41.社会の意味

神名龍子


 一般論としての「男らしさ」や「女らしさ」と、個々人の生き方についてどのように考えればよいのか、という事について、しばらく考えていました。

 私の考えでは、「33.T's とジェンダーフリー」にも書いたように、ジェンダーという「価値の秩序」の基準はなくならないものであって、現在のジェンダーの有り様を壊しても、それに変わるものが生成されるか、もしくは壊された在り方が復活するか、いずれにしても何らかの形で、ジェンダーは常に社会の中に在り続けるだろうと思います。

 理由は簡単で、ジェンダー、ここではジェンダーレベルでの「性差」といってもよいと思いますが、そういったものは確かに性差別に利用もされるけれども、しかし男女の幸せな在り方や人間のエロス性などの源泉でもあるわけです。「性差」を否定する種類のフェミニズムや、ジェンダーフリーの主張というのは、「性差」の悪い面だけをことさらにあげつらっているので、どうしても偏った主張になります。

 この考え方の代表としてラジカルフェミニズムを挙げると、そこでは「性差」はあらゆる「性差別」の根元という事になっているんですね。だから、その辺の主張を読むと、「性差」と「性差別」という言葉が混同されていて非常に判りにくいんですけれども、確かに「性差別」の原因をたどって行けば(たどり方によっては、ですけれども)「性差」に行き着くとは、私も思います。しかし、「性差」がなくならなければ「性差別」はなくならないという主張は、はっきりと間違いだと思います。

 「性差別」の原因をたどって行くと、その根本的な原因は「性差」である。だから逆に、「性差」があれば必ず「性差別」が生じるし、「性差別」をなくすためには「性差」をなくす必要がある。簡単にいえば、そういう事ですね。だから、ある女性が「そんな事はない、私は今、彼ととても幸せに過ごしている」といっても認めない(笑)。「そんなはずはない、あなたは男にだまされているんだ」というわけです。

 これを新幹線に例えると、ムチャクチャな主張である事がよく判ると思います。

ラジカルフェミニズム新幹線
「性差別」の原因をたどると
「性差」に行き当たる
「盛岡」から新幹線に乗ったら
「上野」に着いた
だから「性差」がある限り
「性差別」が発生する
だから「上野」から新幹線に乗れば
「盛岡」に着く
そんな事はない、私は今、彼と
とても幸せに過ごしている
そんな事はない、私は「上野」から
新幹線で「長野」に行った
それは男に騙されているので、
本当は「性差別」されているのだ
それはJRに騙されているので、
本当は「盛岡」だったのだ

 地名は別にどこでもよかったのですが、とりあえず今回はこういう形で使わせていただきました。けっして、「盛岡」が不幸な土地だという意味ではありませんので、念のため(^^;)。

 表の左側のラジカルフェミニズムの主張というのは、論法としては右側の新幹線の話とまったく同じです。何をいいたいのかというと、「性差」というのは、「13.男と女の非対称」で書いたように、女性が男性を惹きつけるために必要な「差異」であって、男女の関係が不幸なものになるにせよ、幸福なものになるにせよ、その始まりは同じ「性差」の存在から始まるという事です。

 右図下段の私の考えでも「性差別」の根元は「性差」だという事は出来ますけれども、逆に「性差」の存在が必然的に「性差別」を発生させるという事にはなりません。ラジカルフェミニズムの考え方では、この「分岐」が見落とされていると思うのです。つまり私の考え方の中の、赤線で示した部分だけが注目されているわけです。

 それともう一つは、これは以前にも「10.『差別』について」で書きましたけれども、「差(差異)」と「差別」は違うという事ですね。「性差別」は確かに「性差」を利用して行われるけれども、「性差」は「性差別」の本質ではなく、「差別」の本質は不当な方法によるアイデンティティ補償にあるわけです。つまり、ある男女の関係において男性の側に、「性別」というカテゴリーを利用して「女性」を貶めることで自己のアイデンティティ補償を行おうとする心性があると「女性差別」になる。図の中の私の考え方で、男女の関係が「性差別」の方へ分岐するかどうかは、男性の側にそういう心性があるかどうかにかかっていて、男女間の関係が必ずしも「性差別」として現れると限定されるわけではありません(もちろん厳密に言えば、「女性差別」だけではなく、同じ理由で、女性による「男性差別」だってありえるのです)。

