神名龍子
昨年の「Visitor's Room」での真樹子さんとのやり取りを読み返していたら、「現在流通しているジェンダー論の殆どは性別は言語により構築されているというのを前提にしている」という言葉に気がついた。もちろんこの時もそれなりに答えてはいるのだが、今から見るとあまりにも不充分に感じられる。なぜ、構築主義はこのような前提に立脚しているのか。私の考えでは、構築主義者によって「それがジェンダーの相対化による否定という目的に照らして有効だ」と信じられているからだろう。ポスト構造主義において言語は「確かなことは何もいえない」という相対化の格好の対象となっている。それゆえに「性別は言語により構築されている」というテーゼを置けば、「性別も無根拠なものだ」ということが出来るからである。
しかし、ポスト構造主義は様々な「言語の謎」を提出するが、決して言語の本質を解明してはいない。つまり、なぜ言語を追求しようとすると様々な謎や矛盾が続出するのか、その理由を彼ら自身も説明することができない。理由は簡単だ。「主観と客観の一致はいかにして可能か」という「主客一致問題」が答えの出ない問いだったのと同じように、ポスト構造主義における言語論も、言語について答えの出ない問いの立て方をしているのである。
だから現象学的な考察によって、まずはこのような問いそれ自体を解体し、言語の本質を追求することが必要だし、またそれは可能な作業でもある。そして、言語の本質がわかれば構築主義の「性別は言語により構築されている」という前提も無効になる。そこで今回は、まず「言語の謎」の指摘による性別の相対化(=性別二分性に対する異議申し立て)としてどのようなものが考えられるかという例を挙げ、次に言語の本質を考え、これらの異議申し立てについて検討を加えた上で反論を試みることにしよう。そして最終的には、構築主義が T's の自己実現のために役立つ思想ではないということを明示しよう。
ポスト構造主義における言語の相対化のモチーフは、ヨーロッパの伝統的形而上学において自明とされる「真の世界(世界の総体)を言葉で言い表すことができる」という前提の相対化・否定にある。だが、これについて述べる前に、ソシュールの言語学について少々ふれておく必要があるだろう。
ソシュール言語学の特徴を三つ挙げろといわれたら、「シニフィアン/シニフィエ」、「ラング/パロール」、「共時態/通時態」ということになるだろう。シニフィアンとシニフィエは、それぞれ記号とその意味のことだ。例えば「イヌ」という言葉がシニフィアンで、それが意味するところの「犬」がシニフィエである。ただしこの場合、「犬」という動物を「イヌ」という発音で呼ばなければならない必然性はない。英語なら「ドッグ」だが、それでも意味は通じるからである。したがって、シニフィアンとシニフィエの組み合わせは恣意的なものだといえる。
しかし、これだけならソシュール以前の「言語名称観(ノマンクラチュール)」とたいして変わらない。言語名称観とは、実体としての「犬」が存在していて、「イヌ」はそれに対応する記号だとする素朴な言語観である。つまりこの場合には、「犬」が客観的存在として前提されている。
| 指示対象 | 犬 | 山犬 | 狼 |
|---|---|---|---|
| A地方 | イヌ | オオカミ | |
| B地方 | イヌ | ヤマイヌ | オオカミ |
「犬」の他に「狼」と「山犬」の存在を考えてみる。さまざまな「犬らしき動物群」を、A地方の人が「犬と狼」に二分して認識していたとする。そして他のB地方ではまったく同じ「犬らしき動物群」が生息しているにも関わらず、これを「犬と山犬と狼」という三分法で認識していたとする。そして調べてみると、A地方で言う「イヌ」は、B地方でいう「イヌ」と「ヤマイヌ」の両方の意味を併せ持っていることがわかった。さて、そうすると「イヌ」という言葉(記号)は、必ずしも「犬」という指示対象と一対一の対応関係にないということがわかる。したがって言語名称観は誤りだということがわかる。
そして、同じ指示対象群をA地方ではニ分法で、B地方では三分法で認識しているということは、同じ対象に対する認識でも、言語の体系によって二分法を採ったり三分法を採ったりすることが可能だということになる。そしてこの場合、両者の分節の仕方のいずれが正しいということは出来ない。ここにも言語の持つ恣意性がある。
このことを、犬や狼の代わりに性別概念に置き換えて考えてみよう。すると、
| 異議1: | 性別は必ずしも二分法で考える必要はない。それにも関わらず私達が性別を二分法で考えてしまうのは、性別の区別を表す言語が「男/女」の二分法で成り立っているからに過ぎない。 |
|---|
という主張が考えられる。要するに、人間が思考にあたって言語を使用している以上、その思考は言語の構成によって制限を受けざるを得ず、またその制限の存在を疑いもしない。だが、上に挙げたように「言語が現実をありのままに表現するものでない」ような恣意的なものだとわかった以上、そのような思考は現実を反映しているとは言い難い、また記号以前にその元になっているものがあるわけではない、ということだ。
