60.戸籍にまつわる反論

神名龍子


 前回の、『59.戸籍にまつわる TS と TG の蜜月破綻』に対して、真樹子さんの反論、『囚人のジレンマ−−戸籍訂正問題に関して』http://homepage2.nifty.com/mtforum/gk010.htm)が彼女のHPに掲載された。以下、これに対する反論を試みることにする。

 もっとも、そこで述べられていることのすべてに対して異論があるわけではない。これは、彼女の反論が私だけに向けられたものではなく、私が前回名付けたところの「共闘至上主義」に対する批判にもなっているからで、その部分に対しては(批判根拠も含めて)むしろ肯定的に評価したい。


1.TG は「排除」されるか

 戸籍訂正要件に SRS を含めることはその条件から「外れる人を排除」するという意見について、今回の反論文では次のように補足されている。

戸籍訂正問題に関しては、性別適合手術の点でTGの利害が絡む。あくまで法文上の話であるが、現行法において性別適合手術を経ないTGの性別表記訂正を否定する規定はない。現時点において現実に認められる可能性は限りなく小さいが、TGも戸籍法113条に基づく訂正許可申し立ては可能である。この点、手術を要件とするいわゆる性転換法を立法するなら、TGの請求適格は明確に否定される。(この点、神名氏の「『外れる人を排除』というのは言い掛かりでしかない」と言っているのは、誤りである)

 仮にそうなったとしても現在と同様、TG による戸籍法113条に基づく訂正許可申し立てが可能であることには変わりはない。「手術を要件とするいわゆる性転換法を立法するなら」、TG に不可能なのはあくまでも「性転換法に基づく訂正許可申し立て」である。なぜ、性転換法の制定によって「戸籍法に基づく申し立て」までもが「TGの請求適格は明確に否定される」と考えるのか。

 そもそも両者は、手続きとしては別物のはずである。「手術を要件とするいわゆる性転換法」が出来たからといって、いや、性転換法に限らずいかなる法律であっても、TG が自分の必要を司法に訴える機会までも奪えるはずがない。そんな立法が可能かどうか、常識的に考えればわかる問題ではないだろうか。申し立てが認められるかどうかは別にして、申し立てそのものが出来なくなると考えるのは杞憂に過ぎない。

 ちなみに私は、性転換法を根拠をした戸籍訂正は、司法ではなく行政機関による判断を想定している(真樹子さんとはこの想定が違っているのかもしれない)。また、戸籍法には、いかなる戸籍訂正も司法の判断を必要とするとは定められていない。性転換法を根拠をした戸籍訂正は、戸籍法113条にいう「違法な記載等の訂正」でも、114条に言う「無効な行為の記載の訂正」でもないから、既定の司法権を侵すことなく、行政権による業務として新設が可能なはずである。


2.性別訂正と同性婚は別のカテゴリの問題であるということ

 また、既婚者に性別表記の訂正を認めると、同性婚が発生することから、この扱いをめぐってゲイ・レズビアン・バイセクシュアルの利害も関係する。(同様に、「性別訂正と同性婚は別のカテゴリの問題」としているのは、いかにも神名氏の不勉強ぶりを示すものである)

 念のために繰り返しておくと、戸籍訂正に関する私の主張はあくまでも段階論であり、認められる要件の揃った人たちから順次救済されるべきだ、というのがその要旨である。SRS をその要件として挙げるのも、あくまでもこれが早期に社会的コンセンサスを得やすい条件だからである。

 「既婚者に性別表記の訂正を認めると」というが、私の段階論では、そもそも既婚者も初期段階での対象として考えていない。このような非現実的な想定を無条件に示してしまうあたりが、私が彼女の態度を「一括実現主義」と呼ぶ所以なのである。

 これは現実的に考える限り話が逆で、「既婚者に性別表記の訂正を認める」ための条件として、まず「同性婚」が社会的に認知されていることが必要なのだ。つまり、「既婚者に性別表記の訂正を認める」ことが実現した段階では、既に「同性婚」が認められていると考えるべきなのである。

