アポリア
45.「クィア」の難問

神名龍子


 しばらく前に、書店で『Queer JAPAN』(クィア・ジャパン、勁草書房)という本(雑誌?)を見かけて買って来ました。基本的には名前の通り、「クィア」に関する本という事なのでしょう。ごく一部を除いては特に熱心に読むつもりもなく(失礼)、気が向いたときだけ前後にこだわらずに部分々々を拾い読みして、ようやく過半を読み終えたというところですが、読めば読むほど、この「クィア」という概念に対してある種の違和感が湧いてきました。

 この稿は、私自身が「自分の内に生じた、この違和感は一体何だろう?」ということを考えるために書いています。

 「クィア」というのは既に【EON/W】の「用語概説」でも取り上げていますが、そこでは

元は「おかま」「変態」「奇妙な」等の意味合いの蔑称。近年、この否定的なレッテルを逆手にとり、その「変態」性を肯定する前向きな姿勢で用いるとされる。日本では同性愛者、バイセクシャルのみならず、トランスジェンダーや、異性愛の強制に異議を唱える異性愛者等を広く包括する用法が提案されている。

と説明しています。「クィア」の概念の中に「異性愛の強制に異議を唱える異性愛者」が含まれていることの意味に、もっと早くに気づけばよかったのですが、この事と、現在私が抱えている違和感とは、おそらく無関係ではないように思えます。

 結論から先に書いてしまえば、私のこの違和感とは、要するにポストモダン的な相対主義に対する違和感ないし異議につながっています。クィアにせよ、あるいは各種のポストモダンにせよ、その特徴を一言でいえば「規定を嫌う」という点にあります。つまり、定義とかアイデンティティ、国家、そしてもちろん「真理」という概念は、彼等にとって最大の敵でしょう。

 しかし、この種の思想は必然的にある種の矛盾、難問(アポリア)に突き当たります。 それは何かというと、簡単に言えば「一」と「多」の問題です。個々の定義を廃止すれば個々の差異は問題にならない代わりに「全体」というひとまとまりの像が浮かび上がります。つまり、「●●も△△も関係ない、みんな同じ◆◆じゃないか」という話になる。逆にこの「全体」を否定あるいは相対化しようとすれば、それを分割するための個々の定義が必要になります。つまり「みんな同じ◆◆だといっても、その中には●●もいれば△△もいるじゃないか」という話になる。これは単純な例ですが、要するにある定義を相対化するために、新しい定義を創り出してしまうという、矛盾した循環運動を続ける事になるのです。

 その事を、最も明確に悟らせてくれたのは、同書中の、松田博公氏の記事『フーコーに出逢う旅−虹の国のクィア・ピープル』です。文中、デイヴィッド・ハルプリン氏の発言として次のようなくだりがあります。

「フーコーのゲイ・カルチャーの分析は、ゲイのみが正しい、ゲイこそが素晴らしいというような硬直したアイデンティティを否定するような解釈でした。彼は今、私達がクィア・パースペクティブと呼んでいる事柄を話していたのです」

(同書160ページ)。

 では、ここでフーコーが否定したと語られている「ゲイのみが正しい、ゲイこそが素晴らしいというような硬直したアイデンティティ」は、どうして生じたのでしょうか。実は、上に書いたような相対主義の矛盾は古代ギリシャの昔から存在しており、こうした矛盾が生じる理由も一貫していて、それは常に「概念の実体化」にあるのです。

 本来「ゲイ」とは、かつてフーコーが(ホモセクシャルである自分の欲望は何かを問うのではなく)「懸命にゲイになろう」と語ったように、「ホモセクシャル」と同義の言葉ではありません。「自らの生を肯定する価値の創造」という、実存的な「生き方の姿勢」を表わす言葉であったはずなのです。そして、この「生き方の姿勢」それ自体は、なんら批判の対象になるようなものではなく、この意味で使われる限りにおいては「ゲイこそが素晴らしい」ということに反対する人も、まずいないでしょう。

 ところが、その「ゲイ」がいつの間にか、「ホモセクシャル」を意味する言葉として限定化・実体化してしまいました。「ゲイ=ホモセクシャル」という意味に置き換えて考えれば、「ゲイこそが素晴らしい」とはつまり「ホモセクシャルこそが素晴らしい」という話になってしまうわけで、その事に「ゲイ(=ホモセクシャル)こそが素晴らしいというような硬直したアイデンティティ」を否定する真の理由があるのです。したがって、「フーコーのゲイ・カルチャーの分析」それ自体は正しいと、私も思います。

