神名龍子
今月初めに、埼玉医大で7例目の SRS が実施されたそうです。これまでの手術の内訳は、FTM の6例に対して MTF が1例で、その数にはずいぶんと開きがあります。しかも、人数の上からいえば、MTF は FTM の何倍という人数が存在しているといわれるにもかかわらず、FTM に対する SRS の実施例のほうが多いわけです。
MTF 当事者(特に TS の)の中には、このような不自然に偏った状況の原因が埼玉医大にある、あるいは「GID 治療の歪み」にあるという人達もいます。ですが、どこがどう歪んでいるのかという事について、これまでのところ、まともな説明というのは一切出て来ていません。したがってこれは、もしかしたら MTF 当事者の単なる「不満の表現」なのではないかと考えることも可能です。
MTF と FTM の人数の比率を比較した場合、それぞれに対する SRS の実施数を見ると、確かに不自然なものがあります。ですが、ガイドラインに沿った治療を行った上で ホルモン治療の期間を終えた人(SRS の直前段階に至った人)の人数の比率は、どうなっているのでしょうか。
私の印象では、ガイドラインや埼玉医大への非難の声は、圧倒的に MTF からのものが多く、少なくともインターネット上で受けた印象から言えば、ほとんど全部がそうではないかと思えるほどです。そしてこの事は、もしかしたら、一口に SRS といっても、その内容が MTF に対するものと、 FTM に対するものとでは技術的にぜんぜん違うという事に由来しているのではないかという気がします。
MTF の SRS は、技術的には FTM の場合に比べてそれほど難しいわけではありません。したがって、ヤミでも出来るし、その方が安いし手っ取り早くて、もしかしたら技術的には埼玉医大より上という医師だっているかも知れない。MTF にとっては、この「安い、早い、上手い」の吉野家のような三拍子そろった道が、正規の治療以外に存在している(少なくともその可能性がある)わけです。それに対して、FTM の SRS は技術的に難しく、海外で行う場合は別にして、少なくとも国内でのヤミに希望をかけるわけにはいかない。ですから、MTF の場合とは違って、ガイドラインに沿った治療からの逸脱に踏み切りにくくさせるような、技術的な条件があります。
そこから出てくるのが上の疑問で、MTF の内、ガイドラインに沿って(逸脱なしに)SRS に至る可能性のある人がどれくらいいるのか、いるとしても、それは FTM と比べて、人数の上でどれくらい違いがあるのか、という事が気になってくるわけです。ガイドラインからの逸脱については、少し前にテレビ番組でも扱っていましたが、あれも MTF の話でしたね。私は、SRS に至る前の過程で MTF と FTM の人数比の逆転現象が起こっているのではないかと思います。
したがって、手術の件数の偏りの原因を「GID 治療の歪み」に還元できると断定するのは、少なくとも現在の時点ではあまりに早計に過ぎますし、実際には MTF 当事者側にも少なからぬ責任があるのではないかと思います。
しかし、私のこうした見方は、不満を訴える MTF 当事者には、なかなか通じません。それでは、このような意見対立が起こる原因はどこにあるのでしょうか。
私の考えでは、おそらく(とはいえ、かなりの自信を持って)、埼玉医大の GID 治療を不当だと主張する種類の MTF 当事者と、治療に当たる医師との間に、「GID 治療の意味」に対する認識の違いがあるからだと思います。この認識の違いが何に由来するのかを、さらに掘り下げて考える事も可能ですが、煩雑になりすぎますので、今回はとりあえずこれを底板として、ここから考える事にします。
医師にとっての GID 治療の目的は何かというと、当事者の苦痛の除去等、様々な言葉でいう事が出来ますが、一口に言えば、当事者の社会適応性を高める事による QOL(Quality Of Life) の向上ではないでしょうか。この目的において、SRS はどうしても行わなければならないというものではなく、まして SRS が目的という事はありえません。SRS はケースバイケースで選択される(または選択されない)「手段」の一つに過ぎません。しかも、GID 治療の一連の流れからすれば、SRS というのは「最終手段」として位置付けられているものですから、そこに至る以前の段階で何とかなりそうだという見解が出れば、SRS は行ってはならないものという事になっています。
