56.ジェンダーとは何か

神名龍子


 改めて、ジェンダーについて考えてみたい。ジェンダーとは何か。辞書的な意味としては、元々は、文法用語での「性」(例えば、男性名詞等)の意味。そこから転じて、セックス(身体的性別)に対して、社会的、文化的性別の意味に用いられる。いわば後天的に身に付けてゆく性差の総称である。

 それゆえに構築主義(社会構成主義)の立場からすれば、ジェンダーの内容は恣意的で、身体的性別とは本来全く関係のない、文字通りの社会的な構築物とされている。確かに、ジェンダーの内容は時代や文化によって異なっており、本質主義がいうような、身体的な性差によって一義的に規定されるようなものでないことは明らかである。

 しかし、ジェンダーが「男性」と「女性」という2つの概念によって成立していることは(つまり性二分制という制度は)あらゆる時代のあらゆる文化に普遍的だということも、また事実である。この事実に対して、例えばインドに見られるヒジュラのような「第三の性」の存在を持ち出して相対化する意見がないわけではない。しかし、それはあくまでも性二分制を前提とした女性性のバリエーションに過ぎず、他のいずれの例を取り上げるにせよ、男性性とも女性性とも異なるような純然たる「第三の性」など存在しないのである。

 ジェンダーにおける「内容の多様性」と「性二分制の普遍性」という、両義的な性質について、私達はどのように考えるべきだろうか。構築主義による説明は前者を説明できるが後者の問題についてはかえって隘路に陥ってしまう。本質主義では、その逆である。私の考えでは、これは近代哲学に古くからある、身心二元論と身心一元論の対立のバリエーションに過ぎない。つまり、どちらの立場に立つにせよ、それは古典的な見解に対する固執という以上の意味を持たないのである。したがって、私達は構築主義と本質主義のいずれかの説を補強するのではなく、この対立を白紙に戻してジェンダーについて根底から考え直されなくてはならない


 私達は、ジェンダーレベルでの「男性」や「女性」が、セックスレベルの「男」や「女」とそれぞれ一対一の対応関係にあることを、通常は疑わない。もちろん、このホームページで扱っている性同一性障害などはその例外なのだが、ここではまず「ジェンダーとは何か」をはっきりさせるために、手順として基本形だけを考えることにする。

 男女の身体の違いについて最も顕著なのは、女性の身体が妊娠・出産という機能を持つということだろう。むろんここでは、女性の身体が妊娠・出産という可能性(ポテンシャル)を持つものであるという意味で述べている。したがって、たとえば任意にある女性を抽出した上で、実際に彼女が妊娠・出産を経験するかどうかを論じることは、この段階での問題ではない。

 女性にとって妊娠・出産とそれに続く育児とは、単に人間を再生産するための労働では「ない」。マルクス主義フェミニズムなどがこれを再生産とみなしているが、それはあくまでも労働(普通の意味での)に注目する経済学的な観点から妊娠・出産・育児を観察した場合に導き出される見解に過ぎない。つまりそれはあくまでも妊娠・出産についての一側面に過ぎず、本質を言い当ててはいない。

 では、実存的観点から妊娠・出産・育児に着目した場合にはどうなるかというと、これは彼女自身の人生観や人生設計と密接に結びついているような、ある現象である。人は誰でも自分が将来送るであろう人生について、ごく漠然としたものであれ、また無意識的にではあっても、必ずなんらかの「物語」を構成する。そのような自分の人生についての物語を女性が構成する上で、妊娠・出産は無視することの出来ない項目なのである

 ただし、ここで単純に「結婚して子供を生み育てるのが女の幸せだ」と短絡させるつもりは、私には毛頭ない。「彼女」が自分のこれからの人生を考える上で、妊娠・出産・育児が必ずしも好ましい価値を伴って考えられているとは限らないからである。そのことに幸福を感じる女性もいれば、それが自分の人生目標(ひたすら仕事に打ち込む、など)にとって邪魔になると考える女性もいるだろう。しかし、どちらにしても彼女が自分の身体の中に、妊娠・出産のポテンシャルを持ち合わせているということは無視できない。ただ、それが望ましいことと考えられるか、避けるべきこととして捉えられるかの違いが存在するだけである。