 もし、上に引用したような想定を堅持したいのであれば、「既婚者に性別表記の訂正を認める」ことや「同性婚」について、これが早期に社会的コンセンサスを得られると考える根拠を示してもらいたい。もしくは、「同性婚」が社会的に認知されていない社会状況において「既婚者に性別表記の訂正を認める」ような性転換法が制定されると考える根拠を示してもらいたい。


3.「囚人のジレンマ」について

 「囚人のジレンマ」の寓話をご存じであろうか。もとは「ゲームの理論」から導き出されたものであるが、共犯者である囚人Aと囚人Bが、別々の独房に収監されている。ここで、捜査官は相手が犯罪を犯したことを証言すれば、解放してやると、司法取引(米国の話である)をもちかける。AB共黙秘を貫けば両者無罪、Aが「やったのはBだ」と証言すれば、Aは無罪でBは有罪、Bが「やったのはAだ」と証言すればAは有罪でBは無罪、しかし、AもBも「やったのはB」「やったのはA」と言えば、共犯が立証され、両者有罪。

 「囚人のジレンマ」がゲーム理論における有名な類型なのはその通りだが、まずその説明が違っている。ゲーム理論はコンピューターの分野から出てきたもので、コンピューターに戦略を扱わせる目的があったからで、「有罪」か「無罪」かの2文法の枠内で考えていては使い物にならない。少なくとも4種類の数字を必要とし、その数値の関係にも条件がある。もっとも、これは社会学などで使われてる内に、どこかで話が歪んだのかもしれない。だからこの間違いは必ずしも彼女のせいではないかもしれず、今回は指摘しておくに留めておく。

 問題は TSTG の関係を、本当にこの「囚人のジレンマ」というゲーム類型で捉えることに妥当性があるのかという点にある。上の引用を見てもわかる通り、「囚人のジレンマ」ではAもBも同じ条件に置かれている。この条件がなければ「囚人のジレンマ」は成立しない。

 TSとTGのコミュニティが分裂した今日においては、両者は別々の独房に入れられた囚人である。法律上の性別が性染色体によって決まるとされる今日においては、世間から見てどちらも罪深き性マイノリティと見られている。わずかに、TSは外性器が世間並みに変わっているという罪状の軽さに望みをつなぐばかりである。ここで「TGは恥ずべき変態だ」「TSは性マイノリティの裏切り者だ」とやりあえば、両者有罪である。

 実はこの引用箇所のすぐうしろに、「今や1990年代のような、ナイーブな性マイノリティの連帯は幻想でしかない」と書かれているのだが、私から見れば、TSTG とが全く同じ条件に置かれているとする、この意見もまたナイーブな「平等」幻想に過ぎない。いや、TSTG だけではなく、TS の中でさえ、個々人の置かれた条件は異なっている。例えば既に述べてきたような、SRS に関するポストオペプレオペ、あるいは既婚者と独身者などもこれに当たる。

 ゲーム理論が戦略に関わるものだということは、既に述べた。「囚人のジレンマ」では、AとBは同じ条件に置かれているから、両者に共通する「最適戦略」というものがある。だが残念ながら、TSTG とは、現在そのような対称的な関係にはない。「TGは恥ずべき変態だ」「TSは性マイノリティの裏切り者だ」とやりう必要はない(つまりそれは私から見ても確かに、いずれの側においても拙い選択なのである)。このゲームには「囚人のジレンマ」と違って、「協調」と「裏切り」の他に「無視する」という第3の選択肢がある

