43.性を哲学する

神名龍子


 「性を哲学する」とはどういう事か。それ以前に、まず「哲学する」とはどういう事なのでしょうか。あえて一言でいえば、「根本から考える」という事です。なぜか。「『どう解く』の系譜」デカルトの話の中でも触れましたが、宗教のように何らかの仮定(フィクション)を根底に置けば、その最初の前提(フィクション)を認めるか認めないかという、ごく根本的なレベルで水掛け論になってしまうからです。

 なぜ、そういう事が起きるのでしょうか。

 例えば数学のようなものならば、これは人種や性別などにに関係なく、誰でも「1+1=2」ということが理解できます。つまり、普遍的な論理というものを見出すことが可能です。そういうものを積み重ねていった結果として出来上がったのが、自然科学ですね。だから普通は、科学(自然科学)は正しいと考える。正確に言えば、誰もが「なるほど」と思えるような「知」の体系を築くことに成功したわけです。

 しかしこれは、自然科学の考え方が正しいから、正しい「知」が得られたというよりも、逆に「普遍的な論理を見出すことが可能な分野」だけを自然科学で扱う対象としているから、そういう事が可能になったのです。だから、医学というのは自然科学の一部とされていますけれども、精神医学となると、これは自然科学といえるかどうか怪しくなってきます。その自然科学と切っても切れない関係にある心理学は、これを「自然科学」に含めてよいものかどうかが問題になりました。結局のところ、大学では、心理学は文学部で扱うものになっています。

 文系で扱う対象というのは、自然科学の対象にならないものです。だから、理系と文系が分かれる。文系というのは「解釈」の学であって、例えば同じ文学作品に対してでも、人によって解釈が異なるというような世界ですね。この場合、自然科学との一番の違いは、どの解釈が客観的「真理」であるかという事を問うことが出来ないという点にあります。今現在、私達が住んでいる社会は、どういう社会であるか・・・という事も、こちらに属します。

 ですから、例えば「社会科学」といっても、それは科学「的」な考え方を取りいれてはいますが、自然科学とは、扱う対象の性質が違う。社会科学で扱う対象というのは、数学のように普遍的な論理というものが存在しない世界です。まず、このことを理解しておかないと、「科学的」という看板を掲げて「歴史的必然」というようなことを言い出すようになったりする。ですが、社会の変化というのは、物理学で扱う「物体の運動」とは、その性質をまったく異にするものなのです。

 自然科学と同様に、どこかに客観的「真理」があるはずだということを求めてしまう人がいますが、それはこの根本を理解していない人です。でも、たいていの分野には、こういう考え方を持つ人がいるみたいですね。私が時々、戦争などを例え話に用いるのは、軍事学や戦略という考え方では、昔からそういった唯一絶対の真理があるという考え方が、荒唐無稽なものとして排除され、臨機応変、即時対応、あるいは「兵(=軍事)は拙速なるを聞く」といった考え方が共有されて来たからです。「真理」という概念に置かされなかった数少ない分野なんですね。

 そして、どこかに客観的「真理」があると考えないという点では、哲学も同様です。

 ということは、哲学においては何を「考えるための出発点」とするかが重要な問題になってきます。なぜかというと、「ごく根本的なレベルで水掛け論になってしまう」のを防ぐためです。その場合の「出発点」(思考の前提)というのは、「真理」である必要はないのですが、少なくとも「なるほど、それはそうだ」と納得されるものである必要がある。

 こういうのは、古代ギリシャで初期の哲学から考えられて来たことですね。「世界とは何か」を問う場合に、「世界は神様が6日間で創った」というようなフィクションを置くと、必然的に別の宗教を信じる人との間に「ごく根本的なレベルで水掛け論」が生じます。だから、それは禁じ手にする。それで、タレスという人が「万物のもとは水である」という。水というのは、宗教や人種に関係なく、誰でも知っている概念です。もちろん現代の知識で考えれば、「万物のもとは水である」というのは間違いなんですが(^^;)、しかしここには、特定の「物語」(フィクション)の代わりに、普遍的な概念を世界説明の根本として置くという、発想の転換があったわけです。

