28.TV と「社会性」について

神名龍子


 前章「27.『女装』を改めて考える」では、改めて「女装」それ自体について考えてみたのですが、今回はそれに続く形で、女装あるいは TV とその社会性の問題について考えてみたいと思います。

 TV が、密室での自分一人での女装ではなく、他の人との関わりを持つ女装をするのはどういう場面においてか、その動機は何か、またその女装が社会に受け入れられるのはどのような場合、いかなる理由によってかという事です。

 その前に、ここでいう「社会」という言葉についてですが、とりあえずは「他人」の意味に考えてください。いきなり「日本の社会」とか「国際社会」というような広範囲のものを考えると、最初から話が抽象的にならざるを得ません。

 そうではなくて、人間はまず「自分」があって、次に「親」や「兄弟姉妹」という他人との関係を持ちます。これが最も狭い「社会」ですが、ただしこれは通常は「家庭」と呼ばれています。次に「友達」を持ったり、また幼稚園や学校に行くと「先生」という「他人」との関係も持たなくてはならなくなります。人間はこうして関係を持つ「他人」を増やしながら「社会」に出る。しかし、この最後の「社会」というのはとても抽象的な言い方で、「社会に出る」といってもあらゆる他人と直接的な関係を持つわけではありません。このような、通常いわれる「社会」というのはいわば、大人になった時点での「他人との直接的・間接的な関係の総体」を指しているのです。

 しかし、小学校の時点での人間関係や、大学の時点での人間関係も、それぞれその時点における「社会」ですね。順を追って見ると、人間はその成長過程において、いかにより多くの「他人」と関係を結んで行くことが出来るようになるかという練習をしているように見えます。つまり、だんだんと自分を取り囲む「社会」が大きくなる。そして、それにつれて「他人」との間に成立するルールも変わって行く。そのルールの変化への順応や、自らルールの編み変える方法を、いわゆる「社会に出る」までに身につけるのです。この「身につけるもの」というのは、「他人」との付き合い方といってもいいでしょう。実際に「他人」と関係を持つ、その関係と、身につけた「他人」との付き合い方、この2つを合わせて「社会性」と考えればよいのではないでしょうか。そして、話が広がり過ぎるのを防ぐため、以下に「社会性」という場合には、特に断らない限り「他人」との関係は「直接的な関係」に限定することにします。

 この「社会性」は女装についてもまったく同じ事で、「他人」の存在がない密室での自分一人での女装には「社会性」がありません。また、自分一人で女装することを本人が望んでいるのであれば、「社会性」は必要ありません。例えば、「フェティシズム的服装倒錯症」でいえば、女装して性的に興奮してマスターベーションに耽ける場合ですね。実は、この場合には「社会性」を持たないようにという社会的な要請があって、「女装して性的に興奮してマスターベーションに耽ける」という行為は、外でやっては行けないということになっています(笑)。ですから「社会的要請に従う」という形での「他人」との関係はあるわけで、これも一種の「社会性」ではあるのですが、上に書いたように、これは「直接的な関係」ではないので、今回は一応、除外して考えることにします。

 そう考える限り、「フェティシズム的服装倒錯症」というのは、性的興奮を得ることが女装の目的で、いわばポルノを見るのに似たところがありますから、「社会性」がない、というよりも、「社会性」を持ち得ないと考えられると思います。

 誤解のないように書いておきますが、決して「ポルノを見るのに似たところがある」から、「フェティシズム的服装倒錯症」はよくないことだ、というのではありません。そんなセリフはキリスト教の坊主とフェミニストにでも言わせておけばよいことで(笑)、ここでの論旨ではありません。第一、それはあまりに短絡的すぎます。

 「13.男と女の非対称」他で何度か述べたように、男と女ではエロスの受け取り方に違いがある。したがって、「男のエロスの受け取り方」を女性に強要するというのは、私も不当だと思います。しかし、それは「男のエロスの受け取り方」そのものが「悪」なのではなく、それを女性にも強要することが「悪」であり、あるいは具体的な「男のエロスの受け取り方」の方法によって「悪」になりうるのであって、そこはしっかり区別する必要があると思います。その区別なしに「男のエロスの受け取り方」そのものが「悪」だということになると、それは結局は、世の中には「男のエロスの受け取り方」と「女のエロスの受け取り方」の二種類があって、その内の「女のエロスの受け取り方」こそが正しいという考え方になる。すると、それは「女のエロスの受け取り方」の男性への強要になってしまいますね。

