54.Mという幻想

神名龍子


 この3月と4月に、それぞれ面白い本を読んだ。

 ひとつは『モダンガール論』(斎藤美奈子・マガジンハウス)という本で、「女の子には出世の道が二つある」というサブタイトルがついている。短期間の内に増刷を重ねているようなので、かなり売れているのだろう。この本でいう「出世の道」とは、具体的には「社会的に成功する」か「社会的成功者の妻(主婦)になる」かという意味で使われている。この二つの道を「出世」と表現する事には、反感を覚える女性も多いと思う。しかし、これは要するに「望ましい生き方のビジョン」という意味で使われているらしい。この100年間の女性史を、「主婦」と「社会進出」という視点からリアルにつづった名著である。

 この本の優れているところは、フェミニズムのようにあらかじめ「かくあるべし」という像を置いたりしない点にある。女性の「かくありたい」という欲望と社会状況の変化を重ね合わせ、彼女達の欲望がどのように実現の道を歩んできたのかを、事細かに、しかし軽快に展開して行く(著者いわく「欲望史観」だそうだ)。そして、現在の閉塞状況の理由を、100年前の女性達の欲望が国民的規模で実現されてしまった事による、モデルケースの喪失であると結論付けている。確かに、人間の「欲求」(という意識以前の衝動)は、「欲望」という形を与えられることで、初めて具体的な実現に向うことができる。「欲求」に「欲望」という形を与える事が出来ないとき、つまり「欲望」のモデルケースを見失ったとき、私達ははけ口のない「欲求」をもて余すのである。

 現代思想などでは、「欲望」という具体的な形を選択する事について、否定的な見解を取るのが普通である。本来無限の可能性を持っている「欲求」の、その可能性を限定してしまう事だというのだ(日本では浅田彰氏などがその典型だろう)。しかし、「欲求」は「欲望」という具体的な形を与えられなければ、いつまでも漠然とした「理論上の可能性」であり続けるより他にない。現代思想の考え方に従って、「欲求」が「欲望」の形を取る事を否定するならば、私達は何事も実現する事は出来なくなる。これは、結局は「欲望」の抑圧以外の何ものでもない。現代思想は、一見するとマルクス主義批判という側面を持っているのだが(その事は確かなのだが)、同時に資本制への批判という、マルクス主義と共通する目的も持っている。その結果、手口は違っても「欲望」の抑圧という、同じ結論にたどり着いてしまう。だから現代では、どちらにしても広く受け入れられる事はなく、一部のインテリの知的遊戯に堕してしまうことになる。

 もう1冊は、『「男」という不安』(小浜逸郎・PHP新書 150)という本である。小浜氏のこの手の本のタイトルには、やたらと「男」や「中年男」という言葉が多用される傾向がある。しかし、だからといって別に「女」が無視されているわけではない。小浜氏の考えでは「男」や「女」は独立した存在ではなく、「関係としての男」であり「関係としての女」なのだから、どちらか一方だけの性を考えるということは、むしろ不可能である。こうした「関係」の内に「男/女」の本質を探って行く、その過程がまた参考になる。事実、以前から参考にさせていただいている。

 今回は『モダンガール論』『「男」という不安』2冊を参考にして、「主婦」について考えてみたい。これは、前回の「家父長制」についての考察の続きである。


 まずは『モダンガール論』の筋を、ざっと追ってみることにしよう。およそ明治30年代、二十世紀初頭に始まる女学校の急増を機に、それまでの「女性に教育は必要ない」という考えから「良妻賢母」への転換が始まる。現在では「良妻賢母」は「女性は内」という悪しき規範として見られがちだが、別に「良妻賢母」思想が女性を家庭内に押し込めたわけではない。それ以前から、上流家庭の女子は外で働く存在ではなかったのである。この変化は必然的に「読書する女性」の増加も促す事になり、ほぼ同時期に女性誌の発行も始まる。

