神名龍子
しばらく前にインターネット上のあるサイトで、「社会主義はよい思想で、それにジェンダーフリーが結びつくのは当然」という趣旨の意見を発見した。まるで、社会主義とジェンダーフリーはもともと別の思想で、のちに両者が人間の「解放」のために結びついたかのような説明になっているのを見て驚いた。しかしこれは明らかな間違いで、「女性の解放」はマルクス主義において主張されていたテーマのひとつなのである。したがって、これは近年になって社会主義に「結びつく」ような思想ではありえない。
マルクス当時までさかのぼらなくても、「女性の解放」というテーマはしばしば左翼運動とセットになっていた。ただし戦前の女工達は職場の待遇が悪かったから「女性の解放」どころではなく、男女の別なく待遇改善に取り組むので精一杯だった、なんていう時代もあるにはある。それとは別に戦後日本の例を挙げると、いわゆる全共闘時代。全共闘運動の中で、女性闘士達が「これでは女性の解放は実現できないのではないか」と疑問を持ったところから、ウーマンリブやフェミニズムに流れた人たちもかなりいたはずだ(上野千鶴子はこの世代だろう)。だがそれは、彼女達が社会主義を見限ったということではない。せいぜい、自分たちがそれまで属していたセクトを見限ったに過ぎず、その後に彼女達がやったことといえば、社会主義思想に何か(女性の解放のための)を付け足そうとしたくらいである。そんな中に、性差の否定を主張する系統のフェミニズムもいくつもあったことは、周知の事実のはずである。だから実際にはその流れの中で、単に「ジェンダーフリー」という和製英語が後から作られたというに過ぎない。
| # | もちろん「ジェンダーフリー」が和製英語である以上、諸外国の社会主義・共産主義の文献を見ても(例えばあとで引用するエンゲルスの本などを見ても)どこにも出てこない。ここでは「ジェンダーフリーという用語」についてではなく、その思想的な内容について述べている。 |
まずは社会主義、特にマルクス主義において「解放」とは具体的にどういうことをいうのか、ということを説明する必要がある。ごくかいつまんでいうと、マルクス主義において人間の本質(類的本質)は「労働」にある。この考えのベースになっているのは、ヘーゲルの考えである。
ヘーゲルは人間を「家族」「市民社会」「国家」の3つの側面に分け、それぞれの側面において他者から承認されることが「自由」の実現(解放)だと考えた(『法の哲学』)。また、『精神現象学』という本では、労働の成果は自己の精神が外化されたものだという意味のことも書いている。例えば、私が絵を描く。その絵は私の精神の表出であり、私はこの作品の中に「自己」を見出す。だから、絵を誉められれば自分が誉められたように嬉しいし、けなされればガッカリしたりもする。これもまた、労働の成果を通じて「私」が承認されたりされなかったり、という事になるわけだ。
ところがマルクス(&エンゲルス)は、この労働ということを、金銭を得るための職業(賃労働)に限定してしまう。そうすると、どういう話になるか。雇用契約による労働は、単なる労働ではなく、自己の持つ「労働力」を商品とする契約とみなされる。たとえば私が1時間働いて千円の時給をもらうとする。これはつまり、私の一時間分の労働力が千円の商品になったということだ。しかし雇用主である会社(資本家)は、私が千円の労働力で作った商品を三千円で売る。そのうちの千円が原料費だとすると、残りの二千円が商品としての付加価値だ。その付加価値(二千円)を付け加えたのは私の労働なのに、私の手元には千円しか来ない。この「差し引き千円」は会社のピンハネという事になる。このピンハネが、左翼用語でいう「搾取」である。
なぜこんな理屈が出てくるのかというと、見てのとおり、資本の投資(例えば工場の設備を作る)が考えられていないからだ。実際には「労働力」の対価として払う金銭と、資本回収としての資本家の取り分があるのが当たり前なのだが、マルクスはそこは無視する。もう少し正確にいうと、資本家による設備投資は、「生産手段(労働に必要な設備や道具など)の独占」とみなされ、不当なこととして否定されてしまうのである。
| # | 一応つけ加えておくと、現代に生きる私の目から見ても、当時の労働者が受け取る給与は、彼が提供する労働力に比べて余りに少なすぎた。だから貧富の差がどんどん開いていたわけで、マルクスやエンゲルスが当時の資本家を批判するのは、動機としては理解出来る。しかし、この「搾取」論はあきらかに行き過ぎである。 |
