61.戸籍にまつわる反論・2

神名龍子


 真樹子さんのホームページ(Makiko T's Forum:http://homepage2.nifty.com/mtforum/)に23日未明、前回の「60.戸籍にまつわる反論」に対する反論が掲載された。その内容については、具体的には直接に反論文、『性別の法的基準について』http://homepage2.nifty.com/mtforum/gk011.htm)を見ていただきたい。かいつまんで言えば、この反論の内容は従来と同様、「性転換手術の終了を戸籍上の性別表記の訂正の条件とする」という案の否定である。そこでは具体的に私が名指されているわけではないのだが、

 もちろん、性別適合手術を済ませた者の立場からすれば、外性器の転換は済ませているのであるから、性別の法的基準が外性器に求められても、問題はない、ということであろう。しかし、内性器や性染色体などは、依然もとの性別のもののままであり、外性器の存在がなぜ特権化されなければならないか、十分な説明がなされているとは言い難い。言い換えれば、戸籍訂正の要件に手術を必要とするとする論者は、自ら否定したい解剖学的な意味での性別や、自らの望む心理学的な性別をさておいて、外性器の形態に基づいて性別を決定すべき、ということの積極的な理由を示す義務がある。

とある以上、私もここにいう「義務」の遂行を求められる者に含まれているのだろうと判断した。

 確かに私は、「性別」の法的根拠を染色体に求める司法の判断に対して批判的、というよりも、はっきりと否定的な立場を取っている。それは具体的には、例えば『52. 戸籍上の性別訂正について 』『55. 戸籍訂正は「可能性」の要求である 』などにおいて述べていることである。

 真樹子さんの主張としては、法律上の性別の根拠を染色体に求めるのも、性転換手術の結果としての外性器に求めるのも、どちらも身体に根拠を置く考え方だとして批判している。そして彼女は、法律上の性別の根拠を「心理的・社会的性別」に置くべきだと主張する。今回はこれに対する私からの反論を展開する。


 まず最初に確認しておかなければならないことは「心理的性別」と「社会的性別」は、その意味がまったく異なるということである。私の考えでは、おそらく彼女は「身体的性別(セックス)」ではなく、「心理的・社会的性別(ジェンダー)」を法律上の性別の根拠にせよといいたかったのだろうと思う。だが、「心理的性別」と「社会的性別」とは必ずしも一致しないし、性同一性障害の当事者はそのことを自分の体験としても熟知しているはずなのである。

 彼女のいう「心理的性別」とはおそらくは性自認を指しているものと思われる。性自認(心理的性別)とは「自分の性別が何であるかについての主観的な認識」を意味する。これを、法律上の性別の根拠にしろというのは結局は、「戸籍に記載される性別をまったくの独我論で決定できるようにせよ」というのと同じことだ。だが、このような考え方は彼女自身も、

さらに、私としても現時点で性別表記の全面的廃止や、あるいは(私はこの立場には与しないが)完全自己申告による性別表記の変更は困難と考えている。

と書いているように、きわめて現実味に欠ける考え方である。少なくとも私達の思索が「戸籍上の性別表記の訂正の実現」を目的としている以上、このような考え方に組することが出来ないのは当然である。

 片や「社会的性別」とは、「彼/彼女」が属する社会において「その性別が何であるかについての間主観的な認識」を意味する。したがってここでは、一般に人々が「性別」をどのように捉えているかということを考えなくてはならない。ところが、これについてもやはり彼女自身が、

デファクト・スタンダードである外性器という基準が「民意の反映」である、という立論には頷ける。

と述べているのである。そして、これは私が「染色体主義」を否定し、「性転換手術の終了を戸籍上の性別表記の訂正の条件とする」と主張してきた理由そのものでもある。私は、法律上の性別の根拠を「身体」に置けといっているのではなく、「社会的性別」を根拠にせよと一貫して言い続けてきた。そして、さらに掘り下げて考えれば、誰でも「身体」が「社会的性別」の根拠の一つであることに思い当たるだろう。それが、「デファクト・スタンダードである外性器という基準が『民意の反映』である」ということの意味なのだ。

 「自ら否定したい解剖学的な意味での性別や、自らの望む心理学的な性別をさておいて、外性器の形態に基づいて性別を決定すべき、ということの積極的な理由」とは、このことに他ならない。人は、日常生活レベルにおいて、他人の性別を染色体で判断したりはしないし、相手の主観的・独我論的な性別とは異なる判断をする事もある。上の引用にいう「デファクト・スタンダード」こそが、私の主張の根拠である。このことは過去に何度も繰り返してきたはずだ。

