47.私は「素朴な疑問」に答えられるか

神名龍子


 先日、他の T's 関係のホームページを見ていたら、非当事者(?)の方の「素朴な疑問」として、次の五つが書き込まれていました。

  1. 客観的なGID判定など不可能じゃないの?
  2. 本来の性に戻りたいではなくて、現実の性を逃げたいではないの?
  3. 現代医学の水準でのSRSが美容整形の域を出てないことを誰もが分かっていてなぜ?
  4. 執刀医の先生って、なんの迷いもなくメスがとれるの?
  5. 両手両足を失ってさえ、懸命に生きている人たちのことをどう思うのだろう?

 確か昨年の2月頃、【EON/W】へ寄せられた中にも、似たような事がありました。その時は、「例えば自分の心は猫なので、体を猫に変えて欲しい。というのと性転換はなんか似てるのでは?」というものでした。あるいは、「31.T's が男女人口比に与える影響」もそうですね。

 今回は他のHPのことなので、その書き込みに対して答えるというわけではないのですが、しかしこれを見た時に、私の中にも一つ「素朴な疑問」が浮かびました。私自身がこの問いを突きつけられた時に、私はこれに答える事が出来るか。また、どのように答えるのか、という事です。そこで今回は、この問いに挑戦してみたいと思います。


1.客観的なGID判定など不可能じゃないの?

 これは「客観的」という言葉の意味次第ですね。

 例えば、理科の実験のような形で確かめうるものかどうかという意味ならば、つまり「客観的」という言葉を自然科学的な意味に捉えるなら、 GID に限らず、すべての精神疾患は「客観的」には確かめ得ないものです。いえ、疾患に限らず、精神そのものも「客観的」に確かめることは不可能でしょう。

 この事は、かつて「心理学は科学か」という問いが存在した事からも判ります。例えばフロイトやユングは精神科医であり、彼等の深層心理学はその臨床経験から導かれたものですが、しかし心理学は日本の大学では、理系(自然科学)の学部はもちろん、医学部でも扱わず(精神医学というのはありますが)、文学部であつかうものになっています。つまり、心理学は科学(自然科学)ではないという事になっているわけです。確かドイツでは日本の大学の文学部に相当するのが哲学部で、文学も心理学もこの哲学部であつかう事になっているそうですから、やはり日本と同じ事情でしょう。

 しかし私達は、ものごとの是非ということを、自然科学的な意味での客観性だけを根拠に考えているわけではありません。さらに突き詰めていうならば、価値判断そのものは自然科学からは出てきません。この価値判断にあたっては、科学とはあくまでも判断材料や技術を提供する手段の一つに過ぎません。

 ところがこの事は、医療について考える場合に、しばしば見落とされます。医学=科学という見方をしてしまうと、医療の目的が見失われてしまうのです。例えば、ある人がインフルエンザに罹った場合も、その治療の目的は、言い換えればその人が病院に行く目的は、「自己の体内からのウイルスの影響の排除」ではなく、「快適な生活」を求めて行くはずです。「自己の体内からのウイルスの影響の排除」は、そのための手段に過ぎません。

 では、この「快適な生活」は客観的に知る事が出来るかというと、これは不可能です。科学に出来ることは、「このような条件が揃っていれば、かなりの割合で人は快適さを感じるであろう」というデータを提出すること、あるいはその精度を上げる事です。ですから、大勢の人が集まるホールの室温や気温をどのように設定するか、ということは、このデータに基づいて決めることが出来ます。しかし寒がりの人ばかり、あるいは暑がりの人ばかりが集まったら、結局はその場に集まった人の感性によって修正するしかない。「暑い」という人がたくさんいたら、「科学的に正しいから、これでいいんです」というわけには行かなくて、「それではもう少し室温を提げましょう」という話になります。そうじゃないと困る。

 いわば精神医学の診断というのは、これを一人ひとりに対して行うわけですね。「この人」が何を感じているのかが問題なのであって、一般論として「何を感じるはずだ」という事(客観性があるとされるデータ)は、せいぜい参考資料程度の意味しか持ちません。ですから、この場合の診断というのは、人が他者を理解するための「対話」の形をとり、実はその中で、本人が自己を了解するための「対話」になるわけです。

 GID についても事情はまったく同じで、私はこれも基本的には自己了解の問題だと考えています。つまり自分が客観的にどう在るかではなく、自己の在り様が当人にどのように了解されているかが、(他の精神疾患と同様に)問題の本質なのです。ですからこれ当然、人によって程度の違いがあるわけで、