ともあれ、マルクスは人間の本質が労働であるとする立場から、この「搾取」を、資本家の労働者に対する抑圧とみなした。別のいい方をするなら、資本家と労働者とは「階級対立」の関係にあると決め付けられ、現在でいう「労使協調」といった考え方は微塵もない(まぁ、当時の状況からすれば無理はないが)。したがって、簡単にいえば、マルクス主義でいう人間の「解放」とは、このような「搾取」をなくして、働いた分だけ(提供した労働力に見合うだけ)の対価を労働者が受け取ることが出来るようにする、というものだったということになる。
もちろん、当時は他にも問題があって、例えばヨーロッパにおける国家間の戦争もそのひとつだ。だが、それはさしあたって今回のテーマとは関係ないし、既に「りゅこ倫」などでも述べたと思うので、ここでは詳しくは取り上げない。ただ、いくつか箇条書きにして挙げておこう。
実はこれらは目新しい構想でもなんでもなく、19世紀に『家族・私有財産・国家の起源』(岩波文庫)の中でエンゲルスが述べていることがほとんどなのである(この本が刊行されたのはマルクスの死の翌年(1984年)だが、もちろんマルクスの考えも使われている)。19世紀の骨董品のアイデアに「ジェンダーフリー」という和製英語や「男女共同参画」といった新しいタイトルをつけ、新品と偽って売り出しているに過ぎない。しかし以下に示すとおり、これらは本当はいわば返品された失敗策であり、この点でも社会主義と共通している。それでは実際に『家族・私有財産・国家の起源』を参照してみよう。
ここで取り上げるのは、『家族・私有財産・国家の起源』第2章「家族」である。エンゲルスは、さすがに現代のフェミニストのように「家族は近代になって出来た」などとはいわないが、それでも当時の人類学の知り得る範囲で様々な家族形態が存在することを挙げ、それらを進歩史観によって並べている。念のために書いておくと、エンゲルスはそれらの家族形態の変遷にある種の必然性を認めて記述しているが、しかし私の印象では、後世の形態ほど優れているといった価値付けを行なっているようには見えず、それぞれの利点や欠点について述べている。しかしそれらについて説明すると煩雑になりすぎるので、ここでは「エンゲルス当時」の話だけ取り上げることにする。全部読んでもたいしたページ数ではないので、気になる人は岩波文庫を参照のこと(第2章だけを読むなら70ページほどしかない)。今回のテーマに関係のありそうな部分を、何ヶ所か引用してみよう。
| このように、一夫一婦制が歴史に登場するのは、けっして男女の和合としてではなく、いわんやその和合の最高形態としてではない。その反対である。それが登場するのは、一方の性による他方の性の圧制としてであり、それまで先史の全期をつじて知られることのなかった両性の抗争の宣言としてである。一八四六年にマルクスと私が書いた古い未刊の草稿(神名註:『ドイツ・イデオロギー』のこと)には、次の一節が見出される。「最初の分業は、子供を生むための男女の分業である」。そして今日、私はこれにつけ加えることが出来る。歴史に現れる最初の階級対立は、一夫一婦制における男女の敵対関係の発展と合致し、また最初の階級抑圧は、男性による女性の抑圧と合致する、と。一夫一婦制は一つの大な歴史的進歩であったが、しかしそれは同時に、奴隷制および私的な富とならんで、かの今日まで続く時期を、すなわち、そこではあらゆる進歩が同時に相対的な退歩であり、一方の幸福と発展が他方の苦痛と排撃によって達成される時期を、開くのである。それは文明社会の細胞形態であって、われわれはすでにここに、文明社会で十全に展開する対立と矛盾の本性を研究することができるのである。 |
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多くの夫婦とその子供たちを包含した昔の共産制的世帯では、女性にゆだねられた家計の管理は、男性による食料の調達と同様に、一つの公的な、社会的に必要な産業であった。家父長制家族の出現とともに、またそれにもまして単婚制個別家族の出現とともに、事情は変化した。家計の管理はその公的な性格を失った。それはもはや社会とはかかわりをもたなかった。それは一つの私的奉仕となった。妻は筆頭女中になり、社会的生産への参加から駆逐された。現代の大工業がはじめて、女性に−それもプロレタリアの女性にだけ−社会的生産への道をふたたび開いた。だがそれは、彼女が家庭の私的奉仕でその義務を果たせば、公的な生産からは排除されて、一文も稼ぐことができないし、また公的な産業に参加して自主的に稼ごうとすれば、家庭の義務を果たすことが出来ない、という具合である。
