神名龍子
最近、一部でまた TS や TG の戸籍上の性別訂正についてのある意見を見受けるようになった。その一つは論争という形で現在も継続中だが、なぜいまだにこんな問題で論争が続くのか不思議である。もちろん、この論争に関わるすべての人たちに問題があるわけではなく、問題はその中のごく限られた一部の者(この場合は下記にいう「共闘至上主義」に相当する)の認識にある。
ここで問題になる、「戸籍上の性別訂正についてのある意見」とは何か。性同一性障害に関わる戸籍上の性別訂正における、その条件はいかにあるべきか、という問題である。
この条件の中に「SRS の終了」が含まれる場合と、含まれない場合とについて考えてみる。ごく常識的に考えれば、前者の方が国民的コンセンサスを得られやすいのは明らかである。例えば MTF の場合でいえば、SRS 未了の「男性器を持つ者」を、社会的に女性として認めろというのは無理がある。そうである以上、これを法的に女性として認められるということも考えにくい。法制度と社会の実態や通念との間に、乖離を引き起こすからである。どう考えても、これは少なくとも現在のところ、実現可能性はなきに等しいといっても過言ではないだろう。
しかし一部からは、これに反対する声も挙がっている。この意見をあえて大別すれば、
| 1. | SRS の終了を戸籍上の性別訂正の条件とする事に、最初から反対する主張。 |
| 2. | 戸籍上の性別訂正の条件に SRS の終了を含ませる事は「とりあえず」やむをえないが、TS はそれによって自己の目的を達した後も引き続き、この条件(SRS の終了)の廃止のために共闘しなければならないとする主張。 |
の2つに分けられるだろう。仮に、前者を「一括実現主義」、後者を「共闘至上主義」と呼ぶことにする。両者は、戸籍上の性別訂正の実現について「段階的な手順を認めるか認めないか」という点で異なるが、「戸籍上の性別訂正に関するあらゆる運動について TG と TS は常に不可分な関係にある」とする点で共通している。
私の考えでは、この2つの主張はいずれも間違っており、そのことはかつて「52. 戸籍上の性別訂正について」の中でも述べた。これは今年3月の「GID研究会」において、「TSとTGを支える人々の会」から「SRS を受けていない人の戸籍変更も認めよ」という要求があった、それに対する反論として書いたものである。私は今回これについて、より詳細に述べなければならない。
当然のことながら、様々な問題の中には比較的にその解決が容易なものもあれば、解決が困難ないし不可能なものもある。したがって、あらゆる問題を一挙に解決する事を求めれば、それは現実には「いかなる問題も解決されない」ということに帰結せざるを得ない。つまりこのような主張は、より実現可能性の高い「SRS の終了」を条件とする戸籍訂正を、「戸籍訂正は望むが SRS は望まない」とする TG の存在が阻害している、ということになる。
これについては上の論争とは別に、次のような主張がある。
| ただ、立法となると、これは国民一般に適用されるものであるから、仮にガイドラインオペのTSに限定されるようなことがあれば、外れる人を次に改正がなされるまで排除してしまうことになる。この場合は、他の性マイノリティ(同性婚という意味でゲイも関わる)も含めた幅広い合意形成が必要になることはいうまでもない。 |
これは時々「Visitor's Room」に投稿を頂く、真樹子さんのホームページ(Makiko T's Forum:http://homepage2.nifty.com/mtforum/)に本年11月に掲載されたばかりの、「性マイノリティとTSは手を結べるか」(その後削除されている)の最後の「付記」からの部分的引用である。
ちなみにこの記事の本文部分については、私は、
等の理由から、(全面的には同意できないまでも)一読の価値のある論考だと思っている。しかし、上の引用部分に対してはまったく同意し難い。
