67.近代とスーツ

神名龍子


 私は前回、服装の性差批判が階級闘争史観や近代批判とセットになっていることを指摘した。指摘はしたが、これについては前回は具体的に説明していない。それが今回のテーマである。ここでいう階級闘争史観や近代批判は、産業社会批判であると言い替えてもいい。

などがそうした批判の例である。男性がスカートを履かなくなったのは、近代国家が出来てから、上流階級は戦争に駆り出され、他の階級の男性は労働力として、また戦時には兵士として駆り出されるようになったからだ、というわけだ。しかしこれらの批判は男性の(そして女性の)服装が何であるかということも、その歴史的な変遷も、まともに検証されたものだとはいえない。その理由、特に歴史的変遷の概観については前回に述べた。今回は、国民国家の成立と服装の変化に焦点を当ててみよう。


 まず第一に指摘しておかなければならないのは、「労働力としての男性」とは何であったかということだ。現在では都市人口が増えて農村の事項が減少している。これは給与生活者が増えたという事でもある。しかし、その給与生活者の中でスーツ(背広)を着る人、つまりサラリーマンが男性人口に占める割合を考えてみると、それが日本で急増したのは戦後の話である。もちろん大正時代でも、それ以前に比べれば増加はしているのだが、男性人口の中で占める割合は現代とは比べ物にならないくらい少ない(欧米ではこの変化は日本よりは早かったが、それでも大正〜昭和初期に相当する時期の話である)。都市労働者の中でサラリーマン以外の、残りの大部分が何であったかといえば、工場労働者である(集団就職や「中卒は金の卵」と言われた時期は少なくとも1960年代まで続いていたはずだ)。あとは大工その他の職人。それに日雇い人夫。もちろん、農村の労働者は農民である。

 さて、産業革命が起こったからといって、工場労働者や大工や日雇い人夫や農民が「背広」を着て働くようになったか? といえば、もちろんそんなことはありえない。日本の戦前の農民の中には、軍隊に入って初めて洋服を着たという人さえ少なくなかった。つまり、市民革命や産業革命から「男性=スーツ(背広)」という公式が出来あがるまでには、実際にはかなりのタイムラグがあったはずだ。市民革命や産業革命が起こったからといって、人々の着るものまで急激に変化するはずもなく、またその必要もなかったからだ。

 日本では、明治維新以降の近代化の着手から、多くの男性がスーツを着るようになるまで100年ほどもかかっているのだ。欧米ではその変化にはさらに長い年月を要している。この事実を、「スーツ=ドブネズミ説」は見事に無視しているのだ。その理由は、おそらく「スーツ=ドブネズミ説」を持ち出したのが、都市部に住むインテリ(と呼ばれるけど実はインテリジェンスに欠ける人達)だったからだろう。

 都市から離れた農村はもちろん都市貧困層さえも無視した、視野の狭隘な世界観の持ち主でなければ、「スーツ=ドブネズミ説」は提唱することも、それを聞いて納得することも不可能である。試みに都市近郊の自動車工場へ行って「スーツ=ドブネズミ説」を主張してみればいい。工場労働者からは「俺達はそんなものを着て働いていない」といわれるのがオチであろう。彼らは就業中には作業服を着ているはずだからだ。もちろん農村にも「どれ、今日も畑に行くべ」といってネクタイを締めスーツに身を包む人はいない。たぶんいないと思う。ちなみにバイク便もスーツ姿では走ったりはしないが、私は前近代的な職業に就いているのだろうか…。私は前回

と書いた。その理由がここにある。「スーツ=ドブネズミ説」は、スーツを着て仕事をしない人達は労働をしていないということなのか。それとも、スーツを着た人達だけを批判したい動機が隠されているのではないのか。

 「スーツを着た人達だけを批判したい動機」とは、まさに階級闘争史観や近代批判、産業社会批判である。これらの観点はマルクス主義からポストモダンに受け継がれ、今もなお社会の中に生きているといってよい。なぜなら元々「スーツを着た人」とは王族・貴族やブルジョアジーであり、まさに階級闘争史観において「人民の敵」の烙印を押された人達だからだ。

ついでに言うと、今でもフェミニストが盛んに攻撃している専業主婦とは、その大半は「スーツを着た人」の妻、つまり官吏や軍人、サラリーマンといった給与生活者やブルジョアジーの妻に他ならない。

 しかし、こうした観点からは「スーツが何であるか」を知ることはできない。スーツとは、確かに見方によっては質素・簡素で機能的に見える。しかし「質素・簡素」なのはあくまでも見た目のシンプルさの問題であって、決して「粗末な服装」であるわけではない。スーツの特徴の一つはそのシンプルなシルエットにある。このシルエットは前回も書いたように、男性なら男性の理想的な体型をベースにしている。そして、そのような服装が同時に「機能的」でもあるためには、立体裁断が必要である。簡単にいえば、高度で熟練した技術と数多くの工程が必要とされる。また、シルエットを重視するためにあまり派手な柄の生地を用いない。スーツに無地やストライプ、細かいチェック柄などが多用されるのはそのためである。