 これに付け加えていうと、ラジカルフェミニズムの中には、「しかし『性差』はなくならないから、『性差別』をなくすことも不可能である」というような、ニヒリスティックな意見も出て来ているようですが、これも私の考えでは、そもそものラジカルフェミニズムの「性差」と「性差別」の関係についての考え方が間違っているわけですから、そういう種類の絶望に陥る必要はないと思います。「性差別」の問題については、「性差」というスタート地点ではなく「分岐点」に焦点を当てて、幸福な関係を築くことの出来る条件や、「性差別」が発生する条件について検討するべきでしょう。つまり、どういう条件があるとどちらへ分岐して行くのかということですね。

 それから先日、ある自助グループの集会で、神奈川県が発行した、ジェンダーフリーのパンフレットを見ましたが、これが相当ひどい(笑)。とにかく「性差」というものはないんだということを、これははっきり「詭弁」といってもよいと思いますが、そういう手口を使って「これでもか」といわんばかりに並べ立てているわけです。

 実物が手元にないので、一例を挙げるにとどめますが、男女の「体力」面での性差について、マラソンが例に挙がっています。これは海外で書かれた他の本でも見掛けたことがあるので、すぐに判るのですが、マラソンで重要なのは、「体力」の中でも特に「持久力」ですね。女性が持久力に優れていることはスポーツ科学などの分野でもかなり前から判っている事なんですが、このパンフレットではそういう事は書いていなくて、いつの間にか「体力」という言葉を使いながら、その内容が、「体力」という概念から「腕力」とか「瞬発力」などを除いた「持久力」だけの話にすり替わっているわけです。

 それとマラソンというのは、実は「持久力」だけではなく、どういうフォームを取るかとか、いかに無駄のない動きをするか(体力のロスを防ぐか)という「技術面」にかなりのウエイトが置かれる競技です。事実、フォームの修正だけで記録が伸びるという例がいくらでもあるわけです。ですから、陸上競技の中でも、短距離走などに比べると、男女間では記録上かなり近い数値が出やすい競技で、これが体力面での「性差」の否定にマラソンの話が多用される「手品のタネ」になっています。しかしこれは、マラソンがどういう競技かという事さえ知っていれば、実は「記録の比較」がイコール「体力の比較」にならない事は自明の理なのです。

 逆にいうと、こういう種類の競技の例を頻繁に持ち出さざるを得ないということが、体力面での「性差」の証明になってしまっています。以上の事から、この話はパンフレットにあったような、男女の体力的な性差が問題にならないほど小さいという事の「科学的な証明」には、実は、全然なっていないという事が判ります(ただし、このマラソンの例からも、「持久力」や、身体運動上の「技術」においては、あまり「性差」がないという事は言えると思います)。


 「性差」それ自体を無くすことは出来ないとして、しかしこれは同じ理由で、「性差」が絶対的によいものだとか、ジェンダーレベルの「性差」を現状のまま固定すべきだという話にもなりません。これも、「33.T's とジェンダーフリー」で書きましたが、ジェンダーというのは言葉と同じで、時代と共に変化して行くものですから、なくす事が出来ないのと同様、固定することも出来ないのです。

 考えてみれば、言葉(言語)もジェンダーも、各文化の内で歴史的な過程を持った「文化」であるという点ではまったく同じです。その言語の方には、ソシュールの言語学の概念で、ラングパロールというのがあります。

 ラングというのは、「言語活動の能力の歴史的・社会的所産として、同じ共同体の成員が共有する記号体系」、つまり日本語なら日本語という「言語」の意味です。それに対して、パロールというのは、「ラングの規則に従って個人が意思を表現・伝達する、1回ごとの発話行為」です(両方合わせて、ランガージュというんですけど、これは今回は覚えなくてもいいです ^^;)。

 パロールというのは、とりあえずラングの規則(文法)に沿った行為(発話)なんですけど、完全に文法したがったものだとは限らなくて、そこからはみ出す事もあります。しかし「準拠」ぐらいはしているといえる。逆にいうと、完全にラングを無視したパロールというのは有り得なくて、それはもはや別の言語(ラング)を形成しているわけです。

