神名龍子
ものの考え方には二種類あって、一つは、何かしら明確な前提を「事実」として固定して置く方法。これは宗教が代表的なもので、そこから認識と行動の指針を導くから整合性はあります。整合性はあるけれども、現実には合わないことがあります。
もう一つは、方法論的にある前提もしくは考え方から始める方法で、方法的懐疑論から始めたデカルトとか、方法的独我論から始まる現象学のようなものになります。デカルトの場合、方法的懐疑論から始まって、しかしどうしても疑い得ないものがあるではないかと考えた。それが、あの有名な「我思う、ゆえに我あり」です。だから、懐疑論から始めているけれども(方法的懐疑論)、デカルトの思想そのものは懐疑論ではありません。
「ジェンダーフリー派」 T's の人達の発言から判断すると、「ジェンダーフリー社会」の対語は「性二分制社会」のようです。その中のお一人の説明では、「性二分制社会」というのは、男か、女かということを第一義とするのが当然なものとして組み立てられた社会システムであり、「ジェンダーフリー社会」とは、反対に性別を第一義としない社会システムということですから、これは対語とみなしてもよいと思います。
私の「ジェンダーフリー」の見方では、まず現状が「性二分制社会」であるという前提を置き、そこからスタートして、いかに「ジェンダーフリー」を実現するかを説いているように見えます。つまり上でいうと、前者の考え方ですね。もちろん現代では、キリスト教の「神」のごとくに、現状は「性二分制社会」であるとだけいって済ませるわけにはいきません。だから一応は、現在の社会が「性二分制社会」であるとするための説明がある。そのため、これは一見すると、前者の考え方ではないように見えます。
しかし、その説明というのは、要するに「現状は性二分制社会である」という結論が先に用意されていて、その結論から理由が導かれているように思います。つまり、理由と結論が逆なんです。
なぜ私がそう思うかというと、そこでは「現状は性二分制社会ではない」という結論が出そうな現実は無視されるからです。例えば、共学校に入学した最初から、男子、もしくは女子だけにハンディとして単位が与えられるということはない。また、男女がそれぞれ会社を作ったとして、どちらか片方が優遇されるということもない。そういう事実は、ジェンダーフリーの主張の中では無視されています。
しかし私の考えでは、そもそも「社会」というものをひとまとめに考えて、それが「性二分制社会」がどうか、という問いの立て方をするのがおかしい。素直に考えれば、現代の日本社会の中には、「性二分制」をとっている部分と、そうでない部分がある。社会全体としては「性二分制社会」でも、「ジェンダーフリー社会」でもなく、その中に両方の制度を併せ持っていると見るべきでしょう。
「性二分制」をとっている部分だけを例にすれば、現代日本社会全体が「性二分制社会」であるかのように言える。逆に、「性二分制」をとっていない部分だけを例にすれば、「性二分制社会」ではないという主張も出来る。しかし、これはどちらもおかしいわけです。どちらも片面だけを見て、それを全体だと言いくるめようとする言い方だからです。いわば、「地球全体が夜だ」とか、「いや、昼だ」と言い合いをしているようなものですね。だから、社会全体が「性二分制社会」か「ジェンダーフリー社会」かという見方をする限り、これは水掛け論になるしかありません。
私の考えでは「ジェンダーフリー社会」、つまり、「性差を第一義的認識としない、男か女か以前に人間であるということが第一義的認識になる社会」というのは、無理がある。「社会」の中には、性差を第一義的認識としても構わない場面もあれば、性差を第一義的認識とすべきではない場面もあって、その区別を立てることが、まず必要だと思います。
それから、セックスとジェンダーは別の次元であり、これは、「セックスが男なんだから、ジェンダーも男であるべき。だから女装する奴は変態」という論法への反論として必要だという意見がありました。確かに、「セックスが男なんだから、ジェンダーも男であるべき。だから女装する奴は変態」という意見に対する反論を、私達 T's は必要としています。それは事実ですね。だけど、それが「ジェンダーフリー」である必要があるのかどうかは、また別問題です。
