40.性別とは何か

神名龍子


 私達は、なぜ自分自身が男(女)だと、断言できるのでしょう。何を根拠にそう思うのでしょうか。今回は、そういう問いについて考えてみたいと思います。

 むろん、ここでいう性別とは身体的な、つまり生物的・医学的な性別(セックス)ではありません。ここでいう性別がセックスのことならば、普通はこういう問いは出てこないでしょう。性器その他の身体的特徴を見れば判る、馬鹿なことを聞くな。そういう話になるからです。ところが、それとは別に、いくつかの意味で文化的・社会的な性別(ジェンダー)があります。

 普通は、セックスジェンダーとは一致していますから、特にその区別をする必要はなく、そのため、そういう区別があることさえ知らずに済んでいる人も多いでしょう。ところが、たまにセックスジェンダーとが一致しない人がいます。TG とか TS と呼ばれる人達です。まず、自分がどちらの性に属するかという性自認が、セックスと異なる。そうすると、いやでも、まず「性別」が「セックス」と「ジェンダー」に大別されることが判る。判らないと(場合によっては、判っても、ですが)自分は異常なのではないかと悩んだりするわけです。

 セックスジェンダーが一致していて、特にその区別の必要を感じない人であれば、「なぜ自分自身が男(女)だと断言できるのか」の答えは簡単です。基本的には身体的特徴で判断し、それで納得している。しかし、例えば身体的特徴が「男」でありながら、性自認が「女」である場合には、そうはいきません。

 この場合も、まず最初は世間一般の「セックスとジェンダーは一致する」という常識を踏まえて考えますから、その常識に合わない自分とは何か、自分は異常なのではないか。そう考える。「性別」にセックスジェンダーの二種類があるということが判っても、なぜ自分の場合は両者が一致しないのかという問題が残ります。

 しかしそれは、最初に「なぜ私は自分が男(女)だと思うのか」という問いを立てて、そこから入っても、おそらく解けないでしょう。私の考えでは、

  1. まず「性別」という概念を取り払って、「自分が何をしたいのか」を考える必要がある。

  2. 次にそれとは別に、自分自身が持っている「男」や「女」という言葉の意味を考える。

  3. 最初に考えた「自分が何をしたいのか」を、自分が持っている「男」や「女」の概念と照らし合わせる。

という手順を踏む必要があります。

 ちょっと順番を変えて、2番目の説明から入りますが、性自認、つまり「自分が男(女)である」と認識するためには、それに先立って、「男」や「女」が何であるかを知っているはずです。その場合の「男」や「女」は、その人自身が持っている「男(女)」という概念であって、それは必ずしも世間一般でいう「男(女)」と同じ意味であるという保証はありません。正確に言えば、「世間一般でいう男(女)」というものはないのです(ここでいう「男(女)」は、ジェンダーの話ですから、念のため)。

 そんな馬鹿な、と思うかも知れませんが、しかし「男らしさ」とか「女らしさ」の意味は、実際には人によって微妙に(あるいは、かなり)異なります。「世間一般でいう男(女)」というのは、そこからなにがしかの共通項を抽出したものであって、しかしそれも抽出の仕方によって内容が違ったりしますから、固定した「男らしさ」とか「女らしさ」というものはない、というのが実状でしょう。だから、「世間一般でいう男(女)」というものがあると考えても、それに反する例をいくらでも挙げることが出来ます。そういうものに自分を照らし合わせて考えようとすると、かえって混乱してしまう。それは本来ないものを「ある」と考えて、それを前提にすることから起きる混乱なのです。

 正確にいえば、生物的・医学的な性別(セックス)ですら、固定した「男・女」という概念はありません。それは、インターセックスIS・半陰陽)の存在から判ります。生物的・医学的な性別も、一人ひとりの人間を調べた上で全体像をみれば、二つの大きな山を持つ分布図が連続した線で描けるはずで、いわばその二つの山の間の「どこか」に線を引いて、一方を「男」、もう一方を「女」と呼んでいるに過ぎないわけです。自然科学においても、絶対的な男女の違いがあるわけではなく、要するに定義の問題だという事になります。

