57.美と性

神名龍子


 過去の考察と重なる部分も多々あると思うのだが、女性の持つ「美」とは何か、ということについて改めて考えてみたい。

 まず、そもそも「美」とは何か。何が「美」とされるかではなくて、「美」そのものについて考えてみる。「美」とは一つの価値基準であり、理論的なものではなく感性的なものである。では、私達は「美」からどのような「感じ」を受け取っているのだろうか。それは感性的・身体的な「快」だといえる。「美」は現実には、しばしば「善」と入り混じっている。それをあえて分類するとすれば、「善」は論理的に扱えるという直観を伴っており、「美」はそれが感性的なものであるがゆえに、論理によっては言い尽くすことが出来ないという直観を伴っている。ただし、「美」と入り混じって現れるのは、社会的に共有される「善」よりはむしろ個人的な「よい」である。だから反社会的・反道徳的な「美」があり得るのだが、それは個人的な「よい」とは結び付いている。

 「美」が価値基準であるということは、「美」そのものは実体的な何かとして存在するのではなく、私達に対して「美という意味」として立ち現れる、ということである。これは「真」や「善」でも同じことだ。ここを間違えると、ある主張や政治形態が「真」そのもの(真理)だとか「善」そのものとみなされることになる。そして、こうした勘違いは例外なく、ろくでもない結果をもたらすことになる。なぜこういう勘違いが起こるのかというと、「真・善・美」が常に自分の内部で妥当する「意味」だということを忘れ、それを自分の外部に投影するからである(神仏の存在を信じるのも同じ原理であり、神仏とはいわば「真」や「善」そのものを人格化した存在である)。どのような問題を考える場合であれ、「真・善・美」を実体化(物象化)してはならない。

しばしば、プラトンのイデア説はこうした考えの嚆矢として批判されるが、プラトンは(その著書の中ではソクラテスのセリフとして)、「美」がミュートス(神話)という形を借りてしか語り得ないものだと、あらかじめ断わっている。つまり、「美」は感性的なものであるがゆえに論理として語ることが出来ず、比喩的な表現しか出来ないといっているのである。この点、後世の真理主義者や相対主義者よりも、よほど「美」の本質が何であるかについて、よく考えていたというべきだろう。

 ゆえに「美」とは、こういい変えることができる。個人的な「よい」の感性化したもの、「よい」の価値判断が身体化(内面化)したものである、と。「美」とは視覚や聴覚によって得られる、「よい」のイメージなのである。これに触覚を加えてもよいだろう。日本ではあまり理解されていないが、彫刻とは本来、視覚だけでなく触れてみることもその鑑賞法に含まれる。聴覚による「美」とは、音楽などから受け取られるそれを指している。これに対して、味覚や嗅覚によって「美」を感じ取ることは出来ない。視覚・聴覚・触覚と、味覚・嗅覚との違いは、言語を扱うことが出来るかどうかの違いでもある。読み書き(視覚)や、聞いたり話したりすること(聴覚)、あるいは点字(触覚)など、視覚・聴覚・触覚は言語を扱うことが出来るか、味や臭いによって言語を構成することは出来ない。このことも「美」が「意味」だということがわかるだろう。言語を扱えない感覚(知覚)によっては、「美=意味」を受け取ることは不可能なのである(男性が女性の髪のシャンプーの匂いに引き付けられるということはあり得るが、それを「美」とは呼ばないだろう)。

 では、女性の持つ「美」をどのように考えればよいのか。「美」が意味である以上、女性の持つ「美」は、女性そのものをいくら調べても出てこない。なぜなら、それは本質的には「美」を受け取る側の価値判断の問題だからである。

