神名龍子
この「ジェンダー素描」では、T's の問題をあつかっています。この T's の中には、もちろん私自身も含まれます。ですから、ここで扱っていることは私にとって、自分の問題でもあります。ここしばらく、「その『自分』とは何か」ということを考えていました。今回は、まず「自分」というものを考えた上で、性自認の問題を扱ってみたいと思います。
まず、「自分」とは何か。これは人によっていろいろな答えがあると思います。私のこの身体が「自分」だとか、私の心が「自分」だとか、あるいは、自我とか自己同一性(アイデンティティ)という概念を持ち出す人もいるでしょう。ですが、私達は普段、どういう意味で「自分」あるいは「私」という言葉を使っているのでしょうか。
今、「私」はパソコンに向かってこの文を書いています。ですから今ここにいるのは、「文を書いている『私』」です。脇にコーヒーがいれてあって、「文を書いている『私』」は、同時に「コーヒーを飲みたい『私』」でもある。つまり、「この瞬間に文を書きつつ、次の瞬間にコーヒーを飲もうとしている『私』」ですね。
このような「行為」ではなく、身分とかそういうものでもよいのですが、「既に〜をしている」あるいは「既に〜である」ような「自分」と、「これから・・・をしたい」あるいは「これから・・・であろうとする」ような「自分」がいる。つまり、「在りつつ在ろうとする」二重の存在をしているのです。
この「・・・であろうとすること」を、西研氏はその著作の中で「欲望すること」と言い換えています。パソコンに向かってこの文を書いているとコーヒーが飲みたくなり、コーヒーを飲んでいるとタバコを喫いたくなる。この、欲望することを、ハイデガーは「可能性の到来」と呼ぶ。つまり、パソコンに向かってこの文を書いている「私」に「コーヒーを飲む可能性」が到来し、コーヒーを飲んでいる「私」に「タバコを喫う可能性」が到来してくるわけですね。
この、「可能性の到来」については、次の二点の注意が必要です。まず一つは、この「可能性の到来」は自由意志による自己決定ではないという事。私達は、「突然コーヒーが飲みたくなる」のであって、可能性の到来は自由意志的に生じるわけではありません。逆に、コーヒーを飲みたいと欲望してから、実際にコーヒーを飲むか、それとも我慢するかという自己決定をするのです。もう一つは、可能性の内容は、まったく恣意的なものではないという事です。コーヒーの存在しない社会に生まれれば、「コーヒーを飲む」という可能性が到来する(欲望する)ことは有り得ません。そういう社会では、「コーヒーを飲みたい『私』」は存在する事は有り得ないのです。つまり欲望はまったく恣意的ではなく、「私」がどういう社会に生きているかによって、既にある程度方向づけられているのです。
ここから言えることは、「私」とは私が生きる世界(社会)の中での、私のさまざまな可能性の総体であるという事です。つまり、「私」という確固とした存在があるのではなく、「私」は常に私が生きるこの社会と関わり続けることで「私」であり続ける事が出来るのです。判りにくければ、ここでいう「私」をご自分の名前、あるいは「神名龍子」に置き換えてみてください。
「神名龍子」が持つ可能性は、失われたり、新たに生じたりします。可能性は総体として、「神名龍子」と「神名龍子が住む世界(神名龍子に生きられる世界)」との関係を形作っています。「神名龍子」が変われば「神名龍子に生きられる世界」が変わり、「神名龍子に生きられる世界」が変われば「神名龍子」が変わるのです。
例えば、私(神名龍子)が何かの都合でパソコンを使う事が出来なくなったとしたら、私にとっての世界はまったく別のものとして私の目に映るでしょう。逆に、今もし大地震が来て東京が壊滅すれば、それによってこれから先の「神名龍子」の生き方がいくぶんかは違ったものになるかも知れません。
ですから、この「可能性の総体」とは、ある意味では「神名龍子」という存在そのものです。
「神名龍子」と、今これを読んでいる人(あなた)とでは、それぞれ持っている「可能性の総体」の内容が(少なくともその一部が)異なっており、それが「神名龍子」と「あなた」という人間の違いとなって、具体的な形で表れるのです。
ですから、上の例で言えば「コーヒーを飲む私」も「タバコを喫う私」も、また「この文章を書いている私」も「【EON】主宰の私」も、どの「私」をとっても、それは「本当の私」ではない。では「ウソの私」かというとそうではなくて、それらはいわば「私」を構成する要素であり、それらの「可能性の総体」が「私」なのです。
