神名龍子
どんな学問でも同じ事ですが、俗流解釈を大真面目に取り上げることくらい危険で馬鹿げたことはありません。それにも関わらず、それは様々な場面に現われ、T's の正解も決して例外ではありません。今回、ここで具体的に挙げるのは心理学についてです。心理学は精神医学との縁が深く、それだけ T's の世界に縁が深いものであること。また比較的最近に、これではどうにもならないなと思えるような俗流解釈を振り回す人を見掛けたこと。このふたつが動機です。
ひとくちに心理学と言っても様々な学派があり、そのすべてを取り上げることは出来ないので、ここでは主に、河合隼雄氏の『とりかへばや、男と女』(新潮文庫)を取り上げます。その理由は、この本が上記の「俗流解釈」の中で言及されていたからで、もちろんのこと、河合氏に恨みがあるわけではありません。それどころか、氏の著作は私も以前に何冊か読んでいます(直接には関係ないが、河合氏の兄にあたる河合雅雄氏はサル学の分野で有名な方で、いわば私は河合兄弟の読者である)。そんな中で『とりかへばや、男と女』というタイトルの本があったら、私のような者が読まない方が不思議でしょう。私だけでなく、ここをご覧になっている方の中にも、この本を既に読まれた方も多いと思います。
まず、心理学とはどういう学問か。ひとことでいえば、精神あるいは精神現象についての学問ですね。この分野に関して、フロイトの詳しい事跡を知らなくても、その名前を知らない人はまずいないでしょう。上に「心理学は精神医学との縁が深」いと書きましたが、それもそのはずで、フロイトは本来、職業としては精神科医であり、彼の学説はその臨床経験に由来しています。彼とほぼ同時代(世代でいえば彼よりも歳下だが)に、やはりフロイトと同様、深層心理学の有名人であるユングがいます。前述の河合隼雄氏の心理学は、ユング系統の深層心理学です。
では、深層心理学とは、どういう心理学か。簡単に言えば、人間が意識(自覚)できない「無意識」が存在するという仮定を置いて人間理解をする種類の心理学です。時々、この「無意識」の存在を、仮定ではなく無意識は実在すると信じ込んでいる人がいるのですが、しかしそれは無意識の定義上、明らかな矛盾です。人間の意識において認識出来る精神活動は、無意識とはいえないでしょう。無意識とは、その存在と働きを仮定することで、通常であれば理解し難いような精神活動に説明を与える「物語」なのです。いいかえれば、「実証は出来ないが、このように考えれば一応は説明がつく」といった類いの仮説です。
もちろん、それが間違いだということではありませんし、また実証できないものは無視しろというつもりもありません。実証できなくとも、有用に使うことが出来るのであれば、使えばよいのです。ただし仮説が有用であるからといって、その事と、仮説が実証されたと考える事とは別問題です。実証と実利の区別を忘れて無意識の存在を実体的に考えると、話がおかしくなってしまう。その様な混同は、もはや心理学を論じる態度とはいえず、むしろ心理学において論じられる(心理学の研究対象となる)現象に属すると考えるべきでしょう。
今回、この稿を書くために『とりかへばや、男と女』を読み返してみたのですが、実はその時にも時々、この点が気になる箇所がありました。仮説が仮説(物語)であることを確認しながら自説を開陳しているかと思うと、もしかしたら著者自身がその事を忘れているのではないかと不安になるような箇所にぶつかったりするからです。ただし注意深い読者であれば、あらかじめ第一章において、この本がまるごと著者の「物語」であるとことわっていることを常に念頭に置いているでしょう。それを忘れると、この本からはいくらでも、おかしな俗流解釈が生まれてしまう。そんな「あやうさ」がこの本にはあると思います。
しかし、そのような俗流解釈が生まれる原因の一部がこの本にあるとしても、その他の大半の原因と動機は俗流解釈を生み出す読者の側にあります。それは一般論として言えば、誰でも持っている習性でしょうが、特に T's の中には、こういう本を読むと自分に都合よく解釈したがる人が多いのではないでしょうか。それくらいこの本の中には、T's に都合よく解釈しやすい箇所が多く見受けられます。
それはとりあえず大雑把に、二種類に分類できます。一つは以前からフェミニズムなどでも取り上げられているような、構造主義〜ポスト構造主義的なものの見方です。つまり、概念としての「男」や「女」(=ジェンダー)は恣意的なものであって根拠はないというような見方、それに「二分法的思考」への反発です。もう一つは、深層心理学独自の視点によるものといえますが、もちろんこれは大雑把な分類であって、厳密に区別することは困難です。