 この考えから言うと、「男らしさ」や「女らしさ」というのも、日本なら日本の社会やその文化の中で共有されている、言語学でいう「ラング」のようなものですね。だけど、別に T's じゃなくたって、そこからハミ出している人はたくさんいる。しかし、そこから完全にはずれてしまうと、言語でいえば意志の疎通が不可能になりますし、性別についても、どうしても社会不適合を起こしたりするわけです。

 そうすると、男だから「男らしく」しなくちゃいけないというのは、やたらと文法にうるさくて「言葉の乱れ」を嘆いてばかりいるオヤジのようなものだし、また逆に、自分のパロールを認めろというために、現在のラングは不当だから変更しろとか、ひどいのになるとラングそのものをなくしてしまえとか、そういう思想になる人もいる。前者は、言語にこだわる割にはパロールという概念が判っていないし、後者の場合、言語そのものが成り立たなくなってしまう。これはどちらもおかしいわけです。

 これを、ジェンダーの話で言うと、前者が性別役割固定論で、後者が「性差」を否定する種類のフェミニズムやジェンダーフリーの思想です。どちらも、ラングとパロールの区別がない(ラングだけ、パロールだけ)という点では同じで、だから妙に両極端な結論ばかりが出てくるわけです。だけど、世の中のほとんどの人は、そういった両極端な思想にはどうしても違和感があって、どちらにしても乗って来ない。現実には、そういった現象があるわけですね。これは世の大衆が愚昧だからそうなるのではなくて(笑)、両極端な理論が(両極端ゆえに)現実離れしているので、受け入れ難いものになってしまっているからです。

 T's でも、この区別がつかずに、ジェンダーアイデンティティが「女」だからという理由で、「自分の在り方」をラングとしての「女」の枠に押し込めると、ひどく息苦しくなります。だけど、ラングとしての「女」に「準拠」はするけど、パロールとしては、自分なりのハミ出し方はあってもよいわけです。正確にいうと、よいも悪いもなくて、実際にそうなっている。

 なぜかといえば、例えばパスというのも、基本的にはその人がどの程度ラングとしてのジェンダーに「準拠」しているかという、他人からの評価の問題なんですけど、実は、このラング自体、その内容がハッキリしないという、やっかいな性格を持っています。これは上記の通り、長い目で見れば、言語にしろ、「男らしさ」や「女らしさ」にしろ、常に変化するものだからです。だから、大まかな共通了解は得られても、固定した像は得られない。そういう性格のものですね。  そして、基準が不明瞭である以上、「ラングとしてのジェンダー」(たとえば男らしさや女らしさ)に、「準拠」ではなく「きっちり当てはまっている」人というのは、「そもそも」いないわけです。もし、そういう事を求める人がいるとしたら、それは背理ですよね。

 私はここでは、「ジェンダー記号」等の考え方と接続しやすいようにソシュールの言語学の用語を使いましたけど、この発想の基本は実はジンメル(1858〜1918)です。少しニュアンスは異なりますが、彼は「社会的役割」と個人的な「人格」の区別が必要だという事をいっているそうです(参考「『支配』と『文化』の社会学」菅野仁:「行為と時代認識の社会学」(小林一穂[編著]・創風社)所収)。この考え方からすれば、ジェンダーというのは、(やや特異なものではあるが、しかし)「社会的役割」の一種に過ぎないといえるでしょう。


 ジンメルの考えでは、「社会」とは、人々が日々の活動によって織り成す関係の網の目であり、そのような人間のふるまいの有り様が社会を作るとされています。そして、ここでは社会とは静的に捉えられるのではなく、動的に不断に編み替えらるものとして捉えられています。私の考えでは、共同体に共有される「ラング」としての言語や、ジェンダーも、その一種だと考えてもよいのではないかと思います。また、この「社会」の見方は優れたもので、私は「33.T's とジェンダーフリー」の中で、フェミニズムやジェンダーフリーの考え方には「時間軸」がないと書きましたが、ジンメルの「見方」には「時間軸」が含まれているわけです。