そこで一つの考え方として、まず、「セックスが男なんだから、ジェンダーも男であるべき」という意見に対して、「セックスに関係なく、ジェンダーを自由に選べる社会であるべきだ」という主張を立ててみます。しかし、これは絶対に実現しない。なぜかというと、「セックスに関係なく自由に選べるもの」は「ジェンダー」とは呼ばないからです。
具体的に考えてみましょう。例えば自動車を買う場合に、ニッサンを買うかトヨタを買うかというのは、性別には関係がありません。「私は女だからニッサンを買うわ」とか、「オレは男だからトヨタを買う」という人は、まずいない。つまり、ニッサンの車に乗っているとか、トヨタの車に乗っているというのは、現在の日本の社会ではジェンダーとしては機能していないわけです(ただし、バイクでいうと、カワサキに限っては多少そういうイメージが残っているかも知れませんが・・・)。
性別に関係なくスカートでもズボンでもはくことの出来る社会になったとしましょう。そうすると、その社会では、もはやスカートやズボンは、上のニッサンやトヨタと同様、やはりジェンダーとしては機能しないわけです。したがって、そういうものを T's が問題にすることもない。あらゆるもの(こと)が、性別に無関係になると、T's がこだわりを持つもの(こと)が存在しなくなります。しかし、これは問題の「解決」ではなく、問題の「解体」ですね。そういう社会は、ジェンダーが解体された社会であり、T's も存在しなくなる。
もっとも、「解決」であれ「解体」であれ、それで本当に不都合がなくなるのでしたらよいのですが、そうはいきません。ジェンダーというのは、一つの「制度」であると同時に、「価値の秩序」の基準でもあるからです。その中身が現在の「ジェンダー」の在り方である必然性は、見方によっては確かにないかも知れません。しかし、それがただちに、いかなる制度や価値基準も必要としないことになるわけではありません。弱肉強食の世の中(それは「社会」とは呼べないだろう)を望むのなら別ですが。
フェミニズムなどに見られる、「ジェンダーは恣意的なものであって、セックスと必然的に結びつくものではない」という意見もそうですが、これらの見方は、おそらく構造主義から来ているものではないかと思います。ですが、私の考えではそこに一つの問題というか、落とし穴があるように思います。
それについて書く前に、冒頭に挙げたのとは別の観点から、ものの見方(考え方)について書いておきます。
ものの見方には、大雑把に言うと「構造」を見る方法と「機能」を見る方法があります。例えば、人体の構造を見るのが解剖学であり、人体の機能を見ると生理学になります。しかし、構造的な人体と機能的人体という、二種類の人体が存在するわけではなく、これは同じ「人体」に対しての、人間のものの見方の都合で観念的に別れているに過ぎません。
また、構造が主で機能が従とか、その逆というのでもありません。確かに、構造がきちんとしていなければ機能は現れません。これはバイクをでたらめに組み立ててみれば、誰にでも判ります。いい加減に組み立てたバイクは、走らないからです。しかし、見方を逆にすれば、構造というのは機能のためにあるともいえます。ガラクタを適当に組み合わせたら、たまたまバイクが出来た・・・というわけではない。目的(機能)を果たすのに必要な構造が工夫されて、バイクならバイクというものが発明されたのです。
構造が先か機能が先かと考えれば、これはニワトリが先かタマゴが先かという問題と、同じように見える。しかし、それは「機能」を何か実体のあるもののように思うところから生じる勘違いです。ニワトリとタマゴどちらも実体として存在するのに対して、構造は見たり触れたりする事が出来ても、機能を手に取ることは出来ません。機能を何か実体のように勘違いすると、例えば身心二元論や、霊魂の存在という話になります。
「心」というのは、身体の一部である脳の機能の、そのまた一部であるに過ぎません。だから本当は、「身体」と「心」とを「身心」という形で同格に扱うのは不適当で、これは「心」が「心」を特別視している、一種の「心」のエゴではないかという気もします。