 その後、ソクラテスやプラトンに至って、重要なのは「世界が何であるか」ではなく、それを考えたり解釈したりする人間自身の精神について知る事だという話になってくる。この辺から「世界が何であるか」というのは自然科学の仕事になって、哲学は「世界が何であるか」を問う「人間」についての学になるわけです。

 ですから、私達が性や性別について考える場合にも、例えば「この社会は性別二元制社会である」というような前提を置いてそこから考えはじめると、これは哲学でもなければ、いかなる種類の「科学」とも言えなくなってしまう。こういうのは例え「社会科学」や「人文科学」という看板を掲げていたとしても、事実上は「神学」とか宗教に分類されるべきでしょう。

 それでは何かを考える場合に、何を出発点にするかというと、これがデカルトのいう「我思うゆえに我あり」(コギト・エルゴ・スム)になります。「誰にも疑い得ない事」を見つけるために、まずは逆に一切のものを疑ってみる(方法的懐疑論)。私の目にパソコンが見えるとしても、本当に私の前にパソコンがあるのかどうかは、疑おうと思えば疑える。しかし、そうやって疑ったり考えたりしている私の存在、これだけは疑い得ない。これが「我思うゆえに我あり」という言葉の意味です。

 そして、この考え方をさらに突き詰めて行くと、フッサール現象学になります。

 では、その方法を使って、どのように考えるか。順番からいえば、まずそもそも「性別とは何か」について考える必要があります。性別について考えるのに、その性別が判らなくては話にならないからです。

 一言でいうなら、性別とはある種の「関係」に他なりません。少なくとも私達が「男」とか「女」ということを意識するとき、それは異性との関係の上で、あるいは対比の上での現われ方を示しています。普通の考え方では、まず「男」や「女」が存在していて、その間に「関係」があると考えるでしょう。これは、別に性別に限った話ではありません。私達は先に、まず「A」と「B」とを考えてから、「AとBとの関係」を考える。それが普通の考え方の順番です。そして、性別というものをセックスレベルで考えるのであれば、それでも差し支えないでしょう。

 しかし、ここで考えているのは性別の「意味」です。その場合、私達は「関係」の方を先に考え、その上で、それぞれそこに現れる「男」や「女」の意味を捉えるべきなのです。これはあくまでも、考え方の順番の問題です。「男」や「女」の意味が、両者の関係の上に現れるものである以上、私達はまずその「関係」を押さえておく必要がある。それを考えずに、先に個的存在としての「男」や「女」を考えても、その意味が現れる「場」(関係)を無視した「男」や「女」の意味というものは成立しないからです。

 先に「男」や「女」を個的存在として捉えると、これは一見すると、性差の否定を主張したい場合には都合がいいですね。それぞれ両者の特徴を挙げて、異性の特徴を兼ね備えることで、両者は同じになれるというような理論展開がしやすいからです。

 例えば、渡辺恒夫氏の「脱男性の時代」(勁草書房)などは、その顕著な例でしょう。男性が「化粧」や「スカート」によって、つまり女性のジェンダー記号を身に付け性の<越境>をすることによって、「解放」されるというような話です。氏の主張するところでは、男性の性のアイデンティティは、女性のそれに比べて脆弱で不安定であるということなんですが、では男性が女性のジェンダー記号を身に付けたら、女性と同程度の性的アイデンティティの堅固さが保証されるかといったら、まったくそんな保証はありません。なぜかというと、ここでは「男」と「女」の関係という視点が抜け落ちているからです。

 元々「男」の身体に生まれたけれども、性自認が「女」であるという場合なら、女性のジェンダー記号を身に纏うことで「女」としての性的アイデンティティを強化することが出来ます。しかし、非 T's の男性の性的なアイデンティティについても、同じ手段によって強化できるというのは矛盾であって、これは単に「男性であること」を放棄しているだけです。これでは、要するに「男性の性的アイデンティティは脆弱で不安定だから、そんなものは捨ててしまえ」といっているに過ぎません。

