29.仏教と T's

神名龍子


 先日、仏教のある宗派の方が、性と宗教について考える席を持ったという話を複数の筋から聞いて、大変興味を引かれました。

 具体的にどこの宗派か判らないので(といっても、実はだいたいの察しはつくんだけど ^^;)、私は特に特定の宗派や経典との関連ではなく、とりあえず仏教全般ということで、仏教と T's について、私なりに考えてみることにします。ただし、私は仏教者ではないので、具体的には、私の考えを仏教に引き付けて言えばどういう事になるかという形で表わすことにしたいと思います。

 仏教にも様々な宗派がありまするが、その根本にあるのは悟りを開き、安心を得ることでしょう。もっとも、いきなりこう書いても判らない人もいるかも知れませんし、T's やその家族が相談に来たときに、「悟りを開きなさい」というのでは、あまりに不親切というものでしょう。

 私の理解では、この「悟り」とは、「自分を知る」という事だと思います。宗派によって「悟り」の概念が異なることはあるかも知れませんが、少なくとも「悟り」の要件の一つではあって、「自分を知る」ことなく「悟り」に至ることが出来ると説く宗派は、おそらくないのではないかと思います。「自分を知る」とは、「自分を見詰める」と言い換えてもよいでしょう。

 ところで、悟りを開いて安心を得るということは、苦しみがなくなるということかというと、どうもそういう事ではないようです。悟っても、怪我をすれば痛いし、病気になれば苦しいでしょうし、あるいは、煩悩もなくなりはしないと思います。男性が悟ったら女性に興味がなくなるというものでもないでしょう。ただ、自分の苦しみや欲望への対し方は変わるのだろうと思います。

 実例として、「フェティシズム的服装倒錯症」を挙げてみます。27.『女装』を改めて考えるでも触れましたが、

主に性的興奮を得るために異性の衣服を着用すること。
<診断ガイドライン>
この障害は、フェティシズムの対象となる物品や衣服を単に着用するというだけでなく、異性としての外観を作り出すために着用するという点で、単なるフェティシズムから区別される。通常一点以上のものを着用し、しばしばかつらや化粧品を加え完全な装いをする。フェティシズム的服装倒錯症は、性欲喚起と明らかに結びついていることと、いったんオルガズムが起こり性欲喚起が止めば、衣服を脱いでしまいたいという強い欲望が起こることによって、性転換願望症の服装倒錯とは区別される。フェティシズム的服装倒錯症の既往はふつう、以前の時期のものとして性転換願望者によって述べられるが、このような場合はおそらく性転換願望症の発展の一段階を示しているのであろう。

というのが、「フェティシズム的服装倒錯症」の定義とそれに付随する説明です。フェティシズムの一種ですから、これはつまり性欲の一形態です。フェティシズムというのは、定義上は無生物に対して(あるいは、無生物によって)欲情が起きるものなので、いわゆる「脚フェチ」などは、実はフェティシズムに含まれません。しかし、この定義から「無生物」という条件を外すと、一般の性欲との区別がなくなります。欲情の対象やきっかけには種類があっても、欲情のしくみそのものは同じなんです。つまり欲情の対象(もしくはきっかけ)が異なるだけで、それ以外は「正常」とされている性欲と何ら変わるものではありませんし、また人間は多かれ少なかれフェティシズム性を持っているものなのです。

 人間は多かれ少なかれフェティシズム性を持っているということは、それが「疾患」とみなされるかどうかは、程度によるということです。つまり、生活上で支障があるかどうかいうことですね。そもそも、何の支障もなければ病院に行って診断を受ける理由もないのですから、「フェティシズム的服装倒錯」(という性癖)を持っているとしても、「フェティシズム的服装倒錯症」(という疾患)として診断されることはないはずです。それは「疾患」ではなく、単なる「趣味」でしょう。

 これを仏教的にいえば、欲望そのものの存在は否定しないが、欲望にとらわれてはいけないということになるでしょうか。度が過ぎれば、飲酒だって賭け事だって「生活上の支障」が出ます。女装も同じ事で、度が過ぎて「生活上の支障」が出た場合には、女装そのものが悪いのではなく、「度が過ぎること」が悪いのです。これをきちんと区別することが必要なのであって、ほどほどに楽しんでいる場合でもなんでも「女装」そのものが悪いということにはなりません。

 もし「欲望」そのものを認めないとすれば、極端なことをいえば、人類は滅ぶ。種も個体も維持することが出来なくなるからです。したがって「食欲」も「性欲」もそれ自体は悪いものではありません。ただ、暴飲暴食をしたり、過度な美食に凝って贅沢を言ってみたり、淫に耽ったりすることに問題があるのです。

