だんせい
49.異性の視線

神名龍子


 以前に「男と女の非対称」で、男女には「見る・見られる」の非対称的な関係にあるという意味のことを書きました。これはその当時、小浜逸郎氏の『男はどこにいるのか』(ちくま文庫)を参考に書いたものですが、その後、小浜氏に先だって、フランスのメルロ・ポンティという現象学者(「身体」についての考察で有名)が、『知覚の現象学』の中で同じ事を述べているという事を知りました。

 これを知ったときに気になったのは、この事を一緒に学んだ女性の中の数人が、この「見る・見られる」という関係を、「能動・受動」という形で固定して理解してしまっていたらしいということです。しかし、これも「男と女の非対称」で述べたとおり(また、小浜氏が『男はどこにいるのか』で述べたとおり)、「見る・見られる」は同時に「見せられる・見せる」でもあって、どちらにしても非対照的な構造であることには違いありませんが、どちらが能動的でどちらが受動的だと固定的に見るのは、やはり誤りだと思います。

 もちろん女性にとっては間違いなく、「見られたくもないような男性」もこの世に存在しており(笑)、そういう場合には、見られたくもないのに「見られる」という、不本意な受動に甘んじなければならない場面が存在することは事実でしょう。そして、こういう時に男性は、「いやらしい視線」だとか、最近では「セクハラ」といった言葉を浴びせられる。このことから、同じ事をしても「いい男」だと責められないのはなぜだ、という不満も出てくるわけです。ただ、こういうのは個々の女性の主観によってセクハラであるかないかが決まってしまうという点で、不合理性を抱えている事もまた事実でしょう。したがって、この「セクハラ」という概念は安易に乱用されるべきではなく、「セクハラとは何か」という事が、今後充分に検討されるべき課題だと思います。

 ただし、今回はその事が主題なのではなく、「見る・見られる」を「能動・受動」という形で固定化して捉えないために、同じ事を「見せられる・見せる」という側面から、その中でもとりわけ女性の側の「見せる」意識について徹底的に考えてみたいと思います。


1.「女性の解放」は女性の性的魅力も解放した

 まず最初に確認しておきたいのは、以下の考察そのものに否定的な意見を述べるのは、男女を敵対関係としてとらえるしか能のないフェミニストや、その思想の影響を受けた人達だろうという事です。こういう連中は、「男女の非対称性」にあらかじめ優劣の価値観を固定的に結び付ける以外の思考方法を持っていませんから、あらゆる性差の否定に躍起になるわけです。

 しかし、その一方で現実には、ファッションや美容(化粧品やヘアファッション、エステ等々)に関する話題や広告が世に満ち溢れ、衰退の兆しを見せません。時折、「この化粧品は危ない」というような本が出ることはありますが、どう考えてもこの手の本が化粧品以上に売れたとは思えません(笑)。現在の日本では、女性差別も減り(なくなったとは言いませんが)、女性の解放もかなり進んでいます。それにも関わらず、フェミニストが期待するようには「男に媚びる女」が減るわけでもなく、かえってファッション・美容業界が隆盛を極めているのは、なぜなのでしょうか。

 結論からいってしまえば、これこそがむしろ女性解放の結果なのです。現在と比べると、たかだか30年前でさえ、女性の側から男性を誘う事は、はしたない、恥ずかしい事だという意識が強くありました。男性を誘うために女性から声をかけるとか、愛の告白をするといった具体的な行為はもちろんのこと、「あれは男を誘っているのではないか」と他者から見られそうなハデな服装や化粧だけでも、かなりの勇気を必要としたのです。

 これは私が小学校1年の時の話ですが、同じ学年の他のクラスの担任の若い女性の教師で、服装や化粧の派手な人がいて、大変に評判が悪かったのを覚えています。ところがこの女性教師が、誰に評判が悪かったのかというと、他の女性教師や生徒の母親。つまり「他の女性」だったんですね(笑)。母親達が口をそろえて「まるでキャバレーのホステスのような」と陰口を叩いていたものです。要するに昔は、見るからに男性が好みそうな服装や化粧、振る舞いをするというのは、水商売の女性のものであって、カタギの女がするべきものではなかった

 もっとさかのぼって、なぜ「バレンタインデー」というのがあれほど日本で流行ったのかというと、当時の女の子にとって、一年を通じてその日だけが、自分の側から愛の告白が出来る、半ば公認の日だったからです。いわば、抑圧された欲求の、ささやかなガス抜きの効果があった。それに対して、バレンタインデーよりはずいぶん遅れて、ホワイトデーというのが出来ましたけど、こちらはたいして盛り上がりません。バレンタインデーが数十年間一貫して「チョコレート」で通したのに対して、ホワイトデーの方は年によってクッキーだ、マシュマロだ、キャンディだと、何を贈る日なんだか、実は私もいまだに判らない。ホワイトデーが盛り上がらないのは、こういった正体不明の日だからだということもあるでしょうが、何よりも、男性からの愛の告白は、女性に比べて抑圧されていなかったということが大きかったと思います。