 それにも関わらず、私達はしばしば、「美」を受け取る対象の方に関心を向けてしまう。それは上に述べたように、「美」が意味であることを忘れて実体化してしまうからだ。もっとも、それにはそれなりの理由があるはずである。人間は、目の前にものが置いてあれば、それは自分だけではなく他者の目にも見えるはずだと考える。そしてそれが幻覚でもない限り、実際に他者の目にも同じ物が映っていることを確認し、ますますそのものが存在することの確信を強める。逆にいうと、自分の目に映っているものが、そこにい合わせた他の誰にも見えないとわかれば、自分は幻覚を見ているのではないかと疑うのである。人間が「真・善・美」を実体化してしまうということは、誰でも「真・善・美」という価値基準を持っているということ、そして何に「美」(あるいは真や善)を感じるかということが、ある程度は共有されている、ということ。それが、「真」や「善」や「美」それ自体が実在しているかのように思えてしまうことの根拠なのである。

 しかしその一方で、厳密に言えば何が「真」や「善」や「美」であるかについて意見が分かれるということも私達は知っている。それがいわば「価値観の違い」によって生じることもまた、自覚しているはずである。もちろんだからといって、このことから「真・善・美」なんかないんだというのも、また短絡的に過ぎる。上に書いたように、誰もが「真・善・美」という価値基準を持っていること、その評価がしばしば共有されることもまた事実だからだ。つまり、「真・善・美」は、これらの価値観を実体化してしまう真理主義によっても、またこれらの価値観それ自体を否定してしまうような相対主義によっても、解き明かすことのできない「謎」になってしまう。後者の場合にも、「真・善・美」の実態を対象に求めてしまうという点では同じである。「真理」の追求が不可能だとわかったときに相対主義(ニヒリズム)に陥るのである。

 したがってここでは、「美」についての考察の方法それ自体を根本的に変更せざるを得ない。具体的には、「美」の問題はその対象ではなく、「美」を感じ取る「主体」自身の問題、あるいは自分と対象との関係において考察されなければならないのである。

 女性の持つ「美」に対して関心を持つのは、多くの男女である。そして私の考えでは、その関心の持ち方にについて、男女それぞれの在り方を考察する必要がある。なぜなら両性の間には、女性の持つ「美」に対する興味・関心の違いが存在するからである。

 まず男性の視点についていえば、女性の持つ「美」は当の女性の「魅力」と結び付けられるのが普通である。

 ここでは、「美」だけがその女性の「魅力」を構成する要素だとは限らない、ということに注意しなければならない。ここでは、その区別のために女性の「魅力」について触れておく必要がある。ここでいう「魅力」とは、その女性と関係を持ちたいと思うような引力である。この「関係を持ちたい」ということは、性的なそれに限らず、最終的にはその女性の全体性に手を伸ばしたいという欲望として考える(性的な関係を否定するのでもなければ、性的な関係に限るのでもない)。

 男性が女性を求めるとき、しばしば性欲について語られることが多いのだが、必ずしもそれがすべてではない。例えば、ポルノや売春の問題を考えてみるとわかるのだが、そこでは何らかの形で男女の性的な関わりだけが切り出されている。逆にいうと、そういう関係においては男性にとって、その関係を越え出て相手の女性の全体性に向う可能性が、あらかじめ断ち切られている。その点で、ある女性を恋人にするのとは、本質的に異なった関係として体験されるのである。男性が女性に関わる場合にも、一緒にいると心が安らぐなどの、非性的なエロスが体験されるはずである。そしてその安らぎを得るために、相手の女性との関係を継続的に持ちたいという欲望が生じるのだが、売春のような関係ではその欲望は、あらかじめ挫折するものとして予定されているのだ。

 ところが、女性の全体性に対する欲望のうち、性的な関心以外の部分は言語化が難しい。だからこそ、そういう部分は昔から、文学という形で扱われてきたのだろう。これは、プラトンが「美」の本質をミュートス(神話)という形で比喩的にしか語り得なかった事情と、とてもよく似ている。プラトンによれば、男性は恋人(といってもこの場合には少年愛なのだが ^^;)の肉体に「美」を感じ、さらに相手の魂に「美」を感じるが、それは実は「美」そのものを求める営みなのだという。

 これを私なりに言いかえてみると、相手の肉体に対してであれ魂(精神)に対してであれ、自分にとって何か「よい」ものであるということが直観されている、ということである。ここでは少年愛は脇において、あくまでも男性から見た女性の話に限定することにしよう。

