神名龍子
結論から言うと、これまでは何か実体的に女装というモノ(コト)があるかのように思われていたために、そういう問いの立て方がされてきたわけですが、そこに間違いがあって、実は「女装というモノ(コト)」はないと考えるべきだと思います。その代わりに「女装という認識(評価)」があるだけです。そしてそれこそが、「女装とは何か」という問いに対してさまざまな意見が存在し、明確な「女装の定義」が存在しなかった理由です。ですから「女装とは何か」と考えて行くと、袋小路にはまり込んでしまいます。それを解決するには、「女装とは何か」という問いの立て方そのものを変更する必要が出てきます。
そこで実際に、この「女装とは何か」ということについて、私なりに考えてみた事を書いてみます。
女装ではなく男装についてなら、「スカートをはいたら、一部の民族衣装を除いては、(現代では)ほぼ男装に入らないと考えられる」と、かなり割り切れる面がありますから。比較的楽な気がするんですね。しかし私自身、エリザベスでパンツルック(婦人物ではありましたけど)でいたこともありますから(笑)、女装となるとそうはいきません。
男装について「かなり」割り切れる「面がある」と、曖昧な表現を使ったのは、この答え方には「現代の一般的な服装に着目した場合」という前提が隠れているからです。例えば、和服の場合は明確な区別がないでしょう。強いていえば、着物の柄や色でなんとなく・・・とか、あとは帯の結び方かな。現代に見られる和服なら、「帯の太さ」という条件でかなり分けられますけど、江戸時代の一般庶民まで観察の範囲に含めてしまうと、これも有効な分類方ではなくなります。もちろん洋服のように右前・左前という区別もありません。そうすると、結局はスカートがどうのというような分類は、ある特定の文化や文明に属する世界の中での分類法であって、けっして普遍的なものではありませんね。そうすると服装以外の条件で、あるいは服装も含めてもっと幅広い条件で考えなければならなくなります。服装以外の条件といっても、おそらく単独で普遍的な「女装の条件」になるものはないんじゃありませんか。お化粧というのも(これはこれで、どこまでが「化粧」かという別問題が出て来ますけど)だめ。髪型もだめ。どれも民族ごとの民俗・生活様式などの「文化」と切り離しては考えられません。
人間は服を脱いで裸の状態でいると、かなり性別の区別が着きやすくなりますね。これを仮に<第1次恒常的外見>と名付けます。これに対して服装やお化粧、髪型などを、<第2次恒常的外見>と呼ぶことにします。この場合、性転換者などの少数の例外はあるとしても、<第1的恒常的外見>の方がかなり普遍的に、つまり人種や民族に関係なしに性別を見分けやすいでしょう。この2つをあわせて<恒常的外見>と呼ぶことにして、これに対して<散見的外見>にあたるのが、例えばしぐさなんかがそうですね。ところがこれも文化によって<第2次恒常的外見>と同じように、かなり違いがあってあまり参考にならないことも多いのです。日本で特に和服の場合、女性の爪先は内側を向きますけど、お隣の韓国では、これはじかに韓国の女性歌手の口から聞いた話ですが「チョゴリを着た時には爪先が少し外を向きます」ということになっているそうです。服装や生活様式によってこういう違いが出るのは、当然といえば当然です。あるいは感情面からのしぐさへの影響というものもありますが、これも、それぞれの社会の中での女性の位置というか、女性への評価というか、そういうもので変わってきますから、広い意味での文化面からの影響と言えるでしょう。この点で<第2次恒常的外見>と本質的には同じです。
一方、私たちが実際に街中を歩いていて見かける人たちを「あの人は男性、あの人は女性」と見分けるときには、頭の中でどういう作業を経て認識しているのかも考え直してみる必要があります。すぐに思い浮かぶのは、私たちが「女装」するときに心掛けることと、気になるけどどうしようもないと悩むことの2点に、かなり共通するのではないでしょうか。これは私たちが「女性に見られるためにどうしたらいいのか」を考えたり、他の人たちから教えられたりして「学習」してきたことですから、当たり前といえば当たり前なんですけど、例えば服装、体毛、体の丸みや肩幅などの体形、手足の大きさ、喉仏、平均的身長、あとメイクの時に気を使うことで、これは「体毛」と重複する点もありますけど髭が見えないようにと気にしたり、あとは特に目の感じですか。