 では、バレンタインデーと関係なく、一年中男性に媚びを送っていた水商売の女性はというと、これは世の中の男女それぞれから、異なる理由で差別されてきました。男性からの差別というのは、悪い存在だとは思われないけれども、しかし機嫌よく相手をしてくれる事が判っているだけに、カタギの女性ほどの価値を感じない、という事に由来します。しかし、これはあくまでも相対的な価値の上下であって、繰り返しますが、よほどの倫理主義者でない限り「悪い存在」だとは思われない。もしかしたら、倫理主義者で通っている男性だって、内心では「ええなぁ」と思っているかも知れない(笑)。その程度のものですね。あまりに色気過剰だと、男性からも敬遠される事はありますが、しかしそれが理由で憎悪される事は、まずありません。

 では、女性からの差別はどうかというと、もっと陰湿になる。なぜかというと、その根源に嫉妬があるからです。ひとつは、「自分は好きなあの人に胸中の思いを打ち明ける事も出来ないのに、年がら年中オトコにコビをバラ撒きゃあがって」という嫉妬。もうひとつは、もっと具体的に、実際に男性の注目を集めているのが許せないという嫉妬。この点では、実は水商売の女性を見下す種類の女性は、水商売の女性に対して暗に「自分がかなわないくらい強力なライバル」という見方をしているのです。だから、例えカタギ(小学校の教師)の女性であろうと、彼女が上記のような「水商売の女性」の属性を備えているという理由で、「まるでキャバレーのホステスのような」という陰口が成立してしまう。

 もちろん、すべての女性(カタギの)が、水商売の女性に対して嫌悪感や憎悪をいだいているわけではありません。ただし、このことは私自身の経験からも断言できますが、そういう女性は大まかに三種類に分類できるようです。まず、自分が男性から愛される事をあきらめてしまって、それがルサンチマンにもなっていないような場合。それから逆に、自分に絶対の自信を持っている場合です。これはどちらも、水商売の女性に対して嫉妬をいだく理由がない女性たちということですね。それから、いわゆる「業界人」に属する女性です。この種の人達はむしろ、カタギよりも水商売の方に親近感を感じるらしい。

ただし、こちらがニューハーフの場合にはもう二種類の女性がいて、まずはいわゆる「オコゲ」と呼ばれる人達。それから自分の彼氏なり亭主なりがニューハーフにはなびかないだろうと信じている場合です。この場合、こちらがその彼氏なり亭主なりに下手なちょっかいを出さない限りにおいて「女の友情」が維持できます(^^;)。

 ところが、近年では次第に「女性の解放」が進んだ結果として、カタギの女性がいわば「水商売化」してくる傾向にあります。つまり、男性の目を引くような姿や振る舞いをする事に対する禁忌が薄れてきたのです。女性の解放は、女性が男性と同様にズボンをはくことよりも、むしろ華美に装ったり、ミニスカートをはくことが出来るという形で現れてきた。女性はやたらと肌をさらすものではないという、古いタイプの「女らしさ」から解放された結果として、自分の性的な魅力を自由にアピール出来るという「自分らしい女らしさ」(=「女らしさの多様化)の時代が到来したといえるでしょう。

 それによって、相変わらず「まるでキャバレーのホステスのような」と陰口を叩く女性のほかに、「キャバレーのホステスのように」なって真っ向から対決したろうじゃないかという女性が出現してきたわけです。とはいえ、方法は多様化しても「女の敵は女」という構図は残るのですが・・・。

 ただし、欧米はともかくとして、少なくとも日本においては、こうした傾向はここ数十年だけの事ではありません。欧米では女性のファッションの発信源が上流階級であったのに対して、日本の場合には役者(女形)と遊郭が流行に対して及ぼした影響に、決して無視できないものがあるからです。例えば帯の結び方で女形が工夫したものが流行になったり、また、長襦袢も遊郭が発祥で町人はともかくとして、武家の女性は長い間、長襦袢は用いなかったそうです。ですから日本では、水商売や業界人(特に芸能人)が女性達のお手本になるという事は、少なくとも安土・桃山〜江戸時代あたりからあったことなんですね。もっと時代が下っても、スカーフの用い方ひとつでも、映画の影響を受けて「マチコ巻き」なんていうのが流行ったりするわけです(これも古いか ^^;)。


2.見せる努力

 女性の「見せる」について、まずは基本的に、そしてこの稿を書くきっかけともなった「身体」から入りたいと思います。といっても、他の要素だって「身体」と無関係なものの方が少ないわけですが、それは別に扱うとして、まずは具体的に「肉体」から始めます。

