63.性別と年齢とエロス

神名龍子


 私が周囲の人達から(まがりなりにも)性自認の性別で扱ってもらえるようになって、10余年が過ぎた。その間、「周囲の人達」の顔ぶれには入れ替わりがあるが、自分がこのような環境に恵まれているということ、それ自体は変わらない。そんなことを考えているうちに、先日あることに気がついた。それは、「皆、私の性別には寛容だが、年齢にはシビアだ」ということである(^^;)。

 もちろん、私が女性として扱ってもらえるのにも、それなりの条件があるに違いない。「私の性自認は女だ」といいさえすれば、誰でもそのまま認められる、というワケではないからだ。そして、性自認と身体の性別が異なる、ということが様々な問題を生み出すことを、T's はよく知っている。

 しかし年齢については、それ以上に頑強な抵抗に遭う。ちょっとサバを読んでも厳しいチェックが入るのだ(特に女性からのチェックが厳しい)。このこと自体は決して珍しいことではないのだが、そのためにかえって見落とし勝ちになる。考えてみると、この「年齢のサバ読み」に対する厳しさは一体何に由来しているのだろうか。

 年齢のサバを読むということは、自分の年齢を実際よりも若く称するということである。年齢のサバ読みに対するチェックが厳しいのも女性だが、サバ読みの当事者も多くの場合、女性である。この場合、「若さ」とは何を意味するのだろうか。年齢のサバ読みについて考えるためには、年齢あるいは「若さ」の意味、特に女性にとっての「若さ」の意味を考えることから始めなくてはならない。

 「若さ」ということは、しばしば「未熟」を意味する。自分のことを「若輩者ですが」といえば、これは自分の年齢を話題にしているのではなく、「自分は未熟者である」という意味になる。逆の意味では「老練」とか「老熟」という言葉がある。中国では、先生は「老師」という。もちろんこの場合の「老」は年齢ではなく「練達・熟達」の意味だから、若い女性に対しても使う。しかし通常、女性が自分の年齢のサバを読む場合、自分を実際よりも未熟者だと主張したいわけではないだろう。では、年齢のサバを読むことの「目的」はどこにあるのか

 「若さ」は、女性において「魅力的であること」を意味する。もちろん、若いということは魅力的であることの必要条件ではない。中高年でも魅力的な女性は存在する。だが、歳をとると魅力を維持することが困難になるのもまた事実であり、年齢が上がるにつれて魅力的な人の割合が減る。逆にいえば、若いということは、しばしば「魅力的である」ということと同義に扱われる。俗にいう「鬼も十八、番茶も出花」というのがそれだ(どんな女でも年頃には女らしい魅力が出るという意味)。

 これは実は、女性の魅力に限った話ではない。たとえば能の役者でも、事情は同じらしい。世阿弥の『風姿花伝』を見ると、役者は若い時期には花がある、という。それは若さを失うと共に消える。そうなったら諦めなさい、というのではない。むしろ若いときに「花」に頼ることなく修行を積めという。そうすれば、若さと共に花が消え去っても、代わりの魅力が出てくる。そういう意味のことが書いてある。逆にいえば、何もせずに馬齢を重ねれば魅力もなくなる、ということだ。だから上にも書いたように、歳をとると魅力的な人が減る。

 要するに、(私も含めて)女性が年齢のサバを読むのは、「私は魅力的だ」という主張なのである。考えてみると、女性が厳しい態度を見せるのは、年齢のサバを読んだときだけではない。「私は魅力的だ」という意味の主張をすれば、すべて同じような目にあうのだ。

 ほとんどの女性は、自分が魅力的であること、エロス的であることを競い合っている。魅力的であること、エロス的であることは女性にとっての「価値」の一つであり、エロス的であることの競争とは自分の価値を高めようとする営みなのだ。このことは、女性たちが必ずしも男性(恋人)の獲得を目指しているということを意味しない。そのような目的で自分のエロス性を高めようとする女性がいることは事実だが、このようなエロス競争は「何のために」というよりも、むしろそれ自体が一つの目的になってしまっている

 大方の女性にとって、魅力的・エロス的であることに「価値」があるということは、もはや身体化(内面化)された価値観になってしまっており、そのこと自体が普通はあまり疑われたりはしない。そして、魅力的・エロス的であることは、自分が価値ある存在だということを本人に確信させ、自我の安定をもたらす。もちろん、自分が魅力的・エロス的であることを他者から指摘されれば、この確信は一層強まることになる。それは同時に、自分が対他関係において尊重され、よりよい関係をもたらすものとして直観されるのだ。

 もちろん、このことには例外もある。魅力的・エロス的であるがゆえに、「お呼びでない男性」に付きまとわれたり、はなはだしくは性的被害に遭うような場合である。このような経験が、魅力的・エロス的であろうとする努力を放棄させたり、あるいは魅力的・エロス的であることを「価値」として認めるような価値観、それ自体の否定に走らせたりするような場合だ。もう一つは、思想的な信条からこれらを否定しようとする働きであり、かつての(今もか?)フェミニズムのミスコン反対などがその顕著な例である。

 このような例外は存在するし、また逆に自分が魅力的・エロス的であることのプラス面だけを享受しているような女性も存在するかもしれない。だがこれらはいわば両極端に位置する例外であって、大部分の女性は、自分の魅力やエロス性が、自分に対して利得も損失ももたらすようなものだということを、経験的に直観しているのではないかと思う。その上で、いかに利得を多くし、損失を抑えるかという工夫をしながら、このような価値制度に折り合いをつけて生きているのが実状ではないだろうか。

 自分の年齢のサバを読む行為、自分がいかに魅力的・エロス的であるかということを主張するような行為に対して、他者の(特に女性からの)視線が厳しい理由も、おそらくはここにある。大部分の女性は多かれ少なかれ、エロス性を身につける競争に参加しており、この競争の側面ではお互いが競争相手である。自分の目の前で「自分がいかに魅力的か」と主張する女性がいたら、それは多くの場合、競争意識を呼び起こす契機となる。

 むろん、これにも例外がある。まず自分がエロス競争から降りてしまっている人。それから、エロス競争における自分の絶対の優位を疑わない自信家。それに、「この人には幸せになってもらいたい」と真の友情を相手に抱いている場合。これらの場合には、競争心や敵対心を抱く理由がないから、年齢のサバを読もうが、自分のことを「可愛い」といおうが、それを指弾されることはないだろう。

 ここまで考えると、「私の性別には寛容だが、年齢にはシビアな人たち」がいるのはなぜかということの答が見えてくる。私の性別に寛容なことと、年齢にシビアなことは決して相反する条件なのではない。むしろ、私の性別に寛容な女性たちこそが、私をエロス競争のライバルとして(暗々裏にであれ)認めてくれているのではないか(ただしこういう人たちは、私が彼女達より優位に立つことを絶対に認めないだろうが… ^^;)。また、一部には「私の性別にも年齢にも寛容な人」もいるが、これは女性の場合には、自分の優位の絶対性を疑わない人なのかもしれない(なんか、友情にヒビが入りそうだ… ^^;)。

 いずれの場合にせよ、一つだけ確かなことがある。それは「私がエロス競争において彼女達よりも優位に立つことは、誰も許してくれそうにない」ということである(^^;)。

L.Jin-na


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