神名龍子
しばらく前に【反フェミニズムサイト】というサイトで、『女装社員は愉快犯である 「性同一性障害」とジェンダーフリー』という記事(2002/6/24付)が掲載されているのを見つけた(http://homepage2.nifty.com./antifemi/kiji20.html)。
作者は千葉展正というコラムニストで、共同通信社に勤めていたらしい。MTF の GID 当事者が「昭文社」から「女装して出勤した」ことなどを理由に懲戒解雇された件について書かれたものだ。
問題は、この一文が「性同一性障害」それ自体の否定として書かれていることにある。ジェンダーフリーに対する批判は大いに結構、またこの文が「昭文社」の件についての論評にとどまるものだったら、私もここで取り上たりはしない。しかし、「性同一性障害」それ自体の否定ならば話は別である。ここでは解雇の是非については取り上げない。「性同一性障害」それ自体の否定としてどういう言い方がされているか、またそれに対して私達がどのように反論することが出来るか、それが今回のテーマである。
| 「性同一性障害」の人々の多くはジェンダーフリー社会を夢見てゐるといふ。戸籍や住民票から性別の欄をなくする。男と女といふ区別を一切やめて人間A、人間Bと分類する。かうすれば性同一性障害の人たちもコンプレックスを抱かずに暮らすことができるとかれらは主張する。私はこのやうな主張をする人は性倒錯症よりも思考倒錯症を患つてゐると思ふ。ホルモンの変調などによつて苦しんでゐる不幸な人々を救済するのは医学の力によるべきであり、既存の社会制度をいじくり回して達成すべきものではない。 |
確かに、こういう考え方が「思考倒錯症を患つてゐる」ということには私も同意する。そもそもこういう主張をする GID 当事者は、「性別」概念をなくせというなら、まず自分が「私は女(男)である」という認識をなくせばよいのである。そうすれば、性同一性障害による精神的苦痛から解放される。しかし実際にはそれが出来ないから、性同一性障害は問題なのだ。自分に出来ないことを他人に強要すべきではない。GID 当事者がジェンダーフリーを主張するのは欺瞞の極みである。
しかし、本当に GID 当事者の「多くはジェンダーフリー社会を夢見てゐる」という事実があるだろうか。ジェンダーフリー論者は、その主張を声高にするから「多いように見える」ということはあるかもしれない。しかし、実際に GID 当事者、あるいはもう少し枠を広げて T's 全体を見渡しても、ジェンダーフリー論者が多数を占めているようには見えない。しかも千葉は、GID 当事者の多くが「ジェンダーフリー社会を夢見てゐる」ということを、自分で確かめたわけではなさそうだ。
| 「性同一性障害」の人々の多くはジェンダーフリー社会を夢見てゐるといふ。 |
とは、いったい誰が「いふ」のか。千葉がそれを信じた根拠は何か。元ジャーナリストなら、少しは自分で調べてみたらどうかと思う。また、もし仮にそれが事実だったとしよう。だからといって、「性同一性障害」それ自体を否定する必要はないはずだ。私のように、「性同一性障害」それ自体を否定しなくても「ジェンダーフリーは間違っている」ということは可能だからだ。あるカテゴリーに属する人々が何らかの主張を信じているとして、その主張が間違っているという事と、それを信じる人々を否定するということは全く別問題のはずである。
千葉と対照的なのが、やはり以前からジェンダーフリー批判を展開している八木秀次である。八木は『正論』8月号の『拝啓 石原慎太郎都知事』の中で、藤原和博が提唱する総合的な学習[よのなか]科を批判している。そこで具体的に挙げられているのが「『差異』と『差別』を考える ニューハーフの存在と自分の中の弱者(マイノリティ)の発見」という授業で、そこに「女装家」が登場するらしい。しかし八木のここでの批判はあくまでも授業の進め方や内容に関するもので、「女装家」の存在を否定するという事はしていない。
| 誤解のないように言っておくが、私は何も「女装家」を世の中から排除すべきだと言っているのではない。ただ教壇に立ち、子供たちを特定の方向に誘導するのは公教育としては不適切ではないかと言いたいのだ。 |