 ところが、どういうわけかジンメルの思想も「無時間的」という批判を受けたようで(これは彼の形式社会学でいう「形式」に関わる理由だと思いますが、今回は省略します)、この批判には納得できません。私の受け取り方では、ジンメルのいう「社会化」とは「動的変化」であって、「時間」を無視しては成り立たない「見方」です。ですから、これを「無時間的」な考え方だと見るのは無理があって、そういう批判は誤解によるものだろうと思います。

 さて、その「社会」の中で人々は他者からどのように捉えられるのか。ジンメルによれば、人間は「社会的存在」であり、同時に「社会外的存在」でもある。これはおそらく、二律背反というようなものではなくて、私が「16.個人に属す『性』」で書いた「社会的存在」と「プライベートな存在」に、ほぼ該当するのではないかと思います。つまり人間はその両方の面を持っているという意味ではないかと思います。

 「社会」とは「社会化」のプロセスそのものであり、その中で人間は「社会的役割を遂行すること」=「社会化のプロセスの構成要素としてふるまうこと」を期待されます。しかしその一方で、私達は誰でも人間を「それだけ」の存在ではないこと、つまり「そうではない部分」がある事を知っています。この「そうではない部分」が、つまり「人格」です。

 私が「16.個人に属す『性』」を書いた時には、まだ近代批判とか「脱近代」という頭が強かったので、「社会的存在」と「プライベートな存在」という人間の二面性を、矛盾の原因となる「分裂」だと見ていました。しかし、そこはジンメルの考えではちょっと違っています。今なら私にも判るのですが、まず一つは、それは完全な分裂ではないという事ですね。つまり「人格」は社会と無関係なものではない。この考え方には、「なるほど」と納得させられました。

 別概念ではあるけれども、無関係ではない。この点も前述のラングとパロールに似ています。上の「社会化」という事を考えれば、それはポスト構造主義が主張する、「私達は社会というシステムにとらわれて、そこから逃げる事は出来ない」というような、一方的な影響ではあり得ません。両者は相互影響的な関係にあると考えるべきだろうと思います。私達は、この社会の中においての自分の可能性(有り得る)を目指して生きている。しかし、その一方で私達個々の生き方が、「社会化」というプロセスによって社会を動的に変化させてもいるわけです。


 なぜ、ポスト構造主義が、「社会というシステムにとらわれて、そこから逃げる事は出来ない」という事を問題にするのかというと、これはポスト構造主義が批判する対象である真理主義(マルクス主義)と同様、自分達の不遇感の根拠をすべて社会に還元して「こんな世の中はけしからん」ということを前提としているからですね。真理主義の主張は、その「けしからん社会」は正しい認識(=絶対の真理)によって変えられるというもので、ポスト構造主義の主張は「絶対の真理」なんかないというものです(そこには、だからどうしようもないんだという、絶望的なニュアンスが潜在しています)。

 ジェンダーフリーを見ていると、まず「性別二元制」とか「男性優先社会」という概念を掲げて、「こんな世の中はけしからん」と言う。それから相対主義によって、「しかしそういうものには実は根拠はないんだ」といい、最後に「こういう世の中が理想だ」という理想像を掲げる。相対主義と真理主義を、自分達の主張の都合に合わせて使い分けているわけです。ですが、こういう主張は、ジェンダーフリー論者自身が使っている相対主義によって相対化出来てしまう。

 しかし私の考えでは、両者に共通する「こんな世の中はけしからん」と言う前提そのものからおかしいと思うわけです。ですから、私は他のサイトで「代案なき批判」という指摘を頂きましたけれども、しかし「代案」といっても、それが「こうすればすべてOK」という種類のものを意味しているのでしたら、ありません(笑)。私の主張の中には、そんなモンはない、という真理主義批判も含まれているわけですから、そんな形の代案は出るはずがありません。

 でも、それではポスト構造主義が考えるように、「どうにもならん」というのかというと、そうではなくて、上にも書いたように、私達は具体的な問題に一つひとつ取り組んで解決に向かって行く事が出来るし、またそれしかないのです。

 「こんな世の中はけしからん」と言う前提がおかしいと言う事についてですが、これだけだとまた、現状の社会を肯定していると誤解する人が出るので(だったらこんなコト考えるかい! ^^;)、これについても少し書いておきます。

