神名龍子
先日、書店で『頑張らない派宣言』という(・・・これ何だ?雑誌か?ムックか?(^^;) まぁ、とにかくそういう)「雑誌らしきもの」を買いました(発行:京都精華大学情報館、発売:青幻舎)。普段の私なら、このタイトルを見ただけで読む気をなくすのですが(笑)、表紙を見たら、三橋順子さんや伏見憲明さんをメンバーに含めた「座談会」の記事が含まれている事に気づき、この記事だけは読まずばなるまい、結局買い求めてしまいました(いまだに他の記事は読んでいません)。
この座談会、『「男」をめざすことをやめた「おとこのこ」たち』(P153〜176)はいろいろな意味で面白かったのですが、それをすべて取り上げると大変な事になるので(^^;)、今回はこの中で、言葉だけ登場して実質的にはまるで扱われていない、男性の「純粋下半身問題」について考えてみたいと思います。そのきっかけになったのは、座談会のメンバーの一人、伊藤公雄氏(大阪大学人間科学部教授、男性学、メンズリブ)の、
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…。以前、「男の側からのジェンダー平等論」という本を書いたんです。そしたら、ある人から「男の問題が見えてない。男には純粋下半身問題がある。純粋下半身問題を無視した議論は困る」みたいな反論を受けたことがあるんです。純粋下半身問題自体社会的に作られてきたものだし、またメディアが作り出したものだと思う。さらに言うと、それが男の側にものすごくプレッシャーを与えてしまっている。若い世代でも同じだと思うんです。「単純化されたパターンのセックス」というイメージで語られている部分が男の子を苦しめてる状況があるのでは。 (P173) |
という発言です。この座談会は全体として、感心させられたり、逆に「なんじゃこりゃ?」と思ったり、私にとってはどちらにしても何かと考えさせられる内容だったのですが、ここに引用した発言は後者です。それで、この男性の「純粋下半身問題」(以下、特に断らない限り「男性の〜」を省略する)について、私なりに考えてみようと思いました。
1.「純粋下半身問題」の意味
まず、この「純粋下半身問題」の意味ですが、私はこれは、男性にとっての「自分の性欲のどうにもならなさ」のという問題ではないかと思います。しかし、そうだとすると、それを「社会的に作られてきたもの」とか「メディアが作り出したもの」というのは、ちょっとおかしいわけです。では、「それを問題として取り上げる事が、社会的、あるいはメディアによって作り出された状況である」という意味なのか。この意味であれば、一応はそういう状況が存在している、少なくともこの問題にはそういう側面があるということは、私も否定しません。しかし、それでは本来まったく問題として取り上げるに値しないものを、社会が、あるいはメディアが取り上げて(純粋下半身問題という形で)騒いでいるだけだというのかというと、それも当たらないだろうと思います。
私は元の『男の側からのジェンダー平等論』という本を読んでいませんし、ここでの伊藤氏の発言の意図も正確には判りません。ただ、この座談会を読む限りでは、伊藤氏には何らかの理由で(その理由が具体的に何にであるかの判断は、ここでは留保するとしても)、男性にとっての「自分の性欲のどうにもならなさ」のという問題を取り上げる意思がないとしか思えない。少なくとも私には、そうとしか読み取れません。
私が気になったのは、「性=ジェンダー」という前提がこの座談会全体を通して底流しているということです。私はこのメンバーの全員を知っているわけではありませんが、少なくとも私の知っている限りでいえば、日本語でいう「性」は「セックス」と「ジェンダー」に分類できるという事くらい、当然の事としてご存知のはずの人たちです。ところが、ここでの内容でいうと、「性=ジェンダー=作られたもの、変更可能なもの」という話になってしまっていて、これがはちょっとおかしいなと思った。セクシャリティについて語られている部分も、すべてこの前提に立っているんですね。セクシャリティがジェンダーに繰り込まれてしまっているわけです。
その事がよく現れていると思う発言の一つが、三橋順子さんの、
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…。伊藤さんが言われた下半身問題というのは、はっきり言うと「ペニス問題」っていうことですけど、私はセックスは頭の問題、ファンタジーの問題だと思うんです。それをペニスに集約させちゃうっていう男の多数派の考え自体が、もうどうしようもないですね。かわいそうです。結局、若いおとこのこにしても中年のオジさんにしても、男性がセックス第一主義に束縛されている限り、豊かな未来はないと思う。 (P174) |
という意見です。私も、人間のセックス(=性交)が「頭の問題、ファンタジーの問題」という側面を持ち、しかもそれが大きな比重を占めていることを認めるには吝かではありませんが、しかし少なくとも男性の場合には、身体的な問題も決して無視できないのではないかとも思う。言いかえれば、男性の「性」から「頭の問題、ファンタジーの問題」さえ解決できたら一切の問題がなくなるとは思えないし、そういう幻想的側面を削ぎ落とした後に残るのが、伊藤氏に対して「反論者」が訴えたかった、「純粋」下半「身」問題なのではないかと思うのです。