 ニーチェならば、人体それ自体に「男」や「女」があるのではなく、人間がある解釈の仕方によって人類を「男」と「女」に切り分けているだけだ、というかも知れません。別の表現でいえば、人類は「男」と「女」という言葉で「分節」されるという、言語の分節性の問題として扱うことも可能でしょう。もっとも、そのことはここでの主題ではありませんから、深くは扱いません。とりあえず今は、生物的・医学的な性別(セックス)でさえ、「客観的事実」として男女に二分できるわけではないという事が判ればよく、ましてジェンダーという、社会的・文化的性別ともなれば、なおさらに人間の価値観やそれに伴う解釈の問題になるというわけです。

 ただし、「男」や「女」という区別それ自体が間違いだとか、不要だというのではありません。どうしたって、人類の大半は「男」と「女」という二分法の上で生きる存在であり、文化が異なり「男らしさ」や「女らしさ」の具体的な内容が異なるにしても、この二分法自体は普遍的なものといってもよいものです。それを理屈の上で否定することは可能ですが、それが現実に合わない机上の空論に過ぎないことは、世の中の大半の「男」と「女」がその理屈に乗ってこないことから明白です。つまるところ、そういうものは知的遊戯でしかなく、それは現実の実生活上の問題を考える、いわば「臨床哲学」(?)を目指す私の扱う問題ではありません。

 ただ、まず一度そういう「世間一般でいう男(女)」という概念は脇におく必要はある。その上で、自分自身が実際にどのような場面で「あの人は男らしいな」とか「女らしいな」と感じるかだけを、自分自身に向かって問うより他に方法はなく、それは以上の説明から理解していただけるかと思います。

 それから、上の1番目の、「自分が何をしたいのか」を考えるという事ですが、これは前述の通り「性別」の概念を取り払って考える必要があります。

 私の考えでは、まず自分が何をしたいかという欲望があって、そこで描かれる「こうありたい自分」が、自分自身のもつ「男・女」の概念のどちらに分類されるかで性自認が決まる。ところがその後、今度はその性自認が先に立って、他人からもその性別に見られたいという動機から生まれる「やりたいこと」が出てくる。つまり、性自認の原因となる「やりたいこと」と、性自認を補強するために「やりたいこと」の二種類がある。この区別は実際には難しいと思いますが、出来るだけ後者は脇に退けて考える必要がある。

 実は、ここでいう「こうありたい自分」というのが大事だと思うのです。念のためにいっておきますが、ここでいう「こうありたい自分」というのは、トランス後の性別のことではありませんし、「自分が何をしたい」かというのも、ホルモン治療や脱毛、SRS といったトランスの手段、あるいは美容整形などは除きます。そういう直接に性別やトランスに関わることではなくて、サラリーマンやって美人のお嫁さんをもらって、とか、野球選手になりたいとか、幸せな家庭の主婦になりたいとか、美人アイドル歌手になりたいとか、そういう話です。あるいはそういった職業や地位だけではなく、もっと具体的に何がしたいかでもよくて、今回のテーマの発端となった書き込みから引用すると、

野球が好きだから、ビリヤードが好きだから、スカートはくのが嫌だから、女が好きだから

でもよいわけです。ただ、この方の場合はそれに続いて、

女の子でもそういう子はいくらでもいるわけです。(同性愛者なら女が好きだなわけだし)だから、自分が男であるという証拠としては弱い、決定力が無い。

と考えてしまった。しかし、これは「自分自身が持つ『男』のイメージ」から離れて、「世間一般でいう男」とはどういうものか、に考えが及んでしまったために混乱してしまったわけです。だけど、「自分が男であるという証拠としては弱い、決定力が無い」というのは、「他人が自分を男と見るかどうか」という問いへの答えであって、「なぜ自分が男だと思うか」への答えではない。「なぜ自分が男だと思うか」という問いに対しては、自分の欲望(やりたいことや趣味なども含みます)と、自分が持つ「男」のイメージが合致していればよいのであって、それが他人からどう見えるかというのは、また別問題なのです。

 これは別に TS に限った話ではなくて、繰り返しになりますが、ジェンダーにおいて客観的真理としての「男」とか「女」というのはないわけですから、その基準は基本的には、個々人が持つ価値観の問題になります。個々人が持つ価値観というのは、一人ひとりで違うものですから、いろんな人の価値観に照らし合わせたら、中には自分と合わないものがあるのは当然なのです。それを気にすると、TS だけでなく、誰もが自分のジェンダーが判らなくなってしまう。極端なことを言うと、同じ方法を徹底して使えば、自分を人間だという事も出来なくなってしまいます。