また、人が死ぬと死体が残ります。死体とは生命活動という「機能」が失われた「構造」そのものです。では「機能」はどこに行った? そう考えると「霊魂」というものを考えるより他にしかたがない。だけど、バイクやパソコンが壊れたときに、「機能」はどこに行った、と考える人はいないでしょう。まして、バイクやパソコンから「霊魂」が出ていって「あの世」に行ったとは考えないはずです。要するに「霊魂」とは人体の「機能」(生命活動)を、モノ化して考えたところから生じた概念であって、勘違いの産物に過ぎません。
では、同じもの(こと)に対して、「構造」と「機能」という二つの異なった見方がなぜ生じるのか。これは、言語に視覚言語と音声言語があるのに似ています。つまり人間が持つ知覚の内、視覚に依存する言語と聴覚に依存する言語ですね。味覚や嗅覚に依存する言語というのは、ちょっとありそうにない。ですから、人間がものを考えるのに言語を使用しているとすれば、それは味覚や嗅覚と比べて、視覚や聴覚と非常に近い関係にあるといえます。
視覚というのは、普通は私達は動くものを見ていますからあまり自覚しませんけれども、「時間の経過」はなくてもいいんです。だから映画ではなく、動かない写真とか絵画というものがある。あるいは動かない絵や写真をたくさん見ることで、擬似的に動いて見えるように感じてしまう。アニメーションや映画、テレビというのは、そういうものですね。しかし、空間を無視することは出来ません。例えばコンピューターグラフィックというのは、様々な色の点の集まりです。それを一枚の「絵」としてみているわけで、この点の位置関係をランダムに変更してしまえば、元の絵と同じに見ることは出来ません。
それに対して、聴覚というのは時間の経過を無視すると成り立たないものです。ある音楽を聞く場合に、音符の前後をランダムに入れ替えてしまうと別のメロディになってしまいますね。これは音符の上では空間的な入れ替えですが、実際の演奏に当たっては、どの音から順番に演奏するかという、時間の前後関係の入れ替えです。「ドレミファソラシド」と「ドシラソファミレド」が同じに聞こえるという人は、たぶんいない。それから知覚系に対して運動系というのがありますけれども、この運動(身体運動)というのも典型的な「機能」ですね。運動というのも時間の経過を無視しては成り立たないもので、運動の中からある一瞬を切り取ると、それは運動ではなく、ポーズとかフォームと呼ばれるものになってしまいます。
「構造」というのは、時間の経過を無視した唯空間的な見方です。人体の骨格図や設計図がよい例で、そこには時間の概念はありません。ある一瞬を切り取って図示したのが、骨格図や設計図です。
一方、「機能」というのは時間の経過を無視しては成り立たないものです。例えばエンジンの回転数や脈拍を、ある一瞬だけ捉えることは不可能で、これらは1分間あたりの回転数・回数として記録される。あるいは交流の電圧のように、時間を軸とするグラフで示される。第一、ある一瞬だけを捉えると、交流と直流の区別さえ不可能になる。「機能」とは、空間という概念を排した唯時間的な見方なのです。
この事から、レヴィ=ストロースの構造主義が時間の経過を無視した共時的な見方であることも理解できます。というよりも、時間の経過を無視するからこそ、「構造」主義なのです。「機能」をも併せて見ようとするならば、通時的な見方が必要になります。前述のように「機能」とは通時的なものだからです。
その意味からすると、レヴィ=ストロースが無視した歴史(時間の経過)を構造主義に取り戻したのが、ミシェル・フーコーですね。だから、彼は「ポスト構造主義」の一人だといわれていますけれども、実は「構造・機能主義」と呼ぶべきではないかと思います。少なくとも私には、彼の「私は構造主義者ではない」という言葉は理解できるような気がします。
もっとも、レヴィ=ストロースも「機能」というものをまったく無視したわけではありません。例えば親族構造がある象徴機能を持っているとか、そういう事は考えているわけです。ただ、それが実際にどのようにして構成されて来たのかという歴史的な視点がない。ですからその象徴機能は、ある時点でのある社会の中でどのように機能しているかという話であって、そこを無視すると、「別に他の制度だっていいじゃないか」という話が出てくる。しかし、それは世界中に、民族によって、あるいは時代によって様々な制度が存在することの説明にはなりますけれども、例えばなぜ幕藩体制が崩れて明治維新が起きたのかというようなことは説明できないわけです。
