55.戸籍訂正は「可能性」の要求である

神名龍子


 すでに数日前に報道された話だが(5月6日付)、SRS を終了した性同一性障害の当事者6名が、今月24日に戸籍の性別の訂正を各地の家裁に一斉に申し立てることを決めた。その中には、埼玉医大で正規の SRS を受けた当事者4名が含まれており、予定通りに申し立てが行なわれれば、これが国内で正規の SRS を受けた当事者の、初めての戸籍の性別の訂正の申し立てになる

 なお、申し立ては本籍地を管轄する家庭裁判所に対して行なわれるはずなので、同時の申し立てとはいえ、今回の6名はそれぞれ独立した別件として扱われる事になると思われる。今回の6名は全く特定されておらず、審査の経過についても明かされることはないと思われるが、なんとか応援したいものである。

 TS が「戸籍の性別の訂正」を求める理由を心理学風に一言でいえば、「自我の安定」ということになるだろう。生まれつきの性別とは異なる性自認を持ち、SRS によって少なくとも外見上は性自認にふさわしい身体を得、戸籍上の名の変更を済ませたとして(ここまでは現在でも制度上可能である)、最後に立ちはだかるのが、戸籍を基礎に置く様々な書類上の問題なのである。

 パスポートや健康保険証など、性別が記載された書類を見せても、ポストオペの場合には外見上の性別と、その書類に記載された性別が異なってしまう。自分のパスポートや健康保険証などを使っているにもかかわらず、疑われるたびに自分が性同一性障害である事を明かして説明しなければならない。TS に関しては、これは単に手間隙の問題ではない。

 そもそも、SRS に限らず性同一性障害の治療全般が、当事者の精神の安定のために行なわれるものである。しかし、医師として行なう事の出来る「治療」だけで、必ずしもその目的を達成出来るわけではない。医療行為としての「治療」だけでは治療目的を果たす事の出来ないという点で、性同一性障害は他の精神疾患とその性質を異にしており、その典型的な例の一つが、このような戸籍を基にしたパスポートや健康保険証などの書類の問題なのである。

 私の考えでは、性同一性障害の問題の本質は、身心の性別が異なるために、自身の様々な可能性があらかじめ奪われている点にある。一般にあらゆる可能性が失われている状態を「絶望」と呼ぶとすれば、性同一性障害の症状の本質はまさに「絶望」にあり、それゆえに、性同一性障害の治療とは「希望」の回復に他ならない。

 いかに医学が発展しようとも、当事者の日常を取り巻く状況によって左右される。この点については、当事者であるか否かを問わず、人間なら誰でも同じ条件の中を生きている。ポストオペ当事者が最後に戸籍を問題にするのも、このようなあらゆる人間に普遍的な構造に根拠を持っているのである。

 また、周囲の人間がポストオペ当事者の「書類に記載の性別」と「見た目の性別」の違いを怪しむことも、きわめて常識的な判断・反応であって、なんら責められるべき正当な理由はない。もちろん、人間は性別に関係なく「国民(市民・公民)としては」等しい権利を持つ。これは近代市民社会の鉄則である。しかし男女が国民として等しい権利を持つと主張する事と、性別上のあらゆる差異(性差)を否定する事とは、まったくの別問題として考えなければならない。

 まず、大前提として確認しておくべき事は、性同一性障害は当事者に性差の概念がなければ、原理的に起こりようがない現象だという事である。いうまでもなく、性差の概念がない人間が自分の性別を苦にするのは、説明の仕様のない矛盾だからだ。逆にいえば、性同一性障害の当事者は必ず、「性別」という概念を大半の非当事者と共有しているはずである。

 したがって、性同一性障害の当事者の苦悩は、世間の性別概念それ自体に原因があるわけではない。むしろ、それを両者が根本的なところで共有しているためであって、その意味では当事者自身も「共犯者」なのだ。したがって理論的には、「両者が共に性別概念を捨ててしまえば問題は解決できる」と考える事も、ひとつの解答ではある。