私は、従来流通している見解を一度疑い、実際にはどうなっているのかを自分で確かめ直し、そこから自分(達)に必要な原理を取り出したいと思って、ものを考えています。だから、その認識の段階では敵も味方もなくて、そういう判断は党派的な社会運動をやっている人達が「敵」とか「味方」というレッテルを他者に貼って回っているだけなんですね。したがって、それは私の知った事ではありません(笑)。また、自分の認識に基づいてものを考えようというのですから、その認識の段階であらかじめ善悪の価値観を入れてしまうわけにはいきません。それが「実践や倫理についての判断をエポケー(留保)する」という事です。
2.「純粋下半身問題」を語る「場」について
この「純粋下半身問題」について、ひとつ面白い発言だと思ったのは、やはり三橋順子さんの、
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…。たしかに「俺は男だ」っていう男ジェンダーの縛りはきついし、その矛盾があちこちに出ていると思います。お店でホステスやっててお客さん見てるとつくづくその抑圧を感じます。会社でも家庭でも「俺は男だ」って肩肘張った反動が、ホステスに無理やり股間握らせようとしたり、通勤電車で痴漢したり、あげくに自殺じゃあ、目も当てられないです。 (P168) |
という発言です。この発言内容について、この座談会のメンバーの中でおそらくはヘテロの、まぁ中年といってもよいであろう男性である斉藤光氏や伊藤公雄氏はなんといっているのかというと、何もいっていない(笑)。この三橋さんの発言が終わったところで、斉藤氏が「ところで…」と別の話題を振ってしまったためです。ヘテロであろう男性が二人いるにもかかわらず、この部分に限らず、全編を通じて「純粋下半身問題」についてはまったく取り上げられていません。
しかし私の考えでは、ヘテロの中年男性が「ホステスに無理やり股間握らせようとしたり、通勤電車で痴漢したり」というのが、そもそも「俺は男だ」と肩肘張った反動だとは思えない(それ以前に、これをヘテロの中年男性の一般論として語る事が妥当かどうかということについても、私は否定的な意見を持っていますが)。ここで語られているようなセクハラ行動は、男ジェンダーの縛りやその抑圧に対する反動なのではなく、単純に性欲の抑圧の反動と考えた方が判りやすいし、また多くの男性に対してリアリティを持つ見解なのではないでしょうか。
ホステス経験は私にもありますが、しかしその私の経験では、中年男性客のこうした行動は、(皆無とはいえないまでも)彼らの一般論として扱えるほど多くはありません。もし、多くの中年男性客がこのような行動を取るとしたら、それは彼らの一般論として語られるべき問題ではなく、そのお店の業種や雰囲気といった、特定の「場」の個別性の問題、あるいは「そのお店の客層」についての一般論なのではないでしょうか。時や場所を限らず、彼女の周辺に存在するヘテロの中年男性の大半がそのような行動に及ぶ人達だというのなら、それはまた別問題ですが(そして大変に問題ですが ^^;)、それはやはり考えにくい。
それから、「ホステスがいる場」というのがどういう場所なのかというと、それは男性がある種の女性性のエロスを求めて来る場です。別に女性が来てもいいし、必ずしも女性性のエロスを求めなければならないというのではありませんが(笑)、少なくとも男性客のそうした要求に応えられる「場」である事は確かです。ただ、一口に「女性性のエロス」といっても、お店により、業種によって、提供できる具体的な種類や範囲は決まっていて、むしろその違いが業種というカテゴリーを生み出しているといえます。例えば、スナックとファッションヘルス、イメクラ、ソープランドでは、提供するエロスの範囲や種類がぜんぜん違う。中にはその違いをわきまえなかったり、タガが外れるお客さんもいて、「ホステスに無理やり股間握らせようとしたり」という事もないではありませんが、その場合には「お客さん、来るお店を間違ってますぜ」(笑)という話になるわけです。
3.「純粋下半身問題」の現れ方
ところで、これは以前に「13.男と女の非対称」でも述べた事ですが、男女の間にはある性的な磁場があります。もちろんここでいう「男」はヘテロセクシャルのそれを指しますが、男女の間には「見る・見られる」あるいは「見せられる・見せる」という非対称性があって、特にホステスというのは、「見せる」事にかけてのプロでもあるわけです。男性の側からいえば、この「見せられる」は「魅せられる」、つまり「引き付けられる」という事になる。女性からその身体性を性的信号として受け取り、エロスの全体性への可能性が開示されるのです。ただ、(男性にとっては)不幸な事に、可能性が存在するという事は必ずしも実現を保証するという事ではありません。特に、これは年齢層に関係なく、モテない男性にとってそのほとんどは挫折し、欲望は抑圧される結果に終わります。