私たちは通常、こういうポイントをチェックすることで性別の判断をしているわけです。仮に髪の長さもそこそこあって、髭も見えない、目がパッチリして、ノーメイク、服装がトレーナーとジーンズ、厚手のジャケットを着ているために、胸のふくらみが判からない、静かに動かず立っているだけで、しぐさらしいしぐさも観察できない・・・なんていう、中学か高校生くらいの子がいると、その子は何を意識してそういう格好でいるわけでもないのに、「あの子、男の子かな?女の子かな?」なんて迷うことがありますよね。意外に私たちの性別の判断は曖昧なものなのです。その反面、認識のための作業は、私たちが自分で意識している以上に、様々な要素(この要素をジェンダー記号と呼んでいるわけです)を組み合わせる複雑なものであることも判かります。
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(※・補註) 「どこまでが女装か」ということを考えるにも、その作業が必要で、どんなに多くの事例を挙げても、それだけではけっして答えは出ないでしょう。そこにあるのはただの「判断の材料」に過ぎません。問題になるのはその材料に含まれる、私達が性別を判断する時に意識的・無意識的に用いている要素です。もう一つ見落としがちなのは、複数の要素間の関連と、それによって出来上がる構造です。 この意味で半面教師として、かつて女装者の間で話題を呼んだ「脱男性の時代 アンドロジナスをめざす文明学」(渡辺恒夫・勁草書房)が挙げられます。歴史の中からこの本の主旨にいい意味での関わりのありそうな事例を並べ、著者のいうところのフィールドワーク(その手間と労力には私も敬意を表しますが)から集めた事例を並べたてても、それだけではどうにもなりません。この場合、その時代背景との関わりなどに着目して、その事例が成立する<構造>を見透さなければけっきょくは何の役にも立つはずがないのです。例えば、
というくだりでは、一見すると社会との関わりを説いているようではありますけど、その実、社会構造の変化とにあわせて、「《美》という性質が、女性へと《専門化》して行」った理由については、何もいっていないのと同じです。これは、この部分だけがそうだというのではなく、その前後にもやはり「それらしいこと」が書いてあるだけで正面から掘り下げた見解が見られません。ただ「それらしい」というだけでは、因果関係のない(正確には希薄な)飛躍した理論にしかなりません。これでは、同じ時期に同じように消滅したものについてはどう考えればいいのでしょう。まさかこの著者が、同時期に着えた帯刀やチョンマゲの風習に着目して「脱丸腰の時代」や「脱ザンバラ髪の時代」等の続刊を考えているとは思えません(笑)。 これは結局、歴史の中から都合のよい要素だけを取り出して、おおまかに足し算しただけのものですね。取り出した要素については「詳しく調べた」という印象を受けますし、その手間と労力には私も敬意を表しますが、残念ながらその処理の(つまり上にいう作業の)不徹底のために、結果は「TV・TSの為の膨大な弁護と愚痴」、あるいは「材料を並べたてて眺めてみた印象」に過ぎないものになってしまいました。
ここでも一見すると「公共の場所での」という、服装(肌をあらわす度合いの差異)以外の要素を考えているように「見える」のですが、実はその要素が巧みに無視されていることに気がつきす。ここでいう「公共の場所」とは何を指しているのでしょう。OLだって「仕事にいそしむ」時には半裸ではいませんし、サラリーマンでも海水浴に背広ネクタイ姿で行く人は極まれか、まったくいないかでしょう。あるいは、ランニングシャツに短パン姿でジョギングをしていた男性が「肌をあらわした」としてタブー視され、世間から糾弾されるということもありません。この引用部分は周囲の状況(いわゆるTPO)の違いというものを無視しなければ成り立つことはありません。私が上に書いた、様々な要素を取り出し、それを組み合わせる作業が足りないのです。 |
この作業の例として、次の2例を考えて見ることにします。
| A. | ただ女性の洋服を着ただけで、体毛の処理もお化粧も何もしていない、一目で男性と判かる人。 |
| B・ | 着ているものは建築現場の作業服で、体毛の処理をし、綺麗にメイクをして、胸にパッドを入れ、セミロングの髪の、どうみても「ガテン風の女の子」にしか見えない男性。 |
それぞれのケースが「女装」であるかどうかを考えた場合、どうでしょう。Aの場合、街中で一人でこの姿でいれば変態扱いされる可能性が非常に高いと思いますし、新宿あたりの女装スナックあたりでもどこまで受け入れてもらえるかは疑問ですね。エリザベスならこの姿は「メイク前(あるいはメイクを落とした後)の未完成な状態」としてとらえられるでしょう。Bの場合、この人が実際に建築現場で働いているとしたら、「なんだ女みたいな格好をして」といわれるかも知れませんし、女装スナックなら「これは、どういう趣味なの?」ときかれるかも知れません。エリザベスなら、1回くらいなら「今日はおもしろい格好してるね」といわれるかも知れません。
