52.戸籍上の性別訂正について

神名龍子


 半月あまり前の3月31日(日)に、東京・青山で行なわれたGID研究会に行ってきました(なお次回は岡山県で開催予定です)。

 今回は、その中で気になったことに関連し、順不同で述べてみることにします。最初にお断りしておきますが、外科的・技術的な方面の話題は、今回は取り上げません。また、私が従来述べてきたことと重なる部分も多々あると思いますが、現状報告という意味も兼ねて、重複を恐れずに述べて行きたいと思います。


1.戸籍上の性別訂正の可否

 私達が知りうる限りでは、日本において、性同一性障害に関わる戸籍上の性別訂正は(インターセックスのような例を除外しては)過去に一例しか存在せず、審査中の事案を別にすれば、それ以外はすべて却下されています。その根拠を一言でいえば「生物学主義」とか「染色体主義」とでもいうべきもので、判例においても「人間の性別は、染色体によって決定されるべきもの…」とか、「現行の法制においては、男女の性別は遺伝的に規定される生物学的性によって決定されるという建前を採っており、戸籍法とその下における取り扱いも、その前提の下に成り立っているというほかないから…」等の文言が見受けられます。

 日本の法制度がこのような前提に立脚している限りにおいては、例えガイドラインに沿った治療(SRS を含む)を受けた TS といえども、戸籍訂正の可能性は全くありません。なぜなら、

ICD 10半陰陽の、あるいは遺伝的な、あるいは性染色体のいかなる異常とも関連するものであってはならない。
DSM4C.その障害は、身体的に半陰陽を伴ったものではない。
埼玉医大倫理委員会の答申性転換症とは「生物学的には完全に正常であり…
ガイドライン
(2)生物学的性(SEX) の決定
(1)染色体検査、ホルモン検査、内性器ならびに外性器の検査、生殖腺検査などを行なう。
(2)半陰陽、間性など、生物学的性の異常のないことを確認する。
(3)以上の結果をもとに、生物学的性の異常はなく、いずれの性(SEX) に属するかが明らかであることを確認する。

とあるように、性同一性障害というのは、「身体的な性別には異常がない」ことが前提とされているからです。ですから、性同一性障害であるということは、「生物学主義・染色体主義」の立場からは、必ず「SRS以前の身体の性別」がその人の性別であるということになってしまう。もっと簡単にいえば、「TS の戸籍の性別変更は認めません」と断言しているのと同じことですね。

 これに対して、当事者や支援者の方々から幾つかの反論がありますが、その多くはそれぞれの弱点を持っています。とりあえずよく見かける二つほどを挙げてみると、

性同一性障害においては脳梁に独特の特徴(形状その他)が見られるから、「身体的な性別には異常がない」とはいえない。
 もしその通りなら、定義上「性同一性障害」は存在しないということになり、すべての当事者はインターセックスとして扱うべきだという話になります。しかし、これはあくまでも統計上の話であって、この事実がすべての個々の当事者に当てはまるわけではありません。実際には、性同一性障害の当事者(MTF および FTM)にも、その他の男女にも、それぞれ分布の幅というものがあって、それらの領域は重なり合いを持っています。したがって、脳梁の測定によって性同一性障害の診断を行なうことは現在の研究成果からは不可能であり、その意味からは厳密には「性同一性障害脳梁に独特の特徴が見られる」ということは出来ません。また、性自認に限らず、あらゆる認識や思考は、その内容を脳の形状や物理的変化に還元する事が不可能です。したがって、少なくとも現時点でこのような主張を行なう事は、かえって「非科学的」の誹りを受ける結果を招くだけでしょう。
性同一性障害においては「身体が正常」なのではなく、「間違った身体に生まれてしまった」のである。
 この意見は、一般の常識に照らせばおおよそ懸け離れた内容といわざるを得ません。あくまでも当事者の「主観」を述べたものとしては妥当性を持ちますが、それだけの話であって、決して「当事者の主観」の域を越え出るものではありません。従って、この見解から社会的なコンセンサスを得ることは、予見し得る将来においては不可能ないしきわめて困難であるといわざるを得ません。

といった調子です。しかし上に挙げた意見の内の後者には、重要な示唆が含まれていることもまた事実です。前者は現在の司法と同様の科学主義ですが、後者は判断の根拠を別のものに求めようとしているからです。問題は、それが当事者の独我論になってしまっているために、非当事者との間に共通了解を作り上げる基礎とすることができないという点にあります。