 しかし、男性の性的アイデンティティが不安定になっていることは認めるにしても、では、そういう男性達が求めている「解決」とは、そんなものなのかといえば、私にはとてもそうは思えない。少なくとも多くの男性が、「なるほど、それはいい」といって、スカートを履き化粧をするようになるとは思えないのです。男性用の化粧品といえば相変わらず整髪料や香料、せいぜい化粧水程度のもので、男性用のファンデーションは10数年前(くしくもこの「脱男性の時代」が出た頃)に一時的に発売はされたものの、すでに店頭からその姿を消しました。また数年前にマスコミに登場した「フェミ男くん」も、やはり一時的なブームに過ぎませんでした。いわばこの渡辺案の実験のような現象は、いずれも失敗に終わっています。

 男性の家事に関しても、渡辺氏がいうように「家事を楽しむこともでき」るというようなものではなく、一人暮らしの独身男性が増えた結果として、家事の達者な男性が増えている。少なくとも、彼等の大半は「必要があるから」家事をするのであって、けっしてそこに男性の「解放」を見出して楽しんでいるわけでもなければ、それによって男性の性的アイデンティティが支えられているようにも見えません(笑)。

 男性が「男」であるというアイデンティティというのは、当然「男」の意味(その人なりの)が不可欠であって、この性的アイデンティティの確立は、男女の「関係」を抜きにして考えることは出来ません。男性の性的アイデンティティ、女性の性的アイデンティティというものがある以上、そこには必然的に、その価値基準としての「男らしさ」や「女らしさ」があるはずで、しかも両者は、片方だけでは成立しえない相対的なものだからです。例えば、ある共働きの夫婦が家事も男女で分担しているとして、だからそのどちらも「男」あるいは「女」としてのアイデンティティはありません、といったら「ウソつけ!」という話になるでしょう(笑)。

 もちろん、これはあくまでも一般論としていうのであって、個人として「男女の関係」を持たないホモセクシャルの存在を無視しているわけではありません。しかし、彼個人が「男女の関係」を持たないとしても、彼の価値観の背後にこの構図が存在することで、彼は「男」でいることが出来るわけです。

 では、ここでいう「男らしさ」や「女らしさ」とは何かというと、社会的な「男らしさ」や「女らしさ」と、個々人が持つ価値観としての「男らしさ」や「女らしさ」があります。個人は前者を受け取りながら、自分なりの「男らしさ」や「女らしさ」という価値観を編み上げますが、同時に個々人の持つ「男らしさ」や「女らしさ」の集大成として、その社会(共同体)においての「男らしさ」や「女らしさ」が決まる。両者は相互影響的に常に編みかえられ続けているものです。

 但しこれは、事実上は個人間での相互作用ですね。社会的な「男らしさ」や「女らしさ」といっても、もちろん現実に、現代日本社会における「男らしさ」と「女らしさ」はこのように定められています、という客観的規範が存在するわけではありません。それはあくまでも理念上で想定されるものです。いわば社会とは、不断に人間関係が形成される動的変化の「場」であって、「男らしさ」や「女らしさ」もその変化を逃れて完全に固定化されることは有り得ないからです。このことは、「ジェンダーは固定化できない」という形で、既に「33.T's とジェンダーフリー」で触れました。ともあれ、個々人の内に「男らしさ」や「女らしさ」という概念(価値観)が形成される。このことは間違いないでしょう。

 性別とは、個々人が内に抱える価値観であり、ある種の相対的な関係の了解です。この内の前者の「個々人が内に抱える価値観」について、もう少し掘り下げてみましょう。

 人は自分が何であるかを、他者のまなざしから受け取ります。あの人はこういう人だという他者からの見方があり、それを自分はこう見られているらしいという形で了解します。それを自分なりに了解して内面化する。その積み重なりを、ジンメルは「社会的役割」に対して「人格」と呼びます(参考「『支配』と『文化』の社会学」菅野仁:「行為と時代認識の社会学」(小林一穂[編著]・創風社)所収)。

 ただしこれを、「人間は一方的に他者から規定される」と解釈してはならない。もし、そう思う人がいるとしたら、それは何らかの動機で「他者からの規定」に反発を覚える人であり、なおかつ個人と社会とが「相互影響的関係」にあるという事を忘れている人でしょう。

