46.ガイドラインにもインフォームドコンセントを

神名龍子


 昨日、昨年に続く第2回目のGID研究会へ顔を出しました。失敗だったのは、前もってプログラムを知らずに昼から参加した事で、精神医学や心理学に関するプログラムのかなりは午前中に終了していて、これを聞き逃してしまうという失態を演じました。もっとも、午後の前半も、神戸学院大学の大島教授による「GID をめぐる法律問題」は興味深いものでしたし、それに続く発表からも得るものはありましたから、無駄足ではありません。その後の懇親会も大変有意義なものであったと思います。ただ、午後の後半は専ら外科医術の話になってしまい、これは私の考察する対象ではないので、もてあましてしまいましたが・・・。

 常々思っていた事ではあるのですが、当事者のガイドラインに対する反発心には、やはりウンザリさせられるものがあります。もちろん私も、ガイドラインを「不磨の大典」と思っているわけではありませんから、合理的な意見であれば、その変更(の検討)にまで反対するつもりはありません。しかし、当事者のガイドラインへの反発には、それ以前に感情的なものが感じられます。例えていうならば、制定当初のガイドラインに対する当事者の反応は、自らを解放してくれる救世主を見るようなものでした。しかし間もなく、ガイドラインの存在が当たり前に感じられるようになってくると、「法律は暴力装置だ」という左翼のような(笑)反応に変わって来たわけです。

 私には、ガイドラインについての医学的な評価は出来ませんが、少なくとも法律面から見る限り、どうすれば SRS を合法的に行う事が出来るかという課題に対して、細心の注意が払われているとしか思えません。その苦労の跡が、文面からも充分に感じられます(特に、いわゆるブルーボーイ裁判の判決文を参照すると、その印象は一層強まる)。当たり前ですが、ガイドラインの策定の時期には、国内での合法的な SRS の前例はありませんでした。したがって、当時の医師達にとって「合法的な SRS」とは、まったくの未開拓地だったわけです。

 こう書くと、海外にはそんな例はいくらでもあったではないかと反論する人がいるかも知れませんが、ここでいう「合法的」とは日本の法律に照らして合法的である事を意味しています。そんな前例が「海外」にあるという主張は矛盾以外の何ものでもなく、例えばアメリカにおいて、アメリカの法律に照らして合法的な SRS が行われた例があるからといって、それが無条件に日本でも合法的であるといえる根拠は、何一つないはずです。したがって、これらの反論は言葉遊び、もしくは単なる無知や勘違いの域を出ません。

 また、ここでいう「合法的」とは、同時に社会的コンセンサスが得られるかどうかという問題にも接続しています。もし仮に、当事者が自分達に都合のよいようにガイドラインを定めたとしましょう。おそらくそれは法に反するだけでなく、社会的に容認し難いような、得手勝手なものにしかならないでしょう。

 これに対しては、次のような反論があるかも知れません。性同一性障害は個人的な問題であり、個人が自分の苦痛から逃れるのに、なぜ社会的コンセンサスを必要とするのか、と。もし、その反論者が当事者であるならば、本当に性同一性障害が「個人的な問題」としての側面しか持たないものかどうか、自分自身の内面に向かって問い掛けてみればよろしい。

 そういう人は、例えば TS の中からも出てきそうですね。自分は TS であり、自分の身体のことだけが問題なのであって、一刻も早く SRS を受ける事だけが自分にとって必要な事であり、それ以外は問題ではないのだ、と。では、そういう人の性自認は、いったいどうなっているのでしょうか。

 性自認が身体の性別と一致しているにも関わらず性器嫌悪のような身体違和があるという人でしたら、上のような主張にも妥当性があるといえるでしょう。しかしそういう人は、そもそも「性同一性障害」の範疇には含まれないでしょうから、ここでいう「当事者」ではなく、またここでいうガイドライン、つまり「性同一性障害に関する答申と提言」の対象にはならないはずです。

 そうでなく、性自認が身体の性別と異なるという場合にも、本当に手術だけ受ければあとは何も要求しないのか、例えば MTF でいえば、戸籍上の性別は「男」のまま、名前も元の「権之助」(仮名)のままでよいのか、周囲から相変わらず「男」扱いされても差し支えないのか、といえば、それでいいという人は、おそらくいない。そういう人はさっさとヤミで済ませてしまうでしょうから、少なくともガイドラインをウンヌンする人の中に、「こだわらない」人がいくらもいるとは思えません。したがって、性同一性障害が「個人的な問題」としての側面しか持たないというような主張は破綻しています