 例えば現在、憲法に定められている平等というのは、「機会の平等」ですね。教育についての平等というのは、教育を受ける機会の平等であって、教育の結果の平等ではない。もっというと、この世の中には競争原理というのがあって、しかしその競争はフェアに行われなくてはならないという理念があるわけです。その競争というのは、要するに欲望の実現ですね。競争といっても、お互いに協力し合うこともあるわけですから、ゲームといった方がよいかも知れません。

 ゲームである以上、自分自身が工夫・努力して手を進めて行く事を引き受けなくてはなりませんし、その結果として当然、勝ち負けもあるわけです。なぜ、競争原理を取り入れているかというと、これは人間が持つ欲望をある程度(=ゲームがフェアに行われる範囲で)認めているからです。逆に、勝ち負けがある事自体が許せなくて競争をなくしてしまおうとすると、これは必ず人間の欲望を抑圧する思想になります。

 しかし、このゲームを完全に野放しにするのもよくなくて、これは初期の資本制を見れば判る通り、不正や貧富の差などの諸問題を生み出します。それに対して人間は、二通りの方法で対処しました。一つは、競争それ自体を否定し、人間の欲望を抑圧するもの(マルクス主義)で、これは失敗に終わりました。もう一つの方法は、ルールを設定することによって、ゲームを行う条件をフェアに、そして貧富の差が開き過ぎないように調整するというものです。これが現在の資本制ですね。

 ここから言えることは、社会というのはせいぜい「欲望の実現」というゲームを行う上での「条件」を与えることが出来るだけで、ゲームの結果を保証するシステムではない、という事です。個人の持つ不遇感をすべて社会に還元しようとする思想が失敗するのはそのためです。しかし、それによって出来上がったのは、個々の人間が様々に持つ欲望の多様性を認めず、平等にエサを配るだけのブロイラーのような社会でした。「結果の平等」を保障しようとすれば、そうするしかないでしょう。

 ところで、例えば男女の雇用「機会」の不均等というのは、私の考え方(機会の平等)に照らしても不当であって、それはルールの設定、もしくは変更によって解決する必要があるわけです。しかし機会の平等だけですべての問題が解決するわけではありません。


 個人の不遇感の根拠をすべて社会に還元することが妥当ではないとしたら、他にどんな問題があるかというと、一つは、個々の(例えば、私なら私という)人間が「生」を深く楽しんで生きるとはどういう事かという、個人の「生き方」に対する了解です。

 マルクス主義にせよポスト構造主義にせよ、理論としては相当ねじくれていますが(笑)、しかしそういう主張をしている人でも、実はその大半の人は自分の「生」の中で、自分の欲望(エロス)の対象を何かしら持っていて、それを楽しむ術(すべ)を知っているわけです。ただ、現在ではそれがアイデンティティの確立にまではつながりにくいという問題はあって、そこから不遇感ないし閉塞感が生じている。

 でもそれは、価値観の多様化の当然の帰結だといえます。固定した価値が社会的に共有されている状態、例えば男は結婚して家を持って家族を養って行けるようになれば社会的に一人前だとか、そういう考え方が普通にあったような時代なら、男性はそれを目指していればよく、またそれを実現すれば「一人前」と認められたわけです。この場合、家庭に大きな問題があるとか、家庭が崩壊したというようなことがなければ、この男性のアイデンティティは確固としたものになりますね。でも現在では、そういった共通の「物語」は崩壊してしまった(もしくは、崩壊しつつある)ので、それだけではどうにもならないわけです。

 多様な価値観があって、人々がそれぞれ自分にとっての「価値」を求めるようになった現在では、自分にとっての「価値」を手にしても、他人がそれを価値として認めないので、他者からの承認が得られない。それが現在の問題ですね。

 しかし、具体的に「何」に価値を認めるかという点では個人間で異なっていても、自分にとっての「価値」を手にした時に喜びを感じるという事は、これは誰にも普遍的なものでしょう。そのためには、まず自分にとっての価値、言い換えれば、自分の欲望をまず本人が知らなければ実現のしようがありません。そんなものは、「あなたはこれに価値を感じなさい」といって社会が、あるいは他人が与えてくれるようなものではないからです。他者に出来る事は、せいぜい「こんなのもあるから試してみたら?」という程度です。