 「趣味」という観点からいえば、これは「両性役割服装倒錯症」、これは、

異性の一員であるという一時的な体験を享受するために、生活の一部で異性の服装を着用しているが、より永続的な性転換あるいはそれに関連する外科的な変化を欲することは決してないもの。本障害は、服装を交換するにさいして性的興奮をともなっておらず、フェティシズム的服装倒錯症(F 65.1)と区別されなければならない。

と定義されるものですが、これも同じ事ですね。少なくとも、「性自認」が身体の性と一致しているケースについては、「フェティシズム的服装倒錯症」「両性役割服装倒錯症」も同様の考え方が出来ると思います。

 ただ問題なのは、度が過ぎて生活上支障が出た場合にどう対処するのかという具体的な方法論が、おそらく(少なくとも私の知る限り)仏教にはないのではないかと思うんです。強いて言えば「折伏」とか「警策」(座禅で使う痛棒)になってしまう(^^;)。つまり「強制」や「押し付け」、あるいは「体罰」や「暴力」の問題との兼ね合いをどう付けるかということが問題になるわけですね。

 私なりの考えを言えば、「度が過ぎる」という点を矯正するために必要最小限は用いても構わないんじゃないかと思います。「必要最小限」というのはどういう事かというと、一つは、教え導くのに機を見て、出来る限り使わないで済ませるということです。そのためには導く側に「ためらい」があってはどうしようもありません。「ためらい」がないという事は「真剣」であるという事です。出来る限り使わないで済ませるのですが、必要ならば容赦はしないぞという覚悟は必要です。逆に言えば、その覚悟が出来ない人は、こういう手段を使うべきではありません。

 もう一つは、あくまでも「度が過ぎる」という点を矯正するためにしか用いないということです。例えば、「女装」そのものをやめさせようというのは行き過ぎで、これは上にも書いた通り、正当性がないと思うんです。正当性のない強制手段とは、まさに「暴力」でしかありません。


 次に、「性自認」が身体の性と異なるケースについてですが、これはまた別に考える必要があります。

 その前に、「自己同一性(アイデンティティ)」ということについて考えてみましょう。この言葉は使う人によって意味に幅があるようですが、おおまかにいえば、「自分が自分であることの拠りどころ」ということです。ですが、これはおそらく仏教でいう「無我」とは、かなり折り合いの悪い考え方だと思うんですね。

 私なりに考えると、仏教で「ありのままに見る」と教える以上は、自分についてもまた「ありのままに見る」なければならないはずです。では「見る」とは何かというと、私は「評価」あるいは「了解」だと思います。

 例えばいま私の机の上にマグカップがあるのですが、これは私にとって「コーヒーを飲むためのもの」です。しかしこれを5歳の子供に与えれば、その子にとっては、砂場で砂山を作るときに使う「砂を集めるのに手ごろな器」になるかも知れません。私やその子がマグカップをどのように評価するか、言い換えればそのマグカップは私やその子供にとってどのように了解されるかということですね。表われ方といってもいいでしょう。同じ1個のマグカップなのに、私に対してと子供に対してでは、マグカップの表われ方が異なるわけです。どちらか一方の表われ方が「真実」であるわけでもなく、また両方の表われ方が共に虚妄であって別にどこかに「マグカップの真実」があるわけでもありません。では、マグカップは「ない」のかといえば、やはり「ある」のです。

 では、私についてはどうかというと、こうして何かを考えながら文章を書いている私と、昼間の仕事中の私とでは、「私」にとっての表われ方が異なります。では「文章を書いている私」や「仕事中の私」がウソの私で、両者の表われ方が異なるということを見る「私」が本当の私かというと、これも怪しいですね。なぜなら、表われるということは評価することでもありますから、今日の「私」と明日の「私」とでは評価の基準が異なるかも知れません。「私」が明日見るもの、体験することによって、いくらかでも評価の基準が違ってしまえば、明日の「私」は既に今日の「私」ではないのです。これを1時間前の「私」と今の「私」とか、1秒前の「私」と今の「私」と、もっと細かく分けて考えれば、一瞬ごとにそれまでの私はなくなって新しい私が生じているわけです。

 ならば、今現在の「私」が昨日の「私」と同じだと考える(評価する)のは、私が自分自身に対して固定観念を持っているということではないでしょうか。固定観念を持ってものを見るのでは、「ありのままに見る」事にはなりませんね。

 上のマグカップの例でいうと、コーヒーを飲んでいるときの私にとって、そのマグカップが「コーヒーを飲むためのもの」であることは虚妄ではありません。しかし、そのマグカップがコーヒーを飲む以外の用途がないものであると考えたら、つまり「コーヒーを飲むためのもの」という評価が固定観念になったら、これはおかしい。もしかしたら1分後には同じ(?)私が、カラになったマグカップをメモ用紙の押えとして使うかも知れません。それはつまり私のマグカップへの評価が「コーヒーを飲むためのもの」から「適度な大きさと重さを兼ね備え、メモ用紙の押さえに適したもの」になるということです。

