神名龍子
その前に、「悩み」について整理しておきますと、大きく分けて、自分が T's であることから来る悩みと、その悩みを持つのが自分だけなのではないかという不安や孤独感の2種類があると思います。つまり、自分が T's であることそれ自体がもたらす悩みについてはまったく解決していないにも関わらず、同じ悩みを持つ人が他にもいるという事を知っただけで、不安や孤独感が軽減されるということがあります。また、それと判っても、特に最初のうちは自分が世の中の大多数の人と「違う」存在である事に、不安や、時に罪悪感を感じることさえあるでしょう。
従来は(そして現在でも多分に)、これが価値観の転倒や、相対化によって回避されてきたわけです。前者の場合、マイノリティこそ救われるべき善であるというような考え方になりますし、後者の場合には「そんなものには根拠がないんだ」と開き直ることになります。しかし、これは結局は逃避であって、問題の本質が突き詰められていないままに一時的に避難したにすぎません。もちろん、これによって多少なりとも救われた思いをした人もたくさんいると思いますが、しかし解決には結び付くものではないと思います。
前者の場合、私が変だなと思うのは、「マイノリティ」というのは本来、多数派に対しての少数派という意味で、あくまでも数の話です。それがいつの間にか、「マイノリティ」というという言葉に、本来の単なる「少数派」と言う意味の他に、「弱者」とか「善」という、本来無関係であるはずの価値観がくっついているんですね。こういう拡大解釈とごまかしによって、かろうじて成り立っているわけです。
また後者の場合には、これは既に何度も書いてきたことですが、例えば「ジェンダーには根拠がない」という事を言い出すと、根拠のないもの(ジェンダー)をトランスすることに、根拠があるはずがない、という事になります。それに「根拠がない」ということを言い出しますと、結局は行きつく先は、この世の一切には根拠がないというニヒリズムにならざるを得ません。そう言ってしまえば、例えば基本的人権なんかにも根拠がない。人類をホモサピエンスだけに限っても、5〜10万年の歴史の中で、最後の1%にも満たないような「歴史のない思想」ですからね。
これは、例えば引力そのものは人間よりも古くからあるけれども、ニュートンが万有引力の法則を発見したのはきわめて最近だというのとは、意味が違います。基本的人権と言うのは、「そういうものがある事にしよう」というフィクションに過ぎませんから、人類がその気になれば明日からでもなくなってしまいかねないものですし、だからこそ「人権を守れ」ということを声高に叫ぶ人達もたくさんいるわけです。しかし引力は、人類がどういう気になってもなくならないし、どんな環境保護団体も「引力を守れ」とは言いません(笑)。
その意味では確かに、ジェンダーも含めて、あらゆるルールには根拠はありません。ですが、根拠がないことと、ルールの要・不要とは別問題で、「ジェンダー無根拠論」は問題の本質を突きはずしていると思います。ここで必要なのは、ルールの無根拠性の指摘ではなく、実情に応じたルールの編み変えであって、これには当然(どこかの無人島を買って、T's だけの社会を作ろうというのなら別ですが)、私達 T's だけでなく、同じ社会に住むマジョリティ(多数派)との間にコンセンサスを取り付けることが必要になります。
そのコンセンサスの問題については前章で触れましたので、ここでは「T's はなぜ、うしろめたいのか」という本題に戻る事にします。
そうしますと、これは既に答えを半分書いてしまったようなものですけれども、ジェンダーというのは、社会(あるいは、その社会が共有する文化)においての一つのルールであり、T's は、そのルールからはみ出す「ルール違反」であるということが出来ます。ルール違反をすることによって、家族や友人、その他あらゆる人間関係にとって、悪い影響が出る。少なくとも悪い影響が出る可能性がある。その事が直感的に判っているから、「これはまずい」と思う。これが「うしろめたさ」の正体だろうと思うのです。
「ジェンダー記号」という記号論的な考え方からすれば、(やや正確さを欠くきらいはあるかも知れないが、大雑把に言えば)ある社会における「ジェンダー」は言語学で言う「ラング (langue)」に、その社会に属すある人が示す「ジェンダーパターン(社会的性表現)」は「パロール (parole)」に相当すると思います。
簡単に言えば、ラングとは記号の秩序、つまりある言語の中で人々に共有されている規則的な部分のことで、パロールとは実際の言葉の使用にあたって個々人に委ねられた部分です。