 この「他者からの規定」は、主に「自分が何であるか」の問題であって、「自分が何で有り得るか」という存在可能性(欲望)については、かなり無責任です。例えば「他者からの規定」としての存在可能性と、自分自身の「自分が何で有り得るか」という欲望とは、しばしば食い違います。しかし人間は、自分自身の行動によって、「他者からの規定」を編み直すことが出来ます。この場合、単に「自分はこういう人間であるから、以後はその様に見てくれ」と要求するだけでは、さほどの効果は期待できません。大切なのは、その人自身の行動です。

 例えば、親がいくら子供を口うるさく躾ようとしても、その親自身がだらしのない人だったら、子供は親の「いうこと」ではなく、そのだらしない「行動」を真似する。これは、親子に限らず、あらゆる人間関係に共通することです。自分はこういう人間なんだと認めて欲しかったら、他者の目にそう映るように行動しなければならない。逆に言えば、自分自身の自己像を他者が認めてくれないのは、現実の自分と、自分自身の自己像とが合っていないからで、それは本人に責任があります。自分の「かくありたい」を実現したときに、初めて「他者からの規定」も「あいつはこういうヤツだったのか」と編み替えられるのです。「自分は、こういう自分のつもり」ではなく、実際に「かくありたい」自分になる必要がある。それが「自己実現」というものです。

 人間は社会的生活を営む以上、「他者からの規定」を逃れることは出来ません。しかし自分自身の行動によって、「他者からの規定」を編み替えることは可能だし、そこに「自由」とか「自己決定」ということの意義や、「自己実現」の可能性があります。「他者からの規定」を逃れられない事が、イコール「不自由」なのではありません。

 そういう努力なしに「自分はこういう人間であるから、以後はその様に見てくれ」といくら要求しても、「あいつは口先ばっかりだ」といわれるのがオチでしょう。その事が判らないと、自分の自己像が認められないのは、世間のやつら(他者)が間違っていると考えるしかなくなります。要するにルサンチマンの思想になるわけですが、これは他者と「判り合う」ことの放棄以外の何ものでもなく、単に独我論であるに過ぎません。

 自分を変えられない人間に、ひとさまの「まなざし」を変えることが出来るはずがない。人は「自分は自分である」というだけでは不充分で、そのことを自分自身の行動によって示す必要があります。だからこそ、行動の「自由」(=自己実現の可能性)が大切なのであって、それができない人間が恨み言をいう権利としての「自由」とは別ものです。

 性別についても、まったく同じことがいえます。性別も「あの人はこういう人だ」という人間の属性である以上、これは当然のことです。例えば、パスというのは、上にいう自己実現とまったく同じことです。自己実現の一種だといってもいい。MTF の場合でいえば、「自分は女だ」と思っていて、他者からも「あの人は女だ」というまなざしを受けるのがパスです。パス出来るようになったというのは、つまり「他者からの規定」の編み替えに成功したということに他なりません。

 むろん、この場合にはある条件があります。それは、その相手と自分とが、「男とはこういうもの、女とはこういうもの」という価値観を共有していることです。そういう価値観が社会(共同体)の中で共有されているからこそ、パスが可能になるのであって、仮にそういう価値観がないとしたら、あるいは個々人がまったくバラバラの価値観を持っているとしたら、パスが出来るかどうかは、たまたま自分と相手とが同じ価値観を持ってる場合に限られ、単なる偶然の産物になってしまうでしょう。

 「性別とは何か」という問題については、ここからあとは既に「40.性別とは何か」で書いていますので省略しますが、これは要するに、個人的な価値観としての性別と、社会的に共有される価値観としての性別との二つの相がある。「ジェンダー」と呼ばれるのは主に後者でしょう。ジェンダーとしての「男」や「女」の本質について、私なりに一言でまとめると、

 性的エロスの源泉としての相対的な関係、その了解の基礎となる価値秩序

という事になります。ついでに、この「本質」という言葉についても書いておきましょう。上野千鶴子氏が、『スカートの下の劇場』(河出文庫)の「文庫版へのあとがき」で、男女のセクシャリティの非対称性について認めた上で、注の中で次のように述べています。