 大正時代になると、学校だけではなく、職を持つこと(=社会を知ること)も「良妻賢母」思想の延長上に展開される事になる。いわゆる「職業婦人」は「良妻賢母」の否定ではなく、その延長上に現れたのだ。この時期は農村から都市へと人口が流れ始め、サラリーマンが男性の職業の中で大きな比重を占めるようにんった時期でもある。こうして、「学校卒業→腰掛けOL→専業主婦」という、どこかで見たような図式が現れる。

 とはいえ、当時はこれが女性の一般像だったわけではない。これはあくまでも一握りの上流家庭や新中間層の話で、まだまだ貧しい人達が多かった時代である。そういう家庭の女子は、小学校卒業(もしくは中退)すれば家計を助けたり、口減らしのために働きに出るのが普通だった。こんな時代だったから、「青鞜」その他の婦人運動もまた「一握りの上流家庭や新中間層の話」である。性差別は「ブルジョアお嬢さん」の話で、貧富の問題の方が多数の人々にとっての現実問題だった。社会主義運動や労働争議が盛り上がったのもこの時代(大正〜昭和初期)の話である。

 昭和も10年代に入って戦時色が強くなると、婦人運動の活動家が率先して戦争協力に走って行く。「国家総動員」というなら、女性もその中に含まれないのは差別だ、というのがその理由である。もっとも、これは戦時だからそうなったという話で、現在でも主婦や女子大生の中で、地域活動やボランティアが好きな人達はたくさんいる。ノリとしては同じ事でで、たいした違いはない。

 そういう婦人運動家達は、戦後も戦争協力の清算などする事なしに、復興や平和運動のリーダーにおさまって行く。しかし、男性たちが復員してきて復興が進むと、女性たちは再び家庭に収まって行く。この時に、「女性は家に帰れ」という掛け声があったことも事実だったようだが、それではなぜ女性たちはそれに素直に従ったのか。別に彼女達の意識が低かったわけでも、主体性がなかったわけでもない。それが「よい暮らし」のモデルケースとして、彼女達の「欲求」に妥当したためである。

 この当たりから明治30年代以降の歴史が、今度は「一握りの上流家庭や新中間層の話」ではなく、国民的な規模で繰り返されて行く事になる。女性の高学歴化(高校、短大、四年制大学への進学率の増加)と、社会進出である。しかし、昔は憧れの的でも、皆がなってしまえば主婦もOLも「平凡」の代名詞。そしてまた左翼運動の盛り上がり。似たような時代状況の中で、青鞜運動はウーマンリブ運動として、モダンガールは「翔んでる女」として、それぞれ大規模にリバイバルされて行く。これが1980年代くらいまでの話。

 さて、戦いすんで日も暮れて、気がついてみれば登り詰めてしまった女性たちには、もはや目指すべき「上」がない。「欲望」はひたすら消費に向かい、しかもその消費はOLや女子大生のブランド志向どころではなく、今や女子高生や女子中学生にまで低年齢化している始末である。もはや彼女たちは、女学生やOL(職業婦人)や主婦という、「××になりたぁ〜い♪」という「モデルケース」を持たない女達なのである。


 ・・・と、まぁ、私なりのまとめではあるが、だいたいこんなところだろう。考えてみれば女性に限った話ではなく、男性だって同じ事である。明治時代なら「末は博士か大臣か」といわれた大学生も今では「分数の計算が出来ない」と嘆かれ、一流企業に入っても一生の保証はないという状況なのだ。昭和30年代には既に給与生活者が「憧れ」ではなく「平凡」な庶民になっていた。それは、クレイジーキャッツの歌を聞くだけでよく判る。男女を問わず、社会的身分がインフレを起こしているのだ。しかしそれでも人間は、「欲求」に形を与え「欲望」の中に自分を投げ込み続ける存在だという点で、いささかの変わりもない。

 『モダンガール論』を読む限りでは、社会的に何であるかという意味での「××になりたぁ〜い♪」の「××」(女学生、OL、キャリアウーマン、専業主婦、etc.)は、もはや皆の一致した願望としては成立しない時代になってしまったのだと思える。「何になるか」ではなく「何をするか」が問題なのだろう。「消費」もその一つの答えである。もしくは、一つの答えであった。