 男性が女性に感じる「美」とは、彼が彼女の全体性に手を伸ばそうとする契機である。もちろん、必ずしもそれが最後まで実現するとは限らない。男が女に振られることもあれば、性的な関係を持っただけで終わってしまうこともあるだろう。また、「美」だけが女性の全体性への欲望の契機になると限られるわけでもない。しかし「美」は、特に外見的な「美」は、彼女の内面がうかがい知ることのできない場合にも、比較的に容易に見て取ることが出来るし、人間にとって視覚的なイメージの働きかけは強力である。

 とりあえず、女性の「美」をその顔に限って考えてみよう。いわゆる「美人」の条件として、例えば肌がきれいで整った顔立ちであることが挙げられる。いわば造形美である。だが、実際にはおそらく、それだけでは「魅力」につながらない。冷たい印象のする美人がいる。美人ではあるが近寄り難いとか、せめて自分にだけは微笑みかけてくれないだろうかと、男に思わせるようなタイプの美人である。造形面ではそれよりも少々劣っても、明るい性格で親しみやすい性格の女性の方が、実際にはもてたりする。つまり、男性にとって女性に感じる「よい」は、造形美だけではない。少なくとも実際に付き合う場合には、顔がよいに越したことはないが、それだけでは不充分なのである。

 人間の「顔」について考える場合、その物理的な造形だけを問題にするのは、きわめて一面的な見方である。実際には「笑顔」その他の「表情」や「眼差し」といったものが、他者に訴えかける力は無視できないほどに大きい。見た目(形)だけでなく、声や語り口調、ちょっとしたしぐさや表情などもおおいに男性を引きつけるし、何らかの機会に見られる気遣いなどが「魅力」として男性に受け取られる場合も多い。念のために書いておくが、私はここで、「美人=造形美」を否定したいわけではない。ただ、それ以外の要素における他者への影響の大きさというものを再確認しておきたいのである。

 しぐさを挙げたついでに書いておくと、立ち居振る舞いや立ち姿も非常に重要である。私は仕事でよく渋谷や原宿を通るのだが、そのあたりに見られる若い女性の多くは(実は女性に限らないのだが)、ファッション的には派手に着飾っているのだが、基本的な立ち姿や立ち居振る舞いがまるで「なっていない」ことが多い。何年か前に南米の某国の駐日大使が「日本人の身体は醜い」と発言してちょっとした話題になった事があるが、私はこれはもっともな意見だと思う。たぶん、この発言で騒ぎ立てたマスコミはその真意を理解できずに、一種の人種差別のように受け取ったのだと思うが、私の眼から見ればこれは人種論ではなく姿勢や動き(立ち居振る舞い)の問題なのである。

 女性でいうと、何らかの習い事をしている人は、やはり姿勢や立ち居振る舞いが決まっている。具体的には日舞や茶道などがそれであり、また私自身は詳しくないのだがクラシックバレーやジャズダンスなどでもそれなりの身体になる。姿勢とは身体の重心の置き方であり、立ち居振る舞いとはその重心の移動や無駄のない所作である。そこにはある一定の原理があって、見る者が見れば、その実力の程までわかってしまう。自分が動くにも、他者の動きを見るにも、それを評価するための規矩というものがあるのだ。だからこそ、私自身は全く未経験でも、日舞を教えている人やバレーを教えている人と話が合う。

 順番からいえば、まず姿勢があって、それから動きがある。私が経験した武術で言えば、まず「構え」を知るということ。動きとは姿勢と姿勢の間をつなぐものだと思えばよい。「構え」から「構え」への、無駄のない変化である。こういう話を、私と同年輩の人や若い人はたいていは嫌がる。「型」にはまらずに自由にというのだが、その自由な動きとは単なるデタラメである。何の稽古もせずに「自由」に動いて、美しい動きの出来る人を見たことがない。「型」とは「はまる」ものではなく、その「型」が教えようとしている原理を知るためにある。その原理が判ったら、それを自由に使っても動きが「きまる」。自由とデタラメとは、あくまでも別ものなのだが、まず最初はそれがわからない。