そもそも、SRS の終了という条件から「外れる人を(…)排除してしまうことになる」という主張がおかしい。そういう人たちの既得権が失われるというのなら問題だが、現在は、SRS の終了という条件を満たしている人も、そうでない人も、共に排除されている状態にある。つまり SRS の終了という条件から「外れる人」は、SRS の終了という条件によって排除されるわけではなく、単に排除されている現状が続くに過ぎない。したがって、このような条件付けが「外れる人を(…)排除」するというのは、率直な感想としていわせてもらえば、言い掛かりでしかない。やや表現を和らげて言い直せば、これはあくまでもロジカルに作り出された問題であって、現状にそぐわない問題提起なのである。
上の引用のような形での問題提起は、古くから社会運動の体質になっている「罪悪感強迫」の形を取っている。平たくいえば「こんなに気の毒な人がいるのに何とも思わないのか」とか「君達は自覚がないままに差別者の立場に立っている」というのと同工の古典的な手法なのだ。だが、このような罪悪感強迫に応じなければならない義務は誰にもなく、ましてやそういう押し付けを行なう権利が誰かにあるわけでもない。
SRS の終了という条件を満たす TS が戸籍訂正を認められたとしても、そのTS が規定条件から「外れる人を(…)排除」するわけではない。また、そのような立法が行なわれたとしても、それは現状から見れば「条件の緩和」でこそあれ、誰かの既得権を奪うわけでもない。
現在の日本社会の一般常識に照らして考えれば、SRS を終了していない人、例えば MTF であれば、「男性器を持つ者」を社会的に女性として認めろというのは、無理がある。むろんこれは程度や範囲の問題でもあって、そのような条件にあっても一定の交際範囲の中で「女性」として見てもらえるということは、充分にあり得る。しかし、そういった範囲を超えて無条件に(相手や場所、状況を問わず)女性として認めるような社会にはなっていない。そうである以上、法的にも「男性器を持つ者」を女性として認めることはできないだろう。そうでなければ、法制度と社会通念の間にはなはだしい乖離をもたらすことになる。
簡単にいえば、SRS を終了しているか否かという違いは、社会的に「女性」(MTF の場合)として認められやすいかどうかという点にも、違いをもたらしている。したがって、SRS の終了を戸籍訂正の条件から外すという主張は、それだけ戸籍訂正の実現を難しくする主張になってしまう。このような主張は、SRS の終了という条件を満たしている TS にとっては、戸籍訂正の実現にストップをかけるものとしか受け取られないだろう。
このような主張をする以上、せめて論者の考える条件において、いかに社会的コンセンサスを成立せしめ得るかという現実的・具体的な方策を示す義務がある。それが説得力を持つものとして容れられる限りにおいて、上に引用したような主張も説得力を持ち得るからである。
逆にいえば、そのような方策の提示が出来ない状態で、戸籍上の性別訂正が「ガイドラインオペのTSに限定される」ことに反対し、この反対意見を認めろというのは、「説得はしないが納得しろ」というのと同じことであり、あまりに無責任な態度ではないだろうか。
改めて書いておくと、この「共闘至上主義」とは、
のことをいう。上の「一括実現主義」にも共通することだが、この考え方の背景には「マイノリティの連帯」というドグマがある。この「マイノリティ」という言葉は論者によって、
といった定義の差異が存在するかもしれない。しかし、「共闘」あるいは「連帯」の動機というものがまともに考えられていないという点では、同じことである。マイノリティは、ただマイノリティであるというだけで共闘しなければならないというのが、共闘至上主義の共闘至上主義たるゆえんである。
ところが実際には、多くの TS は主観的には自分を「セクシャル・マイノリティ」だとは考えていない。いささか同義反復気味の説明になるが、自己を性自認の性別で捉えており、その意味では、MTF の場合には単に「女」だし、FTM の場合には単に「男」なのである。彼/彼女達が感じているのは、性自認に対する違和感ではなく、身体(の性別)に対する違和感だという事を忘れてはならない。したがって元来、TS に対しては「マイノリティ」あるいは「セクシャル・マイノリティ」の共闘や連帯といった概念自体が、受け容れられにくいものになっている。
また、どのような運動(社会運動)であれ、それは自分自身の意思によって参加するということが基本原則である。あなたはマイノリティですから、私達の運動に参加しなければなりません、などという権利は誰にもない(従来のマイノリティの理論は、そのほとんどが運動理念として用意された理論であったために、こういう基本的なポイントが押さえられていない)。この個人の自由意思による運動参加、あるいは運動の発足という観点から考えてみよう。