ただし、まず前者についていうと、構造主義的な見方においては、文化によって「男らしさ」や「女らしさ」の具体的な内容は確かに異なるのですが、しかしいずれの文化においても普遍的に「男」と「女」という二分法が基本軸となっているということも、同時に浮かび上がってくるはずなのです(第三の性といわれるような、例えばヒジュラが存在するような社会も存在するが、しかしヒジュラの特性とは要するに女性性であって、男でも女でもない第三の性が存在するとは言い難い。あくまでも男女二分法のバリエーションに過ぎない)。
そもそも、レヴィ=ストロースが、ヨーロッパの文化も、いわゆる「未開」として扱われてきた文化も、実はその間に優劣はないと主張したのは、この普遍性があって初めて言えることなのです。つまり、ヨーロッパ文化も「未開」文化も共通の本質を持っているという事が、両文化間の優劣の否定の根拠になるのです。ですから、同じようにこの方法を使うと、「男らしさ」や「女らしさ」の具体的内容を相対化することは出来ても、かえってそのために、男女二分法の普遍性を強調してしまう結果にもなります。従来、性差を否定する種類のフェミニズムやジェンダーフリー等の思想では、前者だけを強調しつつ、後者については無視もしくは攻撃さえして来ました。これは実は、一方で性差を否定しつつ、もう一方でその根拠を否定するのと同じ事で、これは明らかな矛盾です。
その点、河合氏にはそのようなゴマカシはありません。性急に従来の制度を解体しても単に混乱に陥るだけだという意味の事も述べていますし、「男女の役割が多くの文化において、非常に固定的に考えられること」(P84)についても、隠さずに何度か言及されています。ただ、それがどのように作られて来たのかとか、その事にどのような必然性があったのかというような視点には乏しくて、やはり構造主義と同様に共時論的(無時間的)な見方が目に付きます。確認はしていませんが、氏は世界の諸文化における性別について知識を、構造主義的な見方をベースとした文化人類学から受け取っているのではないかという印象があります。
例えば、「男らしさ」について、昭和三年生まれの河合氏が子供の頃にはその規格が厳格であったことを当時の「軍国主義」と結びつけ、一方、「ところで『とりかへばや』を読んで、実に感心するのは、男がよく泣くことである」(P81)と述べています。一応「男が泣く」ことについて「少なくとも公卿階級においては」という但し書きはついているものの、氏は基本的にはこの変化を、時代による変化として考えているようです。ただ、これを「歴史的視点」と言うことは出来ず、むしろ平安時代と昭和初期について、それぞれ別個に共時論を展開していると見るべきでしょう。
これについての私の考えをいえば、男が泣くか泣かないかは、時代的な規範の変化がその本質なのではなく、基本的には公家文化と武家文化の違いに由来します。つまり、男が泣いても差し支えない文化と、男が泣いては支障がある「なめんなよ」の文化の違いであり、それはそれぞれ両者が置かれた環境の違いから要請された様式の差異の現われだといえるでしょう。それを踏まえた上で、武家文化(=男は泣かない)が時代と共に、日本人男性の間でどのようにシェアを占めるに至ったか(同時に、いかに公家が衰退したか)を見る必要があるのであって、そうでなければ「男は泣かない」と「軍国主義」を結び付ける根拠(なぜ「軍国主義」だと「男は泣かない」という規範が厳格になるのか)にも事欠くのではないでしょうか。別に戦闘中でなければ武人が泣いても差し支えないわけですから、実はこれも当時(昭和初期)のことだけを考えても答は得られなくて、当時の日本における武のイメージがどのようなものであり、それが歴史的にどのように形成されて来たのかに着目する必要があるのです。
さらに私の考えをいうと、こうした歴史性を無視すると、「男らしさ」や「女らしさ」に限らず、あらゆる「伝統」の持つ意味が歴史のかなたに忘れ去られてしまいます。その結果として「伝統だから守れ」とか、反対に「そんなものは意味がない」というような、両極端な意見が生じ易く、お互いに平行線をたどるしかないような不毛な論争が起こる温床になります。ですがこれは、諸信念のぶつかり合いという意味では宗教戦争と範型を同じくする争いであり、互いに声高になるほど、ますます対立の溝を深める結果になります。本来ならば「伝統」の由来(この「伝統」はどのような必要から生じたのか)を探ることが必要で、その上で現状に合わない部分は編み替え、よい部分は残すという方法によって、両者の意見の擦り合わせを行い、出来るだけ多くの人が「妥当」だと思えるような共通了解を改めて取り出すべきではないでしょうか。