 そこで当事者・非当事者を問わず、「私達は性別をどのように認識しているのか」というその認識の仕方を、自分達の内面から取り出してみることにしましょう。

 私達は(当事者・非当事者を問わず)誰でも、その日常の生活世界において、他者の(あるいは自分の)性別を染色体で判断しているわけではありません。例えば、ヘテロセクシャルの男性がある女性を見かけて口説くなりラブレターを出すなりする場合に、相手の性別を染色体で確認するということは、常識的にありえません。

 では、どのような判断の仕方をしているのかというと、相手の体型や服装、声、振る舞い、などを見て取り、そこから相手の性別が何であるかについて総合的かつ瞬時に判断を下しているわけです。そして、この判断は通常は意識的に行なわれるのではなく、むしろ私達の意識はその判断結果だけを受け取ります。「あの人は男(女)だ」というようにですね。なぜかといえば、私達はこの社会で生まれ育ったその過程で、「男とはこういうもの、女とはこういうもの」という事を経験的に知っており、そのためのさまざまな判断基準を内面化(身体化)しているからです。つまり、いちいち意識しなくても判断できるという事ですね。

そして、実は往々にして、その判断結果を受け取った事すら意識していないのが普通です。しかし、だからといって目の前の他者の性別を判断していないということはあり得ません。私達は相手に対する応対の内に、相手が「男(女)であるということを織り込んで行動しています。ということは、私達はその時点で既に相手の性別を「知っている」(判断済み)わけです。こんな事を書くと反発するフェミニストがいるかも知れませんけど、しかしどんな種類のフェミニストだって、ごく普通の男性に向って「あなたと私とは女同士で仲良くしましょう」という人はいないでしょう。

 たまには「あの人は男かな?女かな?」と迷うこともないわけではありませんが、それは「性別不明」という判断結果が自分の意識に告げ知らされたことを意味しています。つまり判断を行なわなかったのではなく、判断を行なった結果として「性別不明」が出てきて、意識に引き渡される。だからこういう「迷い」を、私達は自覚することができるのです。

 さて、これだけでは、かえって「それは通常の性別の判断が外見に惑わされる事を意味しているのではないか」という反論を受けてしまいます。「だからこそ生物学的な判定が必要になるのだ」と。その点を、どのように考えたらよいのでしょうか。

 そのためには、科学的な基準とは別に、「日常の生活世界において」の性別(男/女)とは何かを考える必要があります。それは、決して体型や服装、声、振る舞いといった、広い意味での「外見」だけの問題ではありません。上に書いた性別の判断は、あくまでも第一印象です。だから、一度「この人は男(女)だ」と判断しても、あとから「あれ?何かおかしいな?」と思い返すこともあり得るのです。

 しかし、この答えは決して具体的な内容として提示される事はあり得ません。なぜかというと、「日常の生活世界において」の性別の判断が、セックスジェンダーの両方にまたがるものだからです。特にジェンダーというのは社会により時代によっても異なりますし、同じ社会の同じ時代であっても、多かれ少なかれ「多様性」ないし「幅」を持つものだからです。だから、「男(女)とはこういうものだ」という事は、具体的な内容では決して語り得ないものです。しかし、「語り得ない」ということは、けっして「認識不可能」とイコールではありません。その証拠に、私達は現実に性別の判断を(生物学的な根拠に拠らずに)行なっているわけです。

 その基準を抽象的にいえば、「男(女)として社会生活を送ることが出来る」という、この一言に尽きるでしょう。つまり他者の(具体的にはその人と関わりを持つ他者の)目から見て「あの人は男(女)だ」という判断が出来る場合には、これはその人は「男(女)である」という、周囲のコンセンサスが取れているという事になります。それで不都合が生じないのであれば、その人は「男(女)」でよろしい。簡単にいえば「パス」の問題なのですが、既に述べたように、これは見た目だけの問題ではありません。実生活上の様々な場面において「男(女)」であることができるという意味です。ただし、これだけではまだ充分な説得力を持つとはいえません。私達が日常行なっている性別の判断の内実を、さらに追い詰めて取り出して行く必要があるでしょう。それは引き続き、今後の課題とするつもりです。