 ここで、TG 側の選択が TS にどのような影響を与えるかを見てみよう。

  1. TG が「協調」を選択した場合、つまり戸籍訂正の実現に向けた協力を TS に申し入れた場合、それが「SRS を要件に含めない」という主張である限り、かえってポストオペTS の戸籍訂正の実現は遠のくからマイナスである。

  2. TG が「裏切り」を選択した場合、つまり「TSは性マイノリティの裏切り者だ」と非難したような場合、これもいうまでもなく TS にとってはマイナスである。

  3. TG が「無視する」を選択した場合、TS は独自の運動展開が出来る。

 「TG=協調」では、TG が段階論を認めた場合にのみ TS にとって有益である。つまり TS 側にも「協調」を選択する動機が生まれる。そうでなければ「無視する」を選択するのが賢明だろう。強いていえば、TG が強硬に「SRS を要件に含めない」という主張をした場合に限り、TS 側にこれと争う動機が生じる。
 「TG=裏切り」の場合、これも TS 側は「無視する」が最適の選択である。
 「TG=無視する」なら、なおさらのこと TS 側には「協調」も「裏切り」も選択する動機がないから、やはり「無視する」になる。

 つまり、「TG=協調」では、TG が段階論を認めた場合にのみ TS 側にも「協調」を選択する動機が生じるのであって、それ以外の場合にはすべて「無視する」を選択するのが正解なのである。では、TG の側にはこのような条件があるかというと、ない。理由は簡単で戸籍訂正に関する限り、TSTG とではゴールまでの道のり(社会的コンセンサスの得やすさ)が異なるという、非対称性を背負っていたからだ。この非対称性ゆえに、TSTG との間には「囚人のジレンマ」は成立し得ないのである。


4.「考える」ということ
 神名氏は地方の運動は目を通していないということであるが、私としてはこのような環境から出発したことを明記しておく。そこで「TGが自分たち固有の問題を考える」ことは、当初より当たり前のことと考えられていた。もっとも、TGは女性器をもつ男性であったり、男性器を持つ女性であったりするため、従来の性別二分法からは逸脱している。この点、従来の性別二分法の枠内でしか物事を見ない神名氏には理解不可能ということなのであろうが、独自の思想の萌芽があったことは指摘しておく。

 私の前回の指摘に対して、「TGが自分たち固有の問題を考え」ていたのだといいたいらしいが、それでどのような成果があったというのだろうか。もちろん、ここで「どのような社会の変化があったか」ということまで要求するつもりはない(それは今の段階では「ないものねだり」であろう)。しかし、「独自の思想の萌芽」が遅くとも3年前(98年)に見られたにも関わらず、現在、真樹子さん自身が問題視しているような状況が現にあるではないか、といいたいのである。そもそも前述のように、安易に「囚人のジレンマ」を持ち出すこと自体が、TSTG との非対称性をまともに認識しているとは、私にはどうしても考えられないのだ。

ただし、「いかにして現在の TSTG との関係を『囚人のジレンマ』に移行して行くか、そのための条件は何か」ということであれば、これは考察に値するテーマとなり得るだろう。「囚人のジレンマ」という類型を持ち出すことそれ自体が悪いのではなく、あくまでも「持ち出し方」の問題である。

 手前味噌になるが、98年といえばその初頭には、この『ジェンダー素描』もまた「萌芽」の状態だった。当時の私は、現象学どころかいかなる西洋哲学もまた独学を始めたばかりだったが、それでも3〜4年も続けていれば、少しばかり(本当に少しだけど)人目を引くくらいにはなるのである。どう考えても、私が 人より優れた才能の持ち主だとは思えないので、おそらく誰でも地道に続けてさえいれば、独力でもこの程度には至れるはずである(もっと先に行く人もいるかも知れない)。

 なお、お断りしておくが、私自身は「従来の性別二分法の枠内でしか物事を見ない」わけではなく、必要なら性別を相対化出来る視点も持ち合わせている。問題はその「必要性」にある。再度繰り返すが、私の段階論は、常に社会的コンセンサスを考慮した結果として提出している。その社会的コンセンサスが「性別二分法」で成り立っているから、それを前提に繰り込んでいるに過ぎない。

 それがいけないというのなら、「性別二分法」ならざる社会的コンセンサスの成立を実現するような、具体的・現実的なビジョンを示して欲しい。そして、もしそのような社会が実現することがあれば、私も自分の思考の前提の枠組みを変更することに何の躊躇いも持たないだろう。

L.Jin-na


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