51.「クィア」の終焉

神名龍子


 私は先月、『Queer JAPAN』(クィア・ジャパン、勁草書房)の最新号(Vol.3)に、「クィア理論とポスト構造主義−反形而上学の潮流として」(野口勝三、以下「野口論文」と略号する)という、大変に興味深い寄稿論文を発見しました。

 もともと今回この本は、竹田青嗣氏のインタビュー記事、「美醜とは人間にとってなにか」という記事を目的として買ったのですが、この記事を読み終わった後、『Queer JAPAN』をパラパラとめくっていて、巻末に掲載されている野口論文の存在に気がついたのです。

 この野口論文のモチーフは、「45.『クィア』の難問」での私の考察と同様、真理主義批判(形而上学批判)であるはずのクィア理論そのものが、実は隠蔽された真理の上に成立しているという矛盾の指摘にあります。しかしその手法はまったく別で、クィア理論の背景に存在するポスト構造主義(ポストモダン思想)を丁寧に読み解き、クィア理論がそれと同型である事を詳細かつ具体的に明示し、それによってクィア理論の隠された形而上学的(真理主義的)側面を余すところなく暴き立てるという手順を踏んでいます。

 もう少し具体的に書くと、野口氏はクィア理論をまず、《ニーチェ=フーコー --- ハルプリン》という流れと《ソシュール --- デリダ --- バトラー》という流れの二種類に分類します。そして、それぞれの流れにおいて同型の思想が受け継がれている事を示した上で、それぞれの思想が抱え込まざるを得ない難問を指し示し、

わたしはこの論考で現在クィア・スタディーズが「形而上学的思考」をその中心に保持しているという事態について明らかにしてきた。それは「外部」の思考をその本質とする「性差の解体」や「セクシャリティの装置からの脱出」のようなテーゼのことであった。このことは現在のクィア・スタディーズの多くが、これらのテーゼに基づいて積み上げられているということを示しており、この前提が「形而上学的観点」を含んでいるということは、わたしたちが一切を最初からやり直さなければならないという事実を表しているのである。(P216・強調は引用者による)

と、新たな思想的展開の必要性を結論として導き出す、という方法を取っています。

 私の「45.『クィア』の難問」では、この結論をあらかじめ直観的に得た上で、なぜそのような事が生じるのかという方に重点があるので、具体的な仕事としては別物だといえるでしょう。ですが、それにもかかわらず私達のモチーフは非常によく重なり合っていると思います。その理由はおそらく、私達が共に、思想的に竹田青嗣氏の影響を受けていることによるのでしょう。特に後者の、《ソシュール --- デリダ --- バトラー》の流れについていうと、ジャック・デリダは『声と現象』の中でフッサール批判をしているのですが、私達はその批判の誤りに対する指摘の原形を、竹田青嗣氏の『意味とエロス』(ちくま学芸文庫)に見出す事が出来ます(このことは、もちろん野口論文においても明示されています)。

 ここでまったく個人的な事をいえば、2〜3年も前に私に向かって「哲学などやって何の意味がある」といいながら、フェミニズム思想やクィア理論等を主張していた人達に向かって、「思想を学ぶ事の意味が判ったか」といいたい(笑)。というのは、この野口論文が明示する通り、フェミニズムやクィア理論はマルキシズムやポスト構造主義を換骨奪胎することで成立しているからで、なおかつ、巷のフェミニストやクィア・セオリストの大半がその事実を知らずにいるからです。私の場合には、その要点だけを把握した上での批判を展開していたに過ぎませんが、今回の野口論文では、それが詳細に展開されていて、私には手の届かなかった仕事を果たしてくれていると思います。

 とはいえ今回の論文は、従来の思想に対する批判がその趣旨であって、それに代わるビジョンは具体的には示されていません。したがってこの先、その点を野口氏がどのように考えて行くのかという事には大変興味を覚えます。多少の希望的観測をまじえて言うならば、野口氏が竹田氏の影響を強く受けている限り、私と大きく違った意見を持つという予想は成立しにくいのではないかと思います。そういう意味では近年、セクシャル・マイノリティの世界において、この野口氏ほど深く語り合ってみたいと思った人はいません