 もちろん、だからといって「何にもならない」というのではない。ただ、それが人生の目標そのものではなくなったという意味である。かつて人生の目標であったものが手段となり、目標が別に設定される。そう考えればよい。例えば、職業はと問われればOLと答えるけれども、OLである事に人生を賭けているわけではなく、職場とは別の場所で自分のやりたい事を見つけて充実感を得る。既に大多数がそういう人生を送っているのではないか。

 そう考えると、フェミニズムが主張するような、社会進出一辺倒の女性論は、既に古いのである。昔のように寿退社をする女性は減ったと思うが、出産と子供が幼い内の子育ての時期には退社して主婦におさまり、子供が手を離れるようになったら、また働きに出る。実際にはそういう女性が多い。だから、女性の就業人数を年齢別のグラフにして見ると、子育て期の女性が退職するために「M字型」と呼ばれるグラフができる。出産・子育て期に退社をしなければ「台形型」になるわけだ。

 フェミニズムでは、この「M字型」を社会批判の根拠の一つにしている。ヨーロッパの女性の就業人口のグラフで、「台形型」になっている国のグラフ日本の「M字型」と重ねて提示しては、「日本はまだこんなに遅れている」というのが、一つの定番になっている。しかし、「M字型」それ自体が本当に悪しき現象であり、「台形型」を理想的とする、その根拠は何かといえば、すでに多数の女性の意識とは重なり合わなくなってしまった「社会進出一辺倒の女性論」でしかないのではないだろうか。

 例えば、すべての女性を対象として、外に出て働きたいかどうかというアンケートを取り、それをグラフにしたものがあれば、そのグラフの線は「女性の希望」を現すものになる。それを女性の就業人口のグラフと重ね合わせて両者の線にズレがあれば、そのズレの部分が現実の問題である。他の国の女性の状況と重ね合わせても意味がない。本来、問題があるとしたら、それはヨーロッパと日本の間のズレではなく、日本の女性の希望と、日本の女性の現実とのズレこそが「日本の問題」であるはずだからだ。

 現実にそういうグラフがあるかどうかは知らないが、いつでもそうしたグラフが作れるようなデータならば、既に存在している。これは『「男」という不安』からの孫引きになるが、第二回全国家庭動向調査(1998年版『女性白書2000』)によると、「子供が三歳くらいまでは、母親は育児に専念すべきだ」という問いに対して、「全く賛成」(50.7%)と「どちらかといえば賛成」(39.4%)の合計が 90.1% を占めている。ということは、賛成派の9割と、反対派の残り1割がどちらも希望通りにした場合、日本の女性の就業人口のグラフは「家父長制」などとは関係なく、はっきりと「M字型」を示すはずなのである

 もし、「M字型」批判のフェミニストが、子供の育児に専念したいという9割の女性に対して、「それは遅れている間違った意識だ」と当人の希望を否定したとする。それは当の9割の女性たちにとって、「余計なお世話」以外の何ものでもないだろう。これだけでもフェミニズムの「M字型」批判、「台形型」至上主義は、はっきりと誤りである事が判る。「M字型」は日本の女性の希望が、それなりの程度で実現している事を示している。

 ここで一つ断っておかなければならない事がある。希望は希望としても、実際に子育て期の年齢に該当する女性の9割すべてが退職してしまうわけではないということだ。事実、近年の「M字型」グラフは真中の落ち込みの底が浅くなっている。ただし、このことは、実際に子育てにあたって退職しない女性が増えた事を意味しない。結婚や出産の高齢化と、少子化を考えれば、いわゆる「子育て期」に該当する女性の中で、現実には育てるべき子供がいない女性が増えたというに過ぎない。したがって、全体の傾向としては「子育て退職」は出産した女性の中でかなりの高比率を保っていると考えられるのである。