だが、このような考え方は私達の日常的な感覚にひどく反するものではないか。それだけではなく言語学としても、かえって「言語」というものが謎に満ちたものになってしまう。この考え方でゆくと、私達が生きて行く上で、他者との間で言葉が通じ合うことや、相手が本当のことを言っている(言っていない)という確信が生じること、同じ認識対象に対して共通了解が成立することなどの理由が、全くわからなくなるのだ。しかし、さしあたありこの異議に対する検討と反論は後回しにして、今度はデリダ等による言語哲学に目を向けることにしよう。
デリダの場合、その主張が非常にわかりにくいのだが、ここではさしあたり彼の言語観について、出来るだけ簡明に見てみることにしよう。もちろんデリダも、言語が事物を正確に言い表すことが出来ないと主張する点では同じである。ただし、彼は上のソシュールに対しても批判を加える。ソシュール言語学には「ラング/パロール」という分類があり、ラングは言語の体系(例えば「日本語」)、パロールはその都度の「発話」を意味する。そしてテキスト(書き文字・文章)はパロールを表記したものと考えるのだが、デリダはこれを「音声中心主義」として批判するのである。
| 発話者 | 言語 | 受け手 | |
|---|---|---|---|
| パロール (発話) | 発話者 | 言語 | 受け手 |
| エクリチュール (書き文字) | (作者の死) | 言語 | 受け手 |
さて、しかしエクリチュールとしての言語は、その意味を一つに限定することができない。「いや、そういう意味ではなくて…」と口を挟む作者が不在なのだから、さまざまな解釈が可能であり、それらの解釈は論理上いずれも等価である。デリダによる言語の相対化の手法は、このような「語の多義性」や「解釈の多様性」、そして正しい解釈の「決定不可能性」の指摘に負っているといえるだろう。この点をさらに見てみよう。
繰り返すが、従来の言語観ではまず発話者の意があり、その意を言語として表現すると考えられてきた。そして聞き手はその言語表現から発話者の意を受け取るとする。しかし、エクリチュールという発話者不在の例から言えることは、発話者がいなくても(したがって発話者の意が存在しなくても)聞き手は表記された言語(エクリチュール)から意味を受け取ることができる。いや、むしろそれこそが言語が言語であることの本質なのだ。また、そうである以上、言語の意味解釈の決定不可能性もまた言語にとって本質的だといわざるを得ない。したがってデリダの考えでは、「意味」とは言語それ自体がその根源なのであって、「まず発話者の意がある」のではない。むしろ発話者が言語体系に従うのである。しかしデリダは、言語もまた「意味」の究極の根源ではないという。
デリダの思想は、究極の根源という概念それ自体の抹消というモチーフを持っている。従って、「発話者の意」の代わりに言語もしくは言語体系を置き換えても、彼の目的を達することは出来ないのである。ではデリダの考えでは、言語が持つ「意味」は、さらに遡れば何に由来するというのか。
上のソシュールの説明で見たように、言葉は恣意的な分節によって構成されている。この分節とは、言いかえれば「差異の認識」である。これも上の例でいえば、「犬」と「山犬」と「狼」という三分法は、それぞれの間に差異があるという認識に立脚している。B地方のように「犬」と「狼」という二分法を用いる地方では、「犬」と「山犬」との差異が認識されていないために同じものとしてひと括りに「イヌ」と呼ばれているわけだ。そして、この分節が恣意的なものに過ぎないということは、人間の認識や分節もまた恣意的なものに過ぎないという話になる。したがって言語とは「差異の戯れ」の痕跡に過ぎないという話になる。
もっともこれだけなら、本質的には上に挙げた「異議1」と同じことである。しかし、ここからはもう一つの主張が浮かび上がってくる。世界秩序は言語が作り出すものだが、その言語は恣意的な分節によって出来あがっているに過ぎない。そしてその言語は「作者の死」、つまり発話主体の不在においても成立するという本質を持っている。したがってこのようなデリダのテキスト(=エクリチュール)論は、言語の確実性だけでなく、「主体」という概念をも否定する根拠となっている。
この「主体」概念の否定から、どのような主張が出てくるか。それは「アイデンティティ」や「共同体」や「同一性」などの概念の否定である。言語の意味が本質的に決定不可能であり、また言語が「差異の戯れ」の痕跡に過ぎない以上、「同一性」という概念は成り立ちようがない(なぜなら、「同一性」概念も突き詰めれば「差異の戯れ」の所産に過ぎないから)。したがって性別においても、
| 異議2: | 性別という概念(それが二分法であれ何分法であれ)それ自体に全く根拠がなく、それは「差異の戯れ」の痕跡に過ぎない。 |
|---|
という主張が成立するだろう。
さて、上に挙げた2つの「異議」に反論する前に、まずは改めて言語について考えてみることにしよう。ここでまず確認しておきたいことは、上のソシュールやデリダの言語論は言語の本質について(特に「意味」の本質について)全く答えていない、ということだ。言語学とはそもそも言語の性質を問う学問である。それに対して「それは言語が構成しているのだ」では答えにならない。
