神名龍子
いつ頃だったか忘れましたが、かつて「女性の骨盤は、子供を産みやすいように広がっている」と習った覚えがあります。ところが近年、私の性に関する知識の中に、「人間も含めて哺乳類は、ホルモン・シャワーによってオス化し、それがなければメスになる。だから女性の方が原型といえる」というようなことが加わりました。不覚にして、その時には気が付かなかったのですが、それならば、
のではなく、
というべきではないか、という事に、最近になって思い当たり、なるほど「男性中心主義」というものに、私も無自覚の内に深く影響されているものだと思いました。
それに続いて気が付いたのは、それならば、一部のフェミニズムがいう「現在は男性中心社会である」という主張も、同様に「男性中心主義」的な思考によるものではないかということです。
「男は社会に出て、女は家庭」という在り方を「男性中心主義」と呼ぶのであれば、その背後には「社会」を「家庭」よりも上位に置く価値観が、前提として置かれているはずですね。なるほど、だからそういう一部のフェミニズムは、専業主婦を希望する女性を低い存在としてみるのだなという事が、ようやく腑に落ちたように思います。
なお、ここで「一部のフェミニズム」と書いているのは、フェミニズムのすべてがそういう考え方をしているわけではなく、例えば「エコロジカル・フェミニズム」のように、女性原理を男性原理の上に置く考え方もあるからです。
しかし、それでは「社会」を「家庭」よりも上位に置くという「男性中心主義」的な価値観が、それを他人に押し付けうるほどの正当性を持っているのでしょうか。
確かに、現在でも地球上には、いわゆる近代資本制をとっていない共同体(社会)が存在します。農本制や遊牧、思い切って原始的な形態を見れば、採集生活や狩猟生活もそうですね。そういう生活を見れば、確かに近代資本制社会とは異なった性別役割というものがあるわけです。だから「ジェンダーは恣意的なものであって、セックスに根拠を置くものではない」という主張が出てきます。
しかし、それらの異文化を見ても、女性が家庭を支えているというのは共通しているわけです。それは「男が仕組んだ文化である」というだけでは説明不可能ですね。いまだ「労働者が成し遂げていない「世界同時革命」を、「男性インターナショナル」が太古において果たしていた…なんていう、無茶苦茶な話になってしまう。
そこで、原始的な形態ということで、採集生活や狩猟生活について考えてみると、いわゆる「狩猟民族」というのは、決して狩猟が食料を得るメインの方法なのではなくて、やはり採集生活が主なんです。その他に、狩猟もやる。狩猟をするのは男性ですから、ここでも骨盤の説明と同様、かなり不当な「男性中心主義」的なネーミングがされているわけですが、それはここでは脇に置くとして、ではその「狩猟」とは何なのか。
「狩猟」というのは実は人間だけではなく、群れにもよりますけど、チンパンジーでもするそうですね。それもやはり、オスがやる。チンパンジーも含めてサル目(もく)というのは、虫食の原猿類は別にして、基本的には菜食です。それが時折、狩猟をするわけですが、現在のサル学では、これはどうもレクリエーションとして行っているらしいという事で、食べ物を得るのがメインの目的というわけではなさそうなんですね。
それから、狩猟で有名なマサイ族の戦士というのは、誇り高くてライオン狩りなんかで知られていますけど、しかし何のためにライオンを狩るのかというと、別に食べるわけではない。あくまでも名誉の問題であって、まったく非生産的な活動です。第一、マサイ族の生業は牛の牧畜であって、食べ物の確保を狩猟に頼っているわけではありません。
よくよく考えてみると、文化・文明を問わず「男の領域」というのは、元々存在していた何かを男性が独占したのではなくて、男性がそういう領域を作って来たのではないかと思うんですね。何のためにといえば、要するにヒマだったからでしょう(笑)。
これは冗談で言っているのではなくて、「13.男と女の非対称」でも触れましたけれども、男女の性差、性的な在り方の違いに由来するものだと思います。
女性の性が、性交だけに終わらず妊娠、出産、子育てと連続しているため、男性よりも連続的な物語の中に生きやすいのに対して、男性の性というのは、断続的な短時間性が特徴です(女はそれに腹を立て、男は女の連続的な物語を時にうっとうしく思う)。今でこそ、男性が家事や子育てに参加しないと非難の的にもなりますが、元々は男性は、そういった生活の領域から、「うるさいし邪魔だから、外に遊びに行ってらっしゃい」と(笑)、放り出されたために、自分の居場所を求めて、現在で言う「社会的領域」を作ったと考える方が自然ではないでしょうか。