 自分自身にとって価値あるモノ(コト)を知って、それを実現出来た時や、実現できそうだと感じられた時には、人は喜びと高揚感を得て、「力」が湧いてくるのを感じるでしょう。その様子が他者から見て好ましく感じられた時に、「自分らしい生き方をしている人」という羨望と賞賛を得られるわけです。

 そういう人を羨んだり賞賛したりしなさいと、私がいうのではありません(笑)。今これを読んでいる人達の一人ひとりが、「社会が悪い」といってグチをこぼしている人と、社会的な「名前」の改名に成功した人とを見比べて、それぞれを自分がどのような目で見るか考えてみればよいと思います。

 社会的に「善」とされているものではなく、「自分」にとって「よい」ものを目指すことが、人間にとって大切なのです。ここでは、そのための手段や能力を「力」といっています。もちろん、富や権力はある種の人にとっては目的そのものでもあるのですが、これは他の目的を実現するための「力」でもある。それから、すぐれた容姿、深慮、技芸、雄弁、気前のよさ、高貴、評判、友人なども、ここにいう「力」です。特に友人、もう少し広い意味で言うと「よい」人間関係ですが、これは複数の人間の「力」を集結できるという意味で、非常に強力な「力」です。

 だから、私は「よい」人間関係を築くべきだとはいいますが、「それは愛です」なんて事は口が裂けてもいいません(笑)。そうではなくて、それは自分自身の自己実現のための「力」なのです。だからこそ、信頼や協力も、愛や神の命令によってなどではなく、もっと現実的な意味において大切にすべきだと思うのです。もちろん同じ理由(自分自身のため)で、ケンカもありえます(笑)。協調もケンカも選択肢に含めておいて、その上で、出来れば協調の方を選びたい。選びたいのですが、しかしそれは信頼できる相手である事が前提です。こちらが「協調」というカードを切ったときに、相手が「裏切り」というカードを切ったら、「協調」の方が負けます(ただし「裏切り」というカードは長い目で見ると自分の信用をなくし、「力」を失う原因にもなります)。


 もう一つの問題は、「場面」(状況の文脈)ですね。再び言語を例に取ると、私達は普段、仲間内で集まってお互いにリラックスしている時にはくだけた言葉を使いますし、改まった場面では言葉も改まったものになります。つまり、同じラングを共有している社会の中でも、場面によって異なるパロールを持つということです。

 男らしさや女らしさもまったく同じで、必要な場面で男らしく(女らしく)あればよい、というのが私の考えです。ですから、これは当然、ラング(としてのジェンダー)を心得ている必要があって、そうでなければ「場面」の使い分けも出来なくなります。私自身、ぜんぜん色気のない場面もあれば、フェロモンをバラ撒いているような(笑)場面もあるわけです。

 でも、これはホンネとタテマエというのではなくて、要するに TPO を心得えてふるまうといった、ごく当たり前のことですね。ジンメルの用語を使っていうと、仕事中は「社会的役割」を果たす。これは周囲も「社会的役割」を果たすことを期待している場面であって、その役割を果たすこと(期待に応えること)で人間関係が上手くゆく「場面」だからです。反対に、プライベートの時間というのは、個人的な「人格」の時間ですね。例外はありますが原則としては、そういう時には「社会的役割」を期待するの方が間違いなわけです。ジンメルはこれを、「人格と行為遂行の距離」と呼んでいます。この「距離」を心得ることが大切なわけです。

 ですから、「全員が平等な社会」というものを考える場合にも、「社会的役割」を場面(状況の文脈)から切り離して考えると、「あらゆる上下関係をなくしてしまえ」というような話になってしまって上手くない。これは秩序の解体であり、社会そのものの解体だからです。しかし、「場面」の違いを無視して「絶対的な価値秩序」を想定し、いついかなる「場面」においてもすべてその価値秩序を適用するという事になると、これも上手くありません。社会の秩序の中で一種の支配関係(上下関係)が生じるのはいわば必然ですが、しかしその支配関係をいついかなる場合にも固定的に適用しようとするのは、間違いです。これは、「人格と行為遂行の距離」に対する認識が欠けた、ひどく息苦しい社会になってしまいます。

