37.他者に受け入れられるには

神名龍子


 ここでは、T's は、いかにして社会に受け入れられるか、その条件は何かを考えようとしました。しかし結局は、人間が他者に受け入れられる条件、他者を受け入れる条件という、一般的・普遍的な部分にまで考えが及ぶ事になってしまいました。

 そもそも、まず「自分」とは何かというと、これは「34.実存への冒険」の中でも書きましたが、その人が生きる世界(社会)の中での、その人のさまざまな可能性の総体です。例えば私なら私という人間は、単にある特定の生物的個体としての「ヒト」なのではなく、人の間と書いて「人間」という、その文字通りに、私と他者との様々な関係の中から立ち表れ、了解される「私」であり、常に私が生きるこの社会と関わり続ける事によって、「私」であり続ける事が出来るのです。

 どうも表現がややこしくなりますが、これについては「34.実存への冒険」の方を参照していただくとして、次に進みます。

 ある人を受け入れる・受け入れないというのは、具体的にはいろいろな理由なり事情があると思います。「受け入れたい」、「受け入れたくない」、「受け入れたいけど受け入れられない」、「受け入れたくないけど受け入れる」など、様々な場合があります。

 人はなぜ、他者(ある人)を「受け入れたい」と思ったり、「受け入れたくない」と思ったりするのでしょうか。私の考えでは、そこにはやはり、まずエロス的な動機があると思います。これは、以前にも書いた、「真・善・美」と言い換えてもよいでしょう。人は、相手に対して「美(きれい)」や「善(よい)」を感じると、その人と良好な関係を持ちたくなります。つまり、その人を受け入れたくなります。反対に、「きたない」や「わるい」を感じた相手に対しては、受け入れたくないと思います(ただし別の、例えば宗教的あるいは倫理的な理由によって、受け入れようとする人はいますが)。

 さて、そこで「受け入れたい」と思った相手と、良好な関係を持つ事に成功したとしましょう。最初はその相手が「よい」人だと思っていたのに、付き合ってみたら「わるい」部分が見えて来たという場合、たいていの人はがっかりしたり、あるいは怒ったりします。なぜかというと、その相手に対してある「期待」があったからですね。最初から「わるい」と思っていたら何の期待もありませんから、「嫌だ」とは思っても、ここに書いたような意味での落胆や怒りは感じないものです。もし、そういったものを感じるとしたら「近寄らないでくれ、私に関わらないでくれ」という「負の期待」があって、それが裏切られた場合ですね。

 では、「よい」と思っていた相手に対して持っていた「期待」とは何かというと、それはその相手との関係から表れて来るであろう、自分の様々な可能性です。人間は他者との良好な関係の中から、様々な「美(きれい)」や「善(よい)」や「真(ほんとう)」といったエロスを受け取って生きています。ある人と付き合いたいと思う気持ちの中には、その人からそういったエロスを得る事が出来そうだ、あるいはエロスを交換し合う事が出来そうだという予感(可能性の了解)があります。ですから、その予感を裏切られたという事は、自分の可能性(の一部)を失うという事であり、そのために落胆や怒りを感じるのです。

 身体的な「快・不快」が身体の安全を守るために必要なものであるように、「真・善・美」といったエロスは精神(自我)の安定に欠かせないものです。したがって、上記の「予感を裏切られた」という事を別の言葉でいえば、自我の安定に不安が生じた(少なくとも、不安が生じる可能性が了解された)という事も出来ます。

 これを逆の立場から言うと、ある人間が「変わる」という事は、単にその人が変わるだけではなく、同時にそれによって、自分と関わる他者(の一部)をも変えてしまう、あるいは他者の自我に何らかの不安を与えるという事になるわけです。

 私は何年も前から、「なぜ女装に嫌悪感を感じる人が多いのか」という事について考えていました。そして、それは相手(女装者)がどういう人か理解する事が難しく、理解できないものは「気味悪い」と思うからだ、という事は、漠然とは直観していました。今回の考察は、この直観的な説明をいっそう具体的に押し進めたものになっています。

 つまり「気味悪い」とか「不安」というのは、自我の(部分的にせよ)崩壊の可能性を直観的に、しかし説明不可能な形で感じ取る事ではないかと思うのです。逆に言うと、なぜ「気味悪い」とか「不安」に思うのかという事が了解できれば、気味悪さや不安は解消されるはずです。

 例えば、女装者にせよニューハーフにせよ、「化け物」といわれる人はいても、「怪獣」といわれる人はめったにいません。いたとしても、それは女装者やニューハーフである事が原因なのではなく、その人に特有の理由が他にあるはずです(実は私もその一人ですが、これは私の持つ「破壊力」に原因があるようです ^^;)。化け物や幽霊は、正体不明だから「気味悪い」のであって、自分に対して実体的な危機をもたらす怪獣や猛獣に対しては、「こわい」とは思っても「気味悪い」とは思わないはずです。