問題は、この挫折を迎えた欲望の行方です。男性の側から言えば「この欲望に負けると」あるいは「欲望につかまると」、そして女性の側から言えばその男性が「欲望をむき出しにすると」、「ホステスに無理やり股間握らせようとしたり、通勤電車で痴漢したり」する。極端に走ればレイプという事もありえるわけです。中にはプロ(?)の痴漢というのもいるそうですからそういう連中は別にしても、いわゆる「出来心」という場合には、おそらくこういう構造があるのだろうと思います。
ここで一つ問題なのは、この構造をどのように見るかという事についても、男女の間には非対称性があるということです(もっと広くいえば、セクシャリティそのものについて、男女の間に非対称性があるのですが)。
女性の側から、あるいは社会制度的に見れば「男の言い訳」にしか見えなくても(実際に「言い訳」の場合もあると思いますが)、当の男性にとっては、まさにこの欲望が他者的に自分を支配したとしか思えないような衝動が存在したとしかいえないような経験をする事があります。それは女性の側から、あるいは社会制度的に責められるだけでなく、当の男性にとっても困惑ないし懊悩の原因として現れることがあるのではないでしょうか。
それが最も顕著に表れるのは、宗教者(男性)の、自分の性欲との戦いではないでしょうか。アウグスティヌスの告白というのも聞いた事がありますが、この例として私にとって一番印象深いのは、なんと言っても親鸞です。少なくとも日本では、自分の性欲に向かい合い、その葛藤を正直に後世に伝え残したという点でほとんど唯一の典型例ではないかと思います(他の、例えば最澄、空海、栄西、道元、法然、日蓮といった人達について、少なくとも私はその手の具体的な話を知りません)。
しかし別に宗教者でなくとも、男性のほとんどは、自分の性欲に対して戸惑いをもって向き合った経験があるのではないかと思います。私自身、思春期を男子校で過ごした当時に、実際にそういう例をかなり見て来ています。私の場合にはちょっと性質が違いますから(笑)、自分の中に生じた「男性としての性欲」に対して嫌悪感を持つのは当然として、他の、おそらくそのほとんどはヘテロであったであろう同級生達でさえ、やはり自分の性欲に悩まされ、時に「いっそ性欲などなければいい」と思いつめていた、そのことを思い出します。
こうした、ある種の「他者性」を持って支配的に迫ってくる性欲というのは、男性にとって何の問題のないものなのでしょうか。あるいは「それは社会的に作られてきたものだし、またメディアが作り出したものだ」といって切り捨てて済むものなのでしょうか。少なくとも私にはそうは見えませんし、最初に挙げた「男の問題が見えてない。男には純粋下半身問題がある。純粋下半身問題を無視した議論は困る」という意見も、それなりの妥当性を備えたものだと思います。
個々の男性にとって、自分に強力に迫ってくるこの欲望をどう捉え、どう考えるかは重要な課題であり、それを無視して男性のジェンダーやセクシャリティに「×(ペケ)」を付けて歩くような態度は、大半の男性にとってまったくリアリティの感じられない「道徳主義」としか見えないのではないでしょうか。
確かにその通りです。しかし、私がここで性欲のみを扱っているにはそれなりの根拠があります。そもそもここでは男性の「純粋下半身問題」について考えているのだという事もありますが、それをさらに掘り下げれば、男性の性欲が「他者」(通常は女性)を対象にしているという事です。そのため人間同士の関係、特に男女間の関係について性欲を抜きにして考える事はできません。もちろん食欲だって、それが他者に向けられた場合、例えば比喩でなしに「女性を食べたい」という欲望を持つ男性がいたら、これは性欲以上に問題でしょう。しかし少なくとも現状では、そういう欲望を「男性の一般論」として語る事に妥当性があるとは、私は思いません(願わくば、今後もこの種の食欲が「男性の一般論」として語られるにふさわしい状況にならない事を祈ります ^^;)。
4.「純粋下半身問題」の不可避性
さて、それでもなお、上に挙げたような男性の性欲の在り方は「社会的に作られてきたものだし、またメディアが作り出したものだ」と主張する人もいるかも知れません。その場合の根拠として挙げられるのは、おそらくは構造主義的なものの見方ではないでしょうか。例えば、私は男性が「女性からその身体性を性的信号として受け取る」と書いたわけですが、では具体的にその「性的信号」とは何かといえば、それは時代により、また文化によって異なります。したがって、何を「性的信号」とするかは、社会的に作られたといえるでしょう。
しかし、具体的に何を「性的信号」とするかは違っても、私が上に書いたような基本構造はまったく同じであるという事も、また構造主義的に主張する事ができるわけです。そもそも、一見して進歩的とか未開と見えるような文化間の差異も、実はまったく同じ基本構造を有しているというのが、レヴィ=ストロースをして構造主義の創始者たらしめた発見だったのではないでしょうか。したがって、この男性の性欲の基本構造の普遍性をどう考えるのかという事については、構造主義的な見地に立てばかえって反論の余地を失う結果になると思います。