 これは個々の女性の価値観の問題というだけではない。ある一人の女性の中にも、好ましい妊娠・出産と、忌まわしい妊娠・出産という二つの概念が並存していることは普通である。例えば自分の配偶者の子供であれば好ましいと考えられても、他の男に性的な乱暴をされて強いられる妊娠は忌まわしいものに感じられる、というようなことがそれである。

 いずれにしても、女性は自分の身体に属する性的な契機によって、自分の人生を時間的に連続する物語として考えることが出来るし、また考えざるを得ない。つまり、「女性」は女性の身体を持つがゆえに、妊娠・出産というポテンシャルを持つその身体が「可能性の源泉」もしくは「不可能性の源泉」として立ち現れて来ざるを得ない。

 もちろんこの場合、自分の身体が存在するだけでは、ポテンシャルはポテンシャルのままで終わってしまう。妊娠・出産が好ましいものと受け取られるのであれ、忌まわしい物として受け取られるのであれ、妊娠の可能性を考えるためには男性の存在が想定されていなければならない。そこで、ここから男性に話を移して考えてみる。


 男性の性衝動は発情から射精に至る間の短時間的な一過性のものであり、なおかつ(当たり前だが)射精することによって自分が妊娠・出産するような可能性はない。男性はこのような性の在り方によって、女性のように時間的に連続した「物語」を持つ形で自分を「性的存在」として捉えることが妨げられる。それは身体の性質や構造上からいえば、不可能なのである。いいかえれば、男性はごく自然な形によっては、「性的存在」としてのアイデンティティを確立することは出来ないということである。

 そのためかしばしば男性は、自分の性に関してやたらと誇張して吹聴したり、あるいは性とは別の分野で(例えば社会的な肩書きを得ることや、何らかの能力を身につけたり「仕事」を成し遂げることによって)自分のアイデンティティを確立しようとする。男性はその身体的特性からいって、断続的・短時間的な自分の性の隙間を、何らかの仕方で埋めざるをえないような存在なのである。

 したがって、男性学やメンズリブなどで言われているように、「男」が「男」としての役割を投げ捨てたら解放されるという主張は、それだけでは効果が期待できない。むしろ、社会的な肩書きを自分のアイデンティティとしていた男性が定年退職後にヌケガラのようになるのと同じで、精神的に追い詰められることになるだろう。彼らの言い分は、少なくともその代わりとなるような代案が具体的に示されないかぎり、多くの男性にとっては説得力の感じられない主張でしかないのである。

 もちろん、渡辺恒夫が『脱男性の時代』で述べているように、化粧をしたりスカートをはいたり家事をしたりしたところで無駄である。MTF なら別だが、少なくとも一般の男性が、こんな方法を意図的に選択することによって、自分の人生を時間的に連続した物語として再構成できるはずもない。少なくともマジョリティであるヘテロセクシャルの男性は、自分の性対象である「女」とは別のアイデンティティを求めているはずだからである。またそのことを、ポストモダン的な物言いやクィア理論を持ち出して断罪したところで、それが彼らの救いになるはずもない。

 あるいは男性たちに対して、社会的肩書きを得ることや仕事に打ち込む代わりに、家事や育児を分担することによって「性的存在としてだけでは満たされないような生の隙間」を埋めてもよいのではないかと主張する向きもあるかもしれない。もちろん、それによって「彼」が自己という物語を時間的に連続したものとして捉えることができ、アイデンティティを立て直すことが出来るのであれば、私は反対しない。

 しかし、どうだろうか。私の見るところ、それによってアイデンティティを確立出来る男性がいるとしても、そのアイデンティティは家事の分担や育児参加がよいことだとする現在の社会的な評価によって支えられているのである。つまり具体的な中身が何であれ、「男」としてのアイデンティティが社会的な評価に支えられているという点では同じで、ここまで述べてきたような男女の非対称性が解消されたわけではない。彼らの大半は、あくまでも「男」として「よき夫」や「よき父親」としての自分を構築しているに過ぎないからである。また、だからといってそれを責めるような、いかなる根拠も存在するわけではない。