 当たり前ですが、「肉体」というのは「気立て」や「心栄え」と違って、目に見えるものです。目に見えるということは、遠くからでもそれなりに、また一瞬であっても、見る人に対して何らかのアピール力を持つということです。今はちょうど夏ですから、男女共に薄着になって、ボディラインが判りやすいし、腕や脚はもちろんのこと、女性ならば服装によっては背中やおヘソまで、街中で露わにしてしまう。私は「泳ぐ」という趣味がないので行きませんが、海水浴場に行けば、たぶんもっとあちこち露わにした女性もいることでしょう。

 夏を目前とした時期にダイエットを始めようかと思う女性が増えるのも、そのためです。冬の間に貯め込んだ脂肪をいかに披露「しなくて」済むようにするか。これはかなりの割合で、女性に共有される課題のようです。特に気になるのが、ウエスト周り。冬から春、春から夏へと季節が移り変わるごとに、コートがなくなり、ジャケットも着ていられなくなります。女性用のコートやジャケットは、くびれているべき部分をくびれさせたシルエットのものが多いから、それなりによいスタイルに見えてしまうもの。この時期は、肉体よりもセンスで勝負といったところでしょう。ところが夏になると、こうしたウエストの擬装手段を失い、目視照準による攻撃目標になるのです。

 もっとも、脂肪はなければないほどよい、というものでもありません。脂肪が不足しすぎても、それはそれで女性特有の丸みが失われ、魅力のない「鳥ガラ女」になってしまいます。それに乳房の大部分もその正体は脂肪です。脂肪がつきにくい体質というのも、実はそれほど羨ましいものではありません。私などはこちらの体質に属しているために、プヨプヨしてるのって可愛いくっていいじゃん、と大真面目に思ってしまうのです。とはいえ、評価できる限界はあります。「プヨプヨ」は可愛いけど、「ブヨブヨ」はだめ。

 だから正確には、適度な脂肪があるのが好ましいのですが、世の中を見まわすと、私のように不足で悩んでいる人間は少なくて、多くの人が「過剰」でお悩みのご様子。MTF で、女性ホルモンを使用している人の中には、脂肪過多の原因をすべて女性ホルモンに押しつける人がいます。確かに、女性ホルモンにはそのような効能があるものの(そうでなきゃ乳房も出来ない)、しかしそれなら女性ホルモンを使わなければ無事に済んだかといえば、そんな保証はまったくありません。なぜなら、女性だけでなく、女性ホルモンを投与しない普通の男性でも、やはり年齢と共に腹が出る人がたくさんいるからです。もちろん女性の場合も、このような言い逃れは出来ません。

私の下っ腹が出てるのはゼイ肉じゃないのよ!
これは便秘なのよ!
フン詰まりさえ治れば一瞬にしてナイスバディになるのよ!

と、どんなに力説しても、かえってそのために男性を幻滅させてしまのがオチだ、という事がよく判っているからこそ、耐え難きに耐え、一粒の「コーラック」に希望を託すのです。

 無理してダイエットしたって見せる男もいないくせに、と意地悪をいう人もいますが、それは浅はかというもの。まず第一に、ダイエットに成功しなければ「見せる男」を獲得できる確率が低くなる。それに、「見せる男」を獲得してからダイエットを始めたのでは間に合わない。そこに、ジャケットとしばしの別れを告げる前に、ダイエットを始める必要性があるのです(ただし早めに始めたからといって、ダイエットに成功する保証があるわけではない)。それに、ダイエットはかなりの期間と忍耐力を要するものですが、その代わり一度できてしまったら、しばらくはその体型が続きます。化粧やヘアスタイルは毎朝取り組まなくてはならないものですが、体型は利用できるスパンが長くて、少なくともワンシーズンはもちます。だからこそ、苦労のしがいもあるわけです(もし仮に、3ヶ月かけて実現した体型が一晩しか持たないとしたら、誰もダイエットなどしようと思わないに違いない)。

 しかし、どんなにダイエットに励んでも、身体の線というのはある限界を過ぎれば、年齢と共に衰えて行くもの。そこで、なぜかまだ限界とも思えない年齢の女性まで巻き込んでヒット商品となったのが、「よせて、あげる」ブラジャーです。私自身は、そもそも「寄せ」ようも「上げ」ようもないので、最初からあきらめて使っていませんが(ほっといてくれ ^^;)、そんな私でも(だからこそ?)、胸が大きいと思われたい、できればムネの谷間なんか出来たらサイコーという気持ちは、よく判ります。でもそれは自分自身が「よい」と思うよりも、「男性はそういうのが好きなのよね」ということが判っているから、という理由の方が大きいのです。だから、世の男性どもが巨乳がいいといったら自分も巨乳になりたいと思う。実際に巨乳の女性に聞いたところでは、口をそろえて「重くて肩がこる」というので、なったらなったで辛そうだし、それは世の女性達も知らないわけではないと思うのだけれども、それでも巨乳になりたがる。これこそ現代版「けなげな女心」なのです。