 ここでちょっと、戸籍とは別の法律問題を見てみることにします。まず、これは平成11年の民事訴訟で、ニューハーフが原告になっています。このニューハーフはお店からお客さん(被告の男性)を送りに出た際に階段上から転落・負傷したわけですが、その転落の責任が被告の男性にあるとして、損害賠償を求めて訴訟に及んでいます。賠償額の算定基準は男女によって異なるのですが、このニューハーフには女性の算定基準が適用されているんですね。

 算定基準に性別によって差があるのは性差別ではないかという疑問を持つ人もいると思いますので、これはちょっと説明を要するのですが、これはやはり男女で社会的な在り方が違うということが前提になっています。別に国が差別をしているわけではなく、あくまでも社会通念に従った結果です。顔に傷をつけられたり、髪を無理矢理にスポーツ刈りにされたりしたら、その後の社会生活においての支障の程度が、男と女では異なる。そういう判断ですね(もちろん性別だけが問題なのではなく、職業の違いなど様々な要因の一つとして扱われているのでしょうが)。ここに挙げた事案の判決要旨の中では「女性然として日常生活を過ごしており」とか「原告の生活ぶりは、心身ともに女性と同様であるということができるから」と述べられています。当時の報道では、この判決を「画期的」と評価しているものもありましたが、しかし同じ行為でも被害者の性別によって暴行罪になるか傷害罪になるかが決まったり、そういう例は以前から存在します(少なくとも私は、それを18年前に習いました)。

 ということは、インターセックスを別にしても、司法においても「社会生活上の男(女)」という概念は昔からあるわけで、必ずしもすべての事案を「生物学主義・染色体主義」で処理しているわけではないのです。

 さて、戸籍の存在意義は何かというと、これは(様々な説はあるのでしょうが)戸籍法に規定がないので、正直にいって判然としません。ただ、戸籍に「染色体の性別」を記載する事にどのような意義があるのか、またその意義が「社会生活上の性別」を上回るものだと言い切ることが出来るのかといえば、これはやはり疑問視せざるを得ません


2.戸籍訂正の阻害要因

 現在のこの日本の社会には、戸籍上の性別訂正を難しくさせている要因が幾つかあると思います。

 まずひとつは、様々な言説による「性別の相対化」です。代表例としては、「ジェンダーは恣意的に作られたもので根拠がない」とか、「性別はきれいに男女に分ける事の出来ないグラデーションをなしている」というようなものがそれに当たります。あるいは、行き過ぎたジェンダーフリーの考えもこれに含めてよいでしょう。

 一方、戸籍上の性別訂正の問題は必然的に、裁判官に「性別とは何か」ということを考えさせることになります。「社会生活上の性別」もまたジェンダーのひとつですが、ジェンダーが相対化されてしまうのであれば、判断基準をセックス(身体的性別)に求めざるを得なくなるのは当然の帰結です。このような状況は、司法の「生物学主義・染色体主義」を強化する事はあっても、TS の有利に働くことはあり得ないでしょう。

 現に司法は現在、この問題に関してかたくなに「生物学主義・染色体主義」をとりつつ、この問題そのものに対して「及び腰」ともいえる姿勢を示しています。判旨の中にも「結局のところ、立法に委ねられるべきものと考えられる」という文言まで入るようになった現状においては、もはや司法に主体的な判断を期待するのは無理ではないかとさえ思えます。

  ところで、昨年から性同一性障害について、国会議員、法務省、厚生省、労働省、参議院法制局、自民党職員による勉強会が発足しています。自民党の議員からは、南野(のうの)知恵子代議士参議院議員、保岡興治前法務大臣、陣内孝雄元法務大臣、石渡清元参議院議員、佐々木知子参議院議員らの国会議員、それに、今年のGID研究会に参加された馳浩参議院議員がメンバーだそうです。

なお、南野議員は看護職の出身で、さまざまな医療問題に取り組んでこられた実績の持ち主である。特に臓器移植法の成立にあたっての活躍は『脳死と臓器移植法』(中島みち・文春新書)に詳しい。具体的・現実的な法律成立の過程が判るので、ぜひ性同一性障害の当事者にも一読を勧めたい。

 私自身はこれまで、唯一の成功例でもある「戸籍法第113条」に期待をかけてきましたが、馳議員のお話をうかがってから後、現在では議員立法による解決の方が実現の可能性が高いのではないかと思えるようになりました。というのは、馳議員にはこの勉強会を利用して自民党を売り込むといった姿勢は微塵もなく、