 しかしそんな事は現実には不可能である。なぜなら、性別や性差の概念は、単に不幸の源泉なのではなく、人間の様々な可能性の源泉としても機能しているからだ。ただ、性同一性障害の当事者においては、上述の通りその可能性があらかじめ奪われているというに過ぎない。性同一性障害の当事者が、自身のその性質を理由として、他のあらゆる人々に対して「性別を根拠としたあらゆる可能性を捨てよ」と命じることなど、どのような論法によっても正当化する事は不可能だろう。

 ならば、現実的な解決策は、あらゆる人間から可能性の源泉としての性別や性差の概念を奪い去る事ではなく、逆に、性同一性障害の当事者に対しても、非当事者と同程度に可能性の保障を図る事にある(あくまでも可能性の保障であって結果の保障ではない。そんなものは非当事者にもないからだ)。「皆が貧しくなる平等」ではなく、「皆が豊かになる平等」こそが、真に検討に値する解決策であるはずだからだ

 これは具体的には、性同一性障害の当事者が社会的に、性自認の性別で通用するような諸方策の必要を意味する。もちろん、そのすべてを国家が負担すべきだとまで言うつもりはない。自助努力もまた近代の原則だからだ。しかし、戸籍の問題(名や性別)は、本人の努力だけではどうにもならない種類の問題である。法律において、その変更・訂正の手続きが定められている以上、それを無視する事は許されないからである。「その部分を何とかしろ」というのが、今回の申し立ての基本線であろう。

 近代社会における性同一性障害の当事者の「戸籍の性別の訂正」について、私はこれ以上に正当な理由を思いつかない。ここで私が念頭においているのは、「自由競争」と「機会の平等」である(繰り返すが「結果の平等」ではない)。「自由競争」とは、私なりに言えば、他者との利害対立の適正な調停を伴う「エロスの追求」である。資本制における「金儲けゲーム」もその典型的な一例だが、エロスの対象はそれ以外であってもよい。とにかく、各人が自分の「よい」をめがける工夫が許される、ということである。

 ところが性同一性障害の当事者は、身心の性別の齟齬という不幸な事態によって「あらかじめ」様々な可能性を奪われている。性自認は当事者本人の自己決定によるものではなく、あくまでも本人にとって「到来するもの」である。そのため性同一性障害においては、「自由競争」に用い得る手段や「機会の平等」が、本人の責任によらず(非自己選択的に)制限されてしまうことになる。言い換えれば、性同一性障害の当事者は現状では、近代社会において市民に等しく保障されるべき要件が得られていないということである。

 SRS も「戸籍の性別の訂正」も、性同一性障害の当事者にとっては「幸福の保証」などではなく、「自由競争」のための「機会の平等」の実現に必要なのだ。そこまで認められて、やっとまともなスタートラインに立つ事が出来る、最低限の条件なのである。この「スタートライン」とは、性同一性障害という「絶望」状態からの、「希望」の回復である。各当事者が「希望」を実現させるかどうかは、あくまでも各人の問題であって、私の知るところではない。私が問題にしているのは、司法に対してであれ、立法・行政に対してであれ、「まずスタートラインに立たせよ」ということであって、そこから先は当事者も非当事者もない。

 なお、司法関係者の中にも「戸籍上の性別は染色体によるべし」という意見があるようだが、こうした「染色体主義」は問題の本質を取り違えている。私がここまで述べてきた「近代市民の最低限の要件」とは、いわゆる「人権問題」なのである。染色体は人権を保障しない。また、染色体が人権に優先するという考えも、近代の理念に照らして成立のしようがない誤謬と言わざるを得ない。問題の本質は「法律上の性別とは何か」ではなく、「近代国家が国民に最低限保障すべき要件は何か」という点にあるのだ。

 私はこれまで、一度も「反権力」を唱えた事はないし、性別や性差の否定を唱える種類の言説に同調した事もない。むしろ自分では、そういった思想に反発する保守的な人間だとさえ思っているが、この「染色体主義」だけは、当事者側の一人としてというより、日本国民の一人として、どうしても納得できない。近代市民社会とは何か、とか、法律の存在理由に関わるような、根本的な錯誤だとしか思えないのである。

L.Jin-na


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