 バレーの例からも分かるように、これは何も武術や日舞という、日本の伝統に限定した話ではない。1998年2月23日の第96回紀伊国屋セミナー「性を越境する − 異装がもたらすゆらぎ −」では、石井達朗氏が講演中、その後ろにさまざまなパフォーマンスがビデオで流されていた。その中で示されたニューヨークの街路でのストリートパフォーマンスを見ても、身体にきちんとした規矩があることは一目瞭然である。

 話を戻そう。人間は他者と関わる上で、その関係の中から様々なエロスを受け取る。その最たるものは何かといえば、それは私の考えでは、自分が自分として承認されること、である。ヘーゲル「欲望とは他者への欲望である」といったのも、これがわかれば理解出来るだろう。

 精神分析家のラカンはヘーゲルの哲学を、コジェーブを通じて知ったそうだが、このラカンにおいてはなぜか「欲望とは他者欲望である」と、話がねじ曲がっている。この違いが、コジェーブによるものか、ラカン自身によるものか、私は知らない。確かに、他者と接するうちにその相手から何らかの影響を受け、その相手の欲望を自分の内に引き写してしまうことはあり得るかもしれない。しかし、それは欲望の本質を示すものではなく(あらゆる欲望に共通するものではなく)、せいぜい他者関係の在り様を指し示すに過ぎないものだろう。

 ヘーゲルが「欲望とは他者への欲望である」といったことの意味は、他者に対して承認を求めるという、人間の普遍的な在り方を示したものである。なぜこのようなことが起こるのかというと、私の考えでは、人間は生まれついて以来、他者から様々な「意味」を受けとって世界像を構築するからであり、またその世界像の中に「自己」を置くからである。つまり世界像を構成する様々な意味や、その世界内存在としての「自己」の意味は、他者との間の意味の共有、つまり間主観性によって支えられる。「私」は他者からの承認が得られないとき、世界の意味や「自己」の意味に対する確信が揺らぎ、無意味な存在であることに耐えられなくなるのである。ここから考えれば、ラカンのいう「欲望とは他者欲望である」ということは、あくまでも二次的な現象に過ぎない。もちろん、ある種の欲望もまた他者からの承認を得ることで、安心や、場合によっては誇りさえ持つことが出来るだろう。しかし、人間の欲望は必ずしも「他者の」欲望である必要はなく、それは必ずしも人間の存在を脅かす問題にはならない。

 人間とは、様々な可能性の総体であり、自分が自分として承認されることの最たるものは、自分にとって望ましい可能性がすべて保証されるかのように承認されることである。異性間についていえば、この状態は「恋愛」に他ならない(別に同性愛でも構わないが)。恋愛において人は、相手のイメージから、いわば自分の「よい」の総体を受け取る。正確にいえば、至上の「よい」を受け取る可能性を予感する。彼(彼女)と相思相愛の仲になったら、何を恐れることがあるだろう。そういう気分に陥る。

もちろん、相手は生身の人間だから、至上の「よい」などという、観念上でしか存在し得ないものを持っているはずもない。したがって恋愛において得られる全能感は例外なく挫折する。しかし、ここではとりあえず、それはどうでもよい。

 恋愛は極端な例だが、この際に大切なことは、自分が相手に価値を認めているということである。自分に対する承認は、自分が価値を認めている人物から得られる場合、より大きな意味を持つ。男性から女性を見た場合でいえば、顔立ちが整っていること。美しいということそれ自体が一つの価値である。ただし「彼女」が客観的に美しいかどうかは、ここでは問題ではない。当の男性から見て美しいと思えればそれで充分である。価値ある女性から、自分が自分として認められれば、その承認は「彼」にとってとても大きな意味を持つ。もちろん、その承認が常に得られるという保証はない(むしろ得られないのが普通である)。しかし、「もし彼女が自分を認めてくれたら」と考えることは可能である。さらにその予想を支えてくれる(と思える)ような、優しげな眼差しや物腰をその女性が備えていたら、「彼」の「彼女から承認されたい」という欲望はますます掻き立てられるだろう。