 それから出てきたのは、パッド入りのブラ。「よせて、あげて」ったって、私のように(って事はないと思うけど ^^;)「ない胸は上げられない」という女性達もいるわけです。だったら物理的に、しかもお手軽に増やしてしまえというのがこのブラです。でも、これはさすがに「よせて、あげて」よりも気が引けるのか、あまり大々的には宣伝はされませんが、ひそかに(?)結構売れてるらしい。

 とはいえ、「気が引ける」のどちらも同じことで、それは程度の違いに過ぎません。現代でも、あまりにあからさまに「私は男性に対する性的アピールに熱心なの」とは言いづらいものです。しかしそこのところは、「ものは言いよう」ってことで、なんとかなるもの。「よせて、あげて」の頃には「合わない下着を着けているとボディラインが崩れますよ」という大義名分があって、「そうよ、これはオトコの目をごまかすためではなく、自分のためなのよ」という言い訳ができます。だけど、その「自分のため」というのは、将来に渡って魅力的なボディラインを維持したいという事ですから、それに対してさらに「なぜ?」と突っ込んだら、結局は同じことなんですけど・・・。

 それからパッド入りブラだと、「このパッドは胸を嵩上げするためのものじゃないの、胸を保護するためのクッションなのよ」といえる。でも、中に水が入った、触った感触も本物そっくりというウォーター・ブラまで出てくるにいたって、さすがに「何か違うんでないかい?(^^;)」と思ったのは、私だけなのでしょうか・・・。

 なぜこれほどにスタイルが重要なのかというと、どの方向から見られてもアピールする効果が期待出来るからです。人間は相手を正面から見る場合には、かなりの確率で顔を見ます。これは女性が男性から見られる場合も同じですが、しかし逆にいえば、顔はどの方向からでも見えるわけではありません。その点、体型というのは、方位を問いません。だからこそ、後ろから見て「スタイルのいい女だな」と期待して、前に回って顔を見たらガッカリした(悪かったな! ^^;)、という男性が昔から跡を絶たないのです。

 もちろんこうした要素は、いい男も、まるで好みでない男も引き寄せます。ですが、それはあとで好みに応じて選別すればよいことなのです。釣りに先だって撒き餌をする場合も、目指す大物から雑魚まで、魚はまさに玉石混淆で寄ってきますが、まずはこの「寄ってくる」ということが大事なのであって、ここではまだ選別の段階ではありません。ただし、魚にも餌の好き嫌いがあるように、目指す男性が決まっている場合には、その男性の好みに合わせた演出をすれば、よりいっそう効果的なのはいうまでもありません。しかし、一本釣りを狙うか、それとも広く網を張るかは、それぞれ方法であって、どちらが正しいというわけではありません。というか、どちらの方法を取るにせよ、方法よりも「エサの質」の問題なのです。

 これについて、もう少し原理的な事をいうならば、これらの場合に女性が「見せる」のは何かというと、「美」なんです。人間の根本的な価値基準というのは、プラトンの言葉でいえば「真・善・美」ですが(この他に、人間以外の動物も持っている「快」がある)、これを他の言葉で言い換えるとしたら、「感性化・身体化された『善』(よい)」ですね。ここでいう「善」は、もちろん倫理的な「善」ではなく、個人的な価値観においての「よい・わるい」の「よい」のことで、その根源は「快」にあります。

 女性はしばしば、自分の「美」を周囲に誇示しようとします。その動機のひとつには、自意識の自足ということもあります。つまり、必ずしも直接的に異性に向けられたものだとは限らないのですが、しかし、そのような自意識の自足についても、自分が「アタシってキレイ」と思っているだけでは不充分で、そういう思い込みは他者からの承認、つまり他者から「アナタってステキ」といわれる事で、より確固としたものになるのです。

 ですから、仲の良い女性同士というのは、やたらと誉めあう(笑)。肌がきれいだとかの直接に肉体的な事から、化粧の方法、服装のセンス、果てはちょっとした持ち物にいたるまで、「それってステキ」と誉めあうことで平和を維持しています。フェミニズムがミス・コンテストを非難して、女性を「美」という価値だけで計るなと主張しますが、女性同士というのはミスコンほど大掛かりではなくても、本質的には「ほぼ同じ事」を日常的にしているわけです。