  1. 自民党に限らず、どの政党でも人権問題に関しては積極的に動く。
  2. したがって、当事者がそれぞれ自分の住んでいる選挙区の議員に働きかけることができる。
  3. それによって、超党派的な取り組みが可能になる。
などの、具体的なビジョンを示されたからです。これは非常に現実的な案ですね。

 「当事者がそれぞれ自分の住んでいる選挙区の議員に働きかける」には、まずは議員のホームページを探して(あるいはその議員が所属する政党のホームページを探して)、メールを送信すればよいでしょう。それで少しでも手応えが感じられたなら、文書(メールと同じ文面をプリントアウトし、自筆で署名したもの)を郵送するといっそう効果的かと思います。当事者が一堂に会しての書名運動は難しくても、これなら可能でしょう。

 しかし私の考えでは、(水を差すようですが)これは必要な行動ではあっても、それだけで充分だとは考えられません。議員立法を狙う以上、そこに盛り込まれる内容は「法律」にふさわしいものでなければならないからです。つまり、当事者だけでなく、誰が見ても妥当な内容でなければならない。これは法律の基本です。

 今回、「TSとTGを支える人々の会」(以下、TNJ と略す)から、SRS を受けていない人の戸籍変更も認めよという要求がありました。確かに、SRS はかなり身体に負担のかかる手術ですから、例えば、本人の希望にもかかわらず体質的な理由などから SRS を受ける事ができないという人が出てくる可能性もあります。そして、そういう問題が存在するのであれば、それについて何とかしなければならないと考えることには、正当な理由があります。

 ですが、性に関する現在の一般的な通念からすれば、SRS を経ないうちに戸籍上の性別表記の訂正をするということには、残念ながらまだまだ強い抵抗があるでしょう。ありていにいえば現在では、そこまでのコンセンサスが得られるという事は考えにくい。「あらゆる問題を解決しなければならない」と考えることと、「すぐにもあらゆる問題を解決できる」と考えることとは別です。現実を無視してでも勇ましい事をいった者が偉いというのでしたら、この国を戦争に叩きこんだ軍部と同じでしょう。そういえば、彼らもまた「八紘一宇」や「五族協和」といった、「夢想的平等主義」の卸問屋でした。

 現実認識を、当為(〜ねばならない)のバイアスをかけて歪めてしまえば、現実と希望の区別がつかなくなってしまう。その結果どうなるかといえば、現在解決できるはずの問題までもがまとめてペンディングされることになる。解決すべきあらゆる問題を、状況を無視して一挙に解決しようとすれば、結局は何も解決できなくなります。つまりそこには「手順」という考え方が欠落しているわけです。解決できるものから順に解決し、その間に次の問題を解決するための準備を進めるという、現実的な手続きの発想がないのですね。

 しかし、すぐにも解決できる問題と、いまのところ解決できない問題とをセットで扱わなければならない理由が、どこにあるのでしょうか。例えば、あらゆる社会主義国の国民は皆「平等に」貧しくなりましたね。逆に皆が「平等に」豊かになった国は、いまだかつてどこにもありません。それと同じように、何が何でも一緒にという悪平等のイデオロギーを、頑固に貫き通そうとすればどうなるか。全員を「平等に」不幸な状態に留めるしかありません。そしてそれは必然的に、容易に解決できそうな人達と、解決が難しい人達との対立を生み出します。悪平等のイデオロギーは、新たな問題を生み出しこそすれ、決して問題の解決の役には立ちません。

 いま、私達が考えるべきなのは、どれくらいの範囲であれば戸籍の性別訂正についてのコンセンサスが得られやすいか(=法律が成立しやすいか)という、現実的な条件です。取り合えずの立法はその条件でやる。一方、そこから外れた人たちについても、どうすれば戸籍の性別訂正についてコンセンサスが得られるようになるのか。あるいは他の方法による救済措置はないのか。その「現実的な条件」を探らなければなりません。それが思想というもので、ただ「認めろ」というだけでは、何もしていないのと同じ事です。

 「思想」は現実的な力を持つものでなければならず、したがって「夢想」とは厳密に区別されなければなりません

 幸いにしてGID研究会の当日は、当事者からも学者さんからも、現実的な反論ないし疑問が出されましたし、ある法学教授からは、戸籍制度そのものの廃止や「性のグラデーション」といった主張では解決に向わないというお話もありました。私の理解では、現段階ではそれらの主張がかえって問題を複雑にしてしまうからだろうと思います。

L.Jin-na


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