もちろん、性の問題についても同じことである。言語上における性概念もまたジェンダーの一種である。「なぜジェンダーがあるのか」という問いに対して「ジェンダーがあるからだ」というのでは、単なる同義反復(トートロジー)に過ぎない。このことを「異議1」を例に説明してみよう。
| 異議1: | 性別は必ずしも二分法で考える必要はない。それにも関わらず私達が性別を二分法で考えてしまうのは、性別の区別を表す言語が「男/女」の二分法で成り立っているからに過ぎない。 |
|---|
この異議は、ソシュールの言語学の説明を受けたあとでは「なるほど」と納得してしまいかねないものがある。だがこの説明では、時代や文化の違いを超えて性別が二分法で扱われている事実を説明することができない。「異議1」を踏まえて言えば「それはあらゆる言語に性別二分法が普遍的に見られるからだ」ということになるが、これではその普遍性の理由を説明したことにならないからだ。
同じことは「異議2」についてもいえる。言語が「差異の戯れ」の痕跡に過ぎないものならば、なぜ性別には三分法や12分法がないのか。また性別という区分概念そのものが存在しない社会が存在しなかったのはなぜか。この問いに対して、構築主義者は答えることが出来ない。
その理由は明白である。構築主義者が踏まえている、上に挙げたような言語論が、言語に関する矛盾(「言語の謎」)を提出することはあっても、なぜこのような矛盾が生じてしまうのかということを解明していないからだ。私が上に「言語の本質について全く答えていない」と書いたのは、このことを指している。
もっとも、ソシュールやデリダの見解そのものがすべて間違っているというわけではない。例えば「犬」・「山犬」・「狼」の例で書いたように、ソシュールがそれまでの言語名称観を明確に否定したことは、彼の業績に数え上げてよい。しかし「語が意味を持つ」と考えている点では、ソシュールもデリダもそれまでの言語学と同じである。彼らはただ、語と意味の対応関係に異を唱え、自分なりの考えを提出したに過ぎない。しかし、言語に関する様々な矛盾は、この「語が意味を持つ」という考え方に根ざしている。
「語が意味を持つ」という考えが否定されずに済んでいるのは、この考え方が日常感覚に照らしてごく自然な信憑を与えるからだ。例えば私達は学校教育において、「辞書」を用いることを学んでいる。辞書とはいわば「語」と「意味」の対応表であり、「語」と「意味」が何らかの仕方で対応関係にあるということを疑わない。しかしここでは、このように普段から私達が自明としている前提を一度留保して、私達が言葉を使う場面を振り返って内省してみることにしよう。
私が「今日はいい天気だ」といったとする。これは一般には、まず私の意識に「今日はいい天気だ」という「意(いいたいこと)」があり、それを言葉で「今日はいい天気だ」と表現したと考えてしまいやすい。しかし、よくよく内省してみると、このことは言語使用の常ではないことがわかる。もしこのようなことが言えるとしたら、私がまず内心で「今日はいい天気だ」と独語し、それを改めて発話したような場合だろう。だが、普通は私の意識に「何かある感じ」がやってきて、それから「今日はいい天気だ」と発話する。そしてこの発話と、自分の意識に到来した「何かある感じ」との間に、対応関係が成立していることを確信する。もし、この確信が成立しなければ「上手く自分の気持ちを言い表せていない」と思って別の表現を考えたりするだろう。
つまり、言語が表現する(と考えられている)意味とは、最初の「何かある感じ」でもなければ、発話された言語表現そのものにあるわけでもない。もちろんこの場合の発話は「何かある感じ」の到来によって促されたのだ。しかし、その言語表現に意味がある(ない)とか、意味が通じる(通じない)ということは、「何かある感じ」と言語表現のいずれか一方にあるわけではなく、両者が上手く対応したと思えるかどうか、その確信の成立(または不成立)にかかっている。
このように説明しても、その確信は言語体系の規則に照らして成立したりしなかったりするのではないか、という反論はあるかもしれない。ならば、このような例はどうか。突然、猛烈な痛みに襲われて、文字にも表現できないような音声=叫び(「Ω●※≒@〜!!」)をあげたとする。この場合、「何かある感じ」の到来とはいうまでもなく、猛烈な痛みによる苦痛である。さて、この時に私はこの叫びを、自分の痛みと無関係なものとして認識することが出来るだろうか。もちろん、論理的には他の理由を挙げることが出来るだろうし、それが絶対に間違っていると論証することは原理的に不可能だ。それにも関わらず、私の意識の中では自分の「この叫び」と「この痛み」とが不可分の関係にあるという確信が成立する。そしてこの場合には「言語体系の規則」を参照しようもないし、また「この痛み」を「他の痛み」やその他の感覚との差異によって捉えているわけでもない。もし仮に他の痛みその他の感覚を経験したことがないとしても、今「この痛み」の耐え難ささえあれば、やはり私はこのような叫びをあげるであろう、と確信するのが普通ではないか。「しかしそのような『叫び』は言語といえるのか」という疑問もあるだろうが、それに答える前に、今度は聞き手と言語の関係を見てみよう。