これを川に例えてみましょう。人間に絶えずいろいろな可能性が到来するのと同じように、川には、あとからあとから、絶えず水が流れてきます。しかし、川の中から水を汲み上げ、その水を指して「これが川だ」だという事は出来ません。川の中の、どの水を汲み上げても、それを「この水こそが本当の川だ」とはいえない。では、「川」は「ない」のかというと、そうではありません。流れる水の、どの部分が「川」だというのではなく、そのすべてを指して「川」なのです。
「自分」も同じ事で、「本当の自分」というものが「自分」から離れてどこかにあるのではなく、また「可能性の総体」の中の、どれか一つが「本当の自分」なのでもありません。「自分」というものを、そういう形で求めても、本当の自分を知ることは出来ません。人を愛する自分と、人を憎む自分と、どちらか一方が「本当の自分」なのでもない。
もし、「人を愛する自分」が「本当の自分」で、「人を憎む自分」は「本当の自分」ではないと考える人がいたら、それは誤りです。「人を愛することはよいことで、人を憎むことは悪いことだ」という知識と、「『自分』はよいものでありたい」という願望があって、その願望に合う部分だけを「本当の自分」だと思い込みたがっているに過ぎません。しかし、人を憎む気持ちを持っている以上は、それをいくら「本当の自分」ではないといっても、やはり「自分」の中には相変わらず「人を憎む自分」もいるのです。「人を憎む自分」から目をそらしても、何の解決にもならず、かえってそのために生じるジレンマに苦しめられるでしょう。
ここでいう「人を愛することはよいことで、人を憎むことは悪いことだ」というような知識が、仏教でいう「分別智」だと思います。「自分」をありのままに見る妨げになるような、認識の在り方といってもよいでしょう。別の例で言うと、「××さんは大学教授だから偉い」というのも「分別智」ですね。もしそういう人がいたら、その人は「大学教授は偉い」と思っている人であり、「××さん」の「偉い部分(大学教授という肩書き)」だけを見ているのです。だからあとで「××さん」の「偉くない部分」を発見すると、裏切られたと思う。だけど、それは最初に「××さん」の「偉い部分」だけを見ていた、その見方(分別智)が間違っていたためであり、誰でも最初から「偉い部分」と「偉くない部分」を持っているということを見落としていたから、そう思うのです。「なんだ、当たり前の事じゃないか」と思われるかも知れませんが、人はしばしば、その「当たり前の事」を忘れて、願望と現実の区別を失い、「分別智」でものを見ます。
ところで、私達が何らかのモノもしくはコトに出会うとき、それが何であるかが判るとすれば、それは何らかの可能性が示されたということを意味します。日常生活の中でモノが判るということは、そのモノが「何のためのものか」を知っている、「利用可能性」をつかんでいるということです。
例えば今、私の目の前に漫画があるとすれば、それは私にとって「読んで楽しむ」ものです。もちろん同じ漫画でも、この「利用可能性」は人によってさまざまで、別の人にとっては自分が漫画を描くために参考にするものであり、また別の人にとってはカップラーメンを作る時にフタの押えに使うものであるかも知れません。つまり、「利用可能性」というのは、あらかじめモノに備わった性質ではなく、それを示された人にとって「何であるか」ということです。
目の前にモノが現れることは、そのモノの「利用可能性」を示されることですが、それは同時に、その人自身の可能性が示されることでもあります。つまり、私にとって「読んで楽しむ」ものとしての漫画が現れたということは、同時に「漫画を読んで楽しむ」という私自身の可能性が示されたということでもあるわけです。この私自身の可能性を「存在可能性」といいます。つまり私の目の前にモノが現れるということは、私の「存在可能性」と、モノの「利用可能性」とが同時に示される(開示される)ということになります。そしてこの開示されてくる働きを、ハイデガーは「開示性」と呼んでいます。
ここで、「自分」とは何かということをもう一度、別の言い方でいうと、「自分」とは、自分固有の存在可能性であるということになります。
ここでまた注意が必要なのですが、この「開示性」は、まずモノを評価する人間(の主観)が存在していて、それがモノに対する意味(利用可能性)を付与すると考えるのではなく、人間の「存在可能性」とモノの「利用可能性」とは同時に開示されると考えるのです。つまり、「読んで楽しむ」ものとしての漫画が私の目の前に現れたから、私が漫画を読んで楽しむ可能性も同時に現れたということです。