 またこのような方法によって、必ずしもすべての男性が「男」としてのアイデンティティを獲得できるわけでもない。たとえ家事の分担や育児参加をしている男性であっても、それが彼のアイデンティティを支えているとは限らない。逆に、女性が働きに出て男性が「専業主夫」になったり、そこまでいかなくても、妻よりも料理が得意だというような自負を持っている場合には、そのことが「彼」のアイデンティティの根拠になる場合もあるだろう。しかしそれでも、そのような例をもって直ちに一般論化出来るとは、どうしても思えない。そこには「そういう男性もいる」という事実がいつのまにかあらゆる男性に普遍的な事実として語られてしまうような、埋め難い論理の飛躍が感じられるのだ。

 もちろんここで、フェミニストのように現状を否定することに急ぐ必要はないし、そもそも私は、現状否定を目的としているわけでもない。ここではあくまでも事実として、一般に男性は「性的存在」としての自分を時間的に継続した「物語」として構築することが出来ない、ということを確認しておきたいのである。

 しかし、男性でも「一生」という概念を持っている。つまり男性もまた、自分を何らかの仕方で時間的に継続した「物語」化しているということは疑い得ない。それは、自分を「性的存在」としてではなく「社会的存在」とみなすことで可能になる。こうして、女性は「性的存在」として、男性は「社会的」存在として、それぞれ自己の一生を時間的に連続した「物語」に組み上げてゆくという形で、ジェンダーの基本形が準備される。


 このように、男女がそれぞれ原理的に異なった仕方で自分の一生を「物語」化した場合、問題になるのは両者の関わり方である。例えば結婚という形で両性がその生を共にするとき、この二つの「物語」は何らかの仕方でリンクしていなければならなくなる。言いかえれば、それが出来て初めて、両者は自分達の関係の中で「男性」や「女性」でいられるのだ。

 むろん両者がその生を共にするのは、性的エロス的な関係を通じてである。しかしそれだけでは、両者の関係を保障するものは何もない。実際には、この保障は男性に対する倫理的な縛りとして現れる。

 人間以外の他の動物では、人間のような半永続的な家族は成立しない。雌雄両性が育児に携わる例には事欠かないが、哺乳類であってもその育児の期間は、人間に比べれば桁外れに短い。鳥類も同様だし、爬虫類や両棲類、魚類ならごくわずかな例外を除いては卵を生みっぱなしにして、育児という活動そのものが存在しない。人間の両性が育児に携わる何年もの長期間に渡って共に暮らしたり、さらにその後も人生を共にするということは、すでに本能の規定から大きく逸脱しているのである。誤解のないように書いておくが、この「本能からの逸脱」について、私は肯定的にも否定的にも、いかなる価値評価も伴わずに、ただ事実として書いている。

 本能によっては運営できない両性の共同生活を支えているのは、文化である。むろん上に書いた倫理もその一つである。男性は女性のめんどうを見る。そういう決まりを作っておかないと、男はどこに行くかわからないような性質を持っている。これは男性の品性の問題について述べているのではなく、男性が性的存在としては断続的な在り方しか出来ない、という意味である。品性うんぬんは倫理が成立した後に初めて可能になる評価であって、これを性的倫理の発生の原因として挙げると循環論に陥ってしまうからだ。

 こうして男性は家庭の、経済的な担い手、あるいは外敵から家族を守る役目を引き受けることになる。したがって、男性のジェンダーのそもそもの内容は、「彼」がいかに「女性」あるいは家族と関わるかという点に、その発生を求めることができる。このような役目を引き受けた男性は、生産・流通の仕組みが社会化、複雑化、巨大化するに連れて、必然的に「社会的存在」とならざるを得ない。この過程を、フェミニストが言うように女性が家庭内に閉じ込められ、社会から疎外されて来た歴史として見ることも可能だろう。しかし視点を変えれば、逆に男性が家庭から疎外された歴史として見ることも出来るし、また現代の日本でもそのような実感を持つ中年男性も多いのではないだろうか。