 T's は(より正確に言えば、T's に限らず誰でも)、SRS を望むか否かに関わらず、多かれ少なかれ自分の周囲の人間との関係を問題として抱えています。もっと簡単に言えば、人間は社会的な生き物であると言うことですね。SRS の実施にせよ、戸籍上の性別変更にせよ、それを個人的問題としての側面しか見ていない人は、自分が望む変更を済ませたあと、他の人々はそれを無条件に認めるべきだという主張を、言明の有無に関わらず持っているとしか思えません。そうでなければ、身体を変えようが戸籍上の記載を変えようが、変更後の自分を周囲が受け入れてくれるかどうか、それはどうしたら可能かと問題を考えざるを得ないはずなのですが、それが話題に上る事は、きわめてまれです。

 ですが、それはこの社会の中で自分だけが「主体」であるという、一種の独我論ですね。変更後の自分を周囲がどう見るかという視点が欠落していて、それはとにかく受け入れるべきであるとか、受け入れるはずだと、単純に考えているとしか思えません。そう考えると、昨日のGID研究会では「当事者の意見」という言葉が頻繁に繰り返されましたが、しかし当事者が最も現実を認識している存在であるとは、必ずしも言えないのではないでしょうか。少なくとも、現在のガイドラインは、当事者には欠けている「その後」の事まで視野に含めて考えられています。


 また昨日の会場でも、性別は必ずしも二分出来るものではないといって、ガイドラインが性別二分性に基づくものであるという趣旨の非難をした人がいました。しかしこれは、ガイドラインの内容以前に、ガイドラインとは何かという事が、そもそも判っていないわけです(笑)。

 性自認レベルでの「自分の性別」を決めかねている人、自分が男と女のどちらのカテゴリーに属するのかを決めかねている人達が存在することは事実でしょうし、もちろんそのこと自体は善悪の問題ではありません。ただ、そういう人達がなぜ、どういう SRS を受けたいと望んでいるのか、私にはまったく理解できません。もっとも、そういう人達が SRS を望んでいるのかどうかも私は知りませんが、そうではないとしたら今度は、なぜ自分をガイドラインに沿った治療の対象として考えるのかが理解できません。

 私の理解では、現在のガイドラインはそういう人達を対象にする事を考えて作られてはいませんし、そうである以上、そういう人達はガイドラインの対象にせずに別の治療方針に沿って施療すればよいだけの話です。そういう人達を相手に、精神療法で効果がなかったらホルモン療法、それで効果がなかったら SRS という施療をしているジェンダークリニックなど、はたして存在するのでしょうか。また、もし仮にそういう施療の実例があるとしても、それはガイドラインの良し悪しの問題ではなく、そういう人達をガイドラインに沿った施療の対象にする事に問題があるのではないでしょうか。

 そういう人達に聞いてみたいのは、要するにどうしたいのか?ということです。単純に考えれば、自分が男か女のどちらかのカテゴリーに属することを了解するか、そうでなければ世の中から男女の区別を無くすしかないわけですが(もっとも、世の中から男と女というカテゴリーが消える事は、現実的な可能性としては皆無ですが)、しかし後者は、つまり社会を変えるというのは、当たり前ですが「医療」の問題ではありません。そういうことを医療に期待しているとしたら、勘違いもはなはだしいというべきでしょう。

 私の考えでは、そういう人達こそ、むしろ一般の社会以上に性別という概念にとらわれ過ぎている。つまり、男とか女という枠組みを強固に捉え過ぎているので、自分をそこに当てはめる事に強い違和感を感じるのではないかと思います。性差の否定を唱える人達が、自分達がどんなに「男らしさ」や「女らしさ」を押し付けられているかという主張をすると、その「男らしさ」や「女らしさ」というのが馬鹿馬鹿しいくらいのステレオタイプなんですね。今でもそんなステレオタイプをまともに受け止めて実践しようとか、他者に押し付けようという人がいたら、それは具体的にその人達が悪いのであって、いくら社会や文化といった抽象概念を相手に喧嘩を売っても、解決しないでしょう。少なくともそれは効率的な解決方法ではありません。