ただしどちらの場合も、「変」が「変」として受け入れられる「状況」もあります。例えば学園祭や宴会などの「イベント」や、女装スナック辺りなら「その場のノリ」等というものですね。「今日はおもしろい格好してるね」というのも、エリザベスあたりだと、個人々々でその日ごとの「ノリ」として認められる許容範囲が広いので、こういわれる可能性があるかも知れないと考えられる雰囲気があるんですね。
しかしAの場合は、ただ女性用の服を着ているというだけで、「これも女装かな?」と思ったり、考えれば考えるほど「女装の範囲には入らない」と断言しにくくなる人もかなりの数いるのではないでしょうか。これは、Aの場合「服装」という<第2次恒常的外見>の要素だけは濃厚に持っているからです。「濃厚に」というのは、例えば婦人物のセーター1枚着ただけの場合とワンピースを着た場合では、後者が「より濃厚」という相対的な表現です。仮に、要素の数を<量>、濃厚さを<質>と呼ぶことにしてみましょう。判断に迷う原因は、判断材料が服装という1つの要素しかないということです。
しかしこれは、他者からの認識の話であって、まったく同じ状況でも、例えば家族の留守にこっそりと母親のワンピースを着てみたというような場合は、本人の認識において、はっきりと「女装」なのだということは珍しい例ではありません。またこの場合、本人の認識は「女装」であり、他者1は「女装ではない」、他者2は「女装に含まれるとは思うが何か変」と、それぞれ異なる認識がありえます。これは、おそらく要素の数が「少ない」けど「濃厚」という相反する条件にあるためで、圧倒的に「女装ではない」という要素が多いにもかかわらず、たった1つの要素がそれを頑強に阻んで、認識の為の作業を難しいものにしていあるためと考えられます。
Bの場合「作業服姿でノーメイク」が当たり前の建築現場では「女みたいな格好」、「女性の服を着てメイクしている」のが当たり前の場所では「おもしろい格好」とか「変わった格好」というのが、おおよその他者の認識の代表的なものでしょう。同じ姿(要素1)でも、周辺の状況(要素2)によって他者の認識が変わるという例ですね。2つの要素の間に<関連>があるということです。
もう1つは、要素として<散見的外見>(しぐさや、話し方など)だけを持つ 場合を考えてみましょう。この場合は、本人の内面がどれだけ女性的であろうと、また 本人の自覚において「私は女性だ」という認識があろうと、他者からは、単に「カマっぽい」とか、せいぜい「あの人、女装するのかな?」という程度の認識しか得られないでしょう。そうすると<女装>というのは、
| 1. | 「それぞれ本人または他者(以下<観察者>という)において、対象を観察するとき」 |
| 2. | 「観察時のあらゆる状況に照らして、主観的に」 |
| 3. | 「対象の<恒常的外見>において女性的な要素が少なくとも1つ以上観察され」 |
| 4. | 「その要素が、ある<量>と<質>を勘案する作業を経て認識される時」 |
| 5. | 「対象が、<観察者>において『女装』と認識されたという」 |
この認識(評価)が「女装」の正体だといえるのではないでしょうか。<観察者>が変われば認識(評価=これは女装である/ない)も変わります。「女装」とは個々人の<認識>の在り方であり、したがって<実体>のない「概念」であるというのは、こういうことです。
そうしますと、「女装とは何か」と考えるのではなく、私達が「どういう場合に『これは女装である』と<認識>する(しない)のか」という形で考える必要があります。それは認識のための作業、つまり上の、1〜5の内、4番目の項目についてさらに掘り下げる作業にもなると思います。
それから、「女装」が個々人の認識の在り方である以上、女装であるとか、女装ではないというのは、人によってある程度意見が分かれるのは当然だということが言えますね。例えば「本人」が女性であってもそれを「女装」と呼ぶかというと、仮に本人の主観においては「女装」であっても他者から見ると「それはちょっと違うのではないか」ということは有り得ますし、また逆に、性自認が「女」である場合に本人にとっては「女装ではない」ものが、他者からは「女装である」としか思えないということも、現実にあるわけです。
それについては、本人と他者、あるいは他者同士の間で、どうすれば合意に達することが出来るのかという、これは「個々人の認識」の後に来る別問題になります。