このように「構造」と「機能」というのは、それぞれ「視覚系」と「聴覚=運動系」に対応しています。私が「構造」だけで納得できないのは、もしかしたら音痴ながらも、武術という運動系出身の人間だからかも知れません。当然の事ながら、「機能」を無視しては武術は成り立ちません。だから、武術の世界では学問の世界と違って、柳生宗矩の「兵法家伝書」や宮本武蔵の「五輪書」を丸暗記しても、誰も偉いと思ってはくれません。実際に剣を手にしてどれだけ使えるかが問題なのです。
ジェンダーという「価値の秩序」の基準はなくならない、というところへ話を戻しましょう。
「ジェンダーは恣意的なものであって、セックスと必然的に結びつくものではない」というのは、ある意味では事実です。正確に言うと、「今現在のジェンダーの具体的な在り方や内容は、セックスと必然的な結びつきはない」ということですね。人間には、他の動物に見られるような、変更不可能な「本能的行動」というのはほとんどありません。いわば「機能」的にそれに代わるものとして、さまざまな文化様式があるわけです。
これは岸田秀氏の唯幻論を見ると判りやすいですね。ヒトは本能が壊れた動物である。それが生きて行くためには、本能に代わるものとして幻想が必要である。そういうものです。ここでいう「幻想」というのは、私がよく書いている「ルール」と言い換えてもいいでしょう。要するに共時的に見れば恣意的なもの、幻想のごときものであって、必然性を持ちません。だから本能と違って編み替えが可能です。
その「ルール」を広い意味に取れば、まず個々人が持っているルールがあります。社会のルールというのは、その共通部分を汲み上げたものと、個々人が各自のルールに従って行動した場合に起こる利害の衝突の調停のために設けられたものとに分類する事が出来ると思います。
しかし、本能はともかくとして、脳の性差等、様々なレベルの身体的な性差から来る「傾向」のようなものは存在するわけです。それが例えば、男女の非対称性となって現れる。これは別に、性愛の場面に限るものではありません。
例えば、幼稚園児や小学校に入ったばかりの子供に自由に絵を描かせると、男の子は電車や飛行機などを好んで描き、しかもその中に人間が描かれていない絵が多く、女の子は地面があって花や木、太陽と雲など、草原のような場所に女の子が立っているという絵が多いそうです。面白い事にこれは世界各国共通だそうです。その他にも、女の子の場合には情操面での感受性や表現が強いようですね。
もちろん、これらの傾向が、まったく先天的なものでないことは疑い得ない。例えば、飛行機や電車を知らない世界の男の子が、飛行機や電車を描くはずがないからです。しかし、そういう世界から男の子を日本に連れて来て、幼稚園や小学校に入れれば、日本人の子供と同じ事をするでしょう。もちろん日本人の子供だって、江戸時代の男の子が飛行機や電車を描くはずはない。
女の子が人形遊びをするかどうかも、その世界に女の子が好みそうな人形が存在するかどうかにかかっています。バービー人形を好む女の子が、遮光器土偶も同じように可愛がるとは限らないからです。つまり、ジェンダーが構成される過程の一端は、女の子の好みそうな人形を作り出す事を可能にする「文化」や「技術」を、いかに社会が備えて来たかという歴史的な視点の問題として扱うことが可能です。
これを端的に言えば、以下のようなことになるでしょう。
簡単に言えば「男らしさ」というのは、社会運動などなくても、とっくの昔から時代と共に変化しているんです。例えば平安時代の「美男・美女」が現代でも「もてる」かといったら、かなり難しい。それは百人一首の絵札を見れば、たいていの人はそう思うはずです。そんなに長いスパンでなくても、ここ数十年の間での変化だけを見ても同じ事がいえると思います。数十年前の映画俳優(男優)というのは、「優(やさ)男」が多かったんですね。そんな時代に黒沢明が、いわば飢えた狼のような顔をした三船敏郎を起用したのは、ひとつの賭けだったと思います。それから、グループサウンズなんかで優男が復権して、今はいろんなタイプの「二枚目」がいる。これはジェンダーの中でも、かなり変化が激しく、また多様化している例だと思います。