 スーツが《脱エロス的》な服装に感じられるとしたら、それはそう主張する論者がスーツについて無知で粗野だからだ。スーツは、服装そのものが美しいのではなく、人間が「着こなす」ことでその美を完成させるような衣装なのである。つまり着こなしにおいて必要とされる感性や、スーツを着用した際の立ち居振る舞いの問題である。当然の事ながら「スーツ=ドブネズミ説」においては、スーツ着用の際の「エレガンス」とか「粋」ということがまったく考えられていない。もう一つは、そのスーツが着用者の体型に合ったものかどうかということだ。スーツが着用者の体型を反映し、その身のこなしを反映する以上、これも当然のことである。「2着3万円」の量産スーツでは、よほど幸運に恵まれない限り、本来あるべき着用の仕方を実現できない。そういう幸運に恵まれない人は、フルオーダーが経済的に無理だとしても、せめてイージーオーダーくらいを最低ラインと心得るべきであろう。値段が高ければよいというのではない。価格の高低に関係なく、身体に合わない服を着て似合うはずがない、といいたいのだ。

 言い方を変えれば、スーツそれ自体はけっして《脱エロス的》な服装ではないが、スーツを《脱エロス的》にしか着ることの出来ない人はいる。女性やゲイの中には、スーツや軍服を着用した男性に魅力を感じ取る人も多い。もちろんこれは、着用の際の「エレガンス」という条件を満たしていれば、という話であって、スーツを《脱エロス的》な着用しか出来ない男性に魅力があるはずがない。現代の日本の男性にスーツが似合わない人が増えたのは、スーツが《脱エロス的》な服装だからではなく、スーツを着るような身体に訓練されていないからだ。つまりは、身のこなしや立ち居振る舞いの問題なのである。

これは男性だけの問題ではない。渋谷や原宿に行くと立ち居振る舞いのできていない女性がたくさん着飾っているが、やはり魅力は半減以下というところだ。

 逆にスポーツ選手がスーツを着ると、意外に(失礼 ^^;)魅力的に見える。武術家や警察官、自衛官にもそういう人が多い。あくまでも見た目の話だが、政界を見ても警察官僚出身者にはスーツの似合う人が多い(亀井静香代議士だけは、どうしてあんなに冴えない風体に見えるのか不思議である。もっともあれで和服姿だったら某落語家と間違えられるだろう ^^;)。サラリーマンや官僚は千差万別だが、割合としてはスポーツ選手等に劣る。また、日本人男性にスーツの似合わない理由が、人種的な体型の違いの問題だとしたら、スーツの似合う男性は年々増えて行くはずなのだが、実際には古い写真で見る明治時代の官僚の方が似合っているように見えるのである。

 スーツが似合わないのは、「近代」のせいでも「産業革命」のせいでもない。スーツを台無しにするような着こなししか出来ない男性がいるだけなのである。男性は女性のヌードで欲情できるが、女性には男性のヌードで興奮出来る人は少ない。男性は、スーツ姿で女性を引きつけられるくらいで、ようやく「スーツを着れた」といえるのだ(もちろんスーツ姿で歩くたびに女性から惚れられるようなレベルは要求しないが、好感を与えるくらいは最低ラインである)。

 もちろん問題は異性だけではない。ビジネス上の交渉事にしても同じで、スーツが着こなせている人は、それだけ相手の好感や信頼感を得やすい。逆に、いかにも「スーツを着なれていない」という感じがすると、胡散臭くて仕方がない(今はその「胡散臭さ」が日本社会のデファクト・スタンダードになりつつあるような気がするのだが、これが海外でどの程度通用するだろうか)。

 もちろん日頃の労働で交渉ごとの必要のない、工場労働者や農民、バイク便(^^;)などには、就業中にはスーツは要らない。それぞれ、それらしく見える服装であればよく、また「それらしい服装」はそれぞれの作業上の必要から工夫されてきたものだからだ。どんな職に就いてもそれらしい服装があり、それは選ぶのは個人の自由である。それが「近代」の柱の一つなのだ。元々、イギリスの貴族にルーツのあるスーツを「近代」と結び付けるのは無理がある。

 給与生活者が増えた現代では実感し難いが、スーツを着ることは一種の出世の証しだったはずだ。そしてそれは、彼がどのような「階級」に属しているかは、さしあたって関係ない。同じ「商人」でも、庶民だけを相手の商売ならスーツを着る必要はないが、貴族相手の商売ならそれなりの服装が必要になるだろう。貴族相手でなくとも、現代なら法人相手の商売には、たいていの場合はスーツを必要とする。商売の規模が大きくなるほど、その傾向がある。これは商人としての「信用」の問題である。あまりみすぼらしい格好をしていると、手形が落とせないんじゃないかと疑われたりする。現在の企業人のスーツは「こちらの商売は順調ですよ、ご迷惑はかけませんよ」という証しであり、あるいは「自分はそういう商社の一員です」というような身の証しなのだ(ホームレスのような服装で一流商社のバッジをつけていても、「どこでこのバッジを拾ったのか」と詰問されるのがオチである)。

 いわば、スーツの流行の理由は商業の発展にある。それは間接的には「近代」の産物といえるかもしれないが、「近代理念」や「近代国家」の成立が直接にスーツと結び付く理由はない。むしろそれ以前に遡って、スーツが上流階級の服装として発生したこと、それによってスーツが近代になっても「信頼」の意味を持つ記号として機能しつづけていること、そのシンプルな美を基調としたデザインが持つ普遍性などを考慮しなければ、「スーツ=ドブネズミ説」のような矛盾だらけの理屈しか得られない。「スーツ=ドブネズミ説」こそ、今後は「ドブネズミ神話」と呼ばれるべきである。

 最後に私は、声を大にして言いたい。

男性よ、スーツを「粋」に「エレガント」に着こなせ!!

うーむ、<H1>〜</H1> タグで囲んだから、これはかなり大きい…。

L.Jin-na


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