例えば、前述のマサイ族の例など、「ライオンを倒した名誉」というのは、なんら衣食住の足しになるものではなくて、そういう意味では非生産的な「無駄」でしかありません。それを「価値あるもの」と見るためには、何らかの「物語」(フィクション)が必要です。言い換えれば、「約束事」であり、心理学の岸田秀氏の「唯幻論」でいう「幻想」とも似ていると思います。ですから、そういう意味での「文化」は、おそらくはフェミニズムの主張にもあるように、男性中心に作られていると思います。
しかしそれは、そもそも男性が断続的、短時間な自分の性の隙間を埋めるための「ヒマつぶし」として作ったものだからではないかと思います。男性が「社会的領域」から女性を締め出したというよりも、「家庭的領域」から締め出された男達が寄り集まって「社会的領域」を作ったという方が、より正確でしょう。
「男が、男として作られる」のは、冒頭に挙げた胎児の時のホルモン・シャワーの話に限らず、文化的にもまた同じ事がいえるわけです。女性が家庭という現実的な場にアイデンティティの基盤を置く事が出来たのに対して、男性が「男」でいられるためには、アイデンティティの基盤を「物語」の上に置かざるを得なかったし、それ以前にまず「物語」を作らざるを得なかったのです。そのために、命懸けでライオンと戦って最高の名誉を得るというような、非生産的なことに血道をあげる文化も出てくるわけです。
危険きわまりありませんが、これは一種の「ゲーム」ですね。母親から、「うるさいし邪魔だから、外に遊びに行ってらっしゃい」と放り出された男の子達が集まって、自分達でルールを決めて遊びを考え出すのと、基本的には同じだと思います。そういう時に、「あらかじめ、いつ女の子が参加して来てもいいようなルールを考えて作って置こう」などとは考えないでしょう。
一方、女性達は、そういう男性の姿を見て、「男って、どうしてあんな事に夢中になれるんだろう」と不思議がる。別に、ライオン狩りに限らず、現代の日本にもたくさんありますね。これは女性の方が、冷静で現実的なんだと思います。ある意味で、女性から見た男性が、どこか「子供」なのも、こういう「男の本質」に根拠があるのでしょう。
実は、私の父が数日前、この3月一杯で定年退職したのですが、やはり「これまで働き続けてきて、突然やる事がなくなると途方に暮れる」というような意味の事をいっていました。ミもフタもない言い方ですが、要するに歳を取って仲間はずれにされて、退屈しはじめたんですね。働いて生活の糧を得るという事ももちろん大切なのですが、男性にとって精神的には「働く」という事それ自体が重要な意味を持っていて、長年に渡ってそこにアイデンティティを置いて来たからこそ、いま父は、大袈裟にいえば一種の自己喪失を起こしかけているわけです。
これと似たような事が女性に起きるとしたら、伝統的にはおそらく子育てが終わった時だったのではないでしょうか。定年退職というのは、社会的であるがゆえにはっきりとした「切れ目」なんですけど、精神的に子離れするというのはもう少し曖昧なものでしょう。「息子を嫁に取られる」というのは、やはり一種のアイデンティティの喪失につながる問題で、だから舅と婿の関係よりも、姑と嫁の問題の方が根が深くてややこしくなる。どうも、そういう気がします。
私が自己認識において何であろうと(笑 ^^;)、母親にとっては「息子」なわけで、まぁ、嫁をもらうつもりがないからその点では親孝行(?)なんですけど、「母親」の問題もフェミニズムで扱ってくれないかと思う事がよくあります。フェミニズムでは、男が女を「モノ」化するといって非難しますけど、女性は「母親」になると容赦なく息子を「モノ」化します。人間の「モノ」化がいけないというのなら、これもナントカしろ! そう、悲鳴をあげたくなるのは、おそらく私だけではないと思うんですけどね(苦笑)。
私達 MTF が、「女性はズボンをはく事が出来るのに、なぜ男性はスカートを履く事が出来ないのか」というと、どこの系統のフェミニズムか知りませんけど、「それは女性が歴史的に勝ち取った権利だが、男性は何もしていない」というような答えが返ってくるそうです。しかし、それならば「社会的領域」についても男性側は、「それは男が作ったもので、女性は何もしていない」と、同じ事を言える権利があると思います。今になって「男が独占した、女性は締め出された」もないものでね(笑)。
しかし、男性にはそういえる権利はあるけれども、そう主張してどうなるという問題がある事も確かでしょう。「男」が作った、しかし「人類」がそれを知ってしまった。ならば、もう知る前に戻れというのは無理な話で、だから男性は、しばしば女性にナイショで遊びたがるのかも知れません(笑)。