もちろん、日本語とフランス語とでは単語も文法も異なりますし、その内のどちらが正しいというようなものではありません。またどちらの文法にも根拠があるわけではありませんが、文法そのものは、やはりないと困るでしょう(笑)。つまりジェンダーとは、そのようなもの(原則)だと思えばよいわけです。
そして現実には、(フランスではどうだか知りませんが、少なくとも日本では)日常の会話の中で誰もがきちんと文法にしたがった日本語を話しているわけではありません。そのバラつきが、つまりパロールです。これは、ある意味では反則なのですが、「社会的に許容されている反則」なのです。
ですから、TV や、性自認が男性である TG (どちらも MTF の場合)が、女性のジェンダー記号を身につけようという場合、必要となるルールの編み変えとは、つまりこの許容範囲の変更(拡大)という事になります。つまり、ルール違反であることを認めつつも、それが「社会的に許容されている反則」となりうるかどうかに、広くコンセンサスが取れるかどうかがかかっているといえます。またこれが、社会的なコンセンサスを最も得やすい方法だろうと思います。
これがなぜ「ルール違反」かというと、「性自認が男性である」にも関わらず「社会的性表現が女性である」からで、これが一般には「ウソ」として捉えられるからです。言語で言うと、私にも身に覚えがあるんですけど(笑)、例えば母親が散らかっている子供の部屋を見て、「まぁ、よく片付いてるわね」なんていうことがありますね。時に皮肉であり、時にユーモアであるわけですけれども、これは規則通りに言うのとは反対のことを言っているわけです。にも関わらず意味が通じる。つまり「社会的に許容されている反則」です。反則である以上、これは「規則の例外」ではあるわけですが、しかしそれを理由に排除されるものではありません。「性自認が男性である」場合の TV や TG が得る立場というのは、ここにあるのではないかと思います。
ただし、そのためにはただ「例外として認めろ」といっても仕方がないわけで、既成事実としてそれが世の中に実在している実績が必要です。例えば東京で言うと、新宿などはそれがかなり進んでいる街だと思います。例外としてみとめられら反則は、同じ反則でも「社会的に許容されていない反則」と違って、「うしろめたさ」がないか、ないに等しいくらい小さくなります。
ですから「うしろめたさ」というのは、どこかで振り切って街中に(人前に)出ることで軽減できますし、逆に「うしろめたさ」を持ち続けていると、いつまで経ってもそれが「社会的に許容されている反則」になりません。つまり「うしろめたさ」は再生産されるのです。その「うしろめたさ」の輪廻をどこかで思い切って断ち切ることが必要です。ですから、認めてくれない社会が悪いといって、他者ばかりを責めているような「弱者の論理」では解決しません。「マイノリティ=弱者」という図式では、「うしろめたさ」が再生産されるばかりです。
ですが、ただ街中に(人前に)出れば認められるかというと、そうではありません。当たり前のことですが、街行く人達の眼に「社会的に許容してもよい反則」と映らなければ仕方がないわけです。ですから、どの程度ならば許容されるかを絶えず(というのは、社会的な通念が変化するため、その変化を常に捉えて)判断することが必要になります。
悪い女装なら流行らなくていい・・・というより、流行らない方がいい。これは結局、他の人に迷惑を掛けるからですね。直接に迷惑を掛ける相手に対してはもちろんのこと、他の「性自認が男性」である TV や TG にとっても迷惑ですし、それだけでなく T's 全体にとっても、職業集団としてのニューハーフにとっても迷惑です。
誤解のないように書いておきますが、ここでいう「悪い女装」というのは、化粧の出来栄えとかそういう見た目のことではなく、その人の行為と、それに関わる意識の問題です。つまり、私が以前から書いている「公の意識」の問題です。
「自由」というものを取り違えて「公の意識」を持とうとしない、「市民派」ならぬ「私民派女装」なら流行らなくてもよいし、それを責める事はあっても、そういう人達のために何かしようなどとは、私は思いません。また「公」だけしか頭にない「滅私奉公派」のような、価値観の転倒した人ともお付き合いしたくありませんね。幸いなことに「滅私奉公派女装」というのは今のところ存在しないみたいですけど(笑)。