3.ミスコンについて

 ミスコンについては、過去にも何度か取り上げてきましたが、これは「見せる」ことの一大イベントですから、ここで改めて取り上げる事にします。

 私は上に、女性同士が「ステキ」と誉めあう事とミスコンが、本質的には「ほぼ同じ事」だと書きましたが、「まったく同じ」ではないとしたら、それはどこに違いがあるのでしょうか。私の考えでは、前者がややもすれば社交辞令的な評価に傾く事があるのに対して、後者では嘘偽りのない評価であること。それから、後者の評価には、前者にはない「エロティシズム」への評価が含まれているという事です。もちろん女性同士の間でも「アラ、色っぽぉ〜い」という事はありますが、だからといって「こいつ、食ったろか」と思うことは、まずありません(普通は ^^;)。

 ですから、どちらが「純粋な評価」だとは言い難いのですが、そういった価値評価の問題は別にして、本質的に異なる部分が存在する事も確かです。

 なぜ度重なるフェミニズムの抗議にもかかわらず、ミスコンがなくならないのかといえば、「見せたい」女性の数が、常にミスコンに反対するフェミニストの数を上回っているからです。つまり、開催不可能になるほど応募者の数が不足するという事が、まず、ない。この事実が、「女性一般」の代表を僭称する女性フェミニストの主張がウソであることを裏付けるという構造になっているのです。

 ただし最近では、この「ミスコン反対」の意見も軟化してきた趣があって、ミスコンそのものには反対しないが、しかしそれを県や市などの地方公共団体が行うのはいかがなものか、という意見もあります。私も、この意見には一理あると思います。「美」に対する価値評価というのは、基本的には国家や地方公共団体が介入すべき領域ではありません。これは近代以降の社会の原則だと思います。

 しかし私の考えでは、この原則にはいくつかの例外があります。例えば、博物館や美術館の設置や、国宝・重要文化財等の指定とその保護などもこれに当たります。後世に残すべき文化遺産に公費が投入される事は、私は不当だとは思いません。が、もちろん、ミスコンの場合にはこれには当たりません(笑)。ではどういう場合に、公設のミスコンが認められるべきかといえば、例えばそれが観光キャンペーンのような、地域振興策の一環である場合です。

 よく観光シーズンに地方に行くと観光客を出迎えてくれるような、「ミス・みかん」とか「ミス・桜島大根」(いるのか? ^^;)の選考会を兼ねたミスコンが開催される事がありますが、私はあれは県や市の観光課が主催であってもかまわないと思います(自治体はまずいが観光協会ならよい、というのは単なる名目論であって、本質的な問題ではない)。むしろ、そうした人選は、それが公的機関によるものであれば、なおさら、公開審査である方が望ましいと思いますし、それをミスコンというイベントとして行う事自体にも、地域振興策の一環としての意味があります。

 もちろん、こうした「ミス・みかん」や「ミス・桜島大根」は、出来る限り幅広い人々にとって好感が持てることが望ましく、その要素として「感性化・身体化された『善』(よい)」としての「美」が含まれる事には、何の不当性もありません。鹿児島空港で飛行機を降りたら「ミスター・桜島大根」が歓迎してくれた、というのでは、私だっておののきます。鹿児島県や鹿児島市としても、

「今度の旅行、どこにする? 鹿児島ぁ? 火山灰をかぶりながら? 『ミスター・桜島大根』に迎えられて?」

と思われたのではマズイ。(註:鹿児島はよいところです ^^;)。

 これは、他の地方でも同じ事です。例えば大分県に「ミス・しいたけ」がいても許せるけど、「ミスター・しいたけ」がいたら怖いでしょう。99歩くらい譲って(最後の一歩は譲れない)怖くないとしても、これでは何かのパロディか冗談にしかなりません。女性フェミニストが「それなら、ミスターコンテストをやるぞ」と恫喝にもならない恫喝をして、「やれば?」と冷笑されるのも、これとまったく同じ構造があるからです。

 観光キャンペーンは、「成果をあげることが出来てなんぼ」のものなのです。やはり鹿児島には「ミス・桜島大根」が、愛媛県には「ミス・伊予柑」が、岡山県には「ミス・マスカット」が、いて欲しいのです(もちろん、秋田県には「ミス・なまはげ」が・・・いないかな、これは ^^;)。

 こうした公設のミスコンに限らず、ミスコン自体が、男女の「美」を求める気持ちに根ざしている事は確かです。男性にとっては他者(女性)の美を(例えその動機が不純だとしても)、女性にとっては自分自身の美を(例えそれが他の女性の持つ美だとしても、願わくばそれを自分自身の美として)、求めるものなのです。

 これは、やはり小浜逸郎氏が『男はどこにいるのか』で指摘している事ですが、航空会社の沖縄やグァムなどの宣伝ポスターに女性が、それも水着姿の若い用いられているのも、やはり女性蔑視には当たりません。あれが、ハゲて腹の出た甚平姿のオッサンでは、デブ専のゲイから見た場合を除けば、男女いずれから見ても(自分自身もハゲて腹の出たようなオッサンから見てさえ)、何の魅力も感じないでしょう。