 問題は、おそらくは松田氏自身も含めて、氏の文章に登場する誰一人として、その事に気付いていないのではないかと思われる点にあります。概念の実体化から生じる具体的問題への対策のみに懸命で、驚くべき事に、その原因である「概念の実体化」それ自体は、まったく問題として取り上げられていないのです。

 それは具体的にはどのようなものかというと、「ゲイ=同性愛者」に限られていた自分達の理論を、「同性愛者」という垣根を取り払い、出来るだけ多くの人達を対象に当てはめようとし、その拡大された領域を新たに「クィア」と名付けたように見えます。しかし、そこでは個々の差異が強調される事によって、相対的に「みんな変態」にされるだけで、「自らの生を肯定する価値の創造」という大切な要点はかえって弱くなっています。私の目には、これはむしろ、思想的には後退しているように見えるのです。

 これはちょうど、私がやろうとしていることと、逆のベクトルを持っていて、私の場合には、T's がどんなに特殊に見えようと、掘り下げて行けば必ず、いわゆる「ノーマル」な人との間に共通する普遍性があるはずだと考えています。しかし「クィア」の場合には、特殊性を先に立てて、そこにいわゆる「ノーマル」な人をも引っ張りこもうとする。つまり相手を自分の側に引き寄せようとしているわけで、そこに、やはり対抗主義の残滓を感じます。


 ただ、その事の是非は別にして、同性愛者が「ゲイ=自らの生を肯定する価値の創造」を選択するという、そもそもの動機は、私は戦略として正しいと考えています。なぜかといえば、同性愛者の場合には、従来のヘテロセクシャルの男性や女性とは異なった、独自のカテゴリーを生成しているわけです。したがって、彼等はいわゆる「ゲイ文化」を創造する動機を元々強く持ち合わせていたということが出来るでしょう。

 ところが、T's の場合には、そこは事情が異なっていて、特に TS の場合には、基本的には既存の「男」とか「女」の枠組みの中で生きたいと願っているわけです。ただ、例えば MTF の場合であれば、その既存の枠組みの中で「男」から「女」へと乗り換えたいだけで、新たなカテゴリーを作る動機も持っていなければ、まして「クィア」として見られたいなどと考えてもいません。少なくとも、『Queer JAPAN』を見る限りでは、クィア理論においてその点はまったく考慮されていないようです。しかし、そもそも「おかま」「変態」「奇妙な」と見られたくない TS に対して、「あなたもクィアです」と宣告する事ほど残酷な仕打ちはあるまいと思うのは、私だけでしょうか。

 こう書くと、あるいは「TS の中にもクィア理論への賛成者は存在する」という反論がかえって来るかもしれません。しかし、クィア理論に賛同する TS は、どのような動機でそれをしているのでしょうか。最も考えやすいのは、TS であると同時に同性愛者でもあるという人達です。例えば、女性や MTF を性愛の対象として好む MTF、といった人達ですね。他に考えられるのは、思想的な動機です。つまり、TS というよりは、同性愛者とか思想運動といった側面からクィア理論に賛同しているという場合がほとんどではないでしょうか。少なくとも、フーコーを真似て「自分の欲望は何かを問うのではなく、懸命にトランスセクシャルになろう」と主張する TS の存在を、私は知りません。

 一方、TG の一部や TV であれば、T's として「クィア」に参加しようと思う人はある一定の割合で存在するかも知れません。つまり私の印象では、 T's の中でも、TV / TG / TS ではそれぞれ事情が異なり、左辺に行くほど「クィア」として開き直る動機を持つ人の割合が多いのではないかと思うのです。少なくとも、世間から「奇妙」に見られるからといって T's をまとめて「クィア」に含めようと考えたり、T's の中に TV / TG / TS といった種類が存在する事実とその特性の違いを省みないことは、カテゴリー間の「差異」の無視であると同時に個々の人間に対しての「差異」をも見ていない事を意味します。これは「クィア」の思想的自殺だとさえ言えるでしょう。『Queer JAPAN』の編集後記において、伏見憲明氏が「クィアの90年代」というアンケートにおける TGTS 系の少なさを自ら「偏り」と表現されていますが、これは私の考えではむしろ当然の事であって、伏見氏お一人の責任に還元されるべきではありません。


 さて話を戻すと、「クィア」の欠点は上に述べた通り、他の相対主義と同様に、概念の実体化にあります。もう少し詳しく言うと、この「概念の実体化」が言語上、見せ掛けの上での矛盾を作り出してしまうという点にあります。その一例を、やはり松田氏の文中からひとつだけ拾い出してみましょう。