 だが、私は家庭にあることと社会的存在であることとの間で、固定的な優劣の序列をつける気にはなれない。また、「男女の関係はどちらか一方が得をすればもう一方がその分だけ損をするようなゼロ和(ゼロサム)ゲームでしかあり得ない」といった類いの前提を置いて、男女の関係を対抗図式に一元化して捉える気にもなれない。そこには個々の実存に即した、もっと多様な関係の取り方や「幸福の在り方」が考えられるはずだからだ。


 ここまで述べてきたことを簡単にまとめれば、

  1. ジェンダーは男女の身体的な性差に根ざしているが、それは身体に本能的に規定されているのではない。人間は身体レベルの性差を持つということと、それについての認識の仕方について、時代や文化を超越したある共通点を持ち、そのことがいかなる時代や文化のジェンダーにおいても、性二分制が普遍的であることの根拠になっている。しかし、その認識に基づいて「男性」や「女性」がどのような在り方をするかという、ジェンダーの内容については、自然条件や歴史的な過程の違いなど、様々な要因によって多様化せざるを得ない。

  2. ジェンダーにおいて、「女性」は性的・家庭的存在となり、「男性」は社会的存在となる。
ということになる。

 ところが近代社会では、このようなジェンダーの男女の在り方の非対称性にある種の変容が認められるようになる。女性の身体が妊娠・出産というポテンシャルを持つことによって「性的存在」であることと結びつきやすいのに比べ、男性としての身体的な特徴は「彼」をそのまま「社会的存在」であることに必然的に結び付けているわけではない。むしろジェンダーにおける男性の在り方は、「性的存在」であることの可能性が身体的に否定されるという点において必然的だったのである。

 しかし逆に女性は、従来通り「性的存在」であることも出来るが、女性の身体特性は「彼女」が「社会的存在」であることの可能性を否定しない。「性的存在」であることと違って、「社会的存在」であろうとすることに対しては、身体的条件による束縛が遥かに緩いからである。

 しかも私の理解では、近代市民社会の原理は、「彼女」が「社会的存在」であろうとすることを結果的に否定しきれない、という性格を持っている。近代市民社会は、各人ができる限り自分の欲望を実現できるような社会の在り方として模索されたものだからだ。したがって、もし女性だからという理由で「彼女」が「社会的な存在」としての自己の確立を妨げられるとしたら、それは近代市民社会の理念に照らして不当なのである。

 そういう意味では、伝統主義の保守オヤジ(^^;)が「男は外・女は内」というのも、フェミニストが専業主婦を否定して「社会進出こそが正しい」というのも、どちらも間違っている。これはどちらも、「女性だから」という理由で他人(女性)に「どう在るべきか」を押しつけるような、前近代的な思想の形を取っているからである(間違っても、これらの前近代的な主張を「近代の超克」とか「脱・近代」といった、倒錯した文脈で解釈すべきではない)。そうではなくて、専業主婦も社会進出も含めた豊かな選択肢が用意されており、それが自分の努力次第で実現できるような社会こそ望ましいと考えるべきなのだ。そして、それは具体的にどのような条件によって可能になるのか、という事を考えるのが、期待される「思想の役割」なのではないか。

 したがってフェミニズムは、現在の考えを押し進めて行こうとする限り、必然的に行き詰まらざるを得ない。しかし、すべての女性が「社会的存在」であるべきだというのは間違いでも、一部の女性の「社会的存在」でありたいという希望は近代市民社会において正当であり、実現可能なはずである。そしてそのために「性差」の否定を強弁する必要など、全くない。