などに大別されます。また身体を変えるのでも、上半身だけ(豊胸 or 乳房の除去)で済む場合もあれば、性器まで含めて変えないと(SRS)不安定な人もいます。

 私の印象では、現在の GID 治療は、基本的には精神疾患の治療ですから、出来る限り身体を変えないという方針が根底にあると思います。その場合の治療目的も、やはり「快適な生活」、つまり精神の安定と、社会生活を支障なく送ることが出来るかどうかという点に置かれています。

 そうすると上に書いたように、身体を変えない、あるいは必要最小限の「変工」を行うという手順で治療を進めていって、その都度ごとの、その人の精神的な安定の度合いや社会生活能力(経済的能力だけではなく、他者との関係の持ち方など)を見て行く。それは、自然科学的な意味での客観性によって測ることは出来ないものですが、しかし人間に判らない「認識不可能なもの」ではないはずです。

 簡単にまとめると、GID も含めた精神疾患というのは、自然科学的な意味での「客観性」によって測ることは出来ませんし、またそのような方法によって判定するものでもありません。しかし私達は、例えば客観的に測る事が出来ないにも関わらず「退屈」を感じるのと同様に、別の仕方でそれを「知る」事は可能です。それは人間が能動的に「知る」というよりも、むしろ私達に「突きつけられる」ものなのです


2.本来の性に戻りたいではなくて、現実の性を逃げたいではないの?

 精神疾患としての GID と診断された人はともかくとして、「自称 GID」の人の中には、そういう人もいると思います。ですが、両者はそもそも別カテゴリーに属するものなのです。

 精神疾患としての性同一性障害(性転換症や両性役割服装倒錯症など)と、広い意味での「性別を変えたい人」や「性別の枠組みから抜け出したい人」とが、しばしば当人達からでさえも混同されてあつかわれているために、この区別が付き難くなっているのが現状です。

 しかし、「精神疾患としての性同一性障害」が非自己選択的であるのに対して、思想的、社会的な何らかの理由によって自己選択的に「別の性を求める」のは根本的に異なる現象です。そして、後者の場合には「現実の性を逃げたいではないの?」という指摘は、よく当てはまると思います。この場合には私も、自分で選んだ道なら、恨み言をいわずに自分で背負って行けといいたいですね(笑)。自分で選んだという事は、そういう人達は、嫌ならいつでも降りる事が出来るんですから。

 ここでいくつか補足しておきたいことがあるのですが、いわゆるガイドラインには「除外診断」という項目があって、そこには、

(3)除外診断
 (1)精神分裂病、人格障害などの精神障害のために自己の性意識(gender)を否
  認するものではないことを明らかにする。
 (2)文化的、社会的理由による性役割の忌避、職業的利得などのために別の性
  を求めるものでないことを確認する。

と記されています。つまり「非自己選択的」なケースにおいても、それが「精神分裂病、人格障害などの精神障害」によるものである場合には、また別だという事が一つ。それから、これは今でも誤解している当事者がいるようですが、この規定は、いわゆるニューハーフを排除するものではないという事です。

 「文化的、社会的理由による性役割の忌避、職業的利得などのために別の性を求めるものでないことを確認する」というのは、つまり自己選択的な性転換の除外という事ですね。これはつまり、性転換の「動機」の種類について述べているものであり、前段で書いた「治療」の目的に照らして、当然のことです。

 ですから、ニューハーフという職業に就いている人であっても、GID と診断された人は除外される理由はありません。しかし単に営業上の理由(職業的利得)で SRS を求める人は、これは「治療」ではありませんから除外されるというわけです。したがって、ここで問題にされているのは、「GID と診断されるか否か」=「手術の目的は何か」という事であって、その人がどのような職業に就いているかという事は問題ではありません。

 この事は、昨年の「第一回GID研究会」等の機会に言明されているはずなのですが、当事者の中にはいまだに「疾患」というカテゴリーと「職業」というカテゴリーを混同して捉える人があとを絶たず、そのために混乱した言説が流布しているのが現状です。


3.現代医学の水準でのSRSが美容整形の域を出てないことを誰もが分かっていてなぜ?