例えば、日本の女性の化粧だけを見ても、戦後の半世紀だけでもかなりの変化があります。髪形や服装にも様々な変化があります。では、それによってこの基本構造が変わるかというと、まったくそんな事はありません。こうした男女間のエロスの在り方、その基本構造は同じなのです。だからこそ、私達は他の国の映画を見たり古典を読んだりしても、その中に描き出される男女の関係や男性の欲望の在り方に、自分達が生きる世界のそれと共通するものを見出す事ができます。それこそ親鸞もアウグスティヌスもというわけですから、これを近代社会の産物だといって片付ける事もできません。むしろそういう言説の方が、現代の「近代批判」の風潮に乗っかった「社会的に作られてきたもの」ではないでしょうか。
もう一つ反論の方法として考えられるのは、欲望の対象の相対化です。この基本構造そのものは認めるにしても、欲望の対象を女性に限る必要はないのではないか、少なくとも何を「性的信号」とするかが社会的に作られたものである以上、また現に同性愛やフェティシズムが存在する以上、性欲の対象は女性に限る必要はなく、また性器にこだわる必要もない、と。
これに対する最もシンプルな答えは、欲望の対象の相対化が可能であるとしても、それは既に今現在「純粋下半身問題」を抱える男性にとっては何の解決にもならないという事です。なぜならば、他の話題でもこれまでに何度も述べて来たように、人間の欲望(男性の性欲に限らず)の内容は、当人にとって必ずしも恣意的なものではないからです。むしろ男性にとって、「自分の」性欲でありながら自分の意思ではどうにもならないものとして現れてくるという事が、「純粋下半身問題」の問題たる所以なのではないでしょうか。
以前に何かの本で、「欲求に欲望という具体的な形を与える事は、欲求がそれ以外の形をとる事に対する抑圧だ」と書いてあるのを読んだことがありますが、欲望の対象の相対化は、この意見と通底するものがありそうに思えます。一言でいえば、人間のセクシャリティはもっと様々な形態を取りうる「自由」なものであるはずだという考え方ですね。しかしこの考え方もまた「男性の性欲の基本構造の普遍性」を説明する事はできません。この考えに沿って考えるならば、時代により文化によって実際に様々な形態のセクシャリティが展開されていてもよかったはずなのに、実際にはそうならずに「男性の性欲の基本構造の普遍性」が観察されるのはなぜか、という事です。
三橋順子さんの発言の引用ばかりで恐縮ですが(別に彼女に恨みがあるわけではないのですが ^^;)、
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…。伊藤さんが言われた下半身問題というのは、はっきり言うと「ペニス問題」っていうことですけど、私はセックスは頭の問題、ファンタジーの問題だと思うんです。それをペニスに集約させちゃうっていう男の多数派の考え自体が、もうどうしようもないですね。かわいそうです。結局、若いおとこのこにしても中年のオジさんにしても、男性がセックス第一主義に束縛されている限り、豊かな未来はないと思う。…。 (P174) |
これは既に一度引用させていただいた発言で、繰り返しますが、私も人間のセックス(=性交)が「頭の問題、ファンタジーの問題」という側面を持つという事に関しては同意見ですし、またこの引用部分の少し前ではセックスを「知的遊戯」とおっしゃっている事にも、これが「セックス=知的遊戯」とイコールで結んでしまうとしたらどうかと思いますが、少なくともそういう側面はあると思います。
しかしそれが、「男性の性欲の基本構造」に取って代わるような事になると考える人がいるとしたら、それは疑問です。私はむしろ、男性の性行為においての「知的遊戯」の側面は、いわばオプションとして「男性の性欲の基本構造」の上に乗っかる形になっていると思います。
三橋さんのこの意見について、私には、彼女が男女のセクシャリティというものを対称的なものとして見ているのではないかという疑問があります。セックスが「頭の問題、ファンタジーの問題」であり、なおかつ必ずしも性器にこだわる必要がないというのは、女性のセクシャリティについては当てはまるのではないかと思います。しかし、それと同じ要求を男性にして実現できるかといったら、それはかなり無理があると思わざるを得ません。
なぜなら私の考えでは、どう見ても男女のセクシャリティには非対称性が存在するからです。また、男性の性の在り方が「頭の問題、ファンタジーの問題」を含んでいないとか乏しいとも私は思わない。ただ、それがそれぞれの性においてどのような意味を持つのかという事について、両性の間には明らかに違いがあります。
男性の性というのは、どこか当の男性本人から疎外されているし、またそうならざるを得ない性質があります。これは逆に、男性が自分の性から疎外されてもいるという、二重性を抱えた問題です。女性の場合でしたら「ファンタジー」の中に、自分自身も自分の性も、それこそ「身も心も」投げ込む事が可能でしょう(これは具体的なあらゆる事例においてすべての女性が必ずそうなるという事ではなく、あくまでもポテンシャルの問題ですが)。
しかし男性の場合には「純粋下半身問題」を前提とした、自分自身と自分の性の間との距離を埋めるためにこそ、「ファンタジー」が必要とされているのではないでしょうか。それは人により時によって、「女性に対する支配」かもしれませんし「愛」かもしれません。