 女性が男性に対して、自分が充分に「女のエロスの受け取り方」の出来るような付き合い方を望むというのは当然ですし、女性にはそれを要求する権利があると思います。しかし、それは「女のエロスの受け取り方」こそ真理だというのとは全然違います。二つの内の一方が真理であるとしてもう一方を否定するというのは、「何も考えていない」といっても過言ではないと思う。そうではなく、「エロスの受け取り方」についても男女がそれぞれ異なるものを持っているという事を認め、その内容の違いを知ってこそ、初めてその二つの在り方が両立出来る条件を考えることが出来ると思うのです。また現代では男女とかトランスの問題に限らず様々な分野において、「異なるもの」それぞれの存在を認めつつ、それらがどうすれば共存できるかを考える事が、重要な課題の一つになっているのではないでしょうか。

 これは、両者の間に違いが存在することそのものを否定したり、一方の在り方を相手方にも強要したり、あるいは、どちらか一方を「これこそ真理だ」として思想統一を計ったりすることによっては不可能です。それは理屈の上だけのつじつま合わせに過ぎず、現実に対しては何の効果もありません。


 一方、「両性役割服装倒錯症」の内、性自認が男性である場合(以下「両性役割服装倒錯症-TV」と書きます)、つまり趣味や娯楽、もしくはそのための手段としての女装についてですが、これはまったく事情が異なります。

 その前にちょっと「確信の条件」という、別の話を書きます。

 私がある部屋に一人でいるときに、目の前にリンゴがあったとします。私の目にそのリンゴが赤く見えれば、私は「このリンゴは赤い」という確信を持ちます。そして、その部屋にあとから何人かの人が入ってきて、その人達がやはり「このリンゴは赤い」といえば、私は「このリンゴは赤い」ということについてますます確信を強めます。しかし、他の人達が口をそろえて「このリンゴは青い」といったら、いくら私の目にそのリンゴが赤く見えていても、私は自分の視覚を疑わざるを得ません。つまり、最初に私が持った「このリンゴは赤い」という確信が崩れるか、崩れないまでも「ゆらぐ」のです。

 これはリンゴではなく、自分自身についてでも同じですね。私が持っている、「神名龍子」についての認識の内容(神名龍子像)があって、それが他の人達が持つ神名龍子像と一致していれば、その神名龍子像が私にとって受け入れがたいものでない限り、私のアイデンティティは安定します。ところが、他の人達が口をそろえて、「あんたは自分で思っているような人間じゃないよ」といえば、私のアイデンティティ(神名龍子像)は嫌でも揺るがざるを得ない。

ただし、私が自己嫌悪に陥っているときに、周りが口をそろえて「そうだ、おまえはロクでもないやつだ」といったら、これは自他の神名龍子像が一致しても、というより、むしろそのために、私は回復困難なくらいズタボロになります・・・(^^;)。

 それから、「私自身」でも、私と関係のない「物」でもなく、たとえば私が描いた絵についての評価の場合はどうかというと、もし私が熊の絵を描いたとして、誰かが「あら、よく描けた熊ね」と誉めてくれたらうれしいし、また反対に「これ何なの?タヌキ?」といわれたらガッカリします(笑)。

 ここから話を戻しますと、MTFの場合、性自認が女性であれば、その女性としての存在を社会的なものにしたいという欲求がある。上の例で言う「神名龍子像」の話と同じ事ですね。まず(性)自認がある。他の人達も同じ認識を持ってくれれば(他認されれば)、その人のジェンダー・アイデンティティはますます安定する、つまり自分の性自認についての確信が強まって揺るぎないものになります。

 ですが現実には、まず「誰との関わりも持たずに一生を過ごすことは出来ない」という前提があります。その前提において起きる欲求は、正確に言うと、「外(社会)へ出たい」ではなく、まずは「性自認と他人の認識との一致」ですね。誰も本人の性自認を認めてくれずに、「何いってんの、アンタは男よ」という人ばかりだったら、たぶん外へ出たくなくなるでしょう。つまり根源的にあるのは「性自認と他人の認識が一致してほしい」という欲求であって、「外(社会)へ出たい」という欲求ではない。「外へ出たい」という欲求を持つのは、おそらく「性自認と他人の認識の一致」が得られる可能性が多少なりとも感じられるときに限られると思います。逆に言うと、自信がなかったら出たくない。なぜならば、「性自認と他人の認識の一致」が得られなかった時にはアイデンティティ(性自認、および性自認に関係する部分)の安定がおびやかされる事が、直観的にでも判っているからです。