 そこに、いわゆる性欲が含まれていないとは言わないが、しかしそれは少なくとも性的な発情だけによって起こり得るものではない。こうした欲求は人間が(この場合には男性が)、自我や人間特有の「真・善・美」という価値観を持つことによって、初めて可能になるのである。

 造形美に限らない、広い意味での「女性の美」とは、その女性との関わりにおいて大きなエロスが得られることの直観である。繰り返しになるが、この場合の「女性との関わり」とは、単に性的な関わりに限定されない。それどころかこの直観はさらに、自己が承認されるという、人間にとって最も根源的なエロスをも、その射程に含んでいる。そしてこの直観は同時に、自己に対して、その女性の全体性に向おうとする自分自身の欲望を開示するのである


 もちろん女性も、こうした男性の「女性の美に対する価値観」を知っている。だから、多くの女性は「美」を自ら身につけようとする。それは女性が男性のいいなりになるという事ではなく、むしろ男性と価値観を共有することによって、男女のエロスゲームの参加するという事を意味している。もちろん、この価値観の共有は、様々な形でこの価値観が社会に流布されていると言うことを意味する。

 しかしこれを単純に、女性に対する男性的価値観の押し付けだと決め付けることは、女性が主体性を持っていないというのに等しい。世の中には様々な情報が価値観を伴って流されている。男であれ女であれ、それをただ鵜呑みにして生きているわけではない。世の中に流通している様々な情報を、自分の好みに合わせて取捨選択しているはずなのだ。とすれば自覚の有無は別にしても、多くの女性がこのエロスゲームに参加する以上、その理由が当の女性たち自身に内在しているはずである。彼女達は決して、フェミニストがいうように、男たちにだまされているのでもなければ、いわゆる「女らしさ」を必ずしもその意に反して押し付けられているわけでも、ない(もっともこれは程度問題でもあるし、誰が要求するかによっても異なるのだが)。

 また、『脱男性の時代』等の著作において渡辺恒夫が言うような、これらの女性の美が近代以降に特有のものだという主張も誤りである。例えば江戸時代の若衆姿だが、これなどは江戸時代の中でも元禄などの華美な文化の産物であり、また地域的にも階級的にもきわめて限られた現象に過ぎない。例えば、いぶし銀のような化政文化において、一藩を挙げて貧乏していた田原藩(愛知県・渥美半島)のようなところで、このような風俗が見られたはずもない。また当時の日本の人口の過半を占めていた農民男性にも、このような華美な風俗はあるまい。

 それどころか、逆の例ならいくらでも挙げることができる。平安時代の十二単の華やかさに対して、同時代・同階級の男性の衣冠束帯の地味さはどう説明するのか。若衆歌舞伎や野郎歌舞伎よりも以前に、出雲阿国に始まるとされる女歌舞伎が、時の政権に目をつけられて禁止されるほどに隆盛したのはなぜか。婚礼において衆目を集めるのがどちらの性であったか。吉原その他の遊郭の花魁の華やかさと「買う−買われる」という売春における男女の非対称性が、近代以前であるはずの江戸期にも見られるのはなぜか、等々。渡辺氏が挙げる男性の華美な装いと、私が挙げる逆の例とで、それぞれの時代においてどちらが例外的存在であったのだろうか。

 もちろんこれは日本だけの話ではない。西欧の貴族の男性が華美な服装をし、その脚線を露わにしていたというのなら、当時の農奴がどのような姿をしていたのか、また地主貴族と農奴の人口比にどれほどの開きがあったのかを検証してみればよいのである。西欧であれ日本であれ、華美な服装をした男性がそれぞれの社会で占める割合は、むしろ近代以降、現代の方がずっと高いはずではないか。