 だからまず、「なぜ自分が男だと思うか」という問いに対しては、自分の価値観だけを問題にして考える。次に、「他人から見てどう見えるか」という問題については、多くの人の間でおおよそ共通している「男(女)」観というものを考えて、それと自分を照らし合わせてみる。つまり、これなら世間はだいたいは「男(女)」と見るだろうという基準を前提に考える。この二つの問題については、それだけを考えればよいのです。

 別の例でいうと、身長150センチの人に、「自分は背が高いほうだと思うか、低いほうだと思うか」と質問して、「低いほうだ」という答が返って来たとします。その時に、「でも、あなたよりも背の低い人が、世の中にはたくさんいる」ということに、どんな意味があるでしょうか。「その人よりも背の低い人が世の中にたくさんいる」ことは事実です。しかし、「だからあなたは背が高いほうだ」という事は、よほど偏った比較対象を考えない限り出来ないでしょう。性別もそれと同じで、あくまでも一般論として考えればよいのです。

 これはもちろん、これらの問題について考える場合に用いる基準からは「例外」を除外する、という事であって、その「例外」に当たる人を世の中から排除するという意味ではありません。一人ひとりの持つ価値観(や人生観)が違うという事が前提になっていて、そこからおおよその共通点を抽出したのが一般論ですから、逆にこの一般論を絶対的な基準にしてしまって、「例外」を認めないという事になると、多かれ少なかれ、誰の価値観でもそこから外れる例外の部分があるわけです。だから社会の中では、よほどの逸脱(犯罪とか)でない限り、お互いに「例外」を認めるという事が必要になる。

 一般論と個別論とでは、その前提が違いますから、両者の内容が必ずしも一致しないということも当然あって、しかしそれが即、何らかの不都合だとは限らないわけです。自分の性別を考える場合に、他人の個別論を基準にしても仕方がない。性自認については自分自身の個別論を基準にし、社会の中で自分の性自認が認められるかどうかについては一般論を基準にする。他人の在り方を問題にするときに、初めて他人の(その人の)個別論が問題になるのであって、考えるべき問題によって用いる基準が違いますから、その区別を付ける必要があります。


 それから、自分は他人との関係において、初めて「自分」でありうるということを前提に考えますと、これは当然、「関係としての男」、「関係としての女」ということを考える必要が出てきます。

 従来は性別役割という考え方があって、この考え方では、まず「男」と「女」というカテゴリーがあって、その上でいろいろなモノやコトを、これは男のモノ、これは女のコト、と割り振るように分類されると考えられていました。ところが、この見方をすると、男女の間の「関係」というものがスッポ抜けるわけです。性別が基本的に人類を男か女かに二分する分類である以上、両者は相対的なものであって、「男とは何か」、「女とは何か」という事は本来、独立した定義としては成り立たない。「男」というカテゴリーがなければ「女」というカテゴリーはなく、「女」というカテゴリーがなければ「男」というカテゴリーはない。あたりまえですね。

 したがって、一般的な「男の特徴」と「女の特徴」とは、本来が対照的であるというよりも、対比的な特徴を挙げることで「男」と「女」というカテゴライズが初めて可能になるというべきであって、その逆では有り得ません。したがって、「歩く」とか「食事をする」というような行為そのものは、「男の特徴」や「女の特徴」にはなり得ず、それらの行為についての具体的な「しぐさ」等に着目することで、初めて「男の特徴」や「女の特徴」が見出されるという事になります。

 では、そうした特徴が「発見」され、文化的に継承・再生産されて来た理由は何かといえば、それらが男女間の「エロスゲーム」のルールとして、両性にとってそれなりに妥当なものとしてみなされて来たからです。むろん、その「ルール」は社会によって異なり、同じ社会の内でも細かい点では「ルールの編み替え」は常に行われ、その蓄積を歴史的に見れば、時代によってその内容が異なる点も多々見受けられる事は、33.T's とジェンダーフリーでも述べた通りです。

 例えば、個人の財産所有というのは、日本では古くから当たり前の概念であって、男女別に財産権を認められていたことも記録に残っています。鎌倉幕府が出来たのは、律令制の公地公民に対して、開墾地主(農場主=いわゆる御家人を指しています)が土地の所有権を勝ち取ったという、西洋で言えばフランス革命にも匹敵する「ブルジョア革命」ですね。戦国時代に日本にキリスト教を伝えに来た、ルイス・フロイスが本国に書き送った書簡には、