 ですからこれは順番にいえば、性自認が女であるから外へ出たくなるというよりも、外へ出ざるを得ないから(他人との関わりを一切持たずに生きて行く事は出来ないから)、「性自認と性他認の一致」を求めざるを得ない。ここに「性自認と性他認の一致を求めて」外に出る、差し迫った動機があります。

 しかし、「両性役割服装倒錯症-TV」には当然、「性自認が女性である」ことを動機としては、外に出たくなるということはあり得ません。なぜなら、性自認が男性だからですね(笑)。しかし、他の動機によって外に出たくなることは充分に考えられて、それは何かというと、例えば「確信の構造」で書いた「熊の絵」です。性自認が男性である以上、女性だと「他認」されなくても、この人達の性自認はゆるぎません。ですが、その代わりに傷つくものがある。

 TS や TG にとっては「性自認と性他認の一致」が「自分」それ自身の問題なんですが、TV の場合には、おそらく自分の女装姿は「自分」というよりも「自分の作品」についての問題だと思うんです。「趣味の女装」において女装することは、絵を描くのに似ているところがあって、アイデンティティの核にある「自分」はあくまでも「素材」であり「創作家」です。そして「自分の女装姿」が「作品」と考えれば判りやすく、そこに芸術性を加えて本職にすると、例えば森村昌泰氏になるかも知れません。逆に森村氏を基準に「趣味の女装」を一人ひとり見たら、「子供のお絵描き」レベルから「玄人はだしの日曜画家」まで、いろいろな姿が見えると思うんです(笑)。

 そして自分の「作品」を世に問いたいという思いが「社会性」への動機の核にある。「女装はしてみたけれども、果たして他人の目にちゃんと『女性』に見えるだろうか」ということですね。つまり、「熊の絵を描いたのはよいけれども、これは他の人が見ても熊の絵に見えるだろうか? もしかしたらタヌキに見えたりしないか?」とか「ホラ、上手に描けたでしょう」ということなんです(笑)。

 このような趣味や娯楽を通じての「他人」との付き合いというのは、女装に限らず他の分野でもいくらでも見られるわけで、つまりサークル活動のようなものを考えればよいわけです。ただしこれは、趣味や娯楽の女装であれば必ず「社会性」を持つといっているのではなくて、あくまでも「持ちうる」ということです。

 絵や俳句など、他のものに例えてみると判りやすいのですが、この場合に自宅で一人で女装しているというのは、黙々と創作活動をしながら作品をしまい込んで発表しないのと同じで、女装クラブに行くというのは、単に女装が出来るというだけでなしに、作品発表(鑑賞会)やお互いの作品の批評をするサークル活動に参加するという事、また、街に出るのは一般公募(サークルの外)への参加のようなものです。

 それから、東京のエリザベスのように、「一般公募への参加禁止」という、ちょっと変わったサークルもありますが(笑)、これは女装クラブの中でもむしろ例外に属すると思います。10年以上前でも大阪に人にその話をしてあきれられたことがあります。また、昨年の春に名古屋に行った時に見聞した限りでは、「美島」にもそんな規則はなさそうですね(直接伺ったわけではありませんが)。それどころか「べっぴんメイト」のように、「美島」の終了後、朝まで遊べることを意識して営業時間を設定しているお店があるくらいです。

 それから「両性役割服装倒錯症-TV」の「女装写真」に対するこだわりも、作品の記録という意味合いが(理由をそれだけに限定するつもりはありませんが)強いと思いますし、これはおそらくコスプレにも通じるものがあると思います。また、街を歩かなくても、自分の女装写真を人に見せるとか、多くの人に見てもらえるように「ひまわり」や「くぃ〜ん」などに投稿するというのも、直接的な社会との接触ではありませんが、やはり「社会に出る」という行動の一形態ですね。

 そうしますと「くぃ〜ん」で毎年やっているフォトコンなんかは、性自認が女性である人が優勝したら確かにその人の性自認を安定させる役に立つと思いますけれども、あれも本来は別に性自認を競うためのものではなくて、やはり自分の女装の作品性を競っている面がかなり強いと思うんです。だから性自認が男性であっても、けっこうマジになる人がいる(笑)。私はもう降りてしまいましたけれども(笑)、ああいう企画はこれからも必要とする人達がいると思いますし、ぜひ続けていって欲しいものです。