 この「美容整形」というのは、おそらく現在の SRS が身体の外見の変更であって、生殖能力は変更できない(生殖能力を失う)という事を指しているのだと思います。これはまったくその通りですね。

 その通りなのですが、しかしそのようなものであっても、これは単なる自己満足の問題ではないのです。

 これは以前に「34.実存への冒険」で詳しく書いた事があるのですが、GID の当事者に限らず、人間は誰でも常に、「自分が何であるか」と「自分が何でありうるか」という、二つの自分の存在を了解しながら生きています。簡単に言えば、両方をひっくるめて「未来を射程におさめた自己像」といってもいいでしょう。

 ところが、人間の確信というのはそれが自己了解であっても、他者の視線に影響を受けるものなのです。自分が「こうだ」と思ってても、他の人が口をそろえて「違う」というと、どうしても確信が揺らぐんですね。それは「自分が何であるか」についても同じ事で、その中には当然「自分の性別が何にであるか」という事も含まれます。また、周囲の見解に逆らって、あくまでも自分の「こうだ」という確信を固持すると、これは周囲の人達とは異なる現実の中を生きている事になりますから、やはり上手く行かない。つまり社会不適応を起こすわけです。

 おそらく普通は、なぜそこまでして、身体と異なる性別を自分の性別だと思い込みたいのかという疑問が生じると思います。ところが前段でも書いたように(そして当事者にとっても困った事に)、GID の場合には、それが当人にとっても非自己選択的に「やってくる(到来する、開示される)」ものなんです。そしてそれは実は「自分が何であるか」よりも、むしろ「自分が何でありうるか」という、自己の可能性という形でやって来る。これを簡単に「欲望」というならば、この「欲望」は「性自認」に先駆けてやってくるもので、むしろ「性自認」はその結果だといった方がよさそうです。

 これでもまだ判り難いと思いますので、もう少し具体的に書きましょう。その前にちょっと念を押しておくと、この「欲望」というのも、その内容は本人の自由にならない非自己選択的なものであって、恣意的なものではありません。当人にとって「やってくる(到来する、開示される)」ものだと表現しているのは、そのためです。

 人間は、常に何らかの自分の可能性(欲望)を了解しながら生きています。といっても、志望校に合格したいとか、職場で昇進したいというような人生の節目になるような大きなイベントのことをいっているのではなくて、日常の行為についての話です。ふとコーヒーを飲みたくなるとか、天気のよい日に公園を歩いてみたいとか、そういう事です。それが例えば私(MTF)であれば、「女性である自分が」とか「女性として」という項目を伴ってやってくる。

 それについて、さらに「なぜだ」と問われたら、これはもうお手上げで、正直に言えばむしろ私達がそれを知りたいくらいです。例えば私はコーヒーが好きでよく飲みますが、それでもたまにはコーラを飲みたくなる。そういう事は誰にでもあると思いますが、「なぜだ」といわれたらやはり答えられない。それなりに何かしら言えることはあると思いますが、それをとことん問い詰めていって「欲望」発生の過程をすべて解き明かすことは、やはり不可能だと言わざるを得ません。

 それから「欲望」が「女性である自分が」とか「女性として」という項目を伴ってやってくるという事についても、反論があるかも知れませんね。自分が何かをしたいと思ったときに、実際にはいちいち「女性である自分が」とか「女性として」なんて思わないぞ、と。

 それは、明確な形で意識しないという意味では、その通りでしょう。ですが、GID の当事者は別にしても普通は、「更衣室で着替えてください」といわれたら、男性であれば「男子更衣室で着替えてください」、女性であれば「女子更衣室で着替えてください」という意味に取りますね。「どちらの更衣室を使えばいいのでしょうか?」と尋ねる人はいません。つまり、いちいち言葉にして意識していなくても、自分の性別というのは、自分の行動予定、その他さまざまな自分の「欲望」や「可能性」の中に織り込まれているのです(普通は)。むしろ、それだからこそ、いちいち自分の性別意識しないでいられるのです。また、私自身も GID でなければ、このような事を考えもせず、気がつきもしなかったと思います。

 さて、GID 当事者が他者との接触を持たずに無人島ででも暮らしているのなら、どのような「欲望」が生じようとそれほど問題ではありません。別の意味の不便は生じるかも知れませんが、少なくとも自分の性別が何であるかという事については、誰からも脅かされない確信として持ち続けることが出来ます。

 ところが、実際には他者と共に社会生活を営む以上、その性自認は常に脅かされ続けると同時に、「女性である自分が」何々するという可能性は、しばしば「お前は男ではないか」という他者によって絶たれる事になります。この時に、自分が他者をして「お前は男ではないか」と言わしめる原因、それが身体なのです。欲望を絶たれるという事は文字通りの「絶望」であり、「絶望」の原因が自分の身体であるわけです。