私の前に、ある人(Cさん)がいるとして、私の「今日はいい天気だ」という発話を聞いたとする。これをCさんはどのように解釈するだろうか。文字通り「今日は天気がよい」という事実を述べただけだと受け取るかもしれないし、「こうして一緒に出かけるのに好都合だ」という意味に取るかもしれない。もしかしたら「でも私の心は暗い」という言葉が続くのではないか、と感じるかもしれない。これは一見すると、言語の解釈の決定不可能性の根拠のようにも見える。だが、この日が前もってCさんと遊びに出かける約束の日だったとしたらどうだろう。普通は、「こうして一緒に出かけるのに好都合だ」という意味に取るのではないか。もちろん、この前日に私が仕事の上で大きな失敗をしていて、本当は「でも私の心は暗い」と言葉を継ぐかもしれない。しかしそうでない限り、Cさんの意識の中では「これは『こうして一緒に出かけるのに好都合だ』という意味だ」という確信が成立するだろう。
このことからいえることは、発話者と言語表現、言語表現と聞き手の間には、それぞれ「意味」についての確信が成立したりしなかったりするということだ。正確にいえば、聞き手の場合には「語の意味」についての確信ではなく、言語表現を介して発話者の「意」についての確信、「この人はこういうことを言っているのだな」という確信が生じるのである。もちろん、「今の発言はどういう意味だろうか」というように、発話者の「意」についての確信が成立しない場合もある。だが、自分の言いたい事が伝わったり、伝わりにくかったりするのは、それぞれどのような条件においてか(どのような場面でどのようないい方をするか、自分と相手との間にどのような経験や知識が共有されているか等)ということを、私達は経験的にはある程度知っている。そうでなければ、そもそも私達は他人と会話をしようと思わないだろう。それにポスト構造主義や構築主義を信じる人達だって、実は自分の言葉が通じるということを前提しているからこそ、自説を主張しているに違いないのだ。
上に述べた「叫び」が言語であるかどうかという問題においても事情は同じである。この叫びはCさんを心配させるのに充分であり、少なくとも私が何らかの苦痛によって声を挙げたという確信がCさんに生じるだろう。もちろん、正確にそれがどのような痛みかということまでは判らないかも知れないが、それは「叫び」が相手にそこまでの確信を生じさせるには不充分な表現だったというに過ぎない。少なくともここには、会話と全く同一の構造が存在するということは間違いない。
ここで大事なことは、発話者が自分の「いいたいこと」を自覚したり、聞き手が言語表現を介して発話者の「意」を受け取るのは、それぞれ確信(信憑)として成立するのであって、それが絶対に確実なものだという保証はない、ということだ。これは、近代哲学における「主観と客観は一致するか」という問題と同型である。人間は誰も、自分の主観(認識)から抜け出して「客観そのもの」を確かめることは出来ない。また「客観」がいかに在るかということだけでなく、そもそも「客観」が在るのかないのか、それすら確認することは原理的に不可能だ。それと同じように、発話者は言語表現において「これが自分のいいたかったことだ」とか「どうも上手くいえていない」という確信の成立の度合いを知ることが出来るだけだし、まして聞き手は相手の意識そのものを直接に確認することは出来ない。
もう一度簡単にいうと、言語は発話者や聞き手の意識が「意味」を構成する重要な契機ではあるが、言語それ自体が「意味」を持っているわけではない。「サルも筆の誤り」という言葉の意味を字義通りに考えたら、これはナンセンスな話だが、私が文字を書き間違えたときにうっかり「いや『サルも筆の誤り』で…」といった場合には、「それは『弘法も筆の誤り』だろう」と指摘されるだろう。この場合、私が言いたかったことは言語の体系よりも「状況のコンテクスト」に支えられて、相手に伝わっているのである。
そしてこれはデリダの言うエクリチュールでも、実は同じことである。例えば、花屋の店先に『植木等あります』という貼り紙があったとする。これは誰が見ても普通は「ウエキトウあります」と読むだろう。そして、これを書いたのはこの花屋の人間であり、ただ「植木などがある」という意味だけではなくて、店の宣伝として書いたものだということも自然に了解しているはずである。しかし、同じ張り紙がレコード屋の店先に貼ってあったらどうか。私は、まず「なぜレコード屋で植木を置いているのか」と疑問に思うだろう。そして次に、「これはもしかしたら『ウエキヒトシあります』と読むのではないか」と思うかもしれない。つまり『植木等』という文字を「ウエキトウ」と読むか、「ウエキヒトシ」と読むかは、この貼り紙が花屋の店先に貼られているかレコード屋の店先に貼られているかという「状況のコンテクスト」によって判断しているのである。