私が思うに、現代の女性の中には、男性と同じ意味での「ヒマ」な人が増えたのは確かでしょう。結婚率の低下や、少子化、家事の電化・合理化など、理由は様々でしょうが、生活が文明化すればするほど、その傾向は進むと考えられます。ならば、そういう女性が男性の「ヒマつぶし」に混ぜて欲しいと思うようになるのも、文明化の当然の帰結と考えられるのではないでしょうか。
以前ならば「男って、どうしてあんな事に夢中になれるんだろう」と不思議がっていたけれども、だんだん、その面白さが判る女性が増えて来た、という事かも知れません。ただし、女性が文化的に進んだと見るべきか、男性と同様に「文明の病」に冒されたと見るべきか、それは別問題です。男性の中に、「社会進出」がそんなに「よい事」なのかと首をかしげる人がいるのは、おそらく「社会的領域」そのもの、あるいはそこに参加する事の幻想性に、体験的に、あるいは直観的にでも気付いているからなのかも知れません。
あるいは、別に面白いとは思わないけれども、男の「ヒマつぶし」があまりにも肥大化し過ぎたために、女性としても無視できなくなった、という事かも知れません。ただし、その「肥大化」とは、上の話からすれば周縁部の肥大化であって、「社会的領域」が中心であるとか、あるいは「社会」が「家庭」よりも上位に位置するという事を意味するものではありません。そもそも、そう考える事自体が「男性中心主義」なんです(笑)。
しかし、絶対的な基準としてどちらが上位かという事と、「ある人」にとってどちらに価値(意義)を感じるかという事とは別問題です。ですから、「男性中心主義」的なフェミニズムの主張を脇においても、やはり、個人的な価値観として「社会」の方に意義を感じるという女性の社会参加を、どれだけ可能に出来るか。それを考える必要はあると思います。
その際に、一つ気になるのは、その場合に男性のアイデンティティはどうなるのか、という事です。「男性としてのアイデンティティ」の基盤である「社会的領域」に女性が進出するという事は、おそらくは同時に「男性としてのアイデンティティ」を不安定にする作用もあると思うのです。しかし、この問題は従来、女性差別だとか、女性を被害者・弱者とする一方的な視点からだけ語られて来たために、「男性のアイデンティティ不安はどうする」という問題については、ほとんど語られてこなかったと思うんですね。
しかし、アイデンティティ不安から、その補償のために新しい性差別が出て来るのではないかという心配もあって、極端な話、そのために「男性にしか出来ない事の最後の砦」みたいな形でレイプに走るバカが大量生産されても困るわけです。ところがフェミニズムは、一方では、男性の性の捌け口である性風俗産業を糾弾してもいるわけで、大丈夫かしら?と思わざるを得ないんですけどね。
男性の、アイデンティティと性の問題。この二つは、あまり公に取り上げられないために、かえって厄介な問題になるかも知れません。男性が「社会的領域」を作ったと書いておいて、これは一見すると、それとは矛盾するように見えるかもしれませんが、「反社会的」なのも往々にして男性ですね。
これはおそらく、「社会」にアイデンティティの基盤を置くために、他の男性との差異を求める事になり、それがしばしば社会の安定とは逆方向に働くためだと思います(この絶えざる差異化が、結果的に「社会」を肥大化させたのかも知れません)。それは、ライオン狩りや決闘、戦争など、危険を伴うものが多かったと思うんですけど、ルールがまとまって、比較的安全に競争が出来るようになった。女性が参加しようと思うようになった理由も、一つはそこにあるのかも知れませんね。
そうなれば、男性のアイデンティティの置き場は、再び「仁義なき戦い」になってしまうでしょう。ここ10年余り、日本人男性の中に、フランス外人部隊を筆頭に、その他傭兵部隊など、海外の戦争に参加したいと思う人達が密かに増えているそうですけど、この事もその辺に理由があるのかも知れません。願わくば女性には、「殺し合い」にだけは進出しないで欲しいと思うんですけど、近年の他国の軍隊を見ていると、それもどうも、日本でも怪しいものだと思います。
何にせよ男性は、また新たに自分達のアイデンティティの基盤となる世界を作らざるを得ないでしょう。もっとも、人類というものを長い目で見ても、男性は女性に追い立てられ続けていて、それが動機になって、女性の手の伸びて来ない、新しい「幻想環境」を開拓し続ける。人類の「オス」というのは、そもそも、そういう生き物なのかも知れません。