その一方で、なかなか代わらない部分も、確かにある事はある。だから、「ジェンダー」という形で「一山いくら」で扱うのは、本当はかなり無理があると思うんです。私の感覚では、ジェンダーの解放を叫んでいる人ほど、実はジェンダーを共時的、固定的に見ていると思う。その理由の一つは、ジェンダーの「なかなか代わらない部分」だけに注目して、自分が不自由を感じていない、「変化するジェンダー」という部分を見落としていることにあると思います。そのために、ジェンダーの内、どういうものが変化し、どういうものが変化しにくいのかという視点がない。これが二つ目の理由です。
ジェンダーというのも、上に書いたように一種の「ルール」ですから編み替えが可能ですし、事実これまでに無数の編み替えがなされてきているわけです。私の見方では、そのほとんどは、社会運動などによるものではありません。ジェンダーの編み替えの可否は、いかに新しいエロスを提示できるかにかかっていると思うんです。
それまでになかったもの、それまでは否とされていたものでも、何かのきっかけで「これもいいじゃないか」と評価されることがある。この場合の「いい」というのは、人権上の理由だとか、そんなものではなくて、それまで思いもよらなかったものが、新たにエロスを汲み上げる対象として評価されるということです。それはもちろん性的なものに限らなくて、ジェンダー以外の分野でも、例えば美術の世界でいえば抽象画だとか、音楽でいえばロックだとかは、そういう形で市民権を得ているわけです。最近では、T's の注目も集めるSHAZNAのIZAM(この方面は疎いんですけど、綴りは合ってるかしら? ^^;)もそうですね。そのエロスというのは、「きれい」に限らなくて「よい」でもいいんですけど、「きれい」というのは見た目にすぐに判断できるので、即効性という面で有利ですね。
一方、「性二分制社会は間違っている」とか「あなたも加害者だ」みたいなことをいわれて、そこからエロスを受け取れるかといったら、これは非常に難しい。ごく一部の人がその主張に「ほんとう」を感じる以外には、誰も魅力を感じないと思います。つまり、ジェンダーという「ルール」の編み替えをしようとか、しないまでも編み替えを認めようという動機を、大半の人は持たないでしょう。
もう一つ問題なのは、ジェンダーを共時的、固定的に見ているのは、そういう主張をしている人達だけではなく、世の中の大半の人も同じだという事ですね。そして、そういう見方をしていること自体は、私はそれが悪いことだとか間違っているというつもりはないんです。少なくとも、ジェンダーという「ルール」を編み替えようという動機を持たない人については、それが当たり前の見方だと思います。
ただ、それはそれとして、固定化の程度の問題があると思うんです。ジェンダーに例外を認めないというガチガチの固定化は困る。これは逆に、一部のフェミニズムなんかにもありますね。
専業主婦を望んでいる女性を非難したり、非難までいかないまでも、「あなたがそう希望しているのは、本当の貴方の考えではなくて、そう思い込まされているんだ」という言い方をする。フェミニズムだって本来は「一人ひとりが自分の思うように生きられるようにしたい」という思想だったと思うんですけど、それが「一人ひとりが自分の思うように生きる」事よりも、「フェミニズムの思想に沿って生きる」を最優先に置きかえる人がいる。ジェンダーフリーを主張する T's の中にも、これと似たような事をいう人がいるんですけど、これはやっぱりおかしいと思うんです。
「一人ひとりが自分の思うように生きられるようにする」というのは、選択肢を増やす、選択肢の幅を広げるということだと思います。しかし、上のような「おかしさ」というのは、新しい選択肢を提示する一方で、従来の選択肢を「間違い」として閉ざしている。これは、「これまで善であったものは悪であり、これまで悪であったものは善である」という、価値観の顛倒ですね。その「顛倒した価値観」を固定化してしまっていて、自分の持つ価値観に沿った生き方を他人に対して強要している。つまり価値観の中身が違うだけで、自分達が非難している相手と同じ事をやっているわけです。
そうすると、自立している女性は「進んでいる」とか、死語になりましたけど「翔んでる女」とか、そういう言い方が出てくる。そういう生き方が、専業主婦よりも「よい」という価値観は、自分の生き方を決める上では持っていても構わないけど、それを一般化して他人を見下す権利をどこから引っ張り出して来たのだろうと思います。これはけっきょく、「ジェンダー」の中身が違うだけで、「ジェンダーの固定化」をしていることに変わりありません。これでは、どうしようもない。