 これは、普通はちょっと有り得ない事で、なぜかというと身体というのは人間にとって普通はむしろ「可能性の根拠」です。簡単に言えば、「手が届く」とか「歩いて行ける」とか、そういう自分の可能性の根拠というのは、常に身体にあるわけですね。ところが GID の場合には、自分の身体が他者の視線にさらされる事によって、かえって自分の可能性を絶ってしまう。これが GID の当事者にとっての問題の本質だと思います。

 ですから、SRS は外見を変えるに過ぎない「美容整形」ではないかというのは、ある意味ではその通りなのですが、しかし身体の外見を変えるという事、自分の身体が他者の視線にどう映るかという事は、当人の精神の安定のためにも、また社会生活上も、非常に重要な問題でもあるわけです。

 ただし私は、GID の当事者はこの事を、自らの主観だけを根拠に独我論的に語るべきではないとも思います。私の上の言い方を、ちょっとひねくれて受け取ると、これは他者が自分の見た目によって自分の可能性を阻害していると考えることも出来てしまうからです。しかし人間というのは、誰でも(GID の当事者も含めて)そのような事をお互いにしている存在でもあって、それを自分に都合が悪いからといって、性別に関する側面だけを禁じ手にするというのは、必ずしもフェアな方法ではないからです。だからといって、あらゆる面においてこれを禁じたら、人間は「見て判断する」ことの社会生活上の機能を失い、社会生活そのものが成り立たなくなるでしょう。

 また、性別によって可能性が断たれるという事も、これは認められるべき場合もあれば、なくした方がよい場合もあって、一概に性差の否定ということをいう気にもなれません。なぜなら、「性別にこだわっている」のは GID の当事者も同じ事だからです(そのこだわり方には特殊性がありますが)。むしろ私は、GID の当事者にせよ、一般的なものにせよ、性別のこだわりはよほど不合理なもの(一部の思想の主張だけが否定しているようなものではなく)以外は、残すべきだと考えています。「差異」はそれが差別に利用されることを防ぎさえすれば、むしろ私達の「生」の豊かさの根元にもなるからです。


4.執刀医の先生って、なんの迷いもなくメスがとれるの?

 う〜む、これは困りました・・・(^^;)。基本的には「執刀医の先生」に尋ねるべき事であって、GID の当事者に尋ねるべき事柄ではないからです。しかし、ここで判るだけのことを書いてみることにしましょう。

 まず、ここでいう「迷い」の種類ですが、直接に外科的な技術に関するものであれば、それはその医師の腕と経験、それに患者の個体差の問題でしょう。同じ手術をしても、体質によって、たいした出血もなく手術が終わる人もいれば、予想外の出血があって急な輸血を要する場合もあるでしょうし、その他さまざまな個体ごとの問題が存在するからです。

 また、SRS を行う事それ自体に対する「迷い」であれば、私はそういう医師は執刀に当たるべきではないと思います(手術を受ける方だって怖いじゃないですか、そんなの ^^;)。

 それから、最初の問いの「客観的なGID判定など不可能じゃないの?」という事に関係しての「この人に SRS を施術してよいのだろうか」という意味での「迷い」でしたら、それはそもそも執刀医の管轄外でしょう。

 では、この判断はどこの管轄かといえば、精神科のはずです。逆にいえば、この人達が迷うような段階では、ガイドラインに沿って考える限り、 SRS に進まないはずですし、またこの段階で下記のように複数の精神科医がゴーサインを出したものを、外科医が疑っても始まらないでしょう。

 SRS には最低限、精神科医(それ以外の有資格者も含むんだったかな。とにかく精神科関係で)2名がゴーサインを出す必要があります。「最低限」と書いたのは、この2名の見解が一致しない場合です。一人はゴーサインだけど、もう一人は反対しているとかよく判らないという場合、3人目が登場する。それでも決め兼ねると4人目・・・という事になるようです。ですから、これは最初の問いに対する補足にもなるのですが、決して誰か一人の診断によって SRS に至るという事はありえず、この段階で慎重な対応が必要とされています。

たまに、GID 関係の HP の掲示板等に、セカンド・オピニオンとかサード・オピニオンという言葉が出てきますが、要するにここでいう2人目、3人目の事です。

 ただ、この段階の当事者にとっては3人目、4人目の登場というのが、「SRS の延期」と受け取られるらしく(延期も何も、この段階ではそもそも SRS が受けられるという決定など行われておらず、その決定を行うための段階なのですが)、ガイドラインに沿った「治療」からの逸脱(ヤミで手術を受ける、あるいは海外で手術を受けるなど)ということもあるようです。