一方、当事者である TS の中には、治療を受ける事の目的を初めから SRS に置いている人が、かなりの確率で存在していると思われます。そもそも、SRS 願望そのものはすべての TS が持っているわけですから(SRS 願望のない TS というのは語義矛盾でしょうから)、「SRS を受けるために病院に行く」という事は、かなり意識的な目的として自覚されているのではないでしょうか。例えば、
という表現は、その事をよく表現していると思います。これは先日、私が「不満派」と意見交換(闘論という方が正確でしょうが)をした際に、先方から出た表現です。この場合の「資格」という言葉には、「私は日本国民だから投票の資格がある」とか「これだけ働いたのだから、これだけの金額の給与を受ける資格がある」というような、「当然の権利」というニュアンスが含まれています。
その意味で、この種の当事者にとっての SRS というのは、どこか買い物のような感覚があります。「自分は二十歳を過ぎているし、お金もあるのにタバコを売ってもらえない。これは不当な事である」というのに似ています。
ですが、そもそも医師の側にこの意味での「SRSの資格」という概念があるのかといえば、おそらくないでしょう。SRS に限らず、治療方法の選択に「当然の権利」という意味での「資格」という概念が用いられるとしたら、「何かズレている」と感じられるのではないでしょうか。では、医師の側に何があるのかといわれると困ってしまうのですが、私なりの言葉でいえば「妥当」または「適切」ではないかと思います。例えば、風邪をひいた人に風邪薬を処方するのは、患者の「薬を飲む権利」の実現のためではなく、そうする事が患者の症状に照らして適切だと判断されるからでしょう。
ともあれ、当事者にとって自分がなかなか SRS に至らないということは、これは当人にとっては不満の理由になるのは当然です。したがって当事者自身の(あるいは当事者達の)、「GID 治療の目的=SRS」という価値観に照らして判断する限りにおいては、期待通りに SRS を受ける事の出来ない医療は「不当」だと判断されることになります(当事者が自分でそう判断します)。
しかし、少なくともそれだけの理由では、それが、上に挙げた「医師にとっての GID 治療の目的」に照らした場合にも「不当な治療である」とはいえません。したがって、自分の受けた治療が「不当」だという主張を医師に突きつけても、それは医師にとっては「不当」ではありませんから、話が通じない。あるいは、話が通じたとしても、内心「それは不当の意味が違うだろう」と思いつつ、クライアント(当事者)をなだめることになるわけです。
それから、「GID 治療の目的=SRS」に照らしてだけ「不当」だという場合と、「医師にとっての GID 治療の目的」に照らしての「不当」とは、基本的にはまったく別問題ですから一括りにすることなく、区別する必要があります。逆にいえば、この区別がついてさえいるのであれば、当事者が上のような感情をいだく事、それ自体は善悪の問題ではなく、単に「人間の心性として、そういうものなのだ」というだけのことであって、責められるべき事ではありません。
この区別をした上で、埼玉医大がどのように「不当」なのかというと、確認出来るのは、当事者にとっての「GID 治療の目的=SRS」を満たさないことを根拠に判断された「不当」なのです。要するに、埼玉医大に不満を抱いている当事者が複数存在するという事であって、それは私も事実だと思います。
ですが、それ以外は未確認の噂であったり、あるいは、自分達の不満を正当化するために自らが作り出した「物語」に過ぎません。例えば「GID 治療の目的=SRS」に照らしての「不当」に過ぎないものを、「医師にとっての GID 治療の目的」に照らしても「不当」であると主張するための、「不当」の種類のすり替えたりする。これは、うっかりすると、実は私も引っかかって、つい「そうかな?」と思ってしまったりする事があるのですが(^^;)、ものごとを順序だてて考えれば判る事です。
ここで厄介なのは、この「物語」は、「物語」に過ぎないとはいえ、それを作り出した当人達にとっては「現実」であるという事です。これは、GID の問題に限らず、さまざまな場面で観察できる事ですね。自分達に不満をもたらしている「悪者」探しをして、いま自分達が不幸なのは、彼らに抑圧(あるいは差別)されているからだという「物語」を作り出すわけです。思想の世界でいうと、これは少なくともマルキシズム以降、思想界の癖になりました。フェミニズムや、ポスト・モダンもそうですね。