| # | ただし、あとで述べるように、人間の「意味」解釈は根本的には各人の興味・関心によって規定されている。だからクレイジーキャッツのファンだったら花屋の店先であっても、貼り紙を見てまず最初に「ウエキヒトシ」と読んでしまい、それから「あれ?」と考え直す可能性が高い。 |
もちろん、このような場合でもこの確信が「正解」だという保証はない。もしかしたら、「植木も売っているレコード屋」なのかもしれないし、花屋が書いて花屋の店先に貼られていた紙を、誰かがいたずらで剥がしてレコード屋の店先に貼ったという可能性も否定できないからだ。そしてエクリチュールといえども、その大部分は実は作者は「死」んではいない。実際にそれを書いた人間が死亡しているか生存しているかという問題ではなく、私達は書かれた文字を見てもそれを誰が(あるいはどのような人が)書いたのかということを、暗黙の内に想定しているのである。厳密な意味での「作者の死」は、現実にはエクリチュールにおいても例外的な事例なのである。
ここで、多くの人(構築主義者に限らず)は、『言語それ自体が「意味」を持つのではない』というこの考察に対して、多かれ少なかれ違和感を持つだろうと思う。しかし、「意味」とは何かということについて、次のことを考えて欲しい。まず私達の日常感覚において「意味」を持つ(と考えられている)のは、言語に限らないということだ。例えば「辞書」とは何か。これは「辞書という言葉の意味」として捉えられる場合もあるが、それだけではなく「辞書という事物の意味」としても考えられている。普通は、辞書は「文字や言葉を調べるためのもの」と考えられている。これはいわば、辞書の一般的な意味である。しかし実際には、辞書はその都度の「〜するためのもの」という多義性を持つ。「文字や言葉を調べるためのもの」であったり、「メモ用紙を押さえるためのもの」であったり、「眠るときの枕の代用にするもの」だったりする。あるいは、大きくて重い辞書なら「閉じ込められた部屋から脱出するために窓ガラスを破るためのもの」でもあり得る。
このような「意味」の多義性は、事物それ自体があらかじめ持っているわけではないし、辞書の多義的な「意味」をあらかじめすべていい尽くすことは出来ない。そしてその都度の「意味」は、人間が自分の置かれた状況によってその都度ごとに「与え」ているのである。また、どのような意味を与えるかは、決して恣意的に決まるものではなく、その都度の必要(興味・関心)によって支えられている。そしてこのことは、言語についても全く同じことがいえる。
母親が子供の部屋に入り、その部屋の散らかり振りを目にして、「まぁ、よく片付いていること」といったとする。これは論理学的な命題としては、事実を言い表していないから「偽」とされる。しかし、この言葉を聞いた子供は「それは間違っている」と反論したりはしないだろう。なぜならこの場合、言語としては(論理的には)事実と正反対のことをいっていても、子供はその言葉から「これは母親が皮肉を言っているのだ」という発話者(母親)の「意」を構成し、この構成が正しいであろうことを確信しているからだ。むろん、この確信も「状況のコンテクスト」に支えられて成立している。
以上のことから次のようなことがいえる。
さて、そうすると「言語の意味に関する確信成立の構造」が問題となる。なぜならこの確信成立の構造に、各人の間で何らかの共通性がないと、やはり言語が通じないということになるからだ。そして、これは各人の認識の共通性という問題であり、世界分節の共通性という問題でもある。
私達は経験上、人間の様々な認識がある分野ではよく一致し、またある分野ではひどく分裂することを知っている。構築主義の論理はポスト構造主義の焼き直しに過ぎず、本質的には懐疑的相対主義なので、認識が分裂する分野についてはよく説明出来るが、別の分野で認識が一致する事実を説明することができない。構築主義が、ジェンダーの多様性を説明するには都合よく、逆に性別二元性の普遍性を説明できないでいるのは、これが理由になっている。
結論から言ってしまえば、世界分節の原理は人間の欲望に在る。別の言葉でいいかえれば、興味・関心ということだ。例えば釣りに興味がある人は魚の種類を詳しく知っているが、釣りに興味がない人はただ「サカナ」という語ですべての魚を包括しても、不便を感じないということもあり得る。また同じように魚に詳しい人でも、釣りが好きな人と魚屋とでは、詳しい魚の種類が異なるということもありえるだろう。魚屋にとって商品にならない(食べられない)魚は関心の対象外だからだ。したがって、様々な種類の魚をどのように分節するかということについては、人によってその興味・関心が異なるために、分節の仕方が異なってしまう。しかし、同じ魚屋同士なら、それも同じ地方で店を開いていて扱う商品が似通っていたら、魚の分節の仕方はかなり共通したものになるだろう。
さらにいえば、「上/下」、「前/後」、「左/右」といった二分法は、性別の二分法と同様、時代や文化を超えた普遍性を持っている。なぜ「上/下」や「左/右」ではなく、120度ずつの三分法ではいけないのか、と問う人がいたら、逆に「その三分法はどのような興味・関心に支えられており、またその必要性はどの程度の普遍性を持っているのか」という問いに答えて欲しい。