ただしこの「非対称性」は歴史的社会的に形成されたもので、小浜逸郎氏がさまざまな著作で言うように男女関係に「本質的」なものではない。私が男女のセクシャリティの間に「非対称性」を認めているからと言って、上野は自分と同じ意見だとカン違いされるのは迷惑である。セクシャリティにどのような「自然」も「本質」もない。私はその「本質」(とされるもの)がどのように形成されるか、を問うているのである。

(P215、注3)

 これについての、小浜氏の見解と見てもよさそうな文が、『男はどこにいるのか』(ちくま文庫)にあるので、次にそれを引用してみたい。

 ところで私自身はけっして「男女の非対称性が本質的である」ということばを変えようとは思っていない。(中略)もともと本質とはある現象のなかに常に顕現する共通の論理的骨格のことをいうのだからである。

(3章、P104)

 当たり前ですが、小浜氏も男女のセクシャリティの在り方についての「客観的真理」というものがどこかにあるなどとは考えていません。ここでの引用部分からだけでは意味が判り難いかも知れませんが、小浜氏も私も「客観的真理」の存在を前提としていない以上、「本質」という言葉をそういう意味に使っていることは有り得ないのです(なお、小浜氏は男女のセクシャリティの非対称性を「自然」とは表現したことはない ^^;)。

 ここでいう「本質」とは、簡単に言えば、人々が日常生活の中で持っている「意味」のことをいいます。例えば、上に書いたように人々が日常生活の中で「男」や「女」であることをどのように生きているか、その共通の意味を「本質」という。従って、時代や地域が異なれば「本質」が変化することも有り得るわけで、なんら固定的なものでは有り得ません(そのつどの「妥当」があるだけである)。そうではなくて、自分の生活体験上から、「こうなっているではないか」という事をいっているわけです。

 小浜氏は、さまざまな考察に当たってやはり現象学を使っていますが、現象学では上のような「意味」を取り出すことを「本質直観」といいます。そして現象学の提唱者であるフッサール自身が、本質直観によって取り出された「本質」は誰にでも検証可能な(考える道筋をたどり直して検証することが出来る)ものだというように、そうでなければ本質直観とは言えません。したがって、小浜氏のいう「本質」はそもそも、上野氏がいうようにそれが「どのように形成されるか、を問う」ことも可能なものであって、客観的あるいは絶対的な「真理」のように、「問う」ことや「疑う」ことを禁じるような性格を持つものでは有り得ません。

 ところが、上野氏の批判は、小浜氏が「本質」を取り出すに至る過程に対する批判ではなく、ただ「本質」という言葉にこだわっている。しかしそれは、ここでいう「本質」を「客観的真理」というような意味(例えばカントの言葉でいう「本質」のような)に取り違えた場合にのみ成立するものです。従って私には、上に引用した上野氏の意見は、小浜氏のいう「本質」の意味をよほどひどい思い込みによって誤解しているか、もしくは何らかの思惑によって「判らないフリ」をしていると解釈せざるを得ない。

 なぜなら、小浜氏の文章は決して難解なものではなく(私自身、まだ現象学を理解したとは言えない、その学び初めの時期に読むことが出来た)、したがって小浜氏が「本質」という言葉をどのような意味で使っているかは、例え現象学についての知識がなくても、前後の文脈から容易に判断できるはずだからです。小浜氏のいう「本質」が、カントの言う意味での「本質」と同じ意味だと思える人がいるとしたら、なぜそう思ったのかという根拠を質問してみたい。それはもはや思想の問題ではなく、読解力の問題でしょう。

 「客観的真理」なら、ごくありふれた相対主義によって批判することが出来る。しかし、小浜氏の見解は、その相対主義をつきぬけた地平で行われており、それを相対主義で批判しても、的外れの批判にしかなりません(なお、小浜氏自身による「本質」という言葉を使うことについての意見は、上に引用した個所(P104)以降、数ページに渡って述べられているので、興味のある方は直接参照されたい)。

L.Jin-na


PREV INDEX NEXT
[前章] / [ジェンダー素描] / [インデックス] / [次章]