ところで、もう一つの深層心理学独自の視点についてですが、これは前述のように「物語」(仮定)がいたるところに前提として置かれています。そもそも、「無意識の存在」という仮定を前提としなければ、深層心理学とはいえません。他に、特にこの本で目に付くものとしては、「たましい」と「アニマ」「アニムス」でしょう。
「アニマ」「アニムス」から先に説明すると、「アニマ」は男性が内に抱える理想の女性像、「アニムス」はその反対に女性が抱える男性像です。これらは、ユングの心理学ではそれぞれ「元型」と呼ばれるものの一種で、元型にはこれ以外にも「グレートマザー」や「トリックスター」など、無数といってよいほどの種類があります。もちろん、これらも「無意識」と同様に仮説なのであって、人間の心にはこういうものがあると実体的に考えるのは誤りです。
ただ、「アニマ」「アニムス」についていえば、これは別の説明が可能です。例えば男性を例にいうと、私の考えでは、「アニマ」というのは個々の男性が内に抱える究極の「真・善・美」を人格化表現したものです。これは「アニマ」が理想の女性像であるということから、恋愛について本質直観をすれば簡単に得られる答えです。恋愛というのは、(普通は)異性に対して、個人の価値観としての自分の「真・善・美」を直観することで、これは異性に対する「真・善・美」の投影といってもいいですね。この「真・善・美」(広い意味での、自分にとっての、よい)には、過去に挫折して得られなかったものも含まれます。恋愛の成就とは、それらをすべて得る(と本人が思う)ことですから、必然的に全能感を伴います。したがって、恋愛対象に向けて投影される「真・善・美」を人格化して表現すれば理想の女性像としての「アニマ」ということになります。
「アニマ」が男性にとっての理想の女性像であるというのは、こういうことであって、これはつまり男性が内に持つ価値観の問題です。ですから、男性が「アニマ」を持つということと、男性が「女性的なもの」を持つという事は、実際には意味が異なっていて、前者は価値観の問題、後者は性質の問題ですから、これは別ものとして区別したほうが判りやすいでしょう。決して、すべての男性は「男性」と「女性」との二つの人格を持っているという意味ではないのです。まして、「アニマ」に人格を支配されると MTF T's になるということでは、まったくありません(この点、ユング自身にも混乱があるような印象を受けます)。
ただ「アニマ」と「アニムス」というのは、ユングの説では非対照的なもので、女性の場合には「アニムス」の影響を受けやすく、それによって男性的な態度を示すことがあるといっています(また、「アニムス」はしばしば複数の男性として登場するとされ、この点でも「アニマ」とは異なる)。もっとも、そもそも(ある種のフェミニストには受け入れ難い現実かも知れませんが)男女では性の在り方が非対称的なのですから、「アニマ」と「アニムス」が非対照的に論じられるのも、むしろ当然でしょう。『とりかへばや、男と女』でも、河合氏はやはり男女の在り方の違いを細かく読み取っていて、その当たりは大変興味深いところです。
もうひとつの「たましい」についてですが、これが実は、文中で頻繁に使われているにもかかわらず、よく判らない概念なんですね。河合氏は、「ここで、たましいとは何かということになるが、まず具体的な表現で言えば、人間存在を心と体に二分してそれですべてとは言い切れず、人間存在を全体として把えるために導入せざるを得ないもの、ということになる」(P145)と述べていますが、私にはあまり「具体的な表現」だとは思えません。
ただ、私なりの解釈に従っていえば、まず河合氏は人間を「心」と「体」の二分法で考えると、そのどちらにも含まれない「とりこぼし」があると考えているらしいことは想像できます。したがって、その「とりこぼし」も含めて人間という存在をとらえようとするときに、「心」と「体」という言葉だけでは表現できない何かがある。そのためにもう一つ「たましい」という言葉を導入しよう。たいして変わりませんが、おおよそそういう事を言いたいようです。それともうひとつ、ここにはデカルト以来の身心二元論への批判が含まれています。
ここで使われている「心」という言葉の定義が曖昧なのも、判り難さの理由の一つなのですが、例えばデカルトは、まず人間を「身体」と「精神」に分けます。彼の言う「精神」というのは「考えること」ですから、これは「意識」とか「理性」あるいは「意思」などのことですね。そのため、私たち現代人にとっては違和感があるのですが、デカルトは「情念(=感情)」を「精神」ではなく「身体」に属するものとして分類しています。デカルト自身は理論上の都合からあくまでも「精神」と「身体」を別物として扱ったのですが、しかししたがって私の印象では、実際にはデカルトは身心を分けきれなかったのではないかという印象があります。