TS と、戸籍訂正を望む TG (以下、単に TG という)とでは、言葉の上では同じ「戸籍訂正の実現」を目的としているが、しかし、その実現の可能性には社会通念に起因する大きな開きがある。
| # | ただし、これは前述の通り、SRS を終了しているか否かによる違いだから、TS であっても SRS より以前に戸籍上の性別を変えたいと考える場合には、TG と同様の困難が待ちうけている。しかし、ここではそのような例外的な欲望は捨象して、SRS を望まないがゆえに SRS の終了という条件を満たせない 「TG」と、「SRS を終了したTS」との比較という形で考えることにする。SRS が未了といえども SRS の後に戸籍訂正をしようと考える TS は、後者に含めて考えてもよいだろう。 |
上に述べたように、「一括実現主義」は不可能だし、TG の戸籍訂正が、SRS を終了した TS よりも先に実現することは、なおさらありえない。となれば、TG の戸籍訂正の実現過程において、その途中に TS の戸籍訂正の実現が位置することになる(TG の戸籍訂正よりも TS の戸籍訂正のほうが先に実現する)。これは TS のみならず「共闘至上主義」においても容認される予想である。
そして、ここまでが TG と TS とが手を組む事の出来る範囲である。なぜなら、それは TG にとっては自己の目的の達成に必要な通過点とみなされるからであり、TS にとっては自己の目標そのものだからである。両者はそれぞれ、自分がその実現を目指す動機を持つ。したがって、この時点では TG と TS と、そのいずれにおいても、「運動は自分自身の意思によって参加する」という基本原則から外れない。問題はその後である。
TS の戸籍訂正の実現の後、戸籍訂正の条件緩和(条件からの「SRS の終了」の除外)を目的とした、TG による運動が始まることになる。この運動において、TS には参加の動機がない。もちろん、個人的にこの運動の「支援者」となる TS はいるかも知れないが、少なくともこの段階において TS は既に「当事者」ではない。逆にいえば、この段階で当事者性を問われるのは、TG の内の戸籍訂正を望む人達に限られるのである(当然だが、TG のすべてが戸籍訂正を望んでいるわけではない)。
したがって、この段階では TS には運動への参加義務はなく、運動に参加しないことに対してそれを責めるような正当な理由も存在しない。
「共闘至上主義」者が、この段階でも TS に運動への参加義務があり、運動に参加しない TS を責める事に正当性があると考えるのは、あくまでも彼らが「マイノリティの連帯」というドグマに立脚しているからである。しかしこの「マイノリティの連帯」というドグマが、そもそも「共闘至上主義」の間でしか共有されておらず、それは一般的な正当性を確保していない。なぜなら、このドグマは「運動は自分自身の意思によって参加する」という基本原則とは、二律背反の関係にあるからだ。「共闘至上主義」のドグマは、近代の根本である「自由」(自由意思、自己決定)と相容れない思想であり、それゆえに、むしろファシズムやスターリニズムへとつながっている。
要するに、TS と「共闘至上主義」との間に見られる意見の齟齬は、この「マイノリティの連帯」というドグマの有無に起因しているのである。この場合のドグマは、思考の前提と言い換えてもよく、この前提が共有されていないために意見対立が起こっている。「運動は自分自身の意思によって参加する」という基本原則を考える限り、正当性を持つのは TS の側だと考えざるを得ない。
あるいはこのドグマを背後に隠して、次のような言い方をする者も出てくるかもしれない。曰く、「これまでは TG が TS に協力したのだから、今度は TS が TG に協力しなければならない」と。しかし、これは協力関係のバランスシートにおける誤魔化しである。