 これについては、当事者の側からはガイドラインに対する非難という形で声が挙がっていますが、私の考えでは、そもそもこうした当事者と医師との間で「治療」の概念が共有されていないことが問題であり、またこの種の当事者の要求を受け入れると、今度は手術の違法性の問題が再浮上してくると思います(それはすでに「治療」と呼べるものにならないでしょう)。どうせなら、こうした当事者だけで「こういうガイドラインが望ましい」というものを練り上げてみたら、かえってその問題点がよく判るでしょう。

 もちろん、当事者のすべてがガイドラインに対して批判的であるわけではなく、ただそういう人は黙々と通院に専念していて、あまり声が挙がってこないので、批判的な当事者の姿ばかりが目立つのだろうと思います(一度、この比率を何らかの形で調査できたらと思います)。


5.両手両足を失ってさえ、懸命に生きている人たちのことをどう思うのだろう?

 これはまた、上の問いとは別の理由で難しい問題です。というのは、これについて GID 当事者の間で意思統一がなされているわけではないからです。ここでは、あくまでも「私(神名)の考え」を書きます。

 まず最初に言っておきたいことは、GID 当事者であろうが、いかなる身障者であろうが、その全員が「懸命に生きている」わけではないという事です。テレビ番組などでは「懸命に生きている」人しか出てきませんけど(あるいは、事実はどうあれ、そのような編集しかしませんけど)、同じ人間ですから、あるカテゴリーに属している人は皆「懸命に生きている」なんていうのは、どう考えてもリアリティのない話です。五体満足でも、五体不満足でも、GID でも、「懸命に生きている」人もいれば、自分の不遇感に負けてイジケテ生きてるやつもいる。私は人間というのは、そういうものだと思います。

 その上で「懸命に生きている人」に限っていえば、それは素晴らしいと思います。単に明るく生きているからという事だけではなくて、常に自分の可能性を目掛けているという事、それも「ないものねだり」ではなくて、むしろ地道な積み重ねをしている人に対して、素晴らしいと思います。もっとも、それは手足があろうとなかろうと同じ事なんですけどね(首のない人だったら、別の意味で驚きますけど ^^;)。

 で、例えば両手がなくて口で筆をくわえて絵を描く人とか、昔テレビで見たことがありますけど、当人にしてみれば「絵を描きたい」という欲望があって、そのために「必要」だからやっているに過ぎないと思うんです。私も、手の指を骨折したときに、普通は親指、人差し指、中指の3本指で使う箸を、親指、薬指、小指の3本で使う練習をしたことがありますけど、それはまさに自分の「生」において必要だからやるんです。

 私のこの経験だけでも結構大変でしたし、口で筆をくわえて・・・というのは、かなり大変だという事も容易に想像がつきます。それは私の時の何倍もの期間がかかったはずだと思います。だから、その苦労を決して軽視するつもりはないんですけど、しかし必要以上に美化して賞賛する気もありません。

 彼等に対して、シニカルなものの見方をしたいのではなくて、私はむしろそういう「美化」の方にこそ、その裏に「口で筆をくわえて・・・」を異能とか、悪く言えばイロモノとしてとか、そういう見方が隠れているように思えるんです。わざわざ「懸命に」と付けるのは、「手足がないんだからゴロンと転がっているのが当たり前なのに」という前提が暗黙に置かれているのではないでしょうか。それが本当に当たり前なら、普通の人と同じように活動しているだけでも「懸命に生きている」と賞賛される充分な理由があるといえるでしょう。

 しかし、傍目にどう見えようとも、おそらく彼等は自分の当たり前の「生」を生きているんだと思います。彼等は、私達と同じように自分の「生」に必要なことをなしているだけです。それを特殊なことと見る理由は何もないでしょう。

 ひるがえっていえば、GID の場合にも、何かとこのイロモノ扱いと表裏の関係にある「美化」が付いて回ることに、私達は気をつけなければならないと思います。一時期、いや、もしかしたら今でもそうかも知れませんけれども、GID がマスコミに取り上げられると、あれはよい取り上げ方をしたとか、こっちは女装やオカマを笑いのタネにしてけしからんということで、一喜一憂していた人達がいました。だけど、私の目には、それはどちらもコインの裏表としか見えません。

 一部には、社会が悪いとかいろいろいう人達もいますけど(笑)、私は世の中の大半の人達に対して、もっと親和的に生きられると思う。それによって自分達の「生きた関係」の中で、マスコミに作られた美化像ではなく、自分自身の「生」において自分の生き方を示す必要があるのです。

L.Jin-na


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