 それよりも、「自分達の性別を決めかねている人」は、まず自分が考える「男らしさ」や「女らしさ」がどういうものか、その具体的な内容を検討してみる事、それから自分が「男らしさ」や「女らしさ」にこだわる理由を考えてみる事です。もっとも、そういう人達は、自分はそんな「らしさ」にこだわっていない、反対に自分は外からの「らしさ」の押し付けに逆らっているのだというかも知れません。その「押し付け」が実際にどのように行われているのかを考えてみればよいのです。そういう人達は、少なくとも自分自身の中に強い「押し付け」が存在するという確信を抱えています。私は、その確信成立の条件を検討すべきだといっているのです。

 それは具体的に、親の押し付け行為によって生じたものかも知れませんし、具体的にそういうことはなかったけれども、世間には「そうするものだ」という強い規範があるという思い込みを抱えているだけなのかも知れません。

 私自身の経験でいうと、私がこの世界を知った十数年前というのは、GID研究会の存在も考えられない時代でした。私も、そして当時知り合った他の当事者も、社会には強い性規範があると考えていましたし、またその当時の本にもそう書いてありました。本には今でもそういう内容の本がたくさんあって、GID 当事者がいかに抑圧されているかを書いたものがありますが、一度そういう本から得た知識は捨てて、自分の経験を根拠に、もう一度最初から性に関する世界観を作り直して方がいい。

 というのは、この十数年間に社会の許容度は大きく変わりましたけど、しかし変わったのは社会だけではなく、むしろ当事者なんです。人間は往々にして自分を尺度にものを考えますから、意外にそのことに気付かないのですが、しかし自分自身のこの十数年を考えてみると、社会の許容度が高まったから行動しているのではなくて、むしろ冒険に次ぐ冒険を繰り返した結果なんですね。その中には「女性姿で歩いて何が悪い」という開き直りもずいぶんあって(笑)、実は、社会的な性規範からではなく、自分自身の性規範に対するこだわりから自分を解放していたのだということに気付きます。社会や文化が私を拘束していたのではなく、私自身の「社会や文化はこういうものだという思い込み」が私を拘束していたのです。そのことに気付かないと、いつまでも社会とか文化という抽象概念を相手にケンカしなければなりません。しかし、それはシャドウ・ボクシングのようなものなんです。


 ここまでは、ガイドラインに対する当事者からの非難の内、的外れなものを選んで批判してきました。最後にここから先は、逆に医療側、特にガイドラインの策定に携わる方達に提案したい事を書きます。

 当事者のガイドラインへの非難の多くは、無理解や誤解から生じています。その原因として、一つは当事者自身のあせりから来る、ひとりよがりなものの考え方を挙げる事が出来るでしょうが、その他に、ガイドラインに対する理解のために必要な情報の不足という事があったと思います。

 現実問題として、すべての当事者が様々な文献や法律の条文などに、片端から目を通しているわけではなく、また法律の条文などは慣れないと(あるいはある程度の知識がないと)解釈が出来なかったり、誤った解釈をしてしまい勝ちです。当事者には、一種の被害者意識を持つ人が多いのか、当事者自身に不利な形に誤解する人も多く、それがまた無用の誤解や非難を生み出しているのが現状です。

 現在のガイドラインは、おそらく手術の実施を睨んで出来るだけ早期の策定ということが考えられたかも知れませんし、それはやむを得ない事情もあったと思いますが、今後のガイドラインの改訂に当たっては、同時に、その内容の説明や、なぜそういう内容になっているのかと言うことの解説なども一緒に作成出来ないものかと思います。

 現在、治療法に関してはインフォームド・コンセントという事がいわれ、事前に治療法の説明をして患者の理解を得ることが増えているようですが、治療法だけでなく、ガイドラインにも同じインフォームド・コンセントの考え方を適用した方が、結局は無用の不安や混乱、誤解を避け、医師と当事者の間の信頼関係を築くなど、様々なメリットが望めるのではないかと思います。

 実際の診療に当たって個々の当事者から直接に聞かされた批判などもあると思いますし、今回の、第2回GID研究会での成果なども含め、これまでの経験を生かした「ガイドラインのインフォームド・コンセント」ということが、現在ならば可能かと思います。

L.Jin-na


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