 ただし、これまでの「男らしさ」というのはいわば「性的存在」としての女性と対になる形で編み上げられていたわけだから、男性がそのような「男らしさ」に固執したら、「社会的な存在」であるような女性との折り合いが悪くなるような場面も出て来ざるを得ない。しかし、だからといって女性が「社会的な存在」であろうとすることを抑圧することは、もはや近代理念に照らして背理である。むしろそういう在り方をする女性と上手く対になれるような、新しい「男性」としての在り方を模索することが大切なのではないだろうか。

 それは単純に男性がフェミニストの言いなりになるというようなことではなくて、男女が共に納得できるような新しい「関係の在り方」を双方が模索するということである。したがって、新しい「男性」としての在り方を模索するということは、従来の「男らしさ」を否定するという意味ではない(それは従来の「女らしさ」を選んだ女性との間ではそれなりに上手く機能するのだから)。そうではなくて、女性の在り方が多様化した分だけ、それらと対になるように「男らしさ」も多様化して行くような道筋を取るのだろうと思う。

 そうしないと、各人の欲望の追及という近代理念に逆行することになってしまう。ここで、「近代理念は絶対的なものだから誰もがその実現に参加すべきで、そうすることが正しい生き方だ」・・・というと、これもおかしな話になってしまうのだが、そうではなくて、「各人が自分の欲望を追及ができるような社会が好ましい」という皆のコンセンサスを前提にして押し進められるべきものなのである。むろん現状ではこのようなコンセンサスは成立し得るだろうし、このように考える限りにおいてのみ、私達は構築主義と本質主義との対立という構図を乗り越え、伝統主義やフェミニズムのような「抑圧的な思想」への堕落を避け得るのである。


 ところで、私はここで男女のジェンダーの非対称性についてもう一つの視点を導入しなければならない。それは女性に特有のある種の性的なエロス性についてである。これは一種の身体性なのだが、同時に文化的な産物でもある(例えば、首長族の女性は首が長いほど「美人」なのだそうだが、ほとんどの日本人男性はこのような感性を彼らと共有することは不可能だろう)。

 これは「真・善・美」のうちの「美」の問題であり、したがって理論よりも感性の問題である。これもジェンダーの問題と同様、どのような女性を「美人」と感じるかは時代や文化によって異なるが、しかし人間が「美」という価値基準を持つことそれ自体は普遍的だという、多様性と普遍性との両義的な性格を持っている。ここで「どのような女性が美人か」という問題を捨象すれば、男性が女性の持つエロスに引きつけられるということの普遍性(その是非ではなく、そのような事実があるということ)もまた認められるだろう。

 多くの女性もまた、私が一年近く前に「49.異性の視線」で述べたように、男性に「見られる(見せる)」ということを、意識的・無意識的に「知っている」。これは、上述のジェンダーの基本形の観点からいえば、自分が「性的存在」としての生の「物語」を実現することの必要条件である。しかし高度に文明化した社会では、「エロス的」であることそれ自体が価値あることとして、多くの男女に認められるようになる。とりあえず恋人を作る気がない場合でさえ、自分が「エロス的存在」であることに自己充足を覚える女性は多い。

 「エロス的存在」であろうとすることは「性的存在」であろうとすることに比べて、身体レベルの性差の束縛が緩い。簡単にいえば、身体が持つポテンシャルとしての妊娠・出産が不可能でも、「エロス的存在」であろうとする可能性は実現可能なものとして開かれるのである。なぜなら、高度に文明化した社会では性幻想も複雑になり、その分だけ相対的に身体の束縛が緩くならざるを得ないからである。ここではあくまでも原理を述べることが目的だから、それを「豊かなイマジネーション」とみるか「妄想」と見るかというような価値判断は、とりあえず保留されなければならない。ただ、高度に文明化した社会では、このような変化が一種の必然性を伴って現れてくるような条件が存在する、ということなのだ。したがって男の身体を持つ者であっても、あくまでも類似的に(つまり、妊娠・出産を別にすれば)という条件は付くのだが、「エロス的存在」であることから女性と同様の「性的存在」として、自分の生を時間的に連続した「物語」として把持することが可能になってくる。