4.なぜ「見せる」のか

 もちろん、女性が「見せる」のは身体(肉体)だけではありません。例えばファッションについていうと、(中にはボディコンのように、脱がなくても自分の肉体を自慢できる、という機能も持つものもありますが、それだけではなくて)女性にとってのファッションというのは、自分の内面の表現でもあるのです。自己表現とか、自己像をメッセージとして発信するといってもいいですね。

 つまり、女性のファッションは「こんなにセンスのいい私」とか「季節感や流行に敏感な私」を物語っているのです。場合によっては、「お金もセンスもあるハイソな私」を表現しようとして、「香港でのショッピングが大好きな、ブランド狂いの私」という、予想外のメッセージが伝わってしまう事があるのも、まぁ、ご愛嬌(^^;)。

 ファッションだけではなく、立ち居振る舞いについても同じことが言えます。思いつくままに挙げてみても、

などの「自己像」を他者に伝えたいと思っているのです。そして女性の自己像の中には、たいていの場合「男性(特に、いい男)にとって価値のある私」という像が含まれています。例えフェミニストであってもその大半は、「お前のことは、人間としては認めるが、女としては認めない」といわれたら、やはり怒ったり落胆したりするでしょう(立場上、それを表に出せない人も含む)。

 「オトコに媚びない私」という自己像を持っている女性でさえ、実は「やたらと男に媚びない」という事が、彼女にとっての「いい女」の条件になっていたりするものです。あるいは、自分が「いい女」だと信じているからこそ、男に媚びる必要を認めないという場合もあるでしょう。いずれにしても、必ずしも彼女がそれによって「いい女」だと思われる保証はありません。しかし、これが意外に有効だったりする例があるの が腹立たしい も、また事実ですね。

 いずれにしても、「見せる」という事の背後には「自分の見え方についての自信」が存在しています(それが、絶対の自信であるか、そこそこの自信であるかは別ですが)。例えば、ほんのちょこっとなんだけど髪形を変えてみて、そこに気付いて欲しいぞと思うのは、その髪型が自分なりに気に入っている場合です。鏡を見て、「あちゃ、こんなになっちゃった」と慌てふためいた場合には、「こんなの見せられないよぉ」と思う。

 これは言い換えれば、どのような自己像を持っているにしても、「こんなアタシってステキでしょ?」という気持ちを、誰でもどこかに持っているという点では共通しているという事を意味します(よほどコンプレックスの強い人でも、そもそも「ステキな私でありたい」という気持ちがなければ、自分に対してどんなにひどい評価をしているとしても、それがコンプレックスになる事はありえないのです)。そして、自分が「ステキ」である事を他者に認められることで、安心感を得る事が出来る。

 しかしこれだけならば、何も異性間に限ったことではありません。では異性間における、つまり男女の「見せられる・見せる」には、どういう特徴があるのでしょうか。


5.異性間の「見せる」

 私の考えでは、この問題の根底には「恋愛」や「結婚」(ここでは同棲も含む男女の共同生活)の存在があります。恋愛を端的に言い換えるならば、自分にはない「最高に価値あるもの」(真・善・美)を相手(普通は異性)が持っているという直観であり、またその直観には、「最高に価値あるもの」が自分のものになったら、どれだけすばらしい人生を送る事が出来るだろうかという予感を含んでいます。恋愛がしばしば、人をして世間の掟をも無視させ、破滅的な行動に走らせる事があるのも、このためです。彼(彼女)にとっては、彼女(彼)以上に価値を認めるべきものは存在しません。もちろん、それは第三者から見ればたいていは馬鹿げた非常識なことであり、「恋は盲目」といわれる所以です。

 したがって、結婚(男女の共同生活)は恋愛だけでは成立せず、お互いの愛情に加えて、現実の生活を営んで行けるだけの冷静さを必要とします。ちなみに近代の「恋愛至上主義」はこの点で間違っていて、恋愛は結婚の動機にはなり得ますが、それだけでは結婚の必要にして十分な条件とはなり得ないでしょう。

 ここではとりあえず、恋愛は自分(達)にとって有意義な未来を予感させるもの、結婚はそれを具体的に営んで行くこと、という意味です。では、そういう未来をいかにして手に入れるかというと、まずはもちろん相手が自分にとって「最高に価値あるもの」を持っている事が条件です(たとえ、それが年齢と共に「最高」とは限らなくなり、次第に妥協的になるとしても)。しかし恋愛が成立するためには、相手にも自分に恋をしてもらう必要があります。したがって、「私」は「私」にとってステキであるだけではなく、相手にとっても「ステキ」である必要があるのです。

