58.フェティシズム的服装倒錯症という悩み

神名龍子


 先月から「Visitor's Room」に、フェティシズム的服装倒錯症に関する投稿が続いている。このHPでも長い間、主に TS に関する考察が続いていて、それに比べると TV に関する考察はかなり少なかった。他のHPを見ても同じことで、TV についてはそもそも扱われていなかったり、扱われていたとしても趣味の紹介のような形がほとんどだろう。これを「悩み」として取り上げているものはまったくないか、あっても非常に少ないように思う。最初の投稿が次の投稿を呼ぶことになったのは、そんな状況が背景にあるからだろう。

 まず、フェティシズム的服装倒錯症について、ICD 10 での説明を改めて紹介しておこう。

F 65.1  フェティシズム的服装倒錯症  Fetishistic transvestism
 主に性的興奮を得るために異性の衣服を着用すること。
<診断ガイドライン> この障害は、フェティシズムの対象となる物品や衣服を単に着用するというだけでなく、異性としての外観を作り出すために着用するという点で、単なるフェティシズムから区別される。通常一点以上のものを着用し、しばしばかつらや化粧品を加え完全な装いをする。フェティシズム的服装倒錯症は、性欲喚起と明らかに結びついていることと、いったんオルガズムが起こり性欲喚起が止めば、衣服を脱いでしまいたいという強い欲望が起こることによって、性転換願望症の服装倒錯とは区別される。フェティシズム的服装倒錯症の既往はふつう、以前の時期のものとして性転換願望者によって述べられるが、このような場合はおそらく性転換願望症の発展の一段階を示しているのであろう。
<含>服装倒錯性フェティシズム

 同じ TV でも、両性役割服装倒錯症性同一性障害に分類されるのに対して、フェティシズム的服装倒錯症は「性嗜好障害」(Disorders of Sexual Preference)に分類されている

 ICD 10 はあくまでも疾患の「分類」のマニュアルであって、その原因や治療法については述べていない(これは DSM も同じである)。この場合の「分類」は、特に精神疾患については非常に恣意的だともいえる。なぜなら、精神疾患の分類には、特定の臓器や病原菌など、疾患の分類基準としての物理的根拠があるわけではない。あくまでも精神疾患を人間(医師)がどう「解釈」するかの問題だからである。

 この解釈の基準は簡単にいえば、身体疾患からのアナロジーに過ぎない。身体の病気ならば、同じ症状を持つ病気には、同じ原因があり、同じ治療法が通用する。実際には例外はあるのだが、一応はそれが原則である。例えば結核は結核菌が原因だと考えられる。Aさんの結核は結核菌が原因だが、Bさんの結核はスピロヘータが原因だ・・・ということはない(と思う)。同じ原因であれば同じ治療法が通用する。こういう原則でも、かなりの効果を挙げることができる。しかし、同じ症状(言動)が見られるから同一の精神疾患であり、その原因もまた単一である・・・という論理は成り立たない。

 だから ICDDSM は間違っている、というのではない。そもそも、これらの基準は統計のための「分類」を目的としており、治療を目的としたものではない。しかも、ICD はそもそもは、死亡原因の疾患別の統計を取るために設けられたものらしい。ICD が精神疾患について詳しく記述するようになったのは第9版(ICD 9)からだが、自殺を別にすれば、精神疾患を直接の原因として死亡することはまずない。元々が死亡原因の統計を取る目的で作られた ICD では、精神疾患はいわば「どうでもよいもの」だったのであり、現在でもその考え方がひそかに残っているのではないかとさえ思えてくる。

 もうひとつ、ICD には、精神疾患の原因を身体(主に脳)の物理的な不具合に還元する思想(精神分析の系統とは対立的な学説だといえる)が底流しているという印象を受ける。この学説は現在ではアメリカにおいて有力である。たとえば、ミルトン・ダイアモンドが最近、性同一性障害をインターセックスの一部と位置付けるような見解を発表したそうだが、これなどもその典型だろう。精神疾患がすべて器質的な原因に還元出来るのであれば、すべての疾患は身体的な疾患であって、精神疾患は存在しないことになる。