なぜ、こういう「物語」があちこちに出来るのかというと、単純で判りやすいからですね(笑)。そのくせ、妙にリアリティを感じさせる事があります。なぜかというと、内面にモヤモヤと溜まった不満に、形を持った捌け口(悪者像)を与えるからです。こういう「物語」は、「欲求」と「欲望」の関係に則して上手に人間の心理を突いているといえますが、しかし、「物語」の内容が正しいかどうかは、これはまったく別問題です。
こういった「物語」は、その根っこをたどって行けば、「自分がなかなか SRS に至らない」という、個人的な不平・不満に突き当たります。そういう、自分自身の個人的な不満がまず最初にあって、それが同じ不満を持つ人達(他の当事者)と一緒に、自分達だけの「現実」を作り上げる動機になったり、あるいは、個人的な不満が根底にある事を隠して「公憤・義憤」の形を取ったりするようになる。
SRS を望んでいる当事者は当然、「自分が SRS 不適応のわけがない」と思い込んでいますし、当事者同士もしばしば、お互いをそう評価し合うでしょう。そうすると、ますます、「自分が SRS の除外になるはずがない」という確信が強くなるわけです。ところが現実には、なかなかそういう段階に至らない。そういう、自分の欲望に根ざした思い込みと、現実との間のギャップを埋めるために、「物語」は不可欠です。それも、最初のうちは個人的な「可哀想な私」という物語で済んでいたものが、「可哀想な私達」になる。そこから、自分(達)の個人的な欲望の存在を隠蔽して(つまり自己欺瞞ですが)、「現在の医療はけしからん」という「公憤・義憤」の形を取るようになるのに、それほど時間はかからないでしょう。
ですから、この「公憤・義憤」はたいていの場合、自分自身の不遇感を説明する「物語」としても機能する内容になっています。「公憤・義憤」の形をとったところで、根っこには個人的な不遇感があるわけですから、自分が SRS を受けられないのは医師が妨害しているからだとか、医療が歪んでいるからだ、という説明を必ず含んでいます。しかしそれは、証明できないけれども事実なんだ、とか、その事実が自分には判っているんだ、という形でしか保持する事が出来ません。それが「物語」です。
これは端的に「他者との間に現実を共有できない」という点でもまずいのですが、もう一つまずいのは、自分の不遇感から生じるアイデンティティ不安を、こういう「物語」で埋め合わせていると、「弱者」とか「被害者」であるという自己規定がますます堅固なものになってゆくということです。いわば「被害者意識依存症」ともいうべき状態になる。それによって、ますます他者との間に現実を共有できなくなるという悪循環を形成することになります。
しかし私の考えでは、現在の私達にとって大切なのは、自分達だけにとっての「現実」(つまりは「物語」に過ぎないのですが)の中に閉じこもって、恨み言を並べる事なんかであるはずがない。逆に、
いかにして、他の人々に対しても広く通じる言葉を持つことが出来るのか
という事こそが重要なのです。この営みは、私達が社会との間に共通了解を打ち立て、戸籍等の問題について社会的コンセンサスを得る上において、必要不可欠な条件です。
とはいえ、私がこんなことをいくら書いても、「物語」なしに生きられない人というのは世の中に常にいて、そのすべてが自分達が置かれた状況を冷静に捉え返すという事はありえないでしょう。ただ、どんな思想でも熱狂的な「被害者意識依存症」になるのは、せいぜい1割くらいの人達ではないかと思います。これは他の思想(宗教や社会思想など)を見ても、少なくとも日本ではそんなものだろうと思うのですが、それが時々、とんでもない暴走を起こす事があります。昭和初期の戦争や、戦後の左翼運動なんかがそうですね。残りの9割の人も「自分は違う」といって安心しているわけには行きません。1割の熱狂的な「被害者意識依存症」の暴走に引き込まれないように、常に気をつける必要があるのです。
もし、熱狂的な「被害者意識依存症」が2〜3割に至れば、MTF と FTM との格差は、現在とは比較にならないくらい、ますます大きな開きとなるでしょう。ですが、それは埼玉医大や、ガイドラインに責任があるわけではなく、MTF 自身のガイドラインからの逸脱が招く、当然の結果なのです。その事の是非は別にしても、その責任を他者に転嫁して自己正当化を図ることに対して、どのような妥当性も認められる事はありえないでしょう。