これに対して私が考えているのは、従来のジェンダーそのものは基本的に残しつつ(自然に変化するのは構わない)、例外に対してどこまで寛容になれるかということです。
従来の(現在の)ジェンダーというのは、それなりの経過があって出来たものだから、それを根底からなくそうとか、根本から変えようというのは、無理がある。第一、大半の人達にはそんな動機はないわけです。またジェンダーというのは決してなくならない。仮になくしたとしても、それに代わるものが出てきて、けっきょくは中身が変わるだけで、ジェンダーそのものがなくなるということは有り得ない。
それから、前半部分で示したように、「セックスに関係なく、ジェンダーを自由に選べる社会であるべきだ」というのは背理であり不可能です。「セックスに関係なく自由に選べるもの」は「ジェンダー」とは呼ばないからですね。
ですから、いわば T's というのは、従来の(現在の)ジェンダーそのままに生きている人達がいて初めて存在する「例外的存在」なんです。ステロタイプの存在なしには例外も存在しません。
ジェンダーというのは、一般的に見られる性的傾向から汲み上げられて出来た「ルール」です。しかし細かく見れば、男性にも女性にも個人差がある。「ルール」の例外を認めないというのは、その個人差を無視するという事ですね。しかし、ジェンダーという社会的ルールが、それぞれの時代の個人の「ルール」の共通部分を汲み上げて編み上げられたものであるならば、個人を無視するほどに「ルール」を優先するというのは本末転倒であって、これは行き過ぎです。
反対に、「ルール」の存在を無視してすべてを個人差に還元しようというのは、これは「ルール」の存在そのものを認めないという意味で、はっきり暴論です。しかもジェンダーの解体が不可能である以上は、実現不可能なものですね。
両者は、正反対の意見のようでありながら、実は T's が例外的存在として存続できる可能性を否定しているという点で共通しています。ただ、前者は T's という例外の存在を認めない、後者は T's が「例外」にならないように「ルール」をなくしてしまえということで、具体的な方法論が異なっているに過ぎません。
しかし、ジェンダーという「ルール」は、同じ「ルール」でも法律のように厳密なものではありませんし、不断に編み替わっているものですから、例外を認めないというのは原理的に無理です。また例外が生じたからといって、必ずしも他人に迷惑がかかるわけではありません。例えば、お人形が好きな男性がいても誰も迷惑しない。そういう例外は認めてもよいのではないかと思います。これはまぁ、認めるということの内容にもよるもので、そういう男性を見て近寄りたくないと思う人がいても仕方がないと思います。だけど、そういう人を見かけたら石をぶつけるとか、そういうのは困るわけですね。もちろん例外であることと、特権を持つこととは違いますから、その区別はきちんとつける必要があります。
それから、T's 全員を平等に扱う必要もない。誤解のないようにいっておきますが、いわゆる「法の下における平等」として定められている社会的なものは別です。それは T's であるか否かに関わらず守られなくてはならない。同じく成人の T's なのに、お酒を飲んでつかまる人とつかまらない人がいるというのは困ります。ですが、個人的な付き合いの上で、例えばある女性から見て、「Aという MTF とは一緒にお風呂に入ってもよい(安心だ)と思うけれども、Bという MTF とは嫌だ」とか、そういうことです。こういう場合に、「同じ MTF なんだから平等に扱え」といわれたら、たまったものではないでしょう。それは「平等」の使い方を間違えていると思う。
ですから、これは私達の社会が「ジェンダー」をどの程度寛容な「ルール」として持つ事が出来るかという問題です。まったく例外を認めないとか、逆に「ルール」そのものをなくしてしまえというわけにはいかない。
それを T's の立場からいえば、その寛容さは今よりももう少し広がって欲しいわけです。これは言い換えれば、そういう方向にジェンダーという「ルール」が編み替わって欲しいということですね。そして、その編み替えの原動力の中心になるのは、政治的運動ではなく、実はエロス(快、ほんとう、よい、きれい)にその鍵があるのです。