もちろんこの「普遍性」という条件を外せば、他の分節を用いる場合もある。例えば戦闘機のパイロットが「敵機、10時の方向!」という場合だ。これは周囲360度を12分割している(10時の方向とは、時計で正面を12時として10時、つまり正面から左に60度の方向)。このような場合、方位の指定は大雑把過ぎれば指摘する意味がなくなり、精密過ぎれば判断に時間がかかりすぎる。瞬時に「こっちだな」と判断するのに12分法が手頃だということが、経験的に導き出されて使用されているわけだ。任務が異なれば、同じ軍隊でも「6400方位」を使う例もある。砲兵などのように精密さが要求される部隊では、12分法では役に立たないからだ。それでも「あらゆる分節は恣意的だ」という人は、試みに「1371方位」のコンパスでも作って使ってみるといい。もちろん、しばらく使っていれば多少の慣れは出てくるだろうが、それでも360方位のコンパスと「等価=同じように使い易い」とはいい難いことが実感できるだろう。
ではなぜ、これまでの言語学からは、このような(いわば常識に属するような)見解が出てこなかったのだろうか。それは、(他の学問でも同じことだが)言語学が研究対象を他の存在から切り離し、「研究対象それ自体」として見ようとしたからだ。そのために、「言語」はコンテクストから(特に「状況のコンテクスト」から)切り離された形で研究対象にされていたのである。
ソシュールは、A地方の「イヌ・オオカミ」という二分法と、B地方の「イヌ・ヤマイヌ・オオカミ」という三分法との、この違いが何に根ざしているかを解き明かそうとはせず、単にこれを「差異の体系」と見た。この違いを説明しようとすれば、A・Bそれぞれの地方の民俗学的な研究が必要になっただろうが、それは彼の「言語学」の範囲外の問題とされたのである。このこと自体が、「分節とは何か」の一つの例になっている。ソシュール自身は自分の説に忠実に(?)、自分が研究対象にすることと、研究対象にしないこととを、自身の「言語学」という概念によって分節したのだ。これはある意味では恣意的だといえなくもないが、突き詰めていえば、やはりソシュール自身の興味・関心の問題なのである。またデリダの、エクリチュールにおける「作者の死」という概念は、言語を「状況のコンテクスト」から切り離した典型的な例だろう。これは、彼の「反形而上学」の立場からすれば、極めて不徹底な態度だといわざるを得ない(ソシュールの場合には(少なくとも彼自身には)そういうモチーフがあったわけではなさそうだ)。
だが、言語とはある意味では「行為」であって、行為をそれが行なわれた状況と切り離して考えることは出来ない。しかし彼らは、いわば言語を客観的事物であるかのように(=自然科学的な態度で)扱ってしまったのである。なるほど力学ならば、摩擦を考えなければ物体の運動法則は極めて簡単な数式で表すことができる(ニュートンがそうしたように)。
だが言語は、その都度の周囲を取り巻く状況から切り離されれば切り離されるほど「言語」ではなくなるのである。例えばデリダの言う「作者の死」におけるエクリチュールは、正確には「言語」ではなく、その痕跡としての単なる「表象」に過ぎない。彼らの言語論は(それ以前の言語学もそうであったように)言語とは何かを考える際に、極めて素朴な信憑を前提においてしまっている。つまり「言語それ自体」があり、それが何らかの仕方で「意味」を持っているという、そのことである。しかし、「意味」や「価値」はあくまでも人間の意識の問題であり、人間の意識の外側にその根拠を求めようとしたことで、最初から顛倒した思いこみにとらわれてしまっているのだ(今回は取り上げなかったが、この点では後期ヴィトゲンシュタインが、現象学とは異なる仕方でこの顛倒から免れているといえるかもしれない。ただし私はまだ彼についてはよく知らないので、今回は断言を避けて保留しておくことにする)。
ここでもう一度、上に挙げた二つの「異議」を見てみよう。
| 異議1: | 性別は必ずしも二分法で考える必要はない。それにも関わらず私達が性別を二分法で考えてしまうのは、性別の区別を表す言語が「男/女」の二分法で成り立っているからに過ぎない。 |
|---|
| 異議2: | 性別という概念(それが二分法であれ何分法であれ)それ自体に全く根拠がなく、それは「差異の戯れ」の痕跡に過ぎない。 |
|---|
これらの「異議」が根拠としている言語学・言語論の欠陥は、これまで述べてきた通りである。そして、人間が「性別」という概念を持つこと、そしてそれが「二分法」を取っていることは、時代や文化の違いを越えて普遍的である。それはなぜかといえば、一つは人間の身体に性別があり、それが時代や文化あるいは人種・民族を超えて普遍性を持つからである。そしてもう一つの理由は、そのような身体的性差に根ざした、人間の性に対する興味・関心が共通しているからだ。