上の三橋さんの発言の中にある「ファンタジー」という言葉は、女性の性においてのファンタジーという意味ではまったくその通りだと思いますが、だからこそ、それが男性にない(少なくとも一般的ではない)というのは、むしろ当然の事で、男女を逆にしても同じ事がいえるのではないでしょうか。男性には「ファンタジー」がないのではなく、その内容や用途が男女の間で異なっているのだと見るべきでしょう。
そういう意味では私は、三橋順子さんの発言の裏側に、男性中心主義に対する反動としての、いわば「女性中心主義」とでもいうべき考え方が潜在しているように見えて仕方がないのです。しかし、彼女の発言を好意的に見るならば、女性のセクシャリティの深い部分をすくい上げている発言ではあるといえます。それよりも私が気になるのは、「男性」として話をしているはずの伊藤公雄氏の発言の中に、男性の「性」について掘り下げた形跡がまったくうかがえないという事です。強いて言えば、それは伏見憲明氏のホモセクシャルの話の中にいくらかはすくい上げられてはいるのですが、しかしそれは男性一般の話としては取り上げられていない。伊藤氏の発言には、女性問題などで散々語られてきた論理を男性版に焼き直したという印象しか持てなくて、この人が本当に男性独自の問題について考えた事があるとは、少なくとも私は、この座談会の記事からは思えませんでした。
もしかしたら私のこのような考えに対して、なぜ「男性の性欲の基本構造」というものを固定的に考えなければならないのかという反論があるかもしれません。しかし、そういう人に対しては逆に、それでは私がここまで述べてきた「男性の性欲の基本構造」の普遍性を否定できるような、どういう根拠があるのかという事を問い返したいと思います。確たる根拠もなしに「それは変えられるはずだ」というのでは、あまりに無責任ではないかと思うからです。少なくともここでの考察は「知的遊戯」ではなく、いま現に自分の「生」を生きている男性達にとっての問題だからです。しかも、それは純粋に「頭の問題」なのではなく、どこか男女の身体性の差異と重なり合っているように思えるのです。
5.「純粋下半身問題」と男性ジェンダー
セクシャリティだけではなく、ジェンダーについても、このような男女の身体性の差異とまったく無関係であるわけではありません。この事は同時に、「時代により文化によって実際に様々な形態のセクシャリティが展開されていてもよかったはずなのに、実際にはそうならずに「男性の性欲の基本構造の普遍性」が観察されるのはなぜか」、また、ジェンダーにおいても「ギリシャ神話や古事記といった神話時代から現在に至るまで、一貫した男女の非対称性が存在しているのはなぜか」という事への答えでもあります。
簡単にいえば、まず女性の性が未来への生活(結婚や妊娠・出産、子育てに象徴されるような)につながる形で思い描きやすいのに対して、男性の性は「その都度」の欲望の処理という短時間的、断続的な在り方をしています。むろん現在では子育てに参加する男性も数多くいますが、しかしそれが男性にとって、自分の「性」に直接結びつくものとして意識されているようには見えません。むしろ、このような子育てや家事への参加にせよ、昔のような「家長」としての在り方にせよ、これは「男はかくあるべし」という倫理的な「縛り」なのではないでしょうか。ただ、「どのように縛るか」という内容が変わっただけで、当為(かくあるべし)という形での縛りである事には、何の違いもないのではないかと思います。
私はここで「縛り」という言葉を使いましたが、「だからそれはなくすべきだ」といいたいのではありません。それは何らかの形で男性から女性(あるいは妻子)に対しての、「責任」だと思うからです。その具体的内容が何であるかは別にして、この責任自体を問うべきではないとは考えにくいのです。この「縛り」をなくして男性を無責任な状態に置けば、俗にいう「やり逃げ」を責める根拠もなくなりますから(^^;)、これは、まず大半の女性が賛成しないだろうと思います。
要するに、「会社でも家庭でも『俺は男だ』って肩肘張った反動が、ホステスに無理やり股間握らせようとしたり、通勤電車で痴漢したり」という形で現れるのではなく、男性のジェンダーに見られる「かくあるべし」はむしろそれを押さえる役目を果たしている。以前に、「社会的存在(社会的役割)と人格」について書いた事がありますが、少なくとも、男性の「社会的存在」の側面においては、男性ジェンダーはむしろ男性の性を奔放に発揮させない方向で定まっています。
その反面、男性の「人格」の側面(ここでは人間の「社会的存在」ではない側面という意味)においては、何人の女性と経験したとか、何人イカせたとか、そういう事を男性の価値としているような事実があることも確かです。だけど、この「価値」にどれほどの普遍性があるのか、つまりこの「価値」が「価値」として通用するのはどのような範囲かというと、どんなに広く見てもせいぜい人類の半分、つまり男性の間でだけ通用する価値です。それも社会的な場面では出せない「非公式な価値」であって、公にすれば、むしろスキャンダルになってしまいます。なぜスキャンダルになるかといえば、それと相反する価値観、つまり男性の性を奔放に発揮させない方向での「男はかくあるべし」の方が強いからです(そうでなければ「問題」として扱われる理由がありません)。