 こう考えると、「無我」とは、「『私』についての固定観念を持ちなさんな」という事ではないかと思います。もっと簡単に言えば「自分を決め付けるな」と。

 さらに考えると、「コーヒーを飲みたい『私』」にはマグカップが「コーヒーを飲むためのもの」として表われ、「メモ用紙が散らばらないようにしたい『私』」には同じマグカップが「メモ用紙を押さえるためのもの」として表れるわけですから、「私」が何であるかが変われば世界が変わるわけです。同時に、世界が変われば「私」も変わります。

 また「私」は生まれてから死ぬまでずっと「コーヒーを飲みたい『私』」ではいられません。「私」を固定しようと思っても固定することは出来ないのです。そして人間とは、実は固定されたくない存在なのです。それにも関わらず「私」に対しての固定観念を持てば、「固定できない『私』」との間に矛盾を起こします。また何かの事情で「私」が固定されてしまえば、それは退屈や閉塞感、あるいは焦燥感といった、苦痛や不安を引き起こします。

 しかしその一方で、誰にも「安定した『私』」を望む気持ちがあることもまた事実で、これはなぜかというと、ある程度は「評価」の基準が定まらないと、生きることが出来ないからだと思います。自分が何者であるかが判らず、目の前のある物が何か判らないのでは、やはり現実問題として困るわけです。

 ですから、人間というのは完全に固定化することは出来ず、また固定化されれば苦痛すら感じるにもかかわらず、自分を固定化したいという気持ちも持っている厄介な存在なんですね。

 そのどちらか一方をなくすことは不可能ですから、結局はバランスの問題というか、「変化」の程度問題になります。つまり価値観(評価基準)を徐々に編み変える存在ではあるけれども、あまり大きな変化とか、極端な話、崩壊してしまうのは困るということですね。

 また「自己同一性」という概念も、たとえ直観的にせよ、自分を完全に固定化することは不可能だということが判っているからこそ出てくるのでしょう。「私」が常に変化する存在であるからこそ、「私」が「私」である拠りどころを求める気持ちも生じるわけです(といっても、毎日「私」をありのままに見たら、昨日と同じ部分もあり、変化している部分もあり、何から何まで100%変わって別人になっているということは実際問題としてはありえないと思うんですけどね)。

 しかし、変わらないものを求めるといっても、そもそも「私」の中に変わらないものが果たしてあるのか、もしあるとしてそれをどのように証明するのかという問題があります。その証明が不可能であれば、そもそも「自己同一性」といういうものを本当に求めることが出来るのかというところから始めなくてはなりません。

 内面(精神)は目に見えず、変わったか変わらないかの判断は結局は「評価」の問題になります。しかし評価の基準が変化するものである以上、精神に不変を求めることは初めから矛盾を含んでいます。では身体はどうかというと、これも成長とか、あるいは怪我や病気といった変化をするものですね。

 そんな中で性別というのは従来、数少ない「変わらないもの」(変えようがないもの)であったために、かなり根本的な「私」の根拠として扱われてきました。正確に言えば、これは「私」に限りませんね。他の人を見る場合にも、まず「男」か「女」かを見る。人間は誰かと会うと直観的に、場合によってはどこをどう判断したのか自分でも説明できないくらい無意識の内に、しかもかなり正確に相手が男であるか女であるかを判断しますね。まれに「男か女か判らない」人と出会うと落ち着かない。これは必ずしも意識されていませんが、性別というのはむしろそれくらい「ヒトの見方」の根本的な「基準」なんです。

 ですから、「私」が身体は男であるのに「性自認」が「女」である場合、この「性自認」というのは「私」についての固定観念ではあるのですが、「私」が自分について評価する、その根本レベルの価値基準であるがゆえに、改めることが非常に難しいものですね。しかし、それを両親が認めないというのも理由は同じなんです。自分の子供は「男」だという認識が評価基準となっているために、やはり改めにくい。

 ですから、本人が「性自認」を改めないことと、両親が自分の子供の「性別」の認識を改めないこととは、どちらを責めても無駄です。この場合、どちらかがどちらかを責めるということは、自分が持っている認識の押し付けでしかありません。あるいは、互いに押し付け合いになっている例も多いと思います。ここで大切なのは、相手が自分と同じ理由で苦しんでいるということを、お互いが理解し合うことであって、自分が持っている認識に固執して押し付け合うことではありません。

