神名龍子
先日(1998年5月17日)、「第7回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭」を訪れた中でも、いくつかの場面でこの事を再確認することが出来ました。
この会場で紹介された、アメリカのどなたからかの伝言で「政治性が強くなるのはまずい」という意味のメッセージがあり、それに添えて「アメリカでは既にそういう状況があるようです」という説明がありました。具体的な説明はありませんでしたが、私個人は「そうだろうな」と簡単に納得することが出来ました。私はこれまでも何度も書いているように、「社会の矛盾に対抗する」というような「闘争」では先がないと思っています。その理由についてもその都度書いていますので、今回は省略しますが、おそらくアメリカにおけるレズビアン&ゲイの活動においても、そういう「弱者の論理」や、それに基づく活動(社会運動)が行き詰まりを見せて来たのではないかと思います。
ただしそれでも、欧米においてのこれまでの彼らの活動のすべてが無意味であったとまでは、私も思いません。英国のテレビでのゲイやレズビアンの扱いに話題が及んだ時に、法律で禁止されていた同性愛が(法律上)認められたのが30年前・・・という説明がありました。ということは、そのための社会運動がそれ以前からあったということですね。私の解釈では、これは欧米の日本と比較しての先進性ということではなくて、同性愛を禁止するにしても、またその禁止の解除を求めるにしても、問題を指摘しやすい社会なのだと思います。
それは前章で指摘したように、欧米社会の根底に「契約」という考え方があるからで、先進性の問題ではなく、宗教その他の社会性の違いによるものです。契約であれば「同性愛はだめ」とはっきり書かない限り禁止は出来ませんし、またその禁止の解除にしても「この条項を何とかしてくれ」という形で問題をはっきりと指摘しやすい。またそういう「はっきりさ」がなければ「契約」とはいえないのです。
しかし日本のように「なんとなく」とか「ホンネとタテマエ」で出来上がっている「なれあい」社会で同じ事が出来るかというと、少なくとも TG や TV についていえば、おそらく無理でしょう。日本の私たちはその代わりに、キリスト教右派のような徹底的な反対団体の存在を心配することなしにいられるのです。ですからどちらの社会が進歩的だという単線的な比較は無意味で、かえって現実を見失う原因になるでしょう。
「ケガレは(なくす、のではなく)必要な時にだけ祓っておけばいい」とか、「非契約者でも、もれなく極楽にご招待」の阿弥陀様とか、「不立文字」の禅宗とか、そういう宗教観で出来上がった社会で、キリスト教社会で発生した理屈が通じると思う方が不思議です。それ以前に、日本の社会は基本的に「理屈で成り立っている社会ではない」のです。
では日本でどういう手段が有効かというと、社会運動ではなく文化ということにおいて、レズビアン&ゲイがお手本になると思います。実は私が「東京国際レズビアン&ゲイ映画祭」へ足を運んだ動機の半分は、その確認のためです(もう半分は今回グランプリを受賞されたルルさんのお祝いです)。
「理屈」で成り立っていない社会は、「感性」で変えればよいのです。少なくとも社会を変える下地作りは、この日本では「感性」によってこそ可能だと思います。この場合、「文化」ということを「芸術」に限っても、今回のような映画の他に、文学や演劇や音楽や絵画など、いくつかの手段があるでしょう。いわゆる「ゲイ・カルチャー」のように、「TG カルチャー」が育つことの意義は大きいと思います。
それも前述のように、政治的なメッセージのことなどは、徹底的に忘れてやる。そのためには、下手に「プロレタリア文学」だの「前衛」だのを念頭において「反権力」なんか盛り込むことで、逆説的につまらない「権力」にならないようにする。だいたい、かつての文芸批評にあったような、「これは革命の思想がない」とかそういう批評の在り方というのは、もう古いんです。「闘争のための芸術」というのも、芸術の一つの在り方ではあると思いますが、表現の可能性をそのたった一つの在り方の中に限定しなくてはならない必然性はないでしょう。それは逆に、芸術という表現の可能性を政治という狭い範囲に限定して閉じ込めるということですから、そういう考えの方が、実は芸術にとって「悪しき権力」なんだと思います。「表現の自由」というのは、もちろん具体的な「国家権力」から干渉されないという意味も含んでいますけれども、私はそれ以上に、芸術というものはもっと広い意味での「政治性」からも自由でありうると思うんですね。
ですからそういう批評は気にしないで、逆に「おいおい、そんなモン最初っから考えてねえって」と笑い飛ばすつもりでやる。エンターテイメントを追求するくらいの方がいいと思いますね。
そして、「TG 向けのもの」を作るのではなく、世間一般に広く受けて、しかも「これは TG じゃなくては作れない!!」というものの創作に挑む。ということは、その基本にあるのは政治性のような(悪い意味での)真面目さではなくて「快楽の追求」とか、もっと簡単に言えば「ノリ」とか、そういうものの方が大切だろうと思います。作る側が楽しくないものが、見て(聞いて・読んで)楽しいわけがありません。
「快楽の追求」というのは、前章「21.性と近代の系譜」でいう「統治者と被統治者の間の権力による道徳」という視点からも、「自己制御の道徳」という視点からも「不真面目」なものなんですけれども、ではそれを、ここに書いた条件を満たすような作品に仕上げるのに「不真面目」な態度で出来るかといったら、これは絶対に無理です。私のように下手な漫画を描いてさえ、けっこうエネルギーが要るんですから(笑)、たぶんあの数十倍〜数百倍のエネルギーが必要です。
それは、今回の尾川ルルさんの「We are Transgenders.〜性別を超え、自分らしく生きる!〜」を見ても確認できました。今回の作品は、かなり説明的なドキュメントになっているんですが、あれが「最初」だと思ったら、TV / TG / TS 等の各々についての説明は、必要なものだと思うんですね。そして最後に「フェイクレディツアー (FLT)」(FLT6・1997.10.22〜23・那須高原)が登場して、会場内を笑いの渦に巻き込んで(^^;)、締めくくる形になっています。私個人の感想としては、そこに「実は次回以降の作品を暗示している」という意味を持たせるような次回作を期待しています。もちろんエンターテイメントです(って、こんなコト書くと、三橋順子さんに怒られるかも知れませんが ^^;)。
今後大切なのは、「TG (TV) とは何か」ではなくて、「TG (TV) に何が出来るか」だと思います。今回の尾川ルルさんの作品も、またその中で紹介された「FLT」も、それを表わしていると思います。
実効性という観点からいうと、社会の TG や TV に対する見方を変えるのに有効なのは、今回の受賞作品のような創作活動や FLT(あるいは三橋順子さんが提唱するリーク女装)のような活動を通じて、新しい見方を創造することだと思います。そしてこれを、性の抑圧と解放という観点から捉えるのではなく、「TG (TV) に何が出来るか」という新しい可能性の創造として捉えるべきでしょう。それは単に TG や TV と一般社会との関係が変わるということではなく、創造による「関係の多様化」ということであり、それが TG や TV に対する固定観念を破るということだと思います。「TG (TV) とは何か」という問いへの答は、その結果によって変化するものですから、そちらを先に考えていると袋小路に入り込むことになるでしょう。