それにもかかわらず、なぜこのようなものが「裏の価値」としてであれ通用しているのかといえば、他の男性を羨ましがらせることが出来るからでしょう(笑)。だから、場面を選びさえすれば自慢の種になる(と同時に、場面選択を誤れば命取りにもなる)。また、買春の回数は自慢にはならない(これは金の有無の問題であって、いわゆる艶福家である事とは本質的に異なる)。仮に、その男性がセックスのテクニックに秀でているとしても、大半の女性にとってそれを彼の「価値」として認めるのは、彼が「自分の男」である(またはありえると確信出来る)限りにおいてです。言いかえれば、彼女が自分の「性」を自分の未来の生活につながる形で物語化できる、その物語に「彼」を繰り込む事ができる場合に限られます。彼女が「彼」を自分の物語に組み込めるかどうかは別の側面で計られる事になるので(性的なテクニックは、せいぜい彼女の生活の性的な側面でしか活きない)、性的なテクニックの有無は、女性にとっての「男性の価値」(魅力)の本質ではありません。
また別の言い方をするならば、女性が男性をテクニックだけで選ぶ事があるとすれば、それは「彼」を自分の未来の物語に組み込むつもりのない「遊び」の相手として選ぶ場合でしょう。もっとも、それはしばしば「男性側が望む形」でもあるのかも知れませんが(笑)、しかし実際には、結婚するつもりのない私でも、そんな基準で男性を選ぶつもりはありません。テクニックの有無は、せいぜい「ないよりはあった方がいいケド」(^^;)という、副次的な条件に過ぎません。「彼」を自分の未来の生活に組み込むつもりがない場合でも、一緒に過ごす時間をそれなりに「短い物語」として受け止める自分がいるからです。もっと露骨な話をすれば、単に気持ちがよければいいのであれば「モノ」で構わない。しかし、そこには「ふたりで一緒の過ごす時間」というショートストーリーが存在しません。「性」を物語につなげる事は、逆に物語を「性」に繰り込む事でもあって、そこに「モノ」ではない人間を相手にする事の意味があるのです(これは上に書いた「女性の性においてのファンタジー」の、私なりの表現でもあります)。
話がそれましたが、男性のジェンダーが(そして女性のジェンダーも)それぞれ何らかの形で、両者のセクシャリティの違いに根拠の上に歴史的に編み上げられてきた事を、ここで再確認しておきたいと思います。
私の考えでは、セクシャリティにおける両性の平等とは、女性を男性のセクシャリティのために一方的に利用する事でないのはもちろん、反対に、女性のセクシャリティの性質を挙げて、男性のセクシャリティがそれと異なっていることを批判するといった事でもありません。男女のセクシャリティにおける平等を考えるという事は、両者のセクシャリティの違い(非対称性)それ自体を否定するのではなく、むしろその非対称性を認めた上で、どうしたら両者にとってよりよいような在り方を実現できるのか、その条件を考える事です。
そうでなければ、私達はいつまでも「純粋下半身問題」から目をそらし続けて、現実味のない意見しか言えないことになるでしょう。
6.「純粋下半身問題」の展開
「純粋下半身問題」を取り上げるについて、ここまで再三に渡って三橋順子さんの発言を引用させていただいたのは、それが男性の性衝動の発揮(その是非はともかくとして)についてリアルに語られているからです。では、それについてどう考えればよいかというと、やはり男性には何らかの形で、それを奔放には発揮させない形での「縛り」は必要だと思います。しかし、抑え付けるだけでも、これは上手くない。
私の考えでは、「ホステスに無理やり股間握らせようとしたり、通勤電車で痴漢したり」というのは、「会社でも家庭でも『俺は男だ』って肩肘張った反動」というよりは、むしろ性欲の奔放な発揮の抑圧に対する反動です。したがってここでは、抑制と解消とのバランスの問題だと思う。これをフェミニズムに任せておくと「抑制」一辺倒の抑圧になってしまうわけですが(^^;)、男性の中から「性」について考えようという人が出てきても、どういうわけか、しばしば同じ事が起こります。あるいは、前出の伊藤公雄氏のように、抑圧とまで行かないまでも問題から目をそらしてしまう。それに対して、「男の問題が見えてない。男には純粋下半身問題がある。純粋下半身問題を無視した議論は困る」という意見が出てくるのは、私は当然だと思います。
なぜそういうことになるのかというと、「性」が男性間での「裏の価値」である一方で、男性の自分達の「性」に対する後ろめたさが存在しているからだ思います。それは、近年のフェミニズム等からの批判の影響もあるのでしょうが、それ以前から、男性は自分の性の「どうにもならなさ」、自分の主体性を侵害するのが他ならぬ自分の「性」である事への劣等感に悩み、後ろめたさを抱えつづけてきた長い歴史があるのではないでしょうか。
フェミニズム等からの批判に対して、ほとんどの男性が沈黙するか、歯切れの悪い抗弁を試みるか、裏へ回って「そうはいっても…」とグチをこぼす事くらいしか出来ないでいるのは(^^;)、彼ら自身の後ろめたさを、こうした批判がそれなりに上手く衝いているという事情もあると思います。一部の男性学者や運動家の中に、そうした批判に対して容易にコミットしてしまう人達が出てくるのも、その根底には似たような事情があるのではないかと思います(逆に、自分の「性」の「どうにもならなさ」に開き直って傲慢無礼になるような男も別の意味で始末が悪いが、両者はいわばコインの裏表に過ぎない)。