最近になってようやく気がついたのですが、鎌倉時代の道元という人が説いたのも、要するにそういう事なのだろうと思います。禅家や哲学者からは、どう思われるか知りませんが、「正法眼蔵」他、道元の著作というのは、実存哲学から考えると、意外に判りやすいように思います。要するに、当たり前の事を当たり前に見ろというだけで、そこから外れてどこかに「真理」のようなものがあるとはおっしゃらない。例えば、
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身心を挙して色を見取し、身心を挙して声を聴取するに、したしく会取すれども、かがみに影を宿すごとくにあらず、一方を証するときは一方はくらし。 仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長々出ならしむ。 (正法眼蔵・現成公案) |
「なんのこっちゃ」と思われるかも知れませんし、私もつい最近まで何のことだか判りませんでした。ですが、これも上の「開示性」の話だと思えば腑に落ちるのです。
つまり、身心をもってものを見、音を聞くのも、「モノ」と「見る人」、「音」と「聞く人」という2つの間の関係ではない。つまり、まず「モノ」と「私とがあらかじめ別個に存在していて、「モノ」が私の主観という鏡に映るのではない。「見る私」がなければ「モノ」はなく、「モノ」がなければ「見る私」はいない。どちらが「ある」から、もう一方も「ある」のではなく、両者は同時に表れるのです。
仏道を習うということは「自分」を知ることである。「自分」を知るということは、「分別智」で見た、どれか一つの可能性としての「自分」だけを「本当の自分」だと思わないことである。そうして、「自分」が「可能性の総体」としての「自分」であることが判れば、その「自分」とは、「自分」と出会うあらゆるもの(こと)によって表れるのだということが判る。それが判るということは、自他の区別なく「我と万物と同根」であることが体得できるということである。それが「悟る」ということで、「悟る」とはもともとのありように気がつくことであり、ただ、今まではそれに気がつかなかっただけなのだ。気がついたからといって、その在り様の何が変わったわけではなく、これからもその在り様が続くのである。
道元も上の「正法眼蔵」の中で、このように「実存哲学」を説いているのだと考えると、判りやすいように思えます。
ところで、「自分(私)」の次に考えてみたいのは、私達にとって「男」とか「女」とは、どういう意味かということです。
ジェンダーというのは通常、社会的、文化的に作られた性別であって、後天的に身につけるもの、という意味に考えられています。つまりあらかじめ「男」とか「女」という性別があって、「男」は「男性」のジェンダーを身につけ、「女」は「女性」のジェンダーを身につけるということで、これまで、この「ジェンダー素描」でもそのように扱ってきました。
しかし、私達の意識にとって、ある人が「男」とか「女」として表れてくるのは、実際には、その逆の手順を踏むことによってです。「男性」のジェンダー記号を身につけた人を「男」と判断し、「女性」のジェンダー記号を身につけた人を「女」だと判断しているのです(ふつうは)。
私は、以前からずっと「性自認とは何か」ということも考えていました。性自認の定義のことをいっているのではありません。いったい、自分を男、あるいは女だと確信するという事はどういうことなのか、TS や TG に見られるように、身体的性とは異なる性自認がなぜ発生するのかということです。
しかし、これも同じように、逆に考えればよいのではないかということに気がつきました。MTF で、「ものごころがついた時期から性自認が『女』で、スカートを履くことを好んだ」という人を例にとって簡単に言うと、性自認が「女」だからスカートを履きたかったのではなく、スカートを履きたかったから性自認が「女」になったのではないかということです。
誤解のないように書いておきますが、これは、実は性自認が「男」であるにも関わらず、スカートを履きたいために「自分は『女』だ」と偽っている、という意味ではありません。
そうではなくて、ものごころがつく時期というのは、「性別」という概念がはっきりと意識される時期でもある。その「性別」を意識し始めた時期に、周りの人間を見ると、スカートを履くのは「女」だけなので、スカートを履くことを好む自分についても「女」だという確信が成立したのではないかということです。
「確信成立の条件」については、「28.TV と『社会性』について」で、「両性役割服装倒錯症」について書く中で触れましたので、ここでは繰り返しません。