 ヨーロッパでは財産は夫婦の間で共有である。日本では各人が自分の分を所有している。時には妻が夫に高利で貸しつける。

「ヨーロッパ文化と日本文化」、ルイス・フロイス、岩波文庫、P48)

とあります。「妻の鑑」といわれる「山内一豊の妻」にしても、夫婦間で財産権が分離していたからこそ成立する話であって、「財産は夫婦の間で共有」というのではあの話は成立しません。西洋史においての「封建制」は文字通り「前近代的」な制度ですが、その観念は日本の「封建制」には当てはまらないことが多いのです。日本史の中でこうした「個人」が一度消えるのは、安土桃山から江戸時代半ばにかけてだと思います。例えば、「主君」という個人に仕えていた武士が、「藩」に対して法人意識を持つようになります。元禄時代の「忠臣蔵」なら、まだ「浅野内匠頭(たくみのかみ)家来・大石内蔵助」と名乗りますが、幕末なら「長州藩士・高杉晋作」です。殿様の名前ではなく、所属組織の名前が出る。商家でも、ある程度大きなところではこうした法人意識が生じます。

 では「個人」が消えた、こうした法人意識が果たして「前近代的」かというと、そういう部分もあるのは確かですが、しかし日本独自の近代の芽生えと考えた方がよさそうな事例もたくさんあります。むしろ、明治維新後に一度悪化して、それが昔からの制度だったかのように、封建制(日本の)が濡れ衣を着せられている例も多いのです。地主制度と小作制もそうですね。これは江戸時代なら南部藩など東北地方の内、太平洋側の地域的な特徴に過ぎなかったわけで、全国的な特徴になるのは、明治の地租改正によってです。「教科書が教えない歴史」(扶桑社)では、地租改正によって農地の売買が認められるようになった事を、権利が認められて社会的に進歩したというようなイメージで書かれています。しかし、だからこそ耕地が地主のもとに集中することが可能になったわけで、実はこれが小作制度の一因になっています。また、売買が出来るようになったという事は、もともと農民が耕地の所有権を有していた(しかし処分権がなかった)ことを意味しています。江戸時代の日本は、財産権や、自作率、識字率などの点では、むしろ西欧よりも優れていたといえます。

 西欧社会でも歴史的に行われていた女性蔑視は、明治後になってやっと「開化」した日本では、当然それ以上に行われていただろうと、これは現在でもそう考えられがちです。しかしそれは、レヴィ・ストロースが批判したヨーロッパ至上主義や、マルクス主義的な進歩史観、それに日本人自身が持つ欧米への劣等感などから生じる誤解ではないかと思います。もちろん、日本史上において女性蔑視がなかったなどと虚言を弄するつもりは毛頭ありませんが、しかし上のような見方は、真に「文化の違い」ということを理解しているとは思えません。

 ただ、(話を戻しますが)具体的な内容は違っても、一般的な「男の特徴」と「女の特徴」が、それぞれの社会における一種のルールとして大半の両性に受け入れられ、引き継がれ、再生産され続けて来たということ。そのこと自体は人類に普遍的な事実です。言い換えれば、各社会ごとのエロスゲームに、両性が参加し続けて来たという歴史的な事実がある。

 これに対して、フェミニズムのほうからは、参加「した」のではなく「させられた」のだという反論が聞こえて来そうですが、その反論はいくつかの点で無理があります。まず、この主張は、男女の在り方の非対称性について、まったく理解していない(理解したくない)という前提の上に成り立っているということです。

 これが、小学生低学年くらいの女の子の考えることだというのであれば、そういった非対称性に思い至らないというのも理解できます。私自身の経験でいうと、その頃の一時期、、同級生の女の子達が男子から「ブス」といわれれたら、「ゲソ」といいかえすという「運動」(?)がありました。この「ゲソ」というのは、全国的な言葉なのかどうか知りませんが、いわば「男ブス」というような意味です。しかしこの言葉は、わずか一ヶ月程度という非常な短命に終わりました。理由は、この言葉が男子に対して何ほどのダメージも与えないということが判ったからです。

 ミス・コンテストに反対するフェミニストが、「それなら、ミスター・コンテストを開催してもいいのか」と、脅迫にならない脅迫をするのも、これとまったく同じことをしているわけです。こういう「反撃」は、常に男性から「やれば?」と冷笑されるだけで、いずれも不発に終わっています(ミスター・コンテストが開催されたことはあるが、反撃としての効果があったとは言えない)。きっと、こうしたフェミニスト達は、私の小学校の頃の同級生の女子と違って、子供の頃に上のような「学習」をしなかったのでしょう。