これは一種の唯物論だが、これが決定論や真理主義につながることは、少しでも思想・哲学を学んだ人間なら、誰でも判るだろう。人間の精神も含めて、この世の一切は物理法則に従うものだという話になり、すべては科学的に予見できる、という話になるからである。要するに科学万能主義であり、科学によって「真理」に到達し得るという、形而上学につながって行く。しかし、それが不可能なことは、実はカントがとっくの昔に証明している。

 だから、別項目に分類されているといっても、それは実はフェティシズム的服装倒錯症が性同一性障害と無関係であることをまったく保証しない。それどころか、上に引用したように、性転換願望症(TS)の既往歴として述べられることが多い、ということが示されているのである。ところがこの記述は、現在の TS 当事者やそれを扱う医師の間では、まったく話題にのぼらない。

 理由は推測するしかないが、一つはミルトン・ダイアモンドが主張する「性自認は3〜4歳頃までに形成され、それ以降は変更不能」という学説の影響が考えられる。かつて(あるいは今でも)多くの TS がこの説を知ったはずである。ならば・・・と、彼(彼女)は考える。自分が医師によって TS だと診断されるためには、少なくとも3〜4歳の時点で身体の性別とは異なる性自認を持っていたと主張しなければならない・・・と。こうして、多くの当事者が「ものごころがついた頃から」身体と異なる性別を持っていたと答えることになる。だから、私が数年以上前に個人的な会話によって聞いたよりも、医師の統計の方が圧倒的に「ものごころがついた頃から」という人の割合の方が高い。そして、この統計がダイアモンド説を裏付けるものとして扱われれば、あとはこの繰り返しになる。その結果、ICD 10 の記述とは異なる「実態」が再生産され続けることになるだろう。

 このような現状において、フェティシズム的服装倒錯症が性転換症を含む性同一性障害と全く別物に見えるのは、むしろ当然かもしれない。しかし私は、この「現状」が、たかだかここ数年間の現象に過ぎないことを知っている。また性自認が、「自分の性別が何であるか、何であり得るか」という認識評価である以上、それを変更不能だと断定する意見には多いに疑問がある。ならば、フェティシズム的服装倒錯症と性同一性障害を無関係とするテーゼもまた、疑われなくてはならない


 フェティシズム的服装倒錯症が性同一性障害と区別されるもう一つの理由は、後者が現在、自分の性同一性障害を「治す」のではなく、むしろ当人の性自認に合わせた「性」を営む方向を目指していることである。それに対して、前者(フェティシズム的服装倒錯症)は、自分のそのような性質に悩み、出来る事ならこれを治したいと願っている人が多い。最近のフェティシズム的服装倒錯症についての投稿も、そのような当事者やその家族からのもので占められている。つまり、当人の進みたい方向が正反対のベクトルを持っている。

 これはおそらく、それぞれの性自認の違いに由来するものだと考えられる。性転換症(TS)の性自認が身体の性別とは異なる性別なのに対して、フェティシズム的服装倒錯症の場合には性自認は身体の性別と一致している。だから、一見すると正反対のように見えても、実は両者とも、自分の性自認の性別において「まっとうに」生きてゆきたいと願っている点では同じことである(ただし、何を以って「まっとう」というかは、それぞれ当事者の個人的価値観による)。

 フェティシズム的服装倒錯症では、性自認が身体の性別(男)と一致しているので、フェティシズム的服装倒錯症を治したいと思う。しかし、一方では自分の女装を「合理化」(=正当化)したいと考える場合もあるだろう。女装をしても誰にも咎められないのは、当たり前だが女性である(それを「女装」と呼ぶかどうかは別にして)。こうした動機から、思春期以降に性自認の変更が起こっても不思議ではない。ICD 10 において、

フェティシズム的服装倒錯症の既往はふつう、以前の時期のものとして性転換願望者によって述べられるが、このような場合はおそらく性転換願望症の発展の一段階を示しているのであろう。

と述べられているのも、このようなケースかと思われる。

 現に、現在 GIDTG を名乗っている人でも過去に、女装を始めた頃に性的興奮を覚えてマスターベーションをしたという告白例は、探せばいくらでも見つかるはずである。ただ昨今では、上述のダイアモンド説の影響や、そういう告白を公にしにくいという理由で、以前に比べて探しにくくなっているというに過ぎない。逆にいえば、現在そのような告白をHP上に掲載している TV が、将来 TS にならないという保証もないのである。