このような分節の在り方が固定的なのは、それを言語が作っているからではない。言語には確かに差異の体系という側面があるが、ある対象(群)の中にどのような差異を見出し、あるいはどのような差異を無視するかということは、決して「どのような在り方でもよい」というような意味で恣意的なのではない。人間の分節の根底をなしているのは、人間の関心・欲望である。そして人間の関心・欲望は、ある面ではその身体性の共通性に即して普遍性を持ち、また別の面では、(個人であれ民族であれ)それぞれが置かれた条件の違いによって異なってしまう。
これは特に性同一性障害の問題に関して非常に重要な意味を持つことなのだが、デリダのような懐疑的相対論は懐疑的相対論自体をも相対化してしまう。少なくとも、それが可能なように作られている。この方法を使うと、性自認の問題も、自己決定の問題もすべてが相対化できてしまうのだ。なぜなら、既に述べたように、彼の理論は「アイデンティティ」や「主体」という概念をも根本から否定するからで、これを使うと性同一性障害そのものも、各当事者の欲望でさえも「文化的に作られたものに過ぎない」という話になってしまう。
たとえばデリダの理論をジェンダーの問題に援用した一人にジュディス・バトラーがいる(今回は取り上げていないが、彼女はデリダの他に、やはりポスト構造主義の一人であるフーコーの影響も受けているようだ)。あらかじめお断りしておくと、以下、バトラーの主張については「51.クィアの終焉」で紹介した野口勝三氏の論文を参照している。誤りがあれば、それは神名の責任である。
彼女は、ジェンダーが作られたものだと主張するだけではなく、セックス(身体的性差)もまたジェンダーによって作られたものだと主張する。セックスは所与のものではなく、ジェンダーという実践言説によってあたかも実体として存在するかのように作られた、いわば「ジェンダー化された身体」だというのだ。だが、この主張が「ソシュール=デリダ」の「言語の体系が人間の認識を規定する」という考えを踏まえたものだということは、ここまで読み進んだ人にはすぐに見て取れるだろう。だが彼女にしても、そもそもはジェンダーを問題としていたはずである。なぜジェンダーがあるのかという問いに対して、「ジェンダーがあるからだ」というのでは答えにならないということも、既に述べた。
そして、このような論理に対しては次のような矛盾を指摘することができる。TG という言葉は TS や TV よりも後から出来た言葉だ。かつては TS と TV の二分法が使われていた時期があった。しかしこれでは、性自認が身体の性別と一致している TV と、性転換を望む TS とのどちらにも含まれないような存在、つまり「性自認は身体の性別と異なっているが性転換までは望まない人たち」の存在が問題になる。こうして後から トランスジェンダー(TG)という語が作られることになったのだ。
しかし、言語が現実を作っているという構築主義の立場からは、「トランスジェンダー」という言葉が存在しなかった時期には「性自認は身体の性別と異なっているが性転換までは望まない人たち」は存在しなかった、という話になってしまう。「トランスジェンダー」という言葉が作られたから「性自認は身体の性別と異なっているが性転換までは望まない人たち」が出てきたのだ、という話になってしまうだろう。しかしこれが事実と異なることは、ちょっと調べれば誰でも判ることなのである。この例からも、世界分節の原理は言語ではなく欲望・関心にある、ということがわかるだろう。
また、彼女はやはり「アイデンティティ」の否定も主張するのだが、この場合のアイデンティティとは「私は男だ」とか「私は女だ」という性自認をも含んでいる。もともとが性別を否定するのがモチーフなのだから、性自認など認めるわけがない。つまり彼女の理論を援用すると、性自認は無根拠な虚妄に過ぎず、さしあたり性同一性障害というのはこの虚妄に取りつかれた文明の病だということになるだろう。むろん、彼女は「主体」概念も否定するから、外面的な行為がジェンダー/セクシャルアイデンティティを成立させていることになる。するとこれらのアイデンティティを成り立たせている秩序は、行為の様式によって流動的に変化させることが可能だ、という話になる。
逆にいえば、フルタイムの TS などは、この説から見れば容認し難い存在だということになるだろう。なぜなら、彼女のいうジェンダー/セクシャリティ秩序の転覆とは、単に「性自認や性志向や性別役割についての意識が一般常識の範囲におさまらない人たち」の出現を意味するのでは「ない」からだ。簡単にいえば、TS であれ TG であれ、あるいはゲイであれ、それは一つのジェンダー/セクシャリティの在り方だから、そういう在り方も認めないということなのだ。
だが、このような主張は T's にとってもゲイにとっても(もちろん一般的な性規範を生きる人たちにとっても)、ひどく抑圧的に感じられるのではないだろうか。むろん「主体」概念が否定されているわけだから、ここには「自己の生き方の自己決定」などという考え方がないのは、いうまでもない。個々の TG や TS やゲイが、それぞれ自分がどのように生きたいと思うか、ということはまったく考慮されておらず、ただバトラー(や彼女に賛同する者たち)が思い描く理想社会(?)のために「かく在れ」というに過ぎない。そしてそれに従おうとしない人々(=ほとんどの人々)に対しては、一方的な断罪を下すのである。