 以上の事が判ると、現在の T's が置かれている立場(嫌われる場合の)が、かなりはっきりと見えてくるように思います。その立場というのは、ごく大雑把に分けて、

  1. イメージとしての T's には嫌悪感があるが、実際に会ってみるとその嫌悪感が薄れる場合。

  2. イメージ(他人事)としての T's に対しては「そういう人がいてもいいんじゃない」と理解があっても、自分の家族や友人が T's だと判ると、混乱もしくは嫌悪する場合。

の、一見すると相反するような二種類に分類できると思います。前者の場合には、実際に会ってみる事によって、T's に対する何らかの理解の機会が得られ、「気味悪さ」が解消もしくは軽減された場合です。後者の場合には、家族や友人という「関係」がそれまで自分が考えていたものとは違うという事が判った(少なくとも、本人がそう思った)ために起きる、「自我の危機」の可能性が開示された事によるものです。

 特に後者の場合が問題で、T's の立場からも、この事が直観的にでも予想されますから、親しい人(特に家族)に対して、なかなか打ち明ける事が出来ないという例が、多々あります。

 そうすると、例えば MTFの場合でいうと、親から見れば生まれてこの方ずっと「息子」だと思い続けているだけですから特に問題がないのですが、本人にとっては大変な苦痛になります。なぜなら、人は自分の「ほんとう」を自分だけで保つ事が難しいからです。常に他者との関係の中でそれが「ほんとう」だと確かめ合う事によって、初めて自分の「ほんとう」を安定させる事が出来ます。通常は、自分の性別を「私は男だよね」(男性の場合)と確認する事はありません。しかしこれは周囲が自分を男性として扱っている事が判るからで、そのために改めて確認する動機を持ちませんし、自分が日常生活の中で無意識の内に「自分は男だ」と確認している事すら自覚しません。それがきわめて当たり前に行われているために、自覚の必要がないのです。しかし、この例のような MTF の場合には、自分が「女」である事を、家族との間で確かめ合う事が不可能なために、常にアイデンティティ不安に悩まされる事になります。

 逆に、両親に打ち明けた場合には、両親の方が混乱します。なぜなら、それまで自分達が親子という関係を共有していた相手は「息子」であって、その関係が自分達の「可能性」の中でかなり大きなウエイトを占めているからです。そのために、「親−息子」という関係を、簡単に「親−娘」という関係に容易に編みかえる事が出来ず(予期せぬ変更を迫られるわけですから)、混乱したり、あるいは自分の子供をなんとか「息子」として固定もしくは復元しようとします。しかし、この方法は現在のところ、精神療法としても確立されていないために、たいていの場合は失敗し、あるいは新たな問題を引き起こしたりもします。

 最近、医師に対して「なぜ身体ではなく精神の方を変えないのか」と抗議した「父親」の話を知りましたが、これは末期ガンを根本治癒させろというのに等しくて、要するに医学的な技術の問題であり、現状ではまだ無理な注文なのです。また、精神の方を変えるという事は、ある意味で、その人がその人でなくなってしまう事にもなります。これは要するに、自分の子供を自分(親)のイメージに合わせて作り替えろという事であって、簡単に言えば洗脳になる。洗脳はよくて、性転換はよくないといえる根拠は何か、また、本人のイメージに合わせて体を変えるのはよくないが、親のイメージに合わせて子供の精神を変えるのはよいといえるのか、という問題が出てきます。

 ですから現状で考えられる範囲での最良の方法は、お互いが自分達の関係を、改めて自覚的に捉え直し、それを編み変えて行く努力をすることだと思います。これは T's に都合のよいように考えた結論なのではなく、あくまでも現在の医学的な技術と、「これからも関係を続けて行きたいのであれば」という条件を前提に考えた場合の話です。ですから、精神療法の進歩とか、あるいは「関係」そのものをやめてしまう(縁を切ってしまう)という事を考えに入れた場合には、また条件が違います。これはあくまでも、「現状で考えられる範囲での」方法です。また、あくまでも一般論としての話であって、実際には個々の家庭の事情によっては「縁を切ってしまう」方がお互いのためになる場合だって有り得るでしょう。

 また、同じ前提から T's に対していう事があるとすれば、自分だけがつらいのではないという事です。繰り返しになりますが、ある人間が「変わる」という事は、単にその人が変わるだけでは有り得ず、自分に関係する他者の一部をも変えてしまう事になるからです。

 だから変わってはいけない、というのではありません。人間は誰でも、多かれ少なかれ変わり続けます。そのため人間同士の関係も、そのつど微調整程度には編みかえられ続けているわけです。ですが、性別が変わるというのは、それとは比べものにならないくらいに大きく急激な変化であり、それは周囲の人達にとってもかなり大きな負担になります。その事をわきまえておく必要はあると思うのです。

 極端にいうと、ある人が死んでしまった場合には、関係の編み替えの可能性すらも失われるため、その周囲の人にとっても「その人との関係」という「自分の一部」が「死ぬ」のです。ですが、「変わった」だけならば(生きていれば)、関係を続ける事の出来る可能性は残っています。その成否は、ひとえに関係の編み替えの成否にかかっているわけです。

L.Jin-na


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