 私は、会員が限られていたパソコン通信の時代に比べて、現在のインターネット上ではこのような告白が見つけにくくなっているような印象を持っている。もし追跡可能ならば、フェティシズム的服装倒錯症の告白をしていた人が、いつの間にか「ものごころがついた頃から」身体と異なる性自認を持っていたという告白を発表する例も発見可能かもしれない。しかもこの場合、必ずしも意図的に嘘をついているとはいえず、人間はしばしば過去を再構築(リストラクチャー)してしまうことがある。これは何も、T's だけの問題ではない。

 また、主に TS から「性同一性障害は『障害』ではない」という意見もあって、これを「病気」として扱うことに反発する人がいる。そういう論者から見れば、性同一性障害を「治す」などというのは論外だということになるのだろう。だが私の考えでは、そこには「障害」や「精神疾患」に対する偏見が潜んでいる。これは、いわば「キチガイ扱いするな」というのと同じことなのだ。また、男性的性欲の発露であるフェティシズム的服装倒錯症と同一視されたくないという意識も働いているのだろうと思う。自分たちは社会的に考慮されるべき「弱者」だが、フェティシズム的服装倒錯症は非難されるべき「変態」であり、そういう変態と一緒にされてはたまらないという論法がこれに当たる。

 いずれにしても、自分たちが差別の対象にされないために他者を貶めて差別する、悪質な手法であることには変わりはない。こんな論法は、世間から見れば五十歩百歩の内部差別にしか見えないかも知れず、それにも関わらずこうしたことを言わなければ精神的安定が得られない人たちがいる。だがこれは、差別的であるばかりでなく、世間の人々をも馬鹿にしていると思う。この程度の欺瞞や小細工が通ると思うのが間違いで、たいていの人々は胡散臭さしか感じ取らないだろう。念のために書いておくが、TS のすべてがそうだというのではない。これはカテゴリーの問題ではなく、どんなカテゴリーの中にも単純な頭の持ち主がいるという、ただそれだけの話である。


 さて、フェティシズム的服装倒錯症を治したいという願望(悩み)について触れる前に、もう少しフェティシズム的服装倒錯症について考えてみよう。私はかつてこの「ジェンダー素描」の中で、既にフェティシズム的服装倒錯症を含め TV について何度か触れている。しかしここでは重複をおそれず、繰り返しこの問題について考えてみたい。

 フェティシズム的服装倒錯症の動機を一言でいえば、エロティシズムのエロス性の獲得ということになる。通常のヘテロセクシャルの男性は、女性の身体性を、エロス的・全体的関係へ向かう可能性を示す性的信号として受け取る。普通ならばエロス性の獲得のために、そのジェンダー記号(性的信号)を持っている人、つまり女性に向かうのだが、「フェティシズム的服装倒錯症」の場合にはそこが少し違っていて、「ジェンダー記号を持っている人(女性)」ではなく「ジェンダー記号」そのものに向かってしまう。女性の「ジェンダー記号」を身につけることが、エロティシズムのエロス性の獲得になる。これが、性的興奮を伴う女装の構造だろう。

 この場合、なぜ「ジェンダー記号そのもの」に向うのか。それによって何を目指しているのかといえば「架空の女性」である(ただし、おそらくここには、実在の女性を自分の空想の中に登場させることも含まれると思う)。自分の思い通りになる女、自分のエロティックな想像を満足させてくれる女である。

 自分が女装をすることによって、この「架空の女性」は擬似的にだが、肉体を持つことになる。それは現実には自分の身体なのだから、他の誰の身体よりも自分の自由にできる。何をしても、それを理由に嫌われたりすることはない。そういう意味では、この「架空の女性」は身体だけではなく内面まで自由に出来る女性ということになる。そんな女性が現実にいるか。たぶん、いない。仮にいるとしても、そういう女性と出会える可能性は限りなく小さい。なぜそう思うのかといえば、普通の男女交際を目指してさえ相手に恵まれない男性が、いくらでも見受けられるからである。ならば、そういう相手は「架空の女性」として想像する以外に方法がない。