ここまで来て、おかしなことに気付かされる。元々、デリダのようなポスト構造主義のモチーフの一つには、マルクス主義のような真理主義に対する批判があったはずなのである。しかし、デリダを踏まえたこのバトラーの説を見ると、いつの間にかマルクス主義と同様に「理想社会の実現のために生きるべきだ」という主張に逆戻りしているのである。
この理由は、一つには元々、ポスト構造主義においても「主観−客観」の問題が解決されていないことにある。ポスト構造主義では「真理」や「根源概念」を禁止したにも関わらず、それは結局は「語り得ないもの」という形で「隠された真理」として残されてしまう。バトラーのいう、ジェンダー/セクシャリティ秩序の転覆=流動的変化は、「差異の戯れ」と同型であり、結局はここに「真理の実現」という形を取ってしまっている。しかし「言語の謎」その他の矛盾は、この「主観−客観」問題が解決されていないことから起こっているのだ。私は2年前に「45.『クィア』の難問」で、クィア・スタディーズが「概念の実体化」という問題を全く取り上げていないということを指摘しておいたのだが、その理由もここにある。
もう一つの理由は、それにも関わらず、ポスト構造主義においても構築主義においても、実は懐疑的相対論すらも徹底されていない、という点にある。自分にとって都合の悪いもの、否定したいものに対しては、彼らは容赦なくその相対論を振るって否定してかかる。しかし一方では、自分の主張を隠し持っており、自分の主張に都合のよいもの、擁護したいものに対しては、決して相対論の矛先を向けようとはしない。それどころか、場合によってはそれを「語り得ないもの」だと言いくるめて神棚に挙げてしまう。「語り得ないもの」は相対化のしようがないからだ。「差異の戯れ」という概念は、このようにして彼らに隠し持たれた「真理」に他ならない(もちろん他のポストモダンの言説にいう「外部」や「他者」や「習慣(ハビトゥス)」などについても、全く同じことが言える)
構築主義者が「ジェンダーの起源を問わない」理由もここにある。それを問うことは「語り得ないもの」を語ることであり、神学論争の泥沼に陥ることが直観的にでもわかっているのである。しかし、なぜ神学論争になってしまうのかということについては自覚しているとはいい難いし、もし仮にそれを自覚しているのだとしたら「知っていて口をぬぐっている」という話になる。
このポスト構造主義的な言説のイデオロギー性は、相対化する対象の選択だけではなく、相対化後の結論付けにも現れている。彼らが自分の擁護したい対象を聖化する(神棚に挙げる)のは、上に述べたようにそれを「語り得ないもの」とすることによってである。しかし、相対化による否定もまた「それは説明し尽くすことができない」という理由でそうするのだ。前者については「語り得ないものは相対化不可能」という地位を与えて、隠蔽された「真理」に転化してしまう。後者では例えば、「『男(女)とは何か』ということは定義不可能である」ということを相対化によって証明し、「だから男とか女には根拠などないのだ」という言い方で否定をする。この二つの態度は、きわめて矛盾に満ちているが、彼ら自身はやはりそのことを自覚していない。
何を相対化・否定し、何を「神棚に挙げる」かは、まさに個々の論者の欲望・関心によって分節されているのである。つまり、その区別の付け方によって、各論者が潜在的に持っているイデオロギー性が露見してしまうのだ。逆にいえば、懐疑論的相対主義そのものの中には、この区別を何に基づいて行なうかという原理がない、ということでもある。それは論者の任意の問題となってしまい、対立する信念を持つ者同士の間で果てしない相対化の泥仕合が始まることを避けられない(それを避ける原理を持っていない)。簡単にいえば、ポスト構造主義は信念対立の問題を説く原理を持っていない、ということになる。だがこれはポスト構造主義の、思想としての致命的な欠陥である。
もし仮に、性同一性障害を否定したい人と、T's にして構築主義を信奉する人との間で、お互いが懐疑的相対論を踏まえた論争が始まったとしよう。構築主義を信奉する T's は「アイデンティティを持つ懐疑的相対論者」という矛盾した性格を持つがゆえに、バトラーのような主張に対しては決して勝つことが出来ない。もし徹底して論争しようとすれば、T's であることをやめるしかないが、それが出来るくらいなら(自分の性自認を捨てることが出来るなら)T's は最初から悩みはしないのだ。私が以前から指摘しているように、構築主義はT's にとって自己否定の思想となってしまう性質を本質的に(=その思想の核に)持っているのである。
したがって、T's にとって有効なのは、単に「構築主義の立場に立たない」というだけではなく、その欠陥を克服する道を選ぶことにある。それだけが、構築主義による「ジェンダーの否定」(したがって、突き詰めれば T's の否定)を跳ね除けることを可能にするのだ。