 つまり、異性に対する「見せる」というのは、単に異性を手に入れるというのではなく、自分の未来を手に入れるという事を意味しています。ただし、これには少し付け加える事があります。

 ひとつは、以前にも書いたように、男女の関係において、男性が断続的な時間を生きているのに対し、女性はより継続的な時間のつながりとしての「生」を生きているという事です。つまり、男性がしばしば「その都度」の相手としての異性を求めがちなのに対して、極端に言えば女性には「一生の問題」として異性を求める傾向があります。「男は女の最初の男になりたがり、女は男の最後の女になりたがる」というわけです。

 ふたつ目としては、とはいえ、これは男女の一般的な傾向に過ぎないという事です。男性だって「生涯の伴侶」としての異性を求める事もあるでしょうし、女性にだって「遊び」の相手を求める事もありえるわけです。ですから、男女のいずれにおいても例外は存在します。ただしここでは、あくまでも一般論としての男女について述べています。

 ですから、「生涯の伴侶」も「遊びの相手」も求めていないという人(具体的な個人)は、いわばこの「見る・見られる」=「見せられる・見せる」というゲームから降りても構いませんし、誰もこのゲームへの参加を強制される根拠はありません。また、そういう強制は行われるべきではありません。

 それは逆にいえば、このゲームに参加する事を他者から非難されるような、いかなる根拠も存在しない、という事でもあるのです。このゲームが「文化的再生産の結果」だとしても(その通りなのである)、個々の当人がそれに不都合を感じていない以上、誰にもそれを禁止する権利はありません。そして、このゲームに不都合を感じていない人が、世の中の男女の大半を占めているのが現実です。参加したくない方達は、どうぞ降りてくださいというしかありません(反対する男性は多いでしょうが、特にスタイルのよい美人には、積極的に降りて欲しい ^^;)。

 しかし実は、一般には女性はそれほど意識的に男性に対して「見せる」ことを意識しているわけではありません。とはいえ、それは異性(男性)の視線がどうでもよいという事ではなく、むしろ、日常の中ではそれを意識しないほどに「見せる」ことが当たり前になっているからなのです。

 だからお化粧にしても、つい「単なる習慣」という気がしてしまい、男性が毎朝ヒゲを剃ったりネクタイをするのと同じような気持ちになってしまうことも、よくあります。私も前の仕事では通勤に電車を使ったりしていましたが、朝の通勤電車の中や駅のホームには、電気シェーバーでヒゲを剃っている男性を見かける事がよくありました。同じような場所でお化粧をしている女性も(さすがに通勤中のOLの中にはあまりいませんが)よく見かけたものです。やはり、時代と共に意識の変化があるのだなぁと思い、そのうち、朝に弱いOL達が駅のホームに並んで電車を待ちながら化粧をする時代が来るのではないか、という気がします。

 要するに現代の女性にとっての化粧というのは、「今夜はこれからデートだ!」とか、「街でいい男を見つけるゾ!」いう時には気合が入っても、それ以外の時には「単なる皮膚の延長」のようなものです。特に職場の男たちに見切りをつけた場合の、女性の化粧の手の抜きようというのは、その会社の男性たちが哀れに思えるほどです。彼女達は、自分の悪い評判が生じないような(自分の価値が無残なほどには落ちない程度の)、「そこそこ無難な化粧」さえしていれば、職場においてそれ以上に装う必要を感じないのでしょう。

 その証拠に、この季節になっても、さすがに駅のホームや電車の車内で「ワキ毛」を剃っている女性は、私はまだ見たことがありません(剃り忘れた女性ならば時々見かけますが)。やはり、自分の悪評となるようなみっともない行動までは、さすがに取れないのです。


6.「見せる」の衰弱

 しかし、恋愛も初期の燃え上がるような段階が過ぎると、やはり女性側にも手抜きが生じます。とはいえ、これは会社での手抜きとは違います。よく言えば「彼は、着飾った私が好きなんじゃないのよ、素のままの私という女が好きなの」という彼の愛への信頼ですが、悪く言えば「釣った魚に餌はやらない」というのと同じ。まぁ、それに耐えるのは男女とも同じ事ですし、それでも上手くやって行けるようなら、結婚しても何とかなりそうだ、とも言えます(ただし結婚する気になるかどうかは別です)。

 私の経験(^^;)からいえば、この段階に至る前に予兆があります。それは、デートの最中に化粧直しの回数が減る事。例えば、最近は「落ちない口紅」というのが出てきましたが、もともと口紅は油で落ちやすいもの。だから、デートでイタリア料理など食べた日には、食べ終わったらすぐに「ちょとお手洗いへ」といって席を立ち、そそくさと化粧直しにいそしんだものです。だけど、それがだんだん面倒になってきて、「ま、いっか」となってくる。それが昂じてくると、今日はこれからデートだという時でさえも、ついつい化粧の手抜きをしてしまうようになるのです。