次に、女装の動機について考えて見ることにしましょう。まずいわゆる TV の場合ですが、これは「ICD-10」によると、Dual-role transvestism (F64.1) と Fetishistic transvestism (F65.1) の2種類があって、それぞれ「両性役割服装倒錯症」と「フェティシズム的服装倒錯症」という無粋な和訳をされています。
前者については、
| 異性の一員であるという一時的な体験を享受するために、生活の一部で異性の服装を着用しているが、より永続的な性転換あるいはそれに関連する外科的な変化を欲することは決してないもの。本障害は、服装を交換するにさいして性的興奮をともなっておらず、フェティシズム的服装倒錯症(F 65.1)と区別されなければならない。 |
と規定されていて、簡単に言うと、「より永続的な性転換あるいはそれに関連する外科的な変化を欲することは決してないもの」の内、性的興奮を伴わない女装が「両性役割服装倒錯症」で、性的興奮を目的とする女装が「フェティシズム的服装倒錯症」ですね。するとこれは同じTV(transvestism)でも、女装の動機が異なっていることが判ります。
先に「フェティシズム的服装倒錯症」から考えることにしますが、この動機を一言でいうと、エロティシズムのエロス性の獲得ですね。「13.男と女の非対称」や「19.バリエーションとしての T's」でも書きましたが、通常のヘテロセクシャルの男性は、女性の身体性を、エロス的・全体的関係へ向かう可能性を示す性的信号として受け取ります。その性的信号というのは何かというと、要するに「この人は女性です」ということを示すジェンダー記号です。
で、普通ならばエロス性の獲得のために、そのジェンダー記号(性的信号)を持っている人、つまり女性に向かうわけですが、「フェティシズム的服装倒錯症」の場合にはそこが少し違っていて、「ジェンダー記号を持っている人(女性)」ではなく「ジェンダー記号」そのものに向かってしまう。女性の「ジェンダー記号」を身につけることが、エロティシズムのエロス性の獲得になるわけです。これが、性的興奮を伴う女装の構造だと思います。
女装者(男性)に対して男装者(女性)というのは非常に少ないですね。例えばトランスセクシャルでも FTM より MTF の方が多いという点では同じですが、その場合には数字にしてせいぜい1桁くらいしか違わないのに対して、男装者(女性)はほとんどいないに等しいくらいです。
これについては、女性の服装には既にユニセックスもしくはマニッシュ(男性的)なものが多くあって、その結果「女性の男装の余地が非常に狭くなっているから」(『性』を考える -トランスジェンダーの視点から- ・三橋順子)とか、女性はそういう服装をするために戦って勝ち取ってきた実績があるとか、いくつかの説明がありました。
前者の説明については確かにその通りではあるのですが、後者は欧米の話としてならともかく、日本ではウソです(笑)。これはもしかしたら欧米のフェミニズムの説が考えなしに日本に持ち込まれたものではないかと思います。日本の場合は、戦時中に女性がモンペを履いた・・・というより履かされたのですが、和服やスカートと違って、脚の動きが一目で判ってしまうモンペの使用は、当時の女性の感覚ではかなり羞恥心を伴うものだったんですね。合気道では剣道や弓道と違って、柔道着と同じ上下を着用し、有段者はその上から袴を着用することになっているのですが、現在でも女性には初心者の内から袴の着用を許しているところがあって、これも昔の名残です。例えば今の世の中で「女性は全員、膝上20センチ、もしくはそれよりも短いスカートを履くこと」という法律が出来たら、これはフェミニズムだけでなく大半の女性の反発を招くと思うのですが、戦時中のモンペの着用というのは、それに近いものがあったわけです。それを今になって「女性が勝ち取った」というのは、デッチ上げの手柄話に過ぎません。
話がそれましたが、女性の服装には既にユニセックスもしくはマニッシュなものが多くて、男装の余地が少ないというのも、ではなぜ男性的な女性の服装が認められて、その逆が認められない理由については触れられていません。私の考えでは、その理由は上に書いた「男性が女性の持つ身体性(性的信号)に引き付けられる」という男女の非対称性にあると思います。
この非対称性のために、女性のジェンダー記号を持つ男性というのは、ポルノを見ている男性と同じようなイメージで見られるところがあって(笑)、「いやらしい!」と嫌悪される。しかし逆に女性が男性のジェンダー記号を身につけても、そこには男性の場合と同じような意味を見て取ることは出来ないため、比較的に寛容に扱われる、という仕組みになっていると思うんですね。