 性同一性障害の場合には、女の身体を持つものが「社会的存在」でありたいと思ったり、男の身体を持つものが「エロス的・性的存在」でありたいと思うとき、そこから帰納的に性自認が構成されると考えられる。この場合、「社会的存在」とか「性的存在」というのはあくまでも典型の例示であって、要するにその人の感性における「男性の生き方」や「女性の生き方」のことだと考える方が、より正確かと思う。

 少なくとも私自身が「なぜ私は自分を『女性』だと認識しているのか」と問いかけて内省してみる限り、自分自身の「かくありたい」という欲望(存在可能性)以外には、その根拠が見当たらない。もし、性同一性障害を内観心理学(記述心理学)によって扱えば、同様の見解が得られるのではないかと思う。

 ただし、このような問いを自分に(あるいはクライエントとしての性同一性障害の当事者に)向ける場合には、注意が必要である。人間は誰でも(実はジェンダーフリー論者であっても)、その人なりの「男性」や「女性」の概念を持っている。
 ところが、(私もかつてずいぶんと失敗したのだが)自分はどのようなものを「男性(女性)」だと捉えているのかと考え始めると、自分で思いついた答えを相対化してしまうのだ。例えば、MTF が「自分は料理や手芸が好きだ。しかしそういう趣味を持つ男性もいる」などと考えてしまうと、思考の泥沼にはまり込む。現代では、感性として持っている「男性」や「女性」の概念を言語として表出することが難しくなっているのである。考え過ぎずに直感的に答えを出してゆかないと、かえってわかるものもわからなくなってしまう。

 ハイデガーによれば、人間は「自分が何であるか」を了解すると同時に「自分が何であり得るか」を了解しながら生きているような存在である。このこと自体はあらゆる人間に普遍的であり、「自分が何であり得るか」を了解することによって「自分が何であるか」を了解するということも、またよくあることである。例えば、ある大学に入りたくてそのための勉強に取り組めば(自分がその大学の学生であり得る、という存在可能が開示されれば)、同時に彼は自分を「受験生」と認める(「自分が何であるか」を了解する)だろう。おそらく、少なくとも性同一性障害の場合には、このような仕方で自己の性別を規定し、認識している。つまり、性自認を構成している。もちろんこの一連の流れは、本人の意思によるものでは、まったくない。むしろ、それは本人にとっては、否応なく「やってくるもの」なのである。

 ただ、性同一性障害の当事者に対して、彼(彼女)の性自認だけを、それが彼(彼女)の身体の性別と異なっているからという理由で修正しようとしても、おそらくは無理である。なぜなら、性自認の前提を為している欲望(存在可能性)と性自認とは、お互いに支え合う構造になっているからだ。どちらを取り去ることに成功したとしても、それは彼(彼女)の生の「物語」を奪い去り、絶望へ突き落とすことにしかならない。むろん人間は誰でも絶望に突き落とされることには抵抗するから、性自認の修正など、ちょっとやそっとで出来る事ではない。それでなくても、性同一性障害の当事者は自分や他人が自己の身体の性別を「知っている」ことによって、自分の存在可能を常に脅かし・脅かされているのである。それでも、完全なる絶望に陥ることに抵抗せざるを得ないために、精神的な普通や不安が絶えることはない。そういう意味では、性同一性障害とは一種のダブルバインドである。

 ただし、このことは性自認それ自体が変更不可能なものだということを意味しない。そうではなくて、なぜ性同一性障害の当事者の性自認を修正することが難しいのかという話である。もし、時間をかけて彼(彼女)の欲望(存在可能性)を編み変えるような方法があれば、性自認の変更は可能なはずなのだ。なぜなら、性自認とは一種の認識であり、変更不可能な認識というのは原理的にはありえないからである。ただし現状では、原理的には可能でもそのための具体的方法がない。その意味では、「今のところ臨床的・技術的には性自認は変更不可能」ということはできる。しかし、そのことと、性自認それ自体が変更不可能だということとは別問題である。

L.Jin-na


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