TG は、自分にとって何の意義もない事に協力したのではなく、それが自分自身のためでもあるから TS と協力関係を結んだのである。繰り返すが、「一括実現主義」は不可能だし、TG の戸籍訂正が、SRS を終了した TS よりも先に実現することは、なおさらありえない。したがって、TS の戸籍訂正の実現は、TG の戸籍訂正の実現のために踏むべき手順という意味を持っている(だから、共闘至上主義者が段階主義を取ること自体は正しいといえる)。したがって、TG の TS に対する協力は、自分たちのためでもあり、だからこそ自分たちがそこに参加する動機を持ったのであって、決して TS に対して恩を売るような性格のものではない。そして、TS の戸籍訂正の実現以降、TG の戸籍訂正の実現に至るまでの過程は、TG に固有の問題領域なのである。
過去数年間の、いわゆる自助グループの動向を振り返って見ると(私は地方の活動には詳しく目を通していないので、以下はあくまでも東京の話として展開するが)、活動の中心が TS に偏っていたことは否定できない。正規の医療としての SRS 実現のための働きかけなどは、その典型といえるだろう。では、そこに参加して、自分とは直接関わりのない SRS 実現に向けての動向に一喜一憂していた TG はいなかっただろうか。そうではあるまい。私が見聞した範囲でも、そこには私自身も含めて多くの TG が、自分の意志で参加していたはずなのである。
そして当時は、戸籍訂正の問題はまだ漠然としたもので、ここで取り上げているような、戸籍上の性別訂正の条件などといった具体的な話は出ていなかったはずである。したがってあの当時には、ここでいう「共闘至上主義」は存在しなかった(別の意味での、セクシャル・マイノリティの連帯を主張していた人はいたが)。
それは、TG が自分達 TG に固有の問題を考えてこなかった、ということである。もちろん現在のところ、私のように戸籍訂正の意思のない TG にとっては、それが特に問題として意識されることはない。しかし、戸籍訂正を望む TG については、今になって過去の怠惰のツケが回って来ているといってよい。
かつて、いかにマスコミが「性同一性障害」を取り上げようとも、その大半は事実上、TS に関する問題だった。なぜならそれは「性転換手術の実施」がニュースバリューを持つがゆえに起こった現象だったからである。しかし、TG は、それを自分達にとっても追い風が吹いていたかのように錯覚してしまった。実際に、いくぶんなりとも追い風として機能した面もないではなかったが、少なくともそれを過大評価していたのである。実際には、追い風(の大半)はTG を避けて吹き去ってしまった。そしてこの錯覚のために、TG は自分達に固有の問題を考えることを怠り、「自助」という事を忘れたのである(ちなみに TV は当時、幸か不幸かそこからさらに離れたところにいたため、かえってこの手の錯覚にとらわれることが少なくてすんでいる)。
戸籍訂正を望む TG が今になって TS を責めたり追いすがったりするのは、自分達にも吹いていたと思われた「追い風」が実は自分達を避けて吹き去っていったという事を、直観的にでも自覚し始めたからである。ふと気がつくと、一緒に追い風を受けていたはずの TS が自分達の遥か前方に位置していることを知って愕然とし、錯乱状態に陥ったといってよい。今回取り上げた「一括実現主義」も「共闘至上主義」も、いわばその症状として現れている。
下世話な表現をすれば、現在の TS と戸籍訂正を望む TG との関係は、破綻した男女関係に似ている。TS は TG との関係を維持することを必ずしも必要と感じていないが、TG の側はなんとか捨てられまいとしてヒステリックになっている。しかしそのヒステリックな態度を見れば見るほど、TS にとってはそれがますます鬱陶しく感じられるようになり、気持ちが冷める一方だろう。
これは同時に、戸籍訂正を望む TG の自立能力の欠如を現しており、さらにその原因を探れば、前述の通り TG が自分達に固有の問題を考えることを怠り、「自助」という事を忘れたことにある。今、戸籍訂正を望む TG に必要なことは、TS を相手に「悪女の深情け」を演じることではなく、自分自身を取り戻すことである。あらためて、自分自身の問題を内面から取り出して、よくよく見据えてみるより他に手段はない。ただし、実際に戸籍訂正を望む TG がそのような回復能力を持ち合わせているかどうかについては、私にはただほのかな期待があるばかりで、今のところ確信が持てずにいる。