 それから、「見せる」内容は同じでも意味が違ってくるという事があります。彼とケンカをして、泣いたり(←これは私はなかったけど)、すねたりする場合でも、恋愛初期にはそんな場面ですら「可愛い女」を演じるという意味が含まれていました。

 だけど、それを何度か経験して知恵がついてくると、同じようにすねて見せるにも「もうめんどくさいし、ここらですねて終わりにすっか」なんて打算が働くようになってくる。ここまでは、まだ女性の側がイニシアチブを握っていると言えるでしょう。こちらの意図は変化したとしても、彼に対しては、それがまだ「可愛い女」というメッセージとしての有効性を保ち続けているからです(もちろん客観的に「可愛い女」といえるかどうかは、まったくの別問題である)。

 でも、女の浅知恵は長続きしないもの。彼の「すねるなよ」という言葉の語感が、言葉は同じでも、恋愛初期には甘く優しくなだめる感じだったのが、段々とイラついた乱暴なものになってきます。あるいは、「泣きゃいいってモンじゃねぇよ」といわれるようになる。こうなったら、少なくとも「恋愛」という関係においては、お互いの賞味期限が切れたようなものです。

 ついでにいうと、こういう場面ですねるにせよ、泣くにせよ、これは彼だけに「見せる」ものであって、第三者、特に女性には見られたくないものです。それも、昔はなぜか純粋に「恥ずかしいから」と思っていたのですが、最近になって、どうもそうではないらしいということが判ってきました。男性からの「泣きゃいいってモンじゃねぇよ」というのは、まだそれなりに「女」としてリアクションの余地があります。だけど、同じ事を女性からいわれると本当に立つ瀬がなくなってしまう、ということに気がついたからです。

 こういう場面で私がする事というのは、男性相手には何とかなっても、女性からは見抜かれてしまう。なぜなら、彼女達も私と同じ事をした経験があったり、自分ではやらなくても周囲に同じような例を見てきているからです。女性はしばしば男性のウソを見抜きますが(少なくとも、女のウソを見抜く男性よりは多いと思う)、それだけでなく、女同士での手練手管をも見抜いてしまうのです。見抜くというより、こういった手練手管は古くから女性の間で研究され、共有されていて、そのために「既に知っている」という方が正確なのかも知れません。考えてみれば、上に書いたような行動も「私のオリジナル」なんかではなくて、いつかどこかで(例えば少女漫画やドラマなどで)見て覚えたのではないか? という気がしてくるのです。


7.「見せる」の多様化と自由化

 でも、さらに考えてみればそれは当たり前で、そういった蓄積がこの社会の中での「女らしさ」や「男らしさ」として受け止められているのではないでしょうか。言い換えれば、「女らしさ」や「男らしさ」というのは「言語」と同じで、(以前にも書いたことがありますが)どこかに確固とした実体として存在するわけではなく、個々の女性・男性の行動の総体、もしくはそこから抽出された有効手段なのです。ですから、「男らしさ」や「女らしさ」は、それを一挙に覆したり葬り去る事もできませんし(女性フェミニストは、電車の中でヒゲを剃る男性と並んでワキ毛を剃れるか? ^^;)、また他の様々な価値観と同様、時代と共に変化する事からも免れない(固定化することは出来ない)と思うのです。

 ともあれ、現代では女性の「見せる」が昔よりも解放され、自由化と多様化が進んでいる、という事は、間違いないように思います。なぜなら、上にも書いたように、女性の「見せる」もまた自己表現であり、自己実現の手段の一つだからです。様々な手段の中で、これだけが抑圧されるという事があれば、それこそ時代に逆行するというものでしょう。

 ただ、しんどいなと思うのは、その変化がおそらくはこれまでのどんな時代に比べても急激で多様であるという事です。これは、「見せる」事への抑圧が緩んで自由になった事の代償としてやむをえない面があるのですが、その分だけ様々な「見せ方」の範型の中から自分自身の「見せ方」を選んだり、あるいは複数の範型を組み合わせて自分なりの「見せ方」を工夫したりしなければなりません。

 それが「できる」という点では自由ですし、それを楽しむ事も可能なのですが、「見せられる−見せる」というゲームに参加している限りは、そう「しなければならない」という点で、つい「しんどいな」と思ってしまうこともある、というのも、また事実なのです。会社で化粧に手を抜くOLのように、休むべきところで休んで、気合を入れるところで入れる、というメリハリをつけた参加の仕方が、最も賢い選択なのかも知れませんね。

 その意味では、「女らしさ」から解放されて楽になる、というのは「女らしさ」から降りる事なのではなく、「女として、したたかになる」という事を意味しているのかもしれません。

L.Jin-na


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