 「慈悲」という言葉があります。「慈」は元々は親の子に対する愛情の意味で、いつくしむ心、「悲」とはあわれみやなさけの意味ですが、ここで強調しておきたいのは「悲」の方です。形は違ってもお互いが同じ理由で同じような苦しみにとらわれているならば、お互いに相手の苦しみを理解できるのではないか、それが「悲」の心ではないかということです。「悲」の心が起きないようなら、あるいは自分だけのことを考えて争い(自分が持っている認識の押し付け合い)をするくらいならば、いっそそんな形だけの親子であることなどやめてしまえといいたいのです。そんな親子は、たとえ血はつながっていても、何の縁もない。しかし、もし世間体とかそんな理由だけでなしに「親子でいたい」という気持ちが共にあるならば、まだ間に合うかも知れません。

 意見の対立を解決したいと思う気持ちは、相手との関係を保ちたいと思うことから起こるもので、もし相手との関係が切れてしまっても構わないと思うのであれば、関係のない相手がどんな意見の持ち主であろうと、どうでもよいことなんです。ただ、相手との関係を続けるか、それとも関係を絶ってしまうかという選択が自由に出来るのでしたら、これは単純に二者択一の問題なんですが、相手との関係を絶ってしまうことが出来ない事情があるときは、とても辛いんですね。

 というのは血縁、つまりこの話でいうと「親子」であるという事は、「性別」と同様に変わらないものと思われていて、やはりお互いに相手を認識する場合の「評価」の基礎的な基準になっているものです。ですから、親子の間でこういう問題が起きて、それを解決できないと、これは最終的には、「変わらないもの」と思われている「親子」という関係を絶つか、それともやはり「変わらないもの」と思われている「性別」についての認識をどちらかが変えるか、どちらにしても、何らかの「基礎的な評価基準」の変更を迫られることになります。だから大変な悩みになるんですね。

 実際には、親子関係が絶えるか、あるいは親が「慈」を発揮して折れるかという例がほとんどだと思います。後者の場合ならば、親の「慈」を子(当事者)が「悲」の心で受け止める事が出来るならば、逆に親子関係は一層強固なものになる可能性が残りますが、前者ならば両者の関係が修復不可能になることも多いだろうと思います。


 さて、では「性別」や「血縁」とは本当に変わらないものかというと、実は必ずしもそうではありません。これはあくまでも文化的な規定であって、つまり一種の価値観(評価基準)なんです。身体の性別は確かに手術でもしなければ変わりませんし、文化的な規定とは違います。ですが、例えば「男らしさ」や「女らしさ」などは文化によって異なるわけです。

 しかし、これだけでは単なる相対主義ですね。仏教の場合にも、物事を相対化して見るという面は非常に強いとは思うのですが、仏教は相対主義やニヒリズムとは違います。仏教の教えというのは、いわば往復切符ばかりで、片道切符がありません。相対主義という「行きっぱなし」は現実逃避と同じ事ですが、しかし生きている限りは、「逃げろ、逃げろ」といったって、「釈迦の手のひらの上の孫悟空」で結局は逃げられません。ですから仏教では、般若心経でも「色即是空」だけではニヒリズムになってしまいますが、すぐに「空即是色」と帰ってきます。浄土教などは私は極楽に行くことが最終目的かと思っていたら、あれもちゃんと往相と還相というのがあるんですね。行ったら帰ってこないと、現実の世界を生きることが出来ません。それが「回向」ですね。おそらくどの宗派を見ても、仏教の思想は相対主義を突き抜けたところにあるのだと思います。

 この「もどる」ということは、決して元の木阿弥になる意味ではなくて、例えば他の人と同じ評価基準を持っていても、それを固定化しないということだと思います。先入観や固定観念から離れて融通無碍になることは、決して価値観を無化したり価値観を持たないというのとは違います。何も評価しないというのは、生きている人間の心の働きではありません。逆に、本当に生き生きと自在に動けることが「生きる」事であって、そもそも仏教は生きている人間のためにあります。

 固定観念があると、目の前にあるものが見えなくなります。いま目の前にあるものが見えないと、「いま」を生きていることにならないという事だと思います。例えば私の目の前にカレーが一皿置かれたとして、そのカレーの味をあれこれと想像してみても、それは私が過去に食べたカレーの味から判断しているだけで、目の前のカレーの味は判りません。ですから、過去に食べたカレーの味(先入観や固定観念)にとらわれずに、いま目の前にあるカレーを味わえばよいのです。先入観や固定観念がなくても、いま目の前にあるカレーを食べれば、それが美味しいかどうかの評価は出来るわけですね。それが「いま」を生きるということでしょう。

 人間もカレーと同じですね(笑)。自分の性別が変わったら、自分にとっての世界も変わるのは当然のことです。過去の世界や存在しない理想世界を思い浮かべても何にもなりません。「いま」目の前に広がっているのがどんな世界であれ、「いま」自分に対して表れた世界を生きるより他に、どの世界を「いま」生きることが出来るというのでしょうか。また同じように、自分の家族や友人の性別が変わったら、「いま」目の前にいるその人を見ればよく、他にその人がいるということはありえません。

L.Jin-na


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