 「ブス」とは何かというと、これは単に顔の造作が悪いというだけではなく、性的エロス的な対象にならないという意味を含んでいます。これは、「性=生」という連続した物語性を生きる存在である女性にとっては、単に「現在」を否定されるだけではなく、「可能性」を否定される言葉であって、だからこそ大きなダメージを与える言葉になるわけです(それゆえ「ブス」といわれたり失恋した場合に、もっと奇麗になって後悔させてやる、というような怨念はアイデンティティ補償としてかなり有効なのである。いまだに奇麗になってないケド ^^;)。

 しかし、同義の言葉を男性に向けても、同じダメージを与えることは不可能です。女性とは異なる「在り方」をする男性にとっては、成人でいえば、「無能」とか「月給泥棒」といわれる方が、よほど「こたえる」でしょう。36.反・男性中心思考でも触れたように、男性と女性とではアイデンティティの置き場所が異なるからです。

 現在、既に女性の社会進出はかなり進んでいますが、「人間としては認めるが女性としては認めない」といわれて喜んだり、喜ばないまでもその言葉によってダメージを受けないという女性が、どれくらい存在するでしょうか。その一方で、ブランドもののブレイクや、ファッション、エステ、化粧品などのいまだ衰えない広告の氾濫が何を意味するのか。この事実は、単に女性がエロスゲームに「参加させられた」というだけでは、現実に何の力も持たないでしょう。

 ここで改めて、「男の特徴」と「女の特徴」に話を戻します。

 野球が好きだから、ビリヤードが好きだから、スカートはくのが嫌だから、女が好きだから・・・etc・・・・。そう、答えようかと思ったのですが、女の子でもそういう子はいくらでもいるわけです

 単に、「××が好きだ」というだけなら、確かに野球でもビリヤードでも、そういうものを好きな女の子はいるわけです。しかし、さらに、「なぜ好きなのか」、「自分がそこで何を求めているのか」を考えてみると、もう少し違った答えが見えてくるのではないでしょうか。

 この場合、ビリヤードや野球をすることで生活費を得ているというのでなければ、男性、女性ともに「ビリヤードが趣味だ」とか「野球が趣味だ」といえる。このレベルでは特に男女の違いはないでしょう。しかし、さらに掘り下げて考えてみて、それらのものに対してどれくらい入れ込んでいるか、ですね。「入れ込んでいる」といっても、一週間に5日というような「回数」の問題ではなくて、「質」の問題です。負けるとすごく悔しいとか、それも自分のプライドが揺らぐような悔しさを感じるようなら、これはかなり男性的だといってもよいと思います。この場合だと、「勝負そのもの」とか「勝ったときに感じる優越感」とかですね。女性だって、そういうものを求めてもいるでしょうが、しかしそこで一緒に誰かと時を過ごすことのほうにかなりウエイトが置かれていることが多いのです。

 ですから、もちろん女性だって負ければ悔しいでしょうが、悔しさの質が違う。言い方は悪いですが、36.反・男性中心思考で書いたように、女性から見て「男ってどうしてあんなことに、あそこまで夢中になれるのかしら」と思うくらい、腹の足しにならないことに入れ込む(^^;)のは、男性の特徴だと思います。趣味への入れ込み方という話で言うと、いろいろな趣味で「マニア」が多いのも男性です。

 それから、「スカートを履くのが嫌だ」という女性も確かにいますが、それでもその多くは、たいていは男性の目にエロス性を感じさせるような装いをしているものです。もちろん、これも全員がそうだというわけではなくて、そういうことにまったく無関心な女性もいれば、本人はその気があるのにエロス的な装いに失敗する女性もいます。しかし、一般論として言うならば、スカートを履くのが好きでも嫌いでも、女性の多くがエロス性の獲得を目指しているという事は言えるわけです。

 こうした、男性や女性のそれぞれの「在り方」について考えてみると、何が好きとか嫌いという事は、意外に表面的なものだという事が見えてくると思います。具体的な好き嫌いよりも、自分の実存性をこうした「在り方」に照らしてみたときに、自分が男か女かが、割とはっきりと現れて来るのではないかと思います。

L.Jin-na


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