それから、逆に(MTF の場合)「性自認が女性」の人が女性的なジェンダーパターンを獲得する場合ですけど、この場合には本人の主張そのものであるわけですから、上の考え方でいけば、そもそも「反則」になりません。「反則」でないものが認められないわけですから、かえって問題がややこしいのですけど、これも記号論的に言えば、シニフィアンとシニフィエの組み合わせについての認識に、本人と周囲との間でズレがあるために起きるのです。つまり「反則」の問題ではなく、「誤解」の問題なのです。
これも簡単におさらいしておくと、「意味するもの」が「シニフィアン」で、「意味されるもの」が「シニフィエ」でしたね。「シニフィアン」と「シニフィエ」をあわせて「シーニュ」といいます。
図で表わすと「図2」のようになりますが、ここで問題なのはシニフィエの「女」という意味の内容です。一般には「性」というものを「セックス」や「ジェンダー」に分けて考える習慣がありませんから、「女性」のジェンダー記号(シニフィアン)から、セックスもジェンダーもひっくるめた「女」という意味(シニフィエ)を了解してしまいます。ここに齟齬が生じるわけです。
これは、「性」には「セックス」と「ジェンダー」があって、「ジェンダー記号」というのは文字通り「ジェンダー」をシニフィエとする「記号(シニフィアン)」なんだと言うことを、社会的な共通了解として広めて行くほかないでしょう(その他に、トランスすることをやめる、という選択肢もあるにはあるケド、ま、無理だ ^^;)。
といっても、基本的には「女性」として扱えばよいわけですから、そんなに難しく考える必要もありません(結婚相手として考える場合等には、ややこしい事になるが、それについては別に考察して掲載した)。
しかし、ここにもコンセンサスの問題があって、身につけたジェンダー記号が不充分で、(ジェンダーとしての)「女」が伝わっていなければ、これは「女性として扱え」という方が非常識な話です。言葉が足りなくて誤解されたら、それは語り手に問題があるというのはきわめて一般的な常識であって、それを無視してコンセンサスが得られるはずはありません。
ですから「性自認が男性」である場合と違って、この場合には見た目が大きな比重を占めるのです。日本のガイドラインでも、これはアメリカのリアルライフテストに相当するものだと思いますが、
と書かれています。
これに対して予想される(一部の)T's からの反論として、「女性らしさが身につかなければ、性同一性障害で苦しみ続けろというのか」という意見があるかも知れませんが、その「女性らしさ」の意味、あるいは「女性らしさが身につかない」理由の内容が問題です。第一に、これは別に「細身で小柄の美人になれ」といっているわけではないのです。もし仮に、「あなたはブスだから手術しない」というような判断があれば、それは差別であり問題ですが、ガイドラインのどこにもそんな事は書いていません。
であるならば、「女性らしさが身につかない」というのはどういう事なのか。その努力をどれくらいしたのかということが問題になると思います。例えば、これは MTF に限った話になってしまいますが、声というのは訓練次第で高く出せるのです。声帯というのは靭帯の一種で、振動する部分を短くしたり細くしたりすることは訓練次第で可能です。ですが、逆に持って生まれた以上に長さや重さを増すことは出来ないため、訓練によって低音域を広げることは出来ません。この点では FTM の方が、ハンディがありますね。
それに、どんな苦しみについてであれ、その基本は自力救済であると思います。そのために「自助グループ」というものがあるのであり、本人が努力をあきらめたところには、支援もありえません。それが前提です。普通ならば必要としない努力を必要とする状況については気の毒だと思いますが(だから支援しようという人も出てくる)、「性同一性障害の苦しみ」と「努力する苦しみ」を天秤にかけて、「努力する苦しみ」を投げてしまった人に対しては、支援の仕様も、支援する具体的対象もありません。「天は自ら助くる者を助く」という言葉がありますが、これは「天」に限らず支援者や医師にとっても同じ事ではないでしょうか。
薄甘いきれいごとをいう事で、かえって実効性を失うくらいなら、私は降りますよ(というより、最初から関わろうと思わない ^^;)。あくまで、状況を現実的に見据えて、今現在とり得る最善の方法は何かを考える以外の思考法を持とうとは思いません。
話を戻すと、「性自認が女性」という人は、それが基本的に「反則」ではない以上、言葉(女性としてのジェンダー記号)が足りなくて誤解を招くよりも、それらをどんどん身につけて、全身で主張する方が有効だということです。