 従来、フェミニズムにおいては、性別という概念を「身体的性別(セックス)」「心理的・社会的性別(ジェンダー)」とに分類し、両者の間には何の関係もないということをドグマとしてきた。しかし、少しでも近代哲学の知識のある人ならば、これがデカルトにまで遡る身心二元論(実際には肉体と魂など、近代以前にもこのような考え方があるが)のバリエーションに過ぎないことに気がつくだろう。身体その他の物質は自然科学の視点で照らせば解明できる。少なくとも、解明可能だと考えられている。しかし、精神や制度を自然科学で解明することは出来ない。そのため、両者が別々の原理に立脚する、全く本質的に異なる領域に属するものと考えられてきたのである。しかしそれでは、なぜさまざまな時代や文化において「心理的・社会的性別」である「男性/女性」の区別が、「身体的性別」である「男/女」の区別と同じように二分制を取るのかということは説明できない。また、この「関係のない」はずのセックスジェンダーという2通りの分類において、「男」と「男性」、「女」と「女性」とがほぼ重なり合うという現実を説明することもできない。この問題は、これまで何度も述べてきた通り、あくまでも認識論的に捉えなければ解明が不可能なのである。

 逆にいえば、「性転換手術の終了を戸籍上の性別表記の訂正の条件としない」という主張をするためは、あくまでもセックスジェンダーとを無関係なものとみなさなければならないし、そのためには古典的な身心二元論に立脚しなければならないということになる。だが、このような考え方が一般常識に反していることは、上に述べた通りであり、したがって、「民意の反映」からは程遠いものだといわざるを得ない。

 私が、「性転換手術の終了を戸籍上の性別表記の訂正の条件とする」と提案している理由をもう一度、簡潔に述べておこう。

  1. 法律上の性別の根拠は「染色体主義」によらず、社会生活上の性別に置くべきである。
  2. 法律上の性別は、戸籍等に記載される公的なものである以上、単に主観的・独我論的な性別ではなく、社会的な妥当性を確保している必要がある。
  3. したがって社会一般において日常生活上、「性別」がどのような基準の下に判断されているかということが考慮されなくてはならない。
  4. その判断基準の一つとして、外性器の形状を除外することは出来ない。

ということである。もちろん、「単に主観的・独我論的な性別ではなく」とはいっても、性自認が全く関係ないといっているわけではない。それと同時に、私は決して外性器の形状だけを条件として考えているのでもない。そもそも私が主張しているのはあくまでも段階論であり、最初は正式な医療行為(=ガイドラインに則った)として SRS に至った人の戸籍訂正を考えているのだから、「その治療過程において性自認が元の身体的性別と異なっていることは確認済み」ということも織り込んでいる。もちろん、SRS が治療上やむを得ず必要であったことや、社会生活を性自認の性別で支障なく送れることなどについての確認も、ここに含まれていることは、ガイドラインが示すとおりである。

 そして、その次にはいわゆる「ヤミ」で性転換手術を受けた人や、海外で(日本で公的に認められ得るような診断を経ずに)手術した人を考えている。この場合には順番は逆になるが、改めてジェンダーっクリニック等に通い、「この人ならばガイドラインに則った治療を受けたとしても SRS に至ったであろう」と判断されることが必要と考える。これらの条件を満たすことによって、正式な医療行為としての SRS を受けた事例に「準じて」扱われるべきと考える。

 しかし、このような手段をとることは、性同一性障害の自己否定につながりはしないか。性同一性障害である状態とは、繰り返すが、心理的に認識される性別と、解剖学的な性別が一致しない状態のことをいう。そして、大多数の性同一性障害をもつ者は、いわゆるTS・TGの区別に関わらず、心理的な性別に沿って生きることを望んでいる。この点、当事者の側から、性別の基準は外性器により決定される、と主張することは、この願望との間に矛盾をきたすことになる。

とう主張もあるが、しかし、私は「性転換手術の終了を戸籍上の性別表記の訂正の条件とする」という案を、決して当事者の自己否定とも矛盾とも思わない。確かに性同一性障害は「心理的に認識される性別と、解剖学的な性別が一致しない状態」をいう。その中でも特に TS は重大な身体違和を抱えるから、身心の性別の不一致を無視するわけにはいかない。

 しかし、性同一性障害一般について語る場合はともかくとして、具体的に「戸籍の問題」について考える場合、これは「身心の性別の不一致の問題」なのではなく、「性自認と、他者からの認識との不一致の問題」なのだTSTG も、他者から性自認の性別で扱われることを望んでいる。戸籍は、身心の不一致の問題ではなく、自他の認識の不一致に根ざした要求である。そうである以上、戸籍訂正に先だって、まず他者から性自認の性別で認められること、MTF であれば「女性」と判断されるに足りる要件を備えている必要があることは、当然である。戸籍に何と書いてあろうと、それだけで他者から性自認の性別で扱われることはありえないからだ。

 なぜ、戸籍訂正において他者の認識が問題となるのか。上に述べた通り、これが他者との関係を前提とした問題だからである。もちろん、本人の意思に反して戸籍上の性別を変えられてはたまらないから、ここでは本人の意思、いわば自己決定という事も要因の一つではある。しかし、決してそれが要件のすべてなのではない(つまり戸籍上の性別は性自認のみによって決められるものではない)。他者との関係を、主観的・独我論的な視点からのみ考えることは出来ないからである。