 しかし、この場合でも全く問題がないわけではない。全体としての傾向が、全体としての女性の希望を反映しているとしても、各人が希望通りに職業に就く事を続けていたり、あるいは希望通りに「子育て退職」しているとは限らないからである。この問題は、あくまでも別に論じられなければならない。

 例えば、本当は「子育て退職」をしたかったにも関わらず、経済的な理由から退職できなかったり、他にパートを見つけて働きに出なければならないような場合。あるいは逆に、仕事を続けたかったにも関わらず、子供の養育を他に任せられる人や施設がないなどの理由で、退職を余儀なくされた場合もあるだろう。こうした正反対の「希望通りにならなかった人達」の存在が、グラフ上では相殺されてしまうという問題がありえる。

 だから、出来るだけ多くの女性が、希望に添った選択が出来る条件を整える事が必要になる。その中には、フェミニストが主張しているような、保育施設の充実などの問題の検討に値する事は当然であろう。しかし、それだけではいかにも片手落ちである。

 「働くこと=自己実現」を一般論にしてしまえるのは、そうした主張を世間に対して声高に主張出来る「エリート女性」ゆえの錯覚であろう。こうした錯覚は、かつて青鞜運動が「ブルジョア的」と呼ばれて、女工や女中といった階層の女性から相手にされなかった事を連想させる。

 私のような「細民」の立場からいえば、働くのは自己実現のためではなく、経済的な理由によって働かざるを得ないからである。この方が大多数の意見なのではないか。経済的余裕に支えられた充実した私生活が送れるとしたら、誰が社会運動など起こしてまでコキ使われたいと思うか。『モダンガール論』を読んでも、かつて専業主婦になることに憧れた女性達だって同じように考えたに違いないのである。だから、「保育所を作って乳幼児の母親を働かせる社会」以上に必要なのは、実は、林道義氏がその著書『フェミニズムの害毒』で言うような、「乳幼児の母親は働かなくてもいい社会」の実現の方なのだ。

 専業主婦が昔のような「憧れ」の対象でなくなったのは、「なってみたらそれほどよいものではなかった」ということが理由だろう。その理由の一つとして、憧れというにはあまりにも一般的で「平凡」なイメージが付きまとっているということが、確かにある。しかし、「なってみたらそれほどよいものではなかった」ことの理由はそれだけではない。現在、専業主婦が減ってパートなどの働きに出る兼業主婦が増えたのは、大多数は「自己実現」のためではなく、経済的な理由によって働かざるを得ないからである。マルクスのいう「家族賃金」(夫一人が働く事で家族全員が暮らせるだけの賃金を受け取る、その賃金)など、この消費社会の中では相対的に低下し、既に「家族賃金」といえないレベルに落ち込んでいる家庭が増えているという事だろう。

 もう一つ重要な事は、選択肢の多様化と自由化である。「女は内」という規範を普遍化するのでも、「女性の社会進出」を普遍化するのでも、どちらも「女性一般」の意見になどなりはしない。これらは一見すると対立する意見のようだが、実は女性の価値の一元化という点では全く同じなのだ。その上で、グラフが「M字型」になろうと「台形型」になろうと、それぞれの女性が希望通りの生き方を選択した、その結果として描かれるのであれば、形は問題ではない。もし「乳幼児の母親は働かなくてもいい社会」が実現したら、子育て退職の後は、子供が育っても復職せずに専業主婦を続ける女性が増えるかも知れず、その場合には、グラフは「すべり台型」になるかもしれないのである。

 今のところ、「M字型」は「乳幼児の育児に専念したい」という多数の女性の希望と、経済的に厳しい条件に置かれた現実との狭間で発生した妥協策の現われではないだろうか。「乳幼児の育児に専念し、その時期が過ぎたら家計補助のためにパートに出る」という、規模と現実の相互作用の結果としての「M字型」である。この谷間を埋めて欧米のような「台形型」に近づける事がすばらしいと考えるのは、その価値判断においてなんらオリジナリティのない、欧米の受け売りに過ぎないのである。

L.Jin-na


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