なお、ここでいう「スカート」というのは、話を簡単にするために例として書いているだけで、スカートではなく、他の「女性」のジェンダー記号や、男の子を好きになるという行為などによっても、同じことは起り得ます。ただし、話が繁雑になるのを避けるため、以下も同様に「スカート」を例にとって話を続けます。
別の言い方でいうと、まずスカートを履きたいという欲望が到来する。これは最初の方に書いた通り、本人の自由意志によるものではありません。その子供が、スカートが存在する世界に生きている限り、そういう欲望が到来する可能性は常にあって、たまたまその欲望が現実に到来したというだけです(ですからもちろん、スカートが存在する世界に生きている誰もに、スカートを履きたい欲望が必ず到来するということではありません)。そこで、スカートは女性のジェンダー記号(スカートは女性のもの)であると了解されれば、それと同時に、「スカートを履きたい自分」は「女性である自分」(女性としての存在可能性)として本人に開示される。以後、周囲の人間を見て女性しかスカートを履いていないことが常に確認されれば、その確信は深まる一方だという事になります。
つまりこの例では、自分の性別を何によって判断するかというその根拠が、たまたま「スカート」に置かれているわけです。身体の違いだとか、周囲の人間から「あなたは男の子よ」といわれたりして、そちらに自分の性別を判断する根拠を求めれば、性自認は「男」になったかも知れません。事実、その方が一般的なのであって、だから TS や TG は例外的存在として、存在し続けているわけです。
この例のように、ものごころがついた時期に性自認が決定した場合には、性自認が決定された過程は本人には意識されず、また仮にその過程が意識されたとしても記憶に残ることはほとんどないでしょう。そのため、それ以降は本人にとって、「スカートを履くから私は女」なのではなく、「私は女だからスカートを履く」という意識しかないはずです。この場合、あとから性自認を変更させようとしても、まず上手く行かない。なぜならこの性自認は、いわば欲望から告げられたものであり、欲望と性自認が相互に補強し合うからです。
そういう人は、スカートを履きたいという欲望がある限り、そしてその人によって生きられている世界(この社会)が、今のようなジェンダーを持ち続けてる限り、「男」という性自認を持つことには強い違和感を持ち続けるはずです。本人の意識の上では、他の人達と同じように社会のジェンダーに従って生きているだけであって、その社会で生きて行く限り、性自認を、もしくは服装を変更する動機がないからです。
では、性自認はそういう、ものごころがついた時期に成立したら、その後は変更が出来ないものなのかというと、そうではありません。なぜなら、スカートがある世界を生きている限り、スカートを履きたいという欲望は、常に到来する可能性があって、それはものごころがついた時期だとは限らないからです。
ただしこの場合には、スカートを履きたいという欲望が到来しても、欲望に素直にスカートを履くとは限りません。既に何年間か「男」として生きてきて、スカートは男が履くものではないという、自分が生きている社会のルール(ジェンダー)をわきまえているからです。そのためこのような場合には、スカートを履きたいという欲望の到来は、ためらいを伴って開示され、本人の意思決定は、しばしば「我慢する」方向に働きます。もしくは、(少なくとも最初の内は)いくぶんかの後ろめたさを伴いながらスカートを履きます。
しかしその中に、「私がこのような欲望を持つのは、実は身体は男でも心が女だからではないか」と考える人がいても不思議ではありません。これは「性自認」がどうのというよりも、まず、「自分の身体の性」と「自分の欲望」との不整合(世のジェンダーに照らして)を、どのように説明出来るかという、一種の自己了解の在り様であって、「性自認」が変わるのは、その結果にすぎません。そのため、「性自認」そのものに着目し、いきなり「性自認」を変えようとしても上手くいかないのは当然です。電球が灯るのは、電球の中で電気が発生するからではなく、電源は別にある。それと同じことですね。
しかし、最初の「欲望」そのものは、「こういう欲望を持とう」という自己決定によって自由意志的に生じるわけではありません。ですから、身体の性と異なる性自認を持つことや、その元となった「欲望」が生じたことについて、本人を責めても無意味です。