 ところで、ほとんどの男性は女装願望を持っているという説がある。これについて、女性が自ら美を身につけたいと思う欲望の存在を前提として、ラカン風に「欲望とは他者(女性)の欲望である」と言い放っても、誰も納得はしないだろう。そうではなくて、私の考えではこれは、女性(の美)が男性にとって欲望の対象であることに由来しているのである。

 これは簡単に言えば、欲望の対象との一体化ということである。女性を欲望の対象とすることは、必ずしも女性をモノ扱いするということとイコールではない。その証拠に、空腹を感じたからといって「ご飯になりたい」と思う人はいない・・・と思う。一体化願望は、むしろ欲望の対象が人間だから起こるのである。例えば、映画館でヤクザ映画やアクション映画を見たあと、すっかりその映画のヒーロー気取りで映画館を出てくる男性がいる。これは少なくとも「ご飯になりたい」と思う人よりは、はるかに多いはずである。ただし、もちろんこの場合の欲望は女性に対するようなそれではなく、自分もそのヒーローのようになりたいという「憧れ」の感情である。

 男性が「女性の美」を自分の思う様にしたいと考えた場合、その解決方法の一つは、「女性の美」を男性自ら身につけることである。なぜなら人間にとって、自分くらい自分の思い通りに出来る人間は存在しないからである(普通は)。その極端な例がフェティシズム的服装倒錯症だろう。しかし、そこまでしなくても「女性の美」に対する欲望を持つ限り、それを何らかの方法で自分のものにしたいと思うのは、多かれ少なかれヘテロセクシャルの男性に共通の欲望ではないだろうか。もちろん、一般に健全とされている方法は、「女性の美」を持つ(と思う)女性と付き合うことである。

 女装願望を持つ男性が多いのに対して、FTMTV がほとんど存在しない理由が、おそらくここにある。過去に何度も述べたように、女性がエロス(美)を握っていて、それを男性が目掛けるという非対称的な構造のゆえに、異性装の願望はほぼ男性特有のものとして認められる。女性がパンツルックでいても、それは必ずしも女性性を捨てたことにならないし、そういう服装を「男装」として意識することは、ほとんどないだろう。それはあくまでも女性の装いとしてのパンツルックだからだ。だからちゃんと、メンズとレディスとではデザインも異なっている。


 ところで、欲望とはちょっと異なるのだが、あるホームページで「欲望の対象となるような女性を描く場合、自分がその女性そのものになりきって描く」という意味の書き込みを見かけたことがある。これはとても納得の行く意見だった。別に女性を描く場合に限らず、少なくとも人物を描く場合、この心構えがないと上手くいかないと思う。

 さらにいえば、これはおそらくは描画に限らない話でもある。例えば演劇でも、役になりきらずにその役を演じることは不可能だろう。また私自身の経験でいえば、合気道の技をイラストで図解したとき、技をかける人物とかけられる人物との、両方になりきって描いていた。そういうイラストを描きながら、技をかけたりかけられたりする実感が、それぞれの技ごとに自分の身体によみがえるのである。さらに言えば、自分が未経験の武道の技の図解を描く場合には、こういう実感のよみがえりがないので今一つ自信が持てず、経験者に見てもらった覚えがある(空手などがそうで、ボクシングに至っては最初から描く気も起こらない)。外側から見てわかるということと、内側から実感としてわかるということには大きな違いがある。なりきって演じる、なりきって描くということは、一つの秘訣なのである。

 中国武術の世界には「黙然師容」という言葉があるらしい。お手本となる師匠の動きを思い浮かべながら動く。これは武術に限らず、あらゆる身体運動を身につける上で重要な上達のコツである。もちろん、描画や演劇もまた身体運動であることに変わりはない。それどころか、極端にいえば思考でさえ「脳」という身体を用いる身体運動だといってもよいと思う。私が現象学の本質直観を身につけるときにも、手本となるような例を「身にしみる」くらいに読み返し、そのお手本を書いた人達ならここでどう考えるか、という事をイメージしながら練習した。その結果、1ヶ月ほどの独学でほぼ身につけることが出来たのだが、私の場合にはこれは、武術やスキーでの経験に負うところが大きい。

L.Jin-na


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