また、ほとんどの男性には多かれ少なかれ女装願望があると言われているのも、おそらくはここに理由があって、これは要するに「ほとんどの男性は多かれ少なかれポルノに興味がある」というのと本質的には変わらないと思います。ですから「ほとんどの男性には多かれ少なかれ女装願望がある」という場合の「女装」は、「フェティシズム的服装倒錯症」の系統の女装を指していると考えるべきだと思います。その点では、むしろ女性に興味のないゲイ(ホモセクシャルの男性)の方が、女装に関してはさっぱりしていて、明るい遊びとか、単なる冗談で済んでしまうようなところがありますね(笑)。
そこで再び、最近出された「セクシュアリティをめぐって」所収の、三橋順子さんの「『性』を考える -トランスジェンダーの視点から-」を参照させていただくと、
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また、密室での異性装(女装)には、フェティシズムの要素が濃密にからみついている場合がしばしば見られます。しかし、女装が「発情装置」である限りは、社会性は獲得できません。当たり前の話ですが、女装と欲情が直結しているタイプの異性装者が、一般社会の女性の専有空間、例えば女性トイレなどに立ち混じろうとすれば、それは女性への迷惑行為であり、性犯罪行為につながりかねないからです。 (26〜27ページ) |
とあって、いかにももっともな話なんですが、これについて私なりにもう少し考えてみたいと思います。
ここでいう「社会性」というのは、この内容から判断する限りおそらく(女性トイレまで含めた ^^;)広い意味での「日本の社会」に、完全に女性として受け入れられるかどうかという事だと思います。しかし「社会性」ということをもう少し柔軟に考えた場合には、これは程度の問題ですね。それこそ当たり前の話ですが、まず、女装していなくてもやってはいけない事は、女装してもやってはいけない。例えば、街を歩いてもいいけど、街中でマスターベーションを始めるとか、よそ様の女性の下着を盗んだりしたら、警察のお世話になる。これは、ごく普通の常識であって、ちょっと考えれば、やってよい事と悪い事の区別はつくはずですね。
それから、やってはいけない事というのも2種類あって、街中でマスターベーションをしたら警察のお世話になるけど自分の部屋(密室)だったらかまわない、しかし殺人のように密室でもやってはいけないものもあります。謎解きが大変だからではなくて(笑)、殺人はどこでもしてはいけない。つまり「やってはいけない事」には「場所を選ばなければならないもの」と「場所を問わないもの」との2種類があるんです。それに関連していうと、上の、
| 密室での異性装(女装)には、フェティシズムの要素が濃密にからみついている場合がしばしば見られます。 |
について、「フェティシズム的服装倒錯症」の人や、その他「密室で異性装(女装)をしている人」が、まだ何も悪いことをしていない内から罪悪感を持ってしまうと困りますので(笑)、蛇足を覚悟で私なりに誤解のないように付け足しておきたいと思います。
これは、密室でやっている女装はすべてフェティッシュな要素があって社会性がないということではありません。逆に女装に限らず、場所を選んでするべきものは密室でする方がいい。別に自分の部屋でなくても、女装クラブでも、フェティッシュパーティーのような場所でもよいのですが、そういう一種の閉鎖空間で、公共の空間のルールとは切り離された状態の中でするべきなんです。そしてそこから外へ出たら、閉鎖空間では許されることでも、外でやってはいけない事は、してはいけない。もちろん「フェティシズム的服装倒錯症」の人に限らず、これは原則的には皆同じなんです。
その上で、具体的に何が「してはいけない事」なのかというと、これは立場によって多少の違いがあって、例えば女性トイレには、女性は入ってもいいけれども、男性は入ってはいけない。また、女装する事によって(他の理由でも同じ事ですが)性的に興奮している男性が女性トイレに入るのは、本来そこを使用する権利のある女性の大半が嫌がる事だから、入るべきではない。
そして、こういう「ルールを守る」という事は、おそらく最も基本的な「社会性」であって、「私はフェティシズム的服装倒錯症だからそんなものはありません」というわけにはいきません。逆に、そういう意味での社会性(ルールを守る)を身につけていれば、もちろん「フェティシズム的服装倒錯症」の人だって、女装して外に出てもかまわないんです。