また、ものごころがついた頃から「性自認」が「女」だった人は本当の MTF TS で、あとからそう思うようになった人は、ニセモノの TS であるということもありません。単に同じ欲望が表れた時期の遅速の問題であって、それをもって真偽の根拠とするのは誤りです。その人が TS であるかどうかは、その人が持つ性自認や性別違和の内容によるものであって、それがいつ表れたかということは問題の本質ではありません。 「性自認は変更できない」という説を信じている人は、特にこういう誤解を生じやすいので注意が必要でしょう。
TV / TG / TS が便宜的な分類法であって、現実には三者の間に境界線を引くことが難しく、個々の T's の在り方に着目すれば、TV から TS にかけてグラデーションをなしているという説も、性自認に先立って「欲望」があるというこの考え方からすれば、不思議ではありません。つまりは、「欲望」がどのような「性自認」を生じるかという、具体的現象における個人差の話に還元できるものです。
「パソコンが欲しい」と思う人が10人いても、プログラマーになるか、ゲーマーになるか、MIDI を扱うのが楽しいとか、コンピューターグラフィックが趣味だとか、いろいろな人に別れます。そして、その中のどれか一つではなく、例えば、ゲームと MIDI が好きだというような組み合わせを考えれば、パソコンの使い方は十人十色ですね。パソコンユーザーを「プログラマー」や「ゲーマー」や「CG アーチスト」に分類するのも、T's を TV や TG や TS に分類するのも、どちらも同じように一応の目安であり、便宜的なものと考える。その方が、より実態に沿う見方でしょう。
今回の、実存的なものの見方は、これまでに私が書いて来たことの、いわば共通基盤となりうるものです。その事を予期していたわけではありませんし、実存思想もこの2〜3ヶ月ほどの間に知った(かじった)だけなのです。さまざまな現象について、こうまで無理なく説明できる原理を思い付いたとは、私も思い付いた当初は考えませんでした。
いま、一部の T's の間では、「性差を第一義的認識としない社会、男か女か以前に人間であるということが、第一義的認識になる社会」という言い方で、「人間」よりも「社会」が第一義的認識になるような在り方の社会運動が起りつつあります。むろん、私はそういうものには賛同しません。こういう言い方は、昔からありますね。資本制社会だから生き難い、性二分性社会だから生き難い、受験社会や学歴社会だから生き難い、少子化社会だから問題だ・・・。正直言って、こういう事を言っている人達を見ると、生き難い、生き難いといいながら、よく生きているなと感心します。
太平洋戦争なんかでの戦場の病院でも、もう死ぬと思って、大声で「天皇陛下バンザイ!!」なんて叫んでいると、それを軍医が見て、「あぁ、まだコイツは当分は死なないな」と思って後回しにする(笑)。そういう話を読んだことがあります。それと同じで、イデオロギーにはまり込んでいられる人は、たぶん、そうしていられるだけの余裕があるのでしょう。
私がそういう考え方に共感を覚えないのは、私が武術家でありサバイバリストだからかも知れません。私の個人的な経験から言えば、敵が多数だから生き難い、相手が刃物を持っているから生き難い、山で道に迷った上にドシャ降りの雨に遭って生き難い、そういう本当に生き難い時に、「生き難い」などといっているヒマがあったためしがありません。むろん、具体的な問題の解決として、目の前で刃物を持った「敵」を張り倒すことはありますが、「刃物の存在を認める社会が悪い」などとは思いません。第一、私自身がナイフ製作者でもあります。
それらの状況の中で生き抜けるかどうかは、結局は自分次第です。そんな時に、他人や運命、社会などを相手に恨み言をいっているヒマはありません。私にとって「生き難さ」とは、生き抜く技術を身につけるために与えられた「条件」です。生き難い条件をいかに生き抜くかという、技術の習得の場であり、そのための型稽古であり、時には、実戦即道場でもあります。そういう技術がない自分を知り、そういう技術を身につけた自分を現実化する場であって、まさに「自己をならふ也」なのです。つい先日も、バイクで走っていて世田谷区の国道246号線でそういう目に遭いました(わはは ^^;)。
私がこれまでに書いて来たことも、私がこれから先に書くであろう事も、生き抜く技術を身につけたい人にとっては、多少なりともお役に立つものと思います。その半面、「生き難い、生き難い」と社会を敵視する人にとっては、毒にこそなれ薬にはならないだろうとも思います(万が一、そういう人にとって薬になることがあっても、それは私の予期するところではありません)。
T's と非 T's とを問わず、状況に対して文句をいう人ではなく、どんな状況でも生き抜いて行ける自分を作ろうという人にこそ、お読みいただきたい。そう思います。