 大切なのは、まず「場面」の区別がついていること。つまり、「人々の支配的行為を正当化する権限を支える諸領域が『きっかりと明確に分化されていること』」(前掲書:P111)で、ここでいう「分化」とは、私の考えでは、権限の及ぶ範囲が「限定されていること」と読み替えてもよいかと思います。例えば「部長」の権限はその会社の仕事に関する事だけに使えるもので、その限りでは正当な権限だけれども、自宅の掃除を部下に職務権限で命じてやらせるとか、そういうのは不当なわけです。

 次に、それぞれの場面において、分化・限定された諸領域での権限をお互いが承認し合い、人々がさまざまな役割期待を担って、各自が役割を遂行する事。つまり、各人が社会的な役割を果たすことを期待され、それを果たす事。

 三番目に、各人の「人格」と「社会的存在」(役割)の間の距離を、お互いが了解している事。これは、人間は社会的役割を果たす事を期待されるけれども、決してそれだけの存在ではないんだという事を、お互いが認め合う事ですね。


 私は昨年、「33.T's とジェンダーフリー」の中で、「『社会』の中には、性差を第一義的認識としても構わない場面もあれば、性差を第一義的認識とすべきではない場面もあって、その区別を立てることが、まず必要」だと書きました。しかし、その中ではこの区別をどのようにつけるのかという事があまり具体的に考えられていませんでしたので、ここでそれについて考えてみたいと思います。

 これを踏まえて、性別の問題について考えてみることにします。まず「性別役割」(gender roll) が、上記にいう「社会的役割」の一種だという事は、すぐに判りますね。そうすると、性差を第一義的認識としても構わない「場面」というのは、「性差」を問題にする事が何らかの妥当性を持つ領域だという事は想像がつきます。

 ここで、一言ふれておく必要があると思うのは、フェミニズムの中でも「性差」を認めないという系統があることです。その考え方をベースに置くと最初から、「性差」を問題にする事が妥当性を持つ領域などあるはずがない、という事になってしまいます。しかし、「性差」の否定のおかしさについては、既に上述しましたのでここでは詳述しません。ただし、ある分野において、ある種の「性差」を問題にする事が妥当かどうかの判断は、これはルールの編み替えの一環であって、それ自体が一種の「ゲーム」です。ですから、これも当然「フェア」に行われなくてはなりません。

 この点、前述の神奈川県のジェンダーフリーのパンフレットにあるような、詭弁の羅列で「言いくるめた者勝ち」という姿勢で望むのは、やはりルール違反でしょう。目的が何であれ、国家や地方自治体がアンフェアな姿勢を持つ事は、本来許されるべきではなく、政治(広い意味での)は、正直とリアリズムに乗っ取って行われるべきだと思います。

 私が妥当な考え方だと思うのは、まず「性差」の存在をきちんと認めた上で、それぞれの分野においてその「性差」が問題になるかどうかを考える事だと思います。逆に言えば、その「性差」が問題にならないはずの分野では、それを理由に女性(または男性)を締め出すことがあってはならないという事でもあります(両者の区別が問題なのですから)。こういう「締め出し」はおそらく、「誰が見ても不当だと思うこと」として認められるでしょう。

 それから、かつては「性差」が問題でも、現在はそれほど問題ではなくなったという場合もあるでしょう。例えば、女性は仕事を覚えた頃に結婚して退職してしまうという理由で雇用を避ける傾向がありましたが、これは戦力を育てるという意味や、そのためのコスト面からも、(かつては)それなりの妥当性はあったかも知れません。しかし現在では、結婚しても仕事を続ける女性が増えたこと、それに、年功序列や終身雇用制が崩壊しつつあり、ヘッドハンティングなども増えたことで、男性もいつ辞めるか判らなくなって来ています。したがって現在では、この面で男女差を語る意味は、かなり薄れてきています。

 私は、ジェンダーフリーというのは、「かくあるべし」という理念ではなく、このような具体的な問題について一つひとつ検討を加え、不都合のある部分は修正し、「その結果として」実現するものであって、いたずらに理念を振り回し、その理念の問題点も省みないような種類の社会運動によって実現するものではないと考えます。大切なのは、理論的に導かれた統一的な理念ではなく、現実の中で個々人が見つける「生きる意味」であって、社会的にはそのために、いかに「フェア」なゲームが出来る環境を地道に整えてゆくかが問題なのです。

L.Jin-na


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