 なぜ、クィア理論に見られるような、ゲイ・アイデンティティの否定が起こったのかというと、同性愛者が「ゲイ」というアイデンティティを持つことによって「ゲイ」と「ゲイならざるもの」との間に差別が発生するからというのがその理由でした。この場合、「ゲイ」は必ずしも差別される側に立つわけではなく、「ゲイ」と「ゲイ以外のセクシャルマイノリティ」においては、むしろ「ゲイ」が差別側に立つといった事も起こったわけです。そうすると、これはフェミニズムでいう性差の否定と同じで、ゲイ・アイデンティティがあるから(あるいはゲイというカテゴリーがあるから)差別が起こるのだという、短絡的な反省が出てきます。

 しかし、前述の竹田青嗣氏の「美醜とは人間にとってなにか」にもはっきりと書かれている通り、差別は価値観やカテゴリーを利用して行なわれますが、しかし価値やカテゴリーそれ自体が差別の本質であるわけではありません

 この事は逆にいえば、性急にアイデンティティ概念やカテゴリーの否定に走ったクィア理論においては、「差別とは何か」ということが突き詰めて考えられていない、という事を意味しています。この事に気付かない限り、「クィア」はクィア理論それ自体が問題にした「ゲイ」というカテゴリーと同様の問題を繰り返すでしょうし、事実、そうなっている事は、私が『Queer JAPAN』創刊号(Vol.1)の「フーコーに出逢う旅−虹の国のクィア・ピープル」(松田博公)という記事から読みとって「45.『クィア』の難問」で指摘した通りです。

 伏見憲明氏が「編集長あとがき」の中で野口論文を評して「ゲイ・スタディーズ、クィア・スタディーズにおいて新たなステージをもたらす内容になっていると思います」と述べられているのは、まったく慧眼であるというべきで、私の評価でも、今回の野口論文は、ポスト構造主義の模倣思想としての「クィア」の終焉宣告ともいうべき大きな意義を持っています。そして、それは同時に「一切を最初からやり直さなければならない」という新たな思想活動の開始宣言でもあります。

 その「新たな思想活動」がどの方向に進むかという事を予測するヒントは、竹田氏の「美醜とは人間にとってなにか」に含まれていて、一つは、価値秩序やカテゴリーそれ自体を否定しないということ。したがって、そこから生じるルールそれ自体の存在も否定できないわけで(ルールの内容を編み変えることは出来ますが)、人間同士の関係的な価値秩序のその内実を考える事が大切だということ。あまりに理想的な理念を置くと、かえって社会的な価値が一元化されてしまい抑圧的な社会になってしまうということ、などです。この記事のテーマは「美醜」ですが、竹田氏はこの中で差別についてかなり突っ込んで考えられた原理的な見解を示されていて、この原理は単に美醜の問題に限らず、ホモセクシャルT's の問題を考えるためにも重要なものになっています。

 繰り返して言えば、それはルール形成の問題であって、ルールそれ自体の否定の問題ではありませんし、また価値の多様化を目的とする相対化(手段としての相対化)と、価値秩序そのものを否定するための相対化(相対化それ自体の目的化)との区別を明確にする事も必要でしょう。こうした考え方は、従来のクィア理論とは根本的に異なる思想につながって行くはずです。

 それを例えば、性別というものをどう見るかということでいうと、性差の否定をいくら徹底してもニヒリズムに陥る以外の結果は生じ得ないし、何よりも性別や性差を性差別の根源として一義的に見るような性別の捉え方自体が、まったく普遍性を持っていません。一般には、性差は性差別に利用される事がある反面、性的エロスの源泉でもあるという両義的な捉え方をされているはずですね。これはヘテロセクシャルに限らず同性愛であっても同じ事で、どちらも<男/女>という分節を共有していることの上に成立しているわけです。

 私達は性差も含めて、セクシャリティに関するあらゆる価値基準について、それをあらかじめ「悪」とするようなテーゼをエポケー(留保)し、性に関する意味本質を問い直す必要があります。それが野口氏の提唱する「一切を最初からやり直さなければならない」ということであり、また私が三年前から取り組んでいる作業でもあるのです。私は今、その三年を経てようやく、セクシャルマイノリティという分野における思想面での、同士と呼び得る人が現れたのではないかと思っています。この「同士」ということについては先方は、私の存在などご存知ないでしょうから断定的に語る事は避けますが、野口氏の今後の展開が楽しみです。

 最後についでですが、実はつい先日、私が参加している読書会でも野口論文が取り上げられ、そのレジュメを私が担当させていただきました。メンバーは私を除けばセクシャル・マイノリティには属していない人たちばかりですが、そうしたメンバー構成の中でも、この野口論文が高く評価された事を追記しておきます。

L.Jin-na


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