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| 生産手段の共同所有への移行とともに、個別家族は社会の経済的単位であることをやめる。私的家計は一つの社会的産業に転化する。子供たちの養育や教育は公的な事項になる。嫡出子であろうと私生児であろうと、一様にすべての子供の世話を社会がみる。 |
上の引用をさらにまとめてみよう。
妻はプロレタリアートを代表する。
女性(主婦)は外に働きに出ることと家事とを両立することができない状況に置かれている。
地位を手に入れる。この経済的要因による不平等は、男女の法的な平等の達成によって
(=法的不平等という要因が排除された場合に)、誰の目にも明らかになる。
「家族」が社会の経済単位であること(夫の給与で家族が生活すること)の廃止を必要とする。
さらにそのためには、残された子供達は親に代わって社会が面倒を見る必要がある。
こうしてみると、現在の男女共同参画と同じことをいっているのが一目瞭然である。つまり「働けイデオロギー」と「育児の社会化」で、後者は具体的には保育所の完備、特に0歳児保育・夜間保育・休日保育等の要求という形をとっている。
ところで、社会主義の思想それ自体はマルクス&エンゲルスが最初ではない。彼らの「科学的社会主義」に先だって、現在では「空想的社会主義」と呼ばれる社会主義思想があった。その中の一人に、フーリエという人がいる。本当かどうか知らないが、本によっては彼が「フェミニズム」という言葉の発明者だということになっている。それが本当だとしても、やはりフェミニズムやジェンダーフリーは最初から社会主義思想の一派だったということになる。
フーリエはエンゲルスに先立って家族制度の廃止を述べ、代わりに「ファランジュ(Phalanges)」という生活共同体を提唱する。この「ファランジュ」は性別に関係なく同じ教育を受け、子供の頃からスカートとズボンという衣服による性別の区別もやめる。一夫一婦制は否定され、いつでも解約可能な任意結婚と、これらの夫婦間による交際(今でいう「スワッピング」のことだ)でさえ可能とされる。こうなると男に都合がよいのか、女に都合がよいのかよくわからないが、ジェンダーフリー社会のアイデアの「はしり」のようなもので、しかも現在のジェンダーフリー案も、この「空想的社会主義」からたいして変わっていない。
その後、上に書いたマルクス&エンゲルスを経て、次に紹介するのがレーニンである。実はソ連では、ロシア革命直後に女性解放のための政策も実施している。その内容は、もちろんマルクス&エンゲルスのそれだ。そして、見事に失敗した。堕胎と離婚の急増、出産率の急減、少年非行の急増。そしてなによりも、性の自由化がもたらしたのは生活を破壊された女性と、両親の揃わない子供達の急増であった。もちろんソ連政府は(というべきか、ソビエト共産党は、というべきか)政策を180度転換することになる。
もうひとつの失敗例はスウェーデンで、ここでもフェミニズム=ジェンダーフリー思想による「育児の社会化」政策が勧められた。その結果として生じたのは、親の国家への精神的依存体質と、やはり少年非行の急増だった。このスウェーデンの失敗政策も、現在では不況と財政赤字も手伝って方向転換している。
はたしてフェミニスト=ジェンダーフリー論者は、これらの失敗例について無知なのか、それとも知っていて口を拭っているのか、興味のあるところだ。少なくとも、過去の海外の失敗例を踏まえた改善策などはまったく見られないのだから、「かれらはやり方が拙かったのだ」といういいわけも出来ないだろう。もしそう主張するのであれば、彼らの失敗の原因が那辺にあり、それについてどのような対策を考えているのかという、具体的で説得力のある説明ができなくてはならないだろう。しかしそれが不可能なことは、少し考えれば誰にでもわかることなのではないか。社会主義と同様、成功例が存在しないのだから話にならないのだ。
他にも問題点を挙げてみよう。
まず、男女が階級対立の関係にあるというエンゲルスの指摘だが、これは現在でもフェミニズムが「男」と「女」をゼロ和ゲーム(ゼロサムゲーム)の形でとらえていることと同型である。そして実際にそのような場面もあり得るとは思うが、しかしそれは男女の本質ではないし、性別というものをその一面だけで捉えても、何もわかったことにはならない。以前から書いているように、性差と性差別は違う。性差別は性差を利用して行なわれるが、性差が性差別の本質であるわけではない(これは差異と差別の全般について同じことがいえる)。また別の一面では、性差はエロスの源泉でもあるという事に、フェミニスト=ジェンダーフリー論者を遥かに上回る人々が賛同してくれると確信している。
