神名龍子
これはどういう事かというと、TS が抱える問題というのは、私がこれまでに見聞した範囲から考えると、ほとんどすべてといってよいくらい「現実的なある一点の乗り越え」だと思うんです。具体的には、性別再判定手術や、戸籍の性別の変更などですね。TS の多くは、手術や戸籍の変更手続きを終えたら、後はネイティブな男女と変わらずに生きて行くことを望んでいるわけですから、どうやってそこへ到達するための「点」を乗り越えるかが、文字通りの問題「点」です。
それに対して、TG が持つ問題というのは、TS の「点」に対して「線」なんです。「22.遊びをせんとや生まれけん」でも別の形で触れましたが、つまり「TG としての生き方」の問題ですね。TS だって生き方は問題だということも出来ますが、少なくとも「点」を越えた後にあるのは「ネイティブな男や女としての生き方」であって、私の今のところの TS 理解では、「TS としての生き方」が問題になるのではないと思います。
「線」が問題という点では TG はゲイと共通点があって、例えば「ゲイカルチャー」のように「TG カルチャー」だって成立しうると思います。しかし「TS カルチャー」は考えにくいですよね。これは TS が芸術に向かないというのではなくて、仮に TS がアーチストになっても、いわゆる普通の、男性アーチスト・女性アーチストになってしまいますから(笑)、独自の「TS カルチャー」というカテゴリーは成立しにくいと思うんです。
それからカミングアウトについても同じで、TG は、やはりゲイと同様、それなりにカミングアウトが持つ意味があると思います。つまり、カミングアウトとは、それぞれ「ゲイとしての生き方」、「TG としての生き方」を、自分が引き受けて行くという意思表明だと思います。しかし TS については、「ちょっと待てよ」ということになる。「ネイティブな男や女としての生き方」をしたい人が、「TS としての生き方」を引き受けましょうというと、そこに矛盾を抱えてしまいます。ですから、カミングアウトもやっぱり「点と線」の内、「線」の問題だと思うんですね。私の考えでは、TS の場合は、結婚相手以外に、自分が以前に今とは異なる性で生きていたことを打ち明ける必要は、まったくないか、あってもごくわずかだろうと思います。
このように、ある問題を考える時に、それが「点」の問題か、「線」の問題かと、単純化して考えたら、スッキリと整理する事が出来るのではないかと思います。
例として「戸籍の性別の変更」と「戸籍制度の変更」で考えると、TS にとっての具体的な問題、つまり個々の TS にとって、それを求める具体的な動機がある問題は「戸籍の性別の変更」ですね。戸籍の変更手続きを終えたら、後はネイティブな男女と変わらずに生きて行くことを望んでいるわけですから、これは「点」の問題です。
それに対して「戸籍制度の変更」というのは、これは一部の TG が主張していることなのですが、おそらくその人達の「TG としての生き方」に関係する問題として主張されていて(というのは、私個人は戸籍制度そのものを変えようとか、なくそうという考えは今のところありませんので、断言は出来ないのですが)、これは「線」の問題だと思うんです。すると、それを主張する TG にとっては、必要があって掲げる目標だという事になりますが、TS にとってはそれを求める動機がないという事になりますね。
ですから「戸籍制度そのものを変えること」を一部の(私以外の?) TG が主張する事には、それなりの理由があるわけですが、その正当性と、それに対して TS が協力しなければならないかどうかというのは別問題で、私の考えでは、それを求める動機が TS にない以上、「協力しなければならない」理由はないと思います。それを、もし仮に「TS も TG も同じようなものだから」などといって、動機を持たない TS を引っ張り込もうとするようなことがあれば、それはあきらかに行き過ぎで、やってはいけない。
ただ、戸籍制度を明日にも撤廃しようというのは論外ですが、例えばそういう無理なことは考えていなくて、漸進的に事を進めようというような方針の場合、その過程に(それも初期段階に)「戸籍の性別の変更」が含まれているとすれば、そこまでは一緒に進める可能性はあると思うんですね。それはもちろん、各自の目的を根拠として手を組むわけで、それが「お互いのため」とか「相手のため」というように、動機が転倒したら、そこからおかしくなると思います。
ですからこの場合でも、「戸籍の性別の変更」が達成されれば、その段階で TS は降りてしまってかまわないと思います。その先は TG の問題ではあっても、TS の問題ではないからです。この区別は、はっきりと付ける必要があると思います。
ただ、「はっきり区別すること」と「無理解」とは別問題で、そこから先で、TG の側から TS に向けて「裏切り者」とののしったり、「脱落者」とさげすんだり、逆にTS の側から TG に向けて「あいつら、まだやってる」と嘲笑ったりとか、そういう発言はお互いにしてはいけない。それぞれ TS が途中で降りた理由も、TG がその後も続けている理由もわきまえておく必要があって、それが「理解」というものだろうと思います。
なお、ここで気をつける必要があるのは、人間の分類としての「TS・TG・TV」と、「TS としての問題」と「TG としての問題」というような問題の分類とは、一応は別物だと言う事です。
つまり、「あなたは TS だから『線』のタイプの問題は持たないはずだ」とか、反対に「あなたは TG だから『点』のタイプの問題に口を出す資格はない」という事になると、これもやはり、おかしくなる。前章、「23.『T's』解題」でも書きましたが、ある一人の人間が「TS としての問題」と「TG としての問題」あるいは「TV としての問題」を併せ持つことも、原理的にはありえるわけですから、「人間の分類」と「問題の分類」とを混同してはまずいわけです。
また、私もつい最近になって初めて出会ったのですが、実際にそういう方がいらっしゃるんです。FTM の方なんですが、彼はそれで自分が「TS・TG・TV」のどれに該当するのか判らないという事も、その人の悩みの一つになっているのです。私の考えでは、これはおそらく「一人の人間は『TS・TG・TV』のいずれか一つに該当するか、もしくはどれにも該当しない」という、「医療上」の分類方法で考えるから、自分をどこにカテゴライズしても、しっくり来ないのだと思います。
もう少し正確にいうと、身体違和(性別違和)の治療を受ける上で、医療の場において自分を「TS」として捉えることに問題はないと思います。しかし、診断上の分類を、自分の「生き方」の問題にまで持ち込んで考えると、そこで混乱が起きます。そこでは、いわば「医学」と「哲学」がごっちゃになってしまっているわけで、この方の場合はそこを整理すると、考えやすくなると思います。
「医学」、つまり診療においては、自分が「TS・TG・TV」のいずれか一つに該当すると考える。この方の場合は、身体違和があるわけですから、自分を「TS」として捉えていればよいと思います。そして「哲学」、つまりご自分の「生き方」を考える場合には、「自分は『TS としての問題』と『TG としての問題』を併せ持っている」という前提で、それぞれの個々の問題について検討すればよいわけです。