男女の関係という事について、あらかじめこの問題の解決方法をきわめて簡単に書いておくと、男女の双方が互いのセクシャリティの違いについて了解した上で、相手が何を欲しているのかを知ることにあります。例えば夫婦や恋人といった関係の場合、「性」を自分の未来につなげて考える女性から見て、男性はしばしば非協力的な存在に映る。男性が自分の夢(希望)から逸脱を繰り返すように見えるわけです。逆に、男性の側からそういう女性を見れば、自分を必要以上に拘束しようとする存在に見えるでしょう。両者がよい関係を築き維持するには、互いの妥協点を見出し、それを確認する作業が必要だと思います。
むろん、自分に自身が持てなければ、男性の側が女性に対して必要以上に拘束的になることもしばしばあります。男女の立場が逆の場合にも、同じ事は起こりうるでしょう。しかしこの場合に必要な事は、「自分にとっての相手」を縛り付ける事ではなく、「相手にとっての自分」の魅力(性的魅力とは限らない。人間関係においての魅力という意味です)を保つ努力をする必要があります。そのためには、相手を理解していなければ、相手の期待に沿う事が出来ません。ですから男女関係といっても、基本的には広い意味での人間関係について考える場合と同じ事なのです。ただ、そこに性差の非対称性が入り込んでいるために、とても判りにくいものになっている。その判りにくさにもかかわらず、あるいはむしろそのために、多くの人にとって男女の関係というのはとても魅力的なものとして感じられるのです。
ただ、男と女がくっついたら必ず魅力的な関係が自動的に出来上がるわけではなくて(笑)、それは当人同士が作り上げて行くしかありません。「当人同士が作り上げて行く」という事の中には、安易にフェミニズムの主張やジェンダーフリーといった思想に盲従しないという事も含まれます。
例えば、私は家事の分担そのものには反対しませんが、女性の側が専業主婦だったりパートタイマーだったりして、両者の外で働く時間が異なる場合には、家事の分担もそれを勘案して決める必要があるでしょう。もしそれを単純に「一日置きに交代」という事にしたら、上手く行くはずがありません。だから家事や育児の分担そのものはよいのですが、それをどのように分担するかという事は、各家庭ごとの事情を考えて、自分達で決める必要があるわけです。けっして外部で作られたマニュアルにしたがって決めるようなものではありません。当人同士の合意によるのであれば、男性が働きに出て女性が専業主婦でも、逆に女性が働きに出て男性が「専業主夫」になっても構わない。その間には、さまざまなグラデーションが考えられますが、それは各家庭ごとの事情によって当人同士の間で決める事です。もちろん何らかの事情が変わったりした時には、必要に応じて変更する事もありえます。
家庭は原則的に外側から政治や思想が口を出してよい領域ではありませんから、それに口を出すような政治や運動体があったら、それはその運動が間違っています。上手く取り決めが出来なかったときに、こうしてみたらどうかと「提案」する事は許されると思いますが、それが「命令」や強い要請であってはなりません(だいたい、そのような場合には家事の分担どころではなく、自分達の関係そのものについて見なおしてみる必要が生じているといえます ^^;)。
性生活についても同じ事で、これはもっと政治や思想が口出ししてはいけない領域です。私は家庭におさまってはいませんけど、そういう私の性生活にも口出ししてはいけない(笑)。その私はこれまで男性の性欲に対して、優しい女神のように受け入れる事もあれば(笑うな ^^;)、その発揮の仕方によっては非致命的な範囲内で「天誅」を加えてきた経験も何度かありますが(うなづくな ^^;)、そういう受け入れ側(ないし迎撃側 ^^;)の立場からいうと、要するに一方的なアプローチはダメだという事ですね(笑)。
男性が「純粋下半身問題」を直接ぶつけてくるのは、今の私にとっては(というのはつまり、お店に勤めていたころはともかくとして、現在の私には営業上の配慮という必要がないので)、単なる迎撃目標です。話し掛けてくる人の中にも、一方的にしゃべるだけで、何の話をしているのかさっぱり判らない人がいます。こういう人にも絶望していただきます。
こういうのは一言でいえば、セクシャリティやジェンダー以前の問題であって、自分の能力で人間関係を作る事が出来ない人だと思います。例えば、仕事の上では名刺や肩書きでそれなりに動けても、それは「その人」の能力とは違います。それは私には通じない。だから、これが出来ない人はお引取り願うしかありません。それから、そういう能力が「ない」とはいいませんけど、乏しい人がいます。こういう人もモテません。時間をかけたらなんとか人間関係を作れる人なんだけど、それが間に合わなくて性欲の方が先走ってしまう人ですね。具体的にこれといった行動に出るわけではなくても、「下心」が見えすぎて「上心」になっちゃってる人(笑)。
