を果たしている部分があって(ニーチェなどは例外ですが)、その後20世紀初頭くらいまでの西洋哲学というのは、マルクスも含めてキリスト教の影響から脱することが出来ていないように思えるんですね。
私のように仏教、特に禅の思想や、武術を根底にしている者にとっては身心一元論が当然で、それは単に知識として得た思想ではなく、武術を通して体得した「実感」として持っているものですから、私にとっての「ほんとう」は身心一元論にあって、身心二元論にはありません。そのため、西洋の身心二元論を前提とした考え方には、どうしても馴染めないものを感じます。ですから、個人的には「セックス」と「ジェンダー」という分類も、便宜的に使う分には便利でよいのですが、「13.男と女の非対称」で示したように、同時に「セックス」とも「ジェンダー」とも言えないような中間的なレベルの性差が見えてしまいます。どうしても身心を切り離して見ることが出来ないのです。
ですが、私の見るところでは「近代」というのは身心二元論を前提に置かずには成り立たないのではないかと思います。身心一元論を前提とすると、人間からよぶんな(?)枝葉を切り落として「一人」という数字に還元することが非常に難しいのです。幕末の洋式軍制などは例外ですが、日本においての「非近代」において集団教育が発達しなかったのも、そのせいだと思います。剣術(いわゆる古流の)にせよ、日舞などにせよ、現代のスポーツ化した剣道やジャズダンスなどのように号令一下で集団で全員が一緒に動くようなものではありません。道場のように人が集まるような場所でも、基本的には師弟の一対一の伝授です(ただ「師」の方がマルチタスクで複数の弟子の間を動き回ることはありますが)。そこでは現代のスポーツの指導や学校教育の在り方は、ちょっと考えられません。あれはどこか、弟子(生徒)を「一人」という数字に還元することで初めて可能になった方式ではないかと思います。その「還元」が最もゆるやかになるのは、「試験」という(私にとっては苦痛にしか思われなかった)制度において一人ひとりの差異を確認される場面ですが、それも画一的な評価方法があって初めて成立するものです。
「性」の抑圧のシステムの代表例として「軍隊」が挙げられるのも、私の考えでは、要するにそれが人間を「一人」という数字に還元して号令一下で集団として動かすシステムとして判りやすいからだと思います。ですがこれはあくまで「近代」の一例に過ぎなくて、要するに「近代」とは多かれ少なかれ、この「軍隊」のようなものであり、上記の二種類の道徳と身心二元論の上に成立しているのです。
近現代人の、ものの見方や考え方もまず例外ではなく、「近代」という枠の中で行われています。近代科学(自然科学・人文科学)が「近代」と同様に身心二元論の上に成立しているからです。「セックス」と「ジェンダー」という分類も、身心二元論を前提としなければ成り立ちませんし、またトランスセクシャルの原因を脳の性差などの身体面に還元するか、文化という装置(システム)に還元するかという話があるようですが、私から見ると、なぜその原因が「どちらか一方」でなくてはならないのかと思います。あれは互いに意見を異にしながらも、身心二元論を前提とするという一点だけは無意識の内に共有しているんですね。
ですが、これは最初の心理学の話に戻ると、現代の一般通念に沿っているという基準において、この人達が「正常」であり、私の方が「異常」なんです(笑)。言い換えれば現代社会の「異常」とは、「近代からはじき出すべきもの」として、「近代」自体が作り出していることになります。T's も含めた近現代社会において、剣客(私)は確かに「異常」な存在なのです。
さらにいうと、「性」において快楽をむさぼることは非道徳的なことであり、「異常」とされているわけです。ただ現代においては、「正常」と認められるような逸脱の許容範囲が広がりつつあります。私が中学生の頃に自宅で見た、おそらく昭和30年代後半に出されたと思われる古い家庭医学書では、正常位以外のセックス(後背位とか女性上位とか)も「異常」扱いされていた記憶があります。フェラチオが普及したのは、もしかしたらもっと後でアダルトビデオの普及のせいではないかと思いますし、現在ではソフトSM程度は「異常」扱いされなくなりました。アナルセックスでさえ(これは今でも、どの程度普及しているかあやしいものですが)、少なくとも以前ほどには「異常」視はされていないでしょう。
ということは、自然科学である医学でさえ、必ずしも「真理」を示すものではなく、時代の思考の枠の中にあるのです。もちろん「切ったら血が出て痛い」なんていうのは、どんな時代でも変わりませんが、セックスの「正常・異常」などのは医学においても、「その時代の一般通念」にしたがって決められるわけで(だから倫理委員会という検討機関が設置されているのでしょうが)、その基準は常に変化する(もしくは、常に変化しうる)ものだということです。つまり「永遠の真理」とか絶対視する必要はないわけです。
ただ、一般人としての近現代人には、まだ科学信仰から抜け出せないところがあって、道徳を絶対視しない人でも、医学にあける「正常・異常」には、道徳以上の価値評価を与えてしまう人が、まだまだ多いようですね。何についての「正常・異常」かにもよりますが、これは矛盾した考え方だと思います。
以下は、上記の本文とは直接関係ありませんが、医学者という「権力」が、統治者の権力(監視する権力)であることから完全に免れることはありえません。もしそうなれば、それは単に医師として無責任であることを示すもので、必ずしも「権力=悪」ではないことはここで再確認しておきたいと思います。ですが、その権力の程度が問題で、それもまた道徳と同様に時代と共に変化するものです。それはいかに医学の倫理が社会の道徳の変化に対して、柔軟に連動できるかにかかっています。その意味で今回の性別再判定(性転換)手術についての了承については、T's のひとりとしてというよりも、さらに広い意味で、どんな病気に関しても「いつ患者になるか判らない者のひとり」として評価したいと思います。