 以上は T's が社会に出ようとする動機について述べたわけですが、視線のベクトルを逆にして、「女装」を社会がどう見るか、「女装」が社会に受け入れられる条件は何かということについて考えてみたいと思います。

 そうしますと、「話をしてみたらいい人だった」という前に、まずは「見る」ことから始まるわけですが、その最初の段階では女装者の「見かけ」しか判らないわけですから、まずは「見た目」に興味を持つ。この段階では、ミもフタもない言い方ですけれども、結論から言ってしまえば、奇麗ならいい(笑)。正確には「いい」というよりも、その方が「話が早い」んです。そうでないと、最初は遠巻きにして見られるだけで、なかなか次の段階に進みにくいですから。

 「17.ジェンダーと『真・善・美』」で書いた「美」とは、「感性的な『快』をもたらすもの」でした。これを踏まえて考えますと、エロス性、この場合の「エロス」とは性的な「エロティシズム」に限らず、もっと根源的な広い意味での「快」ということですが、見る人にエロス性を感じさせる女装は、「よい」または「きれい」な女装として受け入れられるということです。もっとも、「エロス性を感じさせる」ということは「よい」や「きれい」あるいは「ほんとう」の言い換えのようなものですから、これは本当の意味での説明になっていないのですが、とりあえず話を先に進めます。

 「フェティシズム的服装倒錯症」という、性的興奮を得ることを目的とする女装では、エロス性(この場合には、エロティシズムですね)の受け取り手は本人であって、基本的には他人にエロス性を与えることは考慮されていません。したがってそういう女装は、広い意味での「社会的」には受け入れられにくいものになります。ただ、まったく「他人」と没交渉かというと、中には男性と二人でエロティシズムを分かち合う場合もあるでしょうが、どうしても範囲が限られますね。いや、不特定多数を相手にそういうことをしてはいけないという事になっていますから、限ってもらわないと困る(笑)。

 あるいはこういう人の場合、女装写真でいうとポルノ的なものになりますから、ある程度美人であったりすれば男性には受けるかもしれませんが、一般論として女性には受け入れられそうにありません。ですから、「フェティシズム的服装倒錯症」が他人に与えるエロス性というのは、だいたいにおいて「エロティシズム」、つまり「きれい−わるい」の「美」であろうと思います。

 「両性役割服装倒錯症-TV」の場合には、そういったポルノ的な姿態をさらすのでなければ、男性だけでなく女性にもけっこう受け入れられるもので、それも「美人」とか「カワイイ」ほどいい。つまり、エロティシズムが「きれい−わるい」の「美」であるのに対して、「きれい−よい」の「美」です。いやらしいポルノ的な「美」に対して、いやらしくない「美」だといってもよいかも知れません。そういうものに対しては難しい理屈を抜きにして「いいものは、いい」という原理(? ^^;)が働くために、男女を問わず受け入れられやすい「美」になりやすいんです。

 ただしこれは、必ずしも男性に対してセックスアピールがないという意味ではありません。ただ、ことさらにセックスアピールだけを強調したものではない、という意味です。

 先日発売された、「セクシュアリティをめぐって」という本(河野貴代美[編]・新水社)に、三橋順子さん「『性』を考える−トランスジェンダーの視点から−」という文を書かれていて、その中(32ページ)で、「意図的にリードさせてしまう」ことで社会に「ゆらぎ」を与える「リーク女装」について書かれています。

 余談ながら、三橋順子さんが提唱されたこの概念に「リーク」と名付けたのは私なのですが、実は私は、その後この本を読むまで、「リーク」のつづりが leak であることを知りませんでした(笑 ^^;)。

 三橋順子さんはその中で、「リーク女装」に対する一般男性の反応として、

強い愛着(ナンパされる、後を付けられる)か、激しい拒絶(希には「オカマ」と罵倒される)か、ともかくしばしば過剰反応を示します。

とご自分の経験を書かれた上で、続けてその理由について、

これは私のような女装者が、多くの男性の心に内在する男性性のゆらぎ・不安をかきたてるからではないかと思います。

と分析されています。確かにそういう場合もあると思いますし、この分析自体を否定するつもりはないのですが、私の考えでは、まず女装者の、女性としての身体性(ジェンダー記号)が男性に「異性」として働きかけ、惹きつける。それに対して、「いかん、いかん、あれは男なんだ」と必死で自分に言い聞かせてとどめようとする心が働くと、それが女装者に対する強い攻撃性になって表れる。「激しい拒絶」の大半は、具体的にはこういうパターンではないかと思うんです。