次に、家事・家計が私的奉仕でありそれを司る主婦を「家内奴隷」とか「筆頭女中」だというのも、かなり偏った見方だといわざるを得ない。一見すると、これと違った見方をしているように見えるのが、上野千鶴子である。彼女は家事・育児を「労働力の再生産」と捉え、これをたんなる「私的奉仕」ではなく社会的意義のあるものとして捉える。そこから「家事労働に賃金を」と主張が出て来るわけだが、これは結局はエンゲルスの見方と五十歩百歩なのだ。この上野の考え方だと「婚姻」は、家事労働のための「労働力」を対価と引き換えに提供する契約だということになってしまう。ならば、主婦は「家政婦・兼・愛人」とどう違うのか、という話になってしまうからだ。結局のところ、彼らの誤りの原因は次の2点にある。
一つは、(ヘーゲルが述べたように)「家族」と「市民社会(経済の領域)」とが別原理に立脚しているのに、それを無視して、「家族」を「市民社会」の原理(経済学的視点)で見ているということである。もう一つは、それと密接不可分な関係にあるのだが、既に述べたように、「労働」と「賃労働」が混同されているということである。「労働(≠賃労働)」によって得る他者からの承認は、なにも貨幣とは限らない。私はこれを、4年も前に「18.家事労働と更進性」で指摘している。
専業主婦が家族というエロス的な関係において労力を用いた場合、あるいは大切な友達のために動く場合、私達はそもそも金銭的な見返りなど期待していない。まったく何も期待していないというと、綺麗事が過ぎるような気がするが、このような場合の「見返り」はかけがえのない家族や友人からの承認なのである。「意気に感じる」とか「士は己を知るもののために死す」というのも、経済学的な観点からは理解不可能だろう。しかし、学問的に理解不可能だからといって、それは「存在しない」のでもなければ「迷信」や「妄言」なのでもない。それはむしろ、人間が意味や価値を持ち、他者からの承認によって自我の安定を得るという普遍的な性質に由来する心性なのである。
このことから、夫の稼ぎ手・扶養者としての経済的優位という条件をなくせば、女性が解放されるというのも誤りだということがわかる。念のために書いておくと、「それによって解放される女性もいる」というのであれば認めるに吝かではない。しかし、それによって全女性が解放されるとか、女性に対する暴力が根絶できるというのは、何の論理性もない。マルクス主義の唯物史観では、経済が文化や制度を決定するということになっているから、こういう考え方が出てくるのだろう。しかしこの考え方では、例えば稼ぎ手・扶養者である水商売の女性が、ヒモである男性に支配され暴力を振るわれるという事態を説明することは出来ない。理由は簡単で、上の段落でも述べたように唯物史観では人間が意味や価値を持ち、他者からの承認によって自我の安定を得るという、誰もが経験しているはずの事実が見落とされているからだ。
自然科学ならば、ある物質に同じ条件を加えればそれらの物質は一様に同じ変化を見せるだろうし、それは再現性のある「事実」として確定してしまっても、それほど不都合は生じない。しかし人間の場合には、ある条件を与えれば誰もがこのように行動するはずだというような絶対的な条件などありはしないのである。もちろんこれは、一人ひとりの人間がその人に固有の(他者と交換不可能の)自分の「生」を生きているという事情による。そして各人の固有の生を「実存」と呼ぶ。社会を変えれば「誰もが」解放されるという考え方は、実存的な観点の欠落から生じるのだ。そして、このような考え方をしている限り、個性の尊重とか、多様性を認めるというのは、単なる綺麗事としてのタテマエに過ぎない。
現にジェンダーフリーが目論んでいることの一つは「専業主婦潰し」であり、選択肢の限定である。もちろん私は「男性は外、女性は内」という固定した観念を持っているわけではないから、外に出て働きたいと思う女性が存在することそれ自体には、異論はない。というよりも、それは私が賛成したり反対したりするようなことではなく、「好きにしてくれ」としか言いようがないことなのだ。だが、「外に出て働きたい女性」が(まさか、そのすべてがというわけではあるまいが)、自分たちだけに都合のよいように社会制度を変えようとするのは不当だ、といいたいのである。現在のフェミニズム=ジェンダーフリーの主張は、せいぜい「外に出て働きたい女性」にとっての解放に過ぎず、間違っても「すべての女性」の解放とはなり得ない。自分たちの要求を主張するのはよいが、それを全女性の意見であるかのような形で主張するならば、「一部女性の特殊意思」を「全女性の一般意思」にすりかえる欺罔である。
参考
・『誰が教育を滅ぼしたか 学校、家族を蝕む怪しき思想』(八木秀次・PHP研究所)
・『家族・私有財産・国家の起源』(エンゲルス・岩波文庫)