逆にどういう人がいいかというと、一緒にいて楽しい人、それもリラックスして楽しめる人です。いい男なんだけど、一緒にいると妙に緊張する人というのが時々いて、間違っても二人きりになりたいと思わせないような人がいます。そういうのはダメですね。逆に、一緒にいるとリラックスできて、しかも楽しい気分になる人がいます。だからといって必ずしも性的な関係になるわけではありませんが、しかし必要条件ではあります。これは、面白いクイズをたくさん知っているとか、流行の話題に詳しいとか、そういう事(雑誌のナンパやデートの特集記事にあるような)ではなくて、逆に、その人が私といて楽しいと本心から思っている事が必要なのです。楽しい話題を振る事に必死に(^^;)なっている人がいますけど、そういう人の緊張感はこちらにも伝わってしまう。そういう人と、このあと二人きりになろうと思うわけがありません。一夜の物語であれ、「物語」の中に繰り込む事の出来ない男性というのは、確かに存在するのです。
速水由紀子さん(私は今回の記事を読むまでこの人は知らなかったのですが ^^;)の発言で、
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バブルが華やかなりしころに「男性結婚講座」っていうのが大阪にありました。まったく女性と話せないとか、自分にぜんぜん自信がなくてコミュニケーションできない人たちがお金払って、デートのしかたとかのレクチャーを受ける講座なんです。そこに取材に行ったら、こういう人は一週間やっても一〇年やってもダメだなと思いましたよ。 (P166) |
というのがあります。私はこれを読んで、そうだろうなと、おかしいやら気の毒やら、ちょっと複雑な気分でしたけど、しかしこの座談会でいわれているように、そういう人は滅ぶしかないとは、私は思いません。全員が滅ばずに済むという保証も出来ませんけど(笑)、「デートのしかた」というような表面的な事を習っても、基本が出来ていなければどうしようもないと思います。ここでは具体的には何も書かれていませんが、これが例えばデートコースの設定とかデートでの話題などの指導をしていたとしたら、それこそ「一週間やっても一〇年やってもダメ」だろうと思います。自己意識の持ち方(特に異性に対したときの自意識過剰が問題です)とか、相手と対面して話をするときの感応力とか、そういうところから始めてコミュニケーションスキル全体を高めなければ、見よう見真似のデートごっこなんか、上手く行くはずがありません。
そういう男性には、基本から自分の魅力を磨き上げていただくか、合法的な手段で性欲の解消をしてもらうしかありません。いわゆる風俗産業とかポルノですね。モテるか滅ぶかという両極の間に、こういう選択肢があるわけです。また、売買春も含めて、こうした男性の性欲の解消手段を片っ端から批判して禁止させるような政治運動にも私は反対です。もちろんそれに伴う弊害(賃金が不当に安いとか、AVの撮影のために実際にレイプをするとか)の排除には賛成ですが、それは風俗産業やポルノそれ自体の廃止とは別問題です。例えば数年前に、スポーツカーのビデオ撮影のために常磐道を時速300キロだったかで暴走して逮捕者がでたという事件がありましたが、上のような廃止論を認めるなら、同じ理由で自動車のビデオも禁止しなければならないでしょう。もっとも、この場合には自業自得ではないかという反論はあるかもしれませんが、それならば交通事故をなくすために自動車を全廃しろという話はどうか、という事になります。
また、風俗産業やポルノでの男性の性欲の解消というのは、おそらくは女性が思っているほどに男性にとって好もしいものではありません(とっても好もしそうに見えますが ^^;)。それは、先に述べた「男性の自分の性への後ろめたさ」の、もう一つの原因でもあると思うのですが、男性の性欲には、その断続的・短時間的という性質から、性欲の解消直後に生じる「むなしさ」が伴います。特に風俗産業やポルノでの性欲の解消は、女性の(あるいは、女性が持つエロスの)全体性に手を伸ばしつつ、そこに至らない形で果たされます。というよりも、そこは初めから届かないように設定されているわけです。あるいは、あらかじめ業種ごとに分断されているといってもいいでしょう。おおかたの男性にとって、それが判っていてもなお求めざるを得なくさせる「何か」が存在しているということ。それは、「純粋下半身問題」の一つの大きな核ではないでしょうか。
もちろんそれは実際には、風俗産業のあり方やAVの流行のパターンなどによって、ある程度は発揮の仕方が定められたり、欲望を刺激されたりという形で、社会的に、あるいはメディアに作られた面があることは否定できません。しかし、そういった要因が果たすのは、もともと存在していた欲求に「欲望」という形を与えることであって、元の欲求それ自体を社会やメディアが作る事は出来ません。社会やメディアは、この問題の要因ではあっても、これを何とかすれば「純粋下半身問題」が解決出来るというものではないでしょう。
私はむしろ、十全な満足ではないにせよ、男性の欲求に形を与えて解消に向かわせるという方法で、「求めざるを得ない」気持ちを抱かせるということ、それ自体が一つの救いだと思います。「欲望」の形を取らず、どこにも向かいようのない欲求ぐらい始末の悪いものはないからです。重要なのは、それを全否定する事ではなく、どういう方向にむかう欲望を認め、どういう方向にむかう欲望を抑制するか、それを男性にとって無理のない範囲(無秩序に解き放つのでも、厳格な道徳主義に陥るのでもなく)で検討する事だと思います。