 文中、ケビンなる人物から「だれでもクィアになれるのです」といわれた松田氏は、「ぼくでも?」と「聞かないわけにはいかなかった」。

「そうです。別に同性愛者と自分を位置づけなくても。ホモかヘテロかも問題じゃない。白人でも結婚していても子どもがいても、この性差別的で人間の差異を認めない硬直した社会を変えるために、クィアと自分を定義づけ、プログレッシブな社会行動に参加することができる。そもそも、誰もがクィアなのです」

(前掲書161ページ)

 まるで回心や信仰の告白を迫る宣教師を連想させるようなセリフで(笑)、言い方はソフトになっていますが、ここにはやはり手口として、対抗主義特有の「罪悪感強迫」が織り込まれている事に気付きます。かつてのマルクス主義と違って、露骨なイデオロギー色は出しませんが、現在の社会が「性差別的で人間の差異を認めない硬直した社会」であることが、あらかじめ前提とされていて、しかしかつての対抗主義のように、マジョリティであること(=間違った社会の加担者であること)を直接には責めずに、協力者になれといっているわけです。要するに、これはきわめてソフトに、しかし「悔い改めよ」と言っている。

 ここでは「クィア」という言葉が2種類の概念で使われていますね。一つは徹底した相対化の上に成立する「そもそも、誰もがクィア」という概念と、「(間違った社会を)変えるために、クィアと自分を定義づけ」た人という意味での「クィア」という概念です。この二つの概念を混同する事によって、「あなたも本来はこの間違った世界を変えるためにつくすべきなのだ」という主張が、暗になされているわけです。

 つまりここでは、「ゲイのみが正しい、ゲイこそが素晴らしいというような硬直したアイデンティティ」は影を潜めているわけですが、その代わりに暗に「性差別的で人間の差異を認めない硬直した社会を変えるために、クィアと自分を定義づけ」た者こそ正しい、素晴らしいと主張しているわけで、ここには「真理」として明確に唱えられない「真理」がその背後に存在していることに気付きます。その「隠された真理」によって、「クィア」は「間違った社会を正すため」という政治的意図の下に実体化され、個々の差異を認めるという当初の意義を形骸化させつつあります。この方法では、今後またどのような新しい言葉を作ったところで、結局は「隠された真理」によって「ゲイ → クィア」と同様の、「実体化と相対化」という循環運動を繰り返す事になるでしょう。

 つまり「ゲイ」は「クィア」という概念に置き換わり、その意味する範囲も拡張されたわけですが、実はやっていることの本質は「ゲイのみが正しい、ゲイこそが素晴らしいというような硬直したアイデンティティ」と同じなのです。ただ、マジョリティの真理(=一般通念としての常識)を相対化するために、自分達の真理が隠されているに過ぎません。自分達の真理を露わにすれば、それも自分達が使っている方法で相対化されてしまいますし、「真理」の否定が彼等のタテマエになっていますから、自分達の「真理」を押し出すことも出来ないのです。

 ですが、私の考えはやはりこれとはまったく逆で、「自分達の真理」をはっきりと打ち出すべきなのです。それはもちろん、旧来の対抗主義のように「自分達の真理」を「これこそが普遍的真理だ」という形で主張するのではありません。「あなた方の真理」はこうであり、「我々の真理」はこうである。両者を矛盾なく統合できるような「より高次の真理」は何であるか。それを求め考えればよいのです。「真理」という言葉を使うと、かえって判り難いかも知れませんが(^^;)、簡単に言い換えれば、お互いの考えを擦り合わせて、どうしたら皆にとってよいような在り方を作り出せるかという事です。

 ですから、どちらか一方の考え、もしくはどちらか一方の考えの前提を絶対的なものとして置いてしまうというのは間違いで、それは結局は「自分達の真理」の押し付けにしかなりません。そういう意味では「クィア」を「ジェンダー/セクシャリティとライフスタイルを再考するための、議論の土俵だ」(前掲書156ページ)とするのは、せいぜい「クィア」を自認する人達の間での「議論の土俵」になりうるだけの話であり、その他の人々との対話でこれを「議論の土俵」にしようとするならば、かえって対話の通路を閉ざしてしまう事になるでしょう。そういう意味からいえば、「クィア」はそのポーズに反して、開かれた思想にはなり得ないという事です。

 なぜならば、「議論の土俵」とはお互いが話が出来る場所の事であって、初めからどちらか一方に有利に作られたものはフェアな議論を不可能にするからです。また相対化によっては、言葉の数が豊穣になるだけで、決して豊かな「実り」は期待できません。「議論の土俵」それ自体は、議論の以前に両者が「然り」と認めるものでなければならず、いわば良質な哲学の営みの多くは、議論そのものよりも「議論の土俵」を築くことに、その労力の大半を費やして来たのです。

L.Jin-na


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