 フェティシズム的服装倒錯症でのマスターベーションにおいて、当人は「架空の女性」であると同時に、この女性を犯す男性(つまり本人)でもある。あるいは「架空の女性」になり切った上で、その相手役としての「架空の男性」を登場させることもあるかもしれない(これらは告白手記の類いから想像するしかないのだが、たぶん大まかにはこの2通りが大半を占めるように思える)。これらは、内容的にはアダルトビデオやポルノ小説のようなものだろうが、ただ見る(読む)のと違って、その状況をいわば自分の身体全体で感じ取ることができる(一種のバーチャル・リアリティのようなものか?)。これは性行為における「見る/見られる」、あるいは「触れる/触れられる」などの官能において、能動/受動の両方を、同一人が同時に味わうことを可能とする唯一の方法かもしれない。この時の当人の意識では、「自分」が男性としての自分と、「架空の女性」としての自分との、両義的な認識として現れているのだろう(簡単に言えば「一人二役」ということだが、それが内面にまで及んでいると考えられる)。

 この時の具体的な空想の中身は、正直にいってよくわからない。「架空の女性」が完全に自分を受け入れてくれる女性である場合もあれば、痴漢やレイプなどの性犯罪的な内容もあり得るだろう。要するに、上に書いたように男性のエロティシズムを満足させてくれるような空想であればよいのだろうと思う。これも調べる気になればいくつかに分類することは可能なのかもしれないが、その内容が具体的に何であるかはあまり本質的な問題ではないと思える(たぶんアダルトビデオやポルノ小説の分類と同じような結果しか得られないだろう)。おそらく、フェティシズム的服装倒錯症の特徴は、「自分」の性的両義性という点にあるかと思われる

 当事者からの投稿に、

街で好みのOLさんをみると「僕も同じ格好をして女装外出したい!」(しかし、不思議?なことにお化粧には興味がなく「面倒くさい」という感じです。)

という一文があった。これはあくまでも私の想像に過ぎないが、この場合には女性に対する性的欲望が身体(首から下)に強く向いているのではないかと思う。たとえば、制服に包まれた乳房や、ストッキングに包まれた脚のように(そういえばこの人は、女性のブーツに対してもフェティシズム傾向があると述べている)。首から下の身体は、自分の視線を下に向ければ見ることができる。顔は鏡を使わなければ見えないし、鏡を使ったとしても(特に化粧の経験や自身がない場合には)そこに自分の顔が映っているとしか思えないだろう。それは性的興奮の材料にならない。それよりは顔のない、いわば無人格な「架空の女性」の方が、より「他者」であるかのように思える。そこに街で見かけたOLを重ね合わせてイメージするのも容易だろう。この時の「自分」はあくまでも、本来の(男性としての)自分と、その性的対象となる女性との、両義的な自分であることを確保しなければならない。上に引用したのは、この人なりのその方法なのだろうと思う。

 一方、顔を含めて女装する人もいるのだろうと思う。女装した自分(女性)を男性である自分が抱きしめたいと思う、という告白は、かつてエリザベスという女装会館で何人かの TV から聞いたことがある。いわば「男性である自分」が「女装した自分(女性)」に恋をしたような場合で、こういう人達は通常はナルシストだという評価を受ける。だが、よく考えてみるとこれは「自己愛」ではない。そうではなくて、自分のすべてを受け入れてくれる女性を、自分の女装姿に見ているのである。自分が自分であるという、そのままで受け入れられるということは、人が恋愛に熱中している際に抱く全能感の根源だと思うのだが、この場合にもそれと通じ合う構造が見える。

 人は普通は、自分で自分をステキだと思っていても、それだけでは満足できない(それで満足できる人が本当の意味でのナルシストだろう)。他者から「あなたはステキだ」と承認されることで、初めて本当に安心できるのである。だから、こういう TV は、自分の女装姿を鏡に映して、そこに「自分のすべてを受け入れてくれる女性」を直観すると、彼女が「女装した自分」ではなく「他者として存在する女性」ならばよいのにと思うのだろう。