 以上に述べたことは、真樹子さんも実は承知しているはずである。その上で彼女はあえて、

 もちろん、このことは専門家や当事者のコミュニティはともかくとして、一般的に理解されている性別の基準とは、乖離があることは認めなければならない。そのため、この問題に関わる当事者や専門家、支援者の責務として、教育や言論活動を通じて、性別は解剖学的なそれでなく、心理的・社会的性別を基準として考えるべきであるということを広めることに関しては、努力を惜しむべきではない。立法に関する直接または間接の政治運動においても当然である。

と主張する。これは要するに、「デファクト・スタンダードである外性器という基準が「民意の反映」である」ことを認めた上で、「民意が間違っているのだ」と主張しているのと同じで、左翼によく見られる「前衛思想」と同型である。自分の意見が「民意」と合致しないということを悟った場合に、なおも自説を捨てることが出来なければ、誰しもこういう態度を取らざるを得ないだろう。平たくいえば、自分が真理を握っていて「過てる民」を導くのだ、ということだ。だが、これは思想としては極めて危険だといわざるを得ない。民意を無視した「正しさ」を、彼女は何を根拠に持ち出したのだろうか。

 彼女はこのような自説を補強するために、

 しかし、一方で、立法は将来のあるべき民意を先導する役割があることも見逃してはならない。現在でもなお、男性優位の社会構造はデファクト・スタンダードである。しかし、男女雇用機会均等法・男女共同参画社会基本法の制定をみて、これらの法規が将来のあるべき民意を先導していることを否定することは出来ない。

という例を引く。しかし、この事例は上の、一般的な性別の判断の例とは、話が全く異なっている(私は必ずしも男女共同参画社会基本法の趣旨には賛同できないが、それは今回のテーマではないから脇に置く)。

 確かに、現在の社会において「男性優位の社会構造はデファクト・スタンダード」という面があることは、私も否定しない。しかし、それだけをいうのは極めて一面的な見方である。男女平等の概念は、それが「法の下の平等」の範囲に収まっている限り、決して「将来のあるべき民意」なのではない。現在の日本社会は、「男性優位の社会構造」が「デファクト・スタンダード」になっているという一面を持つが、その反面、男女の「法の下の平等」に対するコンセンサスが存在しているということも、また事実だからである。

 「男女の『法の下の平等』」と、「男性器を持つ女性の存在」や「女性器を持つ男性の存在」とを、民意を基準として同等に扱うことは、私にはどうしても考えられないのだ。行過ぎたジェンダーフリーに対する反発は多々見受けられるが、しかしそれは「男女平等」の内実(具体的な在り方)の問題なのであって、現在においても「男女平等」という概念それ自体は決して民意に反するものではない。もちろんこれは私個人の感覚を述べているのだが、疑問があるなら、誰でも自分自身の感覚を問い直したり、周囲の人たちに聞いてみればよい。おそらく、私の実感とそう懸け離れた答えが返ってくることはなかろうと思う。

 もちろん、以上に述べたのは戸籍に関する問題だから、あくまでも「社会一般」というものを想定して書いている。不特定多数の人間に対して、どこの誰だか判らない人間が「男性器を持つ女性の存在」を認められるか、という問題なのだ。大方の回答は否定的であろうし、「男性器を持つ女性の存在」を認めることが「将来のあるべき民意」だと思う人も、「社会一般」を分母として考える限り、ほとんど存在しないだろう。

 最後に付け加えておくが、これが「社会一般」ではなく、限定された交友関係においてならば、また話は別である。この場合には当事者は、交友相手の視線の前では一般論としての T's としてではなく、あくまでも特定個人としての「この人」として存在しているからだ。このような限定された交友関係の中でなら、SRS に関係なく性自認の性別で認められることも充分にあり得るのである。

 実際にそれなら私でさえも可能である。過去にも、私が全く身体を変工していないことを承知で、一緒に入浴してもよいといってくれた女性達もいる(温泉旅行の際の話なので、他の入浴客のことを考えてこちらで遠慮したが)。ただし、これは決して「TSTG 一般」に対しての話ではない。これは私と彼女達との個的な関係の中で、彼女達が自発的に「私」を女性として受け入れてくれたその結果であって、法律上の性別とは全く次元の異なる話なのだ(もちろん私以外の、ある特定の TSTG とは一緒に入浴をしてもよいと考える女性が、私との入浴を拒否することも、当然あり得る)。

 けっして彼女達が、あらゆる「男性器を持つ女性」に対して、入浴を共にすることを承知したわけではない。また、そんなことが「将来のあるべき民意」だというのであれば、それは他者の気持ちを考慮しない一方的な押し付けでしかない。これは戸籍の問題とは別次元の問題であって、戸籍の問題とは不特定多数の人々に関わる問題なのだということを忘れてはならないのである。

L.Jin-na


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