ですから、女装にフェティッシュな要素があるとか、女装によって性的に興奮する、あるいは普段から人に隠れて自室で女装をしている等は、この場合には本質的な問題ではありません。ルールを守れるかどうかが問題の核心であって、「フェティシズム的服装倒錯症」の人も(また、そうでない人も)そこに注意する必要がある。また、ルールを守れなかったときには、誰に対しても当然、それに対するペナルティがあります。ただ、他の人にとっては無効な誘惑が「フェティシズム的服装倒錯症」の人には有効に働いてしまうという、「フェティシズム的服装倒錯症」に固有の条件があることは考えられますから、それも含めて気を付ける必要はある。つまり、気を付けなければならないことが、余分にある。そういう事ですね。
次に「両性役割服装倒錯症」についてですが、もう一度「ICD-10」の規定を見てみましょう。
| 異性の一員であるという一時的な体験を享受するために、生活の一部で異性の服装を着用しているが、より永続的な性転換あるいはそれに関連する外科的な変化を欲することは決してないもの。本障害は、服装を交換するにさいして性的興奮をともなっておらず、フェティシズム的服装倒錯症(F 65.1)と区別されなければならない。 |
この規定を額面通りに受け取る限りでは、これは「パートタイム TG 」のようですね。しかし、現在のところ、 TG (transgender) というのは医学用語としては(つまり ICD-10 や DSM-IV の中には)存在しないようで、ICD-10 においては、「Dual-role transvestism」という TV の一種として規定されています。
これは、動機としては少なくとも2種類考えられて、1つは性自認が女性である場合ですね。しかし性別違和、というよりも身体違和感が耐えられないほどには苦痛ではなくて、身体の変工を望むほどではないという場合で、一時的な性別役割の変更によって精神的なバランスを取っていられる人は、この規定のような観察がされると思います。もしかしたら反対に、一時的な性別役割の変更によって精神的なバランスを取ることに成功しているからこそ、身体の変工を望まずに済んでいるのかも知れません。
もう1つは、性自認は男性であっても、女性の性役別割を(たとえその一部であっても)果たしたいという動機によるもので、この場合には身体の変工を望むケースの方が珍しいのではないかという気がします。このケースは、用語の医学的用法から離れた場合、つまり TG という用語の存在を認めて TV / TG / TS の三分法を採る場合に、TV に分類するのか TG に分類するのかで迷ってしまうのですが、仮にこれが TG だとすると、TV は「フェティシズム的服装倒錯症」しか存在しないことになります。それでは TV は全員が女装して性的興奮をしているのかといったら、これはちょっと違うのではないかと思う(笑)。
といって、「だからこのケースも TV に分類しよう」というのでは、ただの帳尻合わせになってしまいます。これをどう考えればよいのかというと、おそらく次のようなことではないかと思います。
「女性の性別役割を果たしたい」という動機をさらにさかのぼると、それはどこから出てくるのでしょうか。それぞれ人によって違いはあるかも知れませんが、とりあえず思いつくままに順不同で挙げてみます。
うん、わかった(笑)。要するにこの場合の女装は趣味や娯楽、もしくはそのための手段なんです。性自認が女性である場合には、女性の姿(服装や化粧など)をするのは本人の主観においては当然のことで、「性自認が女性である」という以上の理由は不要です。それに対して、性自認が男性である場合には、趣味や娯楽のため、あるいは上記の「フェティシズム的服装倒錯症」のように性的興奮を得るためとか、性自認以外の理由として何か目的があって女装をする。これが私にとっての TV という言葉の本質ではないかと思います。
ですから簡単に言ってしまえば、性自認が男性である場合が TV で、性自認が女性である場合には TG もしくは TS に分類すればよいということになります(う〜ん、あとで用語集も書き直さなくちゃ・・・ ^^;)。そして、「両性役割服装倒錯症」の定義上、その中には TS は含まれないと考えられますから、「両性役割服装倒錯症」は TV か TG のどちらか一方に分類されるのではなく、女装の動機によって(あるいは性自認によって)さらに TV と TG とに別れるということですね。
それから、今回の前の方でも書いたように、性自認が女性である場合には本人にとっては「女装ではない」というこ事がよくあるんですけど、この分類でいえば TV は性自認が男性であるがゆえに、大半は自分のしていることを「女装」だと認めるだろうと思います。よく「女装者」という言葉を狭義には TV の意味で使うことがあるんですけれど、TV はまさに自他共に認める「女装者」であるという事にもなります。