 例えそれが一種の「純愛」だとしても、私はそれとフェティシズム的服装倒錯症との間に、明確な線引きが出来るとは思えない。そこにエロティシズムの要素がどの程度に入りこんでいるかという違いを別にすれば、本質的な構造は対して変わらないと思うからである。このことは、「肉体関係を含めた恋愛」と「純愛」との間に価値の上下を設ける気になれないのとパラレルである(もし両者の間に価値の上下の別をつけるとすれば、私はどうしてもそこに欺瞞のにおいを感じてしまうのである)。なぜなら、その「純愛」も、鏡の中の女性(女装した自分)が実は自分であるという事が、暗黙に前提されているからだ。「実は自分」なのだから、鏡に映る「彼女」が自分のすべてを理解したり自分を受け入れてくれそうだと直観するのは、よほど自己不信に陥っている人でもない限り当然である。

 しかし、バーチャル・リアリティはしょせんバーチャル・リアリティに過ぎない。誰よりも当人が、そのことを「知っている」はずである。知っていながらどうにもならないときがある。それはフェティシズム的服装倒錯症に限った問題ではなく、男性一般にとっての「性」の問題でもある。男性は自分の「性」が自分を他者的に支配するという経験を、一度ならずしているはずである。男性にとって自分の「性」は、自分から疎外された存在であり、逆に言えば男性は自分の「性」から疎外される。そういう「どうにもならなさ」が、男性の自分の「性」についての悩みになることは、よくある話なのだろうと思う。

 フェティシズム的服装倒錯症でいえば、射精によって自分の「性」による支配から解放される。女装によって一時的に現れた「架空の女性」が、あくまでも架空の存在に過ぎないことを「彼」は頭では充分過ぎるほどに理解している。また「性」の支配から開放された瞬間にそれを改めて思い知らされもする。「判っている」にも関わらず、「性」の支配に屈してしまった自分に強い自己嫌悪を感じざるを得ない。たぶん、こんなところだろう。


 ここで、フェティシズム的服装倒錯症を「治す」ということについて。この場合の「治す」とはどういう意味か。身体の疾患の場合なら、人間には健康体と呼ばれる「正常」な状態がある(と想定されている)。この「正常」な状態からの逸脱が「異常」であり、病気と呼ばれる。それは治すべきもの、つまり「異常」な状態を去って「正常」な状態に戻すべきものと考えられている。身体の疾患に関しては、とりあえずはこの考え方でよいのかもしれない。

 精神疾患の場合にはどうか。そもそも「正常」な精神というものがあるのか。私は、ここで精神の在り方について相対主義の立場を取って、精神に「正常」も「異常」もないなどといいたいのではない。ただ、「正常」の意味が身体の場合とは異なるのではないかといいたいのである。繰り返すが、私は「正常」という概念の存在それ自体を否定するつもりはない。

 誰にとっても「心」(精神)は自分の思い通りにならない、不自由なものである。いや、むしろ人はその不自由さに直面したときに「心」の存在を意識するのである。だからやたらと「こころの時代」などといわれるのは、ある意味ではロクでもない時代なのではないかという気もする。

そういう意味では「心」は「運・不運」という概念と似ている。人が「運」を気にするのはたいてい不運(不自由)なときであって、順調なときに運を気にする人はいない。もしいるとしたら、それは自分の順調さに不安を感じたときだろう。

 その「心」の不自由さに対して自分で折り合いをつける事が出来ないとき、人は「心」の悩みを抱えるのである。それを「精神疾患」と呼ぶかどうかは、実はどうでもよい・・・とはいわないが、しかしここでは、とりあえずはどうでもよいことなのである。少なくとも、あらゆる悩みが精神疾患とイコールであるはずがない。なぜなら、それは「心」の悩みが ICDDSM などで分類項目として扱われているかどうかという話に過ぎず、どちらにせよそれが悩みの解決につながるわけではないからだ。例えば、悩みの内容が ICDDSM の分類項目に該当しないからという理由で仕事を断わるカウンセラーはいないだろう。たぶんいないと思う。精神科医にかかったときに健康保険の適用対象になるかどうかという問題は生じるだろうが、そのことと、悩みが解決に向うかどうかということとは別問題である。

 だから「あなたはフェティシズム的服装倒錯症です。治し方はこれこれです」という処方などは、あり得ない。そういうマニュアルはないが、それはしかし個々人の悩みとしてのフェティシズム的服装倒錯症に対する方法がないということを意味しない。その人なりの方法というものが何かあるはずなのである。少なくともそれを否定する論理は、ない。