 その反面、「女性としての身体性」に引き付けられる力の方が勝ってしまうと、これはものすごい吸引力(笑)になります。私自身も、どんな魅力的な美人が歩いていても、私ほどナンパされたり、後を尾けられたり、痴漢に遭ったりはしないのではないかと思えるような時期があったんですけど(過去形なのが、ちょっとさびしい・・・ ^^;)、それはたぶん、「19.バリエーションとしての T's」でも触れたように、男性の心の中に、女性の美に対する侵犯の禁止があるためだと思います。

 女装者を相手の場合、相手が本当は男だと思うと、その「禁止」が手順を踏まずに一度に外れちゃう男性が多いんですね。新宿でお店にいると(お店にもよりますが ^^;)たまに見かけるんですけど、女性が飲みに来ていても、そこに居合わせた男性客は、言葉をかけることはあっても、まず手は出しません。ところが、その女の子とあらかじめ示し合わせた上で、男性客に「本当の女の子みたいでしょう」とかいって、その女の子を女装者やニューハーフだと思い込ませると、とたんにベタベタさわり始める。その変化のすごいこと(笑)。

 そこから考えると、女装者の持つ「美」というのは男性にとって、いわば、「女性の美に対する侵犯の禁止」に抵触しない「女性の美」という特異性があるように思います。また、一部の男性の女装者に対する「激しい拒絶」も、なまじ「吸引力」が強いために、それに対して通常の女性に対する場合よりも強い抵抗が必要になり、心理的に激しい葛藤が生じるためではないかと思います。

 女性の場合には(レズビアンの女性の場合にはどうなるのかよく判りませんが)、通常そのような反応を示す動機がありませんから、三橋順子さんも書かれている通り、男性の場合と比較すると反応が穏やかです。以前、20代の女性2人から、「もっと脚を出している写真、ないの?」といわれて「え?」と思ったことがあるんですけど、これも考えてみると、たぶん男性が女性を見るのとは意味が違っていて、私が脚を多めに露出した写真を見たからといって、その女の子達が性的に興奮するとは思えない(笑)。まぁ、中にはそういう趣味の女性もいるかも知れませんけれども(会ったことはありませんが)、お店にいても通常は、私と話していると落ち着くとか、面白い(^^;)とかいわれるのが、ほとんどですね。

 ですから一般論としていう限りでは、女性の場合には、エロティシズムではない「美」を持つ女装者や、関係性の上での「よい」を持つことの出来る相手としての女装者であれば、受け入れられやすいようです。

 ただ、女装者の場合には、エロティシズムではない「美」ということが難しい。たとえ本人にそのつもりがなくても(つまり「フェティシズム的服装倒錯症」でなくても)、女装者本人が、自分が女装することによってそこからエロティシズムを汲み上げているかのようなイメージを持たれやすくて、そこに女装者が抱える特有の「むずかしさ」があるのです。

 しかし、ここまで掘り下げてしまうと、その「特有のむずかしさ」という条件を別にすれば、これは女装者であってもなくても、誰であれ条件は同じなんです。要するに、通常の男女間、あるいは性別を抜きにして広い意味での人間関係の中で働く原理と、まったく同じものが女装者に関しても働いているのであって、その意味では女装者は(あるいは T's は)特別な存在でも何でもありません。掘り下げて見れば見るほど、「なんだ、当たり前の話じゃないか」という事になって行きます。

 これまで T's についていろいろ考えてみると、たいていは T's に限らない、人間全般の話にまでなってしまうのですが、この場合も同じ事で、結局は、「他人とよい関係を結ぶための条件は何か」という話になってしまうのです。

 ですから、これはどうしても普段が大事で、普段まともな人間関係の作れない人が、女装した時だけ社会に受け入れられるはずがない。例え、どんなに美人になって人目を引いても、それは一時的なもので終わってしまうのではないかと思います(書いてて耳が、いや、目が痛いケド・・・ ^^;)。


PREV INDEX NEXT
[前章] / [ジェンダー素描] / [インデックス] / [次章]