という「断り書き」まで付けている。八木の批判内容に対しては、賛同できる点も異論を述べたい点も共にあるのだが、少なくともこの基本態度は正しい(なお、この授業は小学館の『世界でいちばん受けたい授業2』に収録されているらしいが、私はまだ読んでいないので、今回は内容に関する批評は差し控える)。
一方、千葉は以下に紹介するように、「性同一性障害」それ自体の否定をこれでもかと展開する。GID 当事者がジェンダーフリーに賛同しようとしまいと、千葉は「性同一性障害」そのものを否定したいと考えているのではないか。しかも、それがまともな理屈にもなっていないのである。たとえば、
| 体と心の性が一致しないのを性同一性障害と呼ぶなら、貧乏人は「金同一性障害」だ。本当は金持ちになりたいのに貯金の現実と一致しないのだから。 |
というのがそれだ。ここでの千葉の間違いの一つは、性同一性障害の当事者が身体の性別と逆の性別に「なりたい」と考えているのだという点にある。千葉は『性同一性障害』(吉永みち子・集英社新書)を読んではいるらしいのだが、「性自認」という言葉の意味がよく判らなかったのだろう。GID 当事者は身体の性別と逆の性別に「なりたい」ではなく「〜である」と認識しているのだ。
つまり、あえて貧富の例をとるならば、「本当は金持ちになりたいのに」ではなく「本当は金持ちなのに」と書かなければならない。しかし、そんな貧乏人がいるのか? また、あえてそういう人がいるとしよう。その場合でも自己認識と現実を一致させてはならないという根拠は何もない。本当に「貯金の現実」が金持ちであるように、働いてお金を貯めればよいではないか。それが自助努力(自力救済)というものである。
しかし、自助努力はあくまでも「原則」であって、これには例外がある。自宅に、自分より強そうヤツばかり5人の強盗が押し入ってきたとして、これを自力で排除することは不可能だ。そういう場合には専門家の手を借りる。この場合なら警察であり、あるいは(事前に契約が成立しているなら)警備会社である。医療もまた、専門家に手を借りる分野である。だからホルモン投与であれ性転換手術であれ、専門家(医師)の手を借りる。それの何が不思議か。
また、千葉は『性同一性障害』(前掲書)から、性同一性障害であることをカミングアウトしたドイツの村長がリコールされた例を引いて、次のように言う。
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この村長の甘さは、たとへばアメリカ大統領がカミングアウトしたことを考へれば理解できるだらう。就任一年後のある朝、スカート姿に濃い化粧をした大統領がオーバルオフィスに現はれる。そして国民向けにテレビ演説を行ふ。 「国民のみなさんにお伝へしたいことがあります。この通り私は今日から女になりました。名前もマイクからジュリーに変へました。今日から私をジュリーと呼んで下さい」 ホワイトハウスを群集が取り囲んで暴動が起きるかもしれない。革命が起きる可能性もある。ビン・ラーディンは息を吹き返しテロを再開する。イラクや北朝鮮は対米ミサイル攻撃の準備を始める。そればかりではない。地球侵攻の機をうかがつてゐたエイリアンが「地球の指導者が精神異常をきたした」と地球に一斉攻撃を加へ、やがて人類は滅亡する・・・・。 言ふまでもないことだが、この混乱は大統領が女性であることから起きたものではない。大統領がはじめから女性候補者として選挙に出てゐればなんの問題もなかつた。現職のアメリカ大統領がカミングアウトすればパニックを引き起こすのは当たり前である。 |
さっぱりわけがわからない。「大統領がはじめから女性候補者として選挙に出てゐれば」イラクや北朝鮮は大人しくしているのだろうか? だとしたら千葉は、現在のアメリカ大統領は性同一性障害ではないという理由で、イラクや北朝鮮は何の問題もない国だといいたいのだろうか? そこにどんな理論的根拠があるというのか? まして、そんなことが理由で宇宙人が攻めて来たり、攻めて来なかったりするのだろうか?
これではフェミニズム=ジェンダーフリーのこじ付け、林道義氏が言うところの「フェ理屈」にも劣る。私の考えでは、性同一性障害であろうとなかろうと、誰もこんな理屈に本気で納得するとは、どうしても思えないのである。千葉はこの文章を、
| パニックを引き起こすことを知りながらやるとすれば、それは一種の愉快犯といふしかない。 |
といって締めくくっている。しかしこんなことを、説