 フェティシズム的服装倒錯症についての投稿を下さった方たちは、つまり性的興奮を得る目的で女装に走ってしまう「心」と、自分が意識的・自覚的に持っている「こうしたい」という欲望との折り合いがつかない状態にある。それが悩みになっている。

 もう一人の方は、付き合っている女性がいるそうだが性的な行為に及べないという。私には、そこで言われている「女体と膣(SEX)への予期不安」というのは、実は実感としてはよくわからない。ただ、SEXが上手くできないのではないかとか、それによって自分の彼女からの評価が下がるのではないかという不安、つまり「SEXそのものに対する不安」というよりも、「SEXに伴う不安」なのではないかという気がする。妊娠に対する不安を別にしても、そういう不安は女性にもあるはずである。ただ、男性の場合には精神的に萎縮すると性交不能になるという問題があるから難しい。これは抽象的に言えば「挫折に対する予期不安」ということなのだろう。そしてその不安によって性的に萎えると、挫折がリアリティを帯びて感じられたり、本当に現実化してしまったりする。悪循環に陥っているのである。

 この人の場合は、上に述べたように単に自分の「性」に支配されているのではなく、この不安によって女装へと押しやられているのかもしれない。女装によって現れる「架空の女性」だけが、「挫折に対する予期不安」を生じさせない、安心できる対象だからである。だから本人が好ましいと思っても思わなくても、そこにはある必然性がある。本人にとっては自由にならないなりに、「心」が解決方法として求めているのだ。それを意識の方が承諾できない。しかし女装によるマスターベーションという方法でそれなりに安心感と性的満足を得ていることも確かで、だから「心」は容易にこの手段を手放そうとしない。この場合の「心」は精神分析でいう「無意識」とか「深層心理」と言い換えると、理解しやすいかと思う。

 この場合、「心」と「意識」との折り合いの悪さが、この人の悩みである。解決方法を意識の方に合わせたいのであれば(つまり性的興奮を得る目的での女装をやめたければ)、理屈の上では、「心」がそういう解決法を取らなくてもよいような条件を作ればよい、ということになる。上に書いた、SEXに伴う不安は、そもそもは何に由来しているのだろうか。そこが解ければ悪循環も解け、悩みも解決するかもしれない。また、原因が判らなくても、何らかの方法でこの不安を解消することが出来ればよいのである。だが、残念ながらこれ以上は投稿からはわからない。

 投稿の内の一つは当人ではなくその奥さんからのものだが、奥さんだけが悩んでいるわけではなく、やはり本人も悩んでいることが見て取れる。だが、この場合には「妻の悩み」の方に焦点を当ててみよう。そもそも、彼女はなぜ悩むのか。「悩むのが当たり前だ」といってしまえばそれまでだが、それを取り出して言葉にしてみることは、無意味なことではあるまい。

 真っ先に思いつくのは、ごく一般的にも見られる、女装そのものに対する嫌悪である。特にフェティシズム的服装倒錯症の場合、これは性的興奮を得るためという意味ではポルノ雑誌やアダルトビデオを見るのと同じだという面がある。一般に女性は、男性のそういう行為それ自体を嫌う。しかし、おそらくフェティシズム的服装倒錯症に関わる嫌悪は、ポルノ雑誌やアダルトビデオを見るという行為以上に強い。それはなぜか。

 とりあえず夫婦という関係を前提に考えれば、妻は夫を男性だと思っている。それは当たり前だが、それだけでなく自分の将来を、そこに男性である夫を組み込んで思い描いている。もしかしたら、あまりそういう自覚がないかもしれないが、例えば働き盛りの夫が急死したら(縁起でもない例えで申し訳ない)、「これからどうしよう」と途方にくれるだろう。ということは、それまでは夫の存在を前提とした安心感が成立していたということである。人は誰でも、夫婦、親子、兄弟、恋人、親しい友人など、様々な人の存在を自分の可能性(将来像)の前提として組み込んでいる。

 だから、例えばはじめて自分の夫や恋人が女装することを知るとショックを受ける。一つは、自分は異常な男性に自分の人生を(その一部だとしても)預けてしまったのではないかという不安である。また、彼が「男性」であるという自明の前提が揺らぐ。もちろん、頭では「もしかしたら彼は女性なのかしら」と思ったりはしない。理論的に生じる不安ではなく、あくまでも女装に伴う女性イメージから前意識的に生じる不安である。前提が揺らぐから、彼(夫)の存在を前提としていた自分の可能性(将来像)にも不安が生じる。