その点を、河合氏やユングがどう解釈しているのか不明なのですが、そもそも、それ以前の方法で「人間存在を心と体に二分してそれですべてとは言い切れ」ないと考え「無意識」を持ち出したのは、フロイトです。ユングも、途中まではフロイトに師事してこの考え方を受け継いでいるわけで、これは河合氏の、あるいはユング派固有の考えではなくて、他の深層心理学にも共通する考え方ですね。ただ、ユング派の場合には、宗教的あるいは神秘主義的な要素があるためか、ここでは「たましい」というような用語が出てきてしまう。しかし、もちろんこの「たましい」というのも、やはり実体的なものではないという事は、河合氏もきちんと明言しています。
ただ、ここにはもしかしたら河合氏自身もそれと意識していないような「物語」が置かれていて、それは何かというと、人間は元々はある意味で完全体だったという前提を置いていることです。これはフロイト説を取る岸田秀氏にも、まったく別の形で出てくるのですが、この種の「物語」の問題点は、そこから突き詰めて考えて行くと必然的に「本来の私」という考え方に行き着いてしまうという事です。しかもその「本来の私」というのは、極端にいえば全知全能の形を取ってしまう。
この種の説は、それが「仮説」であることが忘れられていない限りは、人間が果てしない欲望を持つことや、理想を追い求めること(同じ事ですが)の説明にはなります。ですが、これはプラトンの『饗宴』に出てくるような話、つまり「男女が引き合うのは、太古の昔には人間は両性具有であり、それが男と女に引き裂かれたために、お互いに失われた半身を求めるのだ」というのと本質的には同じ事です。ただ、河合氏の場合にはそれを個人の精神レベルの話として扱っているに過ぎません。
しかし、人間が「完全」や「理想」を求めるための理由としては、必ずしも「元々が完全だったからだ」という物語を用いる必要はありません。かつて「完全」だったことがなかったとしても、人間は自分の欲望が挫折した経験を持てば、その挫折によって得られなかったものや失われたものを得ようとする新たな欲望が生じ、挫折のない世界(全能の自分)を思い描くことは可能になります。つまり「完全」でないからこそ「完全」を思い描く動機が生じるのであって、かつて「完全」であったことがあったかどうかという事は、要因としては必要としません。
もっともこれは、河合氏に対する批判として書いているのではなく、ただそこで使われている「物語」が、(河合氏自身もいうように)あくまでも「物語」(仮説)であること、それからその「物語」は他の説明とも交換可能で、それを固定的に考えなければならない理由がないことを示そうとしています。また、精神医学の臨床例を見れば、あらゆる症状を、ユング理論だけ、あるいはフロイト理論だけで万能に対処できるわけではないという事実も書き添えておきましょう(実際に様々な理論をケースバイケースで使い分けている医師も存在します)。
これらの心理学(深層心理学に限らず)から生じる俗流解釈というのは、
などによって生じます。しかし、それらの態度はその元となる理論を考えた人達の本意ではなく、かえって、本来は使い方によっては有効なはずの理論を利己的な動機によって歪めてしまうものであり、百害あって一利もありません。強いていえば、それは当人にとって、その場限りの癒しとしては機能するでしょう。
しかし、T's の持つ悩みの本質は、他者からの承認が得られないという「世界からの孤独」にあります。自分の都合でひねり出した俗流解釈というのは、なんら一般性や普遍性を持ちません。したがって、一時的に独我論的な安心を得たとしてもその本質はやはり孤独であり、他者からの了解を得られないという点で、実はまったく何の解決にもなっていませんし、むしろ独我論的な俗流解釈に固執することによって、さらに孤立を強めさえするでしょう。
他者からの承認を得るために必要なのは、他者との間によい関係を作り上げる事であり、そのために必要なのは、他者との間に共通了解を作り上げる事です。それは、自己正当化のための勝手な理屈を作って押し付けることでは、けっして実現しません。他者との共通了解を作り上げるには、一方的な理解を求めるのではなく、相手の考え方を理解することが必要です。
T's の世界において、「理解し合う」とか「相互理解」というのは、言葉の上ではよく見かけますが、しかしその具体的な方法や、そのための条件を見かけることは、残念ながら多くありません。それどころかひどい場合には、「相互理解」を唱えながら自己正当化の押し付けをしているような例さえ見かけることがあります。しかし、それによって未来を失うのは他の誰でもない、その当人です。私達はその事についてよく考え、他者に通じない「物語」ではなく、他者とよい関係を作るための条件や、現実的・実効的な手段について検討する必要があるのです。