 これは何も、フェティシズム的服装倒錯症だけに生じる現象ではない。TS についても同じで、自分と関係のない人間の性転換は「別にいいんじゃないの」といって済ませられる人でも、自分の親兄弟が TS だとなると動揺しやすい。夫婦や恋人ならなおさらである。むしろ、身体まで変えようと言い出さない分だけ TV の方がマシだ、と考える人さえいるかも知れない。これは、「性の多様性を認めよう」などというスローガンでどうにかできるような甘い問題ではない。TV であれ TS であれ、自分の問題にきちんと向き合って、自分で引き受ける覚悟がなければ、問題はこじれる可能性の方がはるかに大きい。

 近代哲学は人間を「個人」という形で捉えて展開してきた。かなり誤解されている向きもあると思うのだが、この「個人」という概念は、人間がそれぞれ独立して自足出来る存在だという事を意味しない。人間は様々な形で相互に依存しあって存在している。そこで、上に述べたような「自己の可能性」(将来像)を作り出している。近代以降の哲学は、基本的には社会思想である。ただ、社会を考えるために「人間とは何か」ということを考えざるを得ない。だからそこが理論的な出発点になるのだが、目的はむしろ社会がいかにあるべきかということに大きな比重が置かれている。そして、両者(個人と社会)は全く別の問題であるわけではない。個人(例えば自分)が幸福に生きようと思ったら、その自分の可能をを支える条件はあくまでも他の人々であり、抽象的には「社会」なのである。それが誰についても当てはまるから、「相互依存」という事になる。

 私達が自分の人生を生きるということは自己の可能性を生きるということであり、自己の可能性を生きるということは他者との関係を生きるということである。社会とはこの関係の網の目だということになる(ただ人々が集まっているだけなら、それは「社会」ではなく単なる「群れ」や「群集」に過ぎない)。

 TV であれ、TGTS であれ、自分が T's だというだけで、他人の可能性を揺るがせたり破壊したりすることがある。その時に被害者になる人は、その T's の人物を何らかの形で尊重している人たちで、上に述べた、夫婦、親子、兄弟、恋人、親しい友人などはその典型である。逆にいえば、無関係な他人が T's であるという理由で、自分の可能性を揺るがせられたりはしない。一方的に尊重されているだけでなく、そういう人たちのほとんどは、逆に T's の側から見ても大切な人であることが多い。つまり自分たちもまた、そういう人たちに自分の生を支えられて生きているのである。T's は自分たちを「マイノリティ」とか「弱者」といった言葉で正当化したり、自分たちの要求を主張するだけでなく、このことを常に念頭においておく必要があるだろう。

 いずれの場合にせよ、具体的なことは何も言えなかったが、悩みが解決するという可能性は常にある、ということを忘れないで欲しい。なぜなら、いずれの例にしても本人が「なんとかしたい」と思っているからである。これは逆にいえば、他人から見てどんなに大きな問題であっても、本人がそれを問題だと思っていなければ解決しない、ということである。

例えば、TS に対する精神療法で、TS の性自認を身体の性別に合わせて変更しようとしたら、まず失敗する。なぜなら、TS の意識にとっては「自分の性自認」が問題なのではなく、「性自認に合わない自分の身体」が問題だからだ。本人が問題だと思っていないものを「解決しましょう」といっても、そもそも治療として成立するはずがない。治療の(問題解決の)前提を欠いているからである。この点でも、身体の疾患とはまったく異質なのだ。

 ここでいう問題とは、自分の「心」と自分自身との折り合いの悪さということである。対人関係でも、折り合いの悪い人との関係をなんとかしようと思ったら、その可能性を探り、解決のための努力をするだろう。悩みの解決には、それと同じような手順と努力が必要なのである。最初から「できない」と思い込んでいる人間が、そういう努力に取り組もうとするだろうか。まして単なる比喩でなく、いずれの悩みの例も、現に結婚している「妻」やこれから付き合うであろう女性との関係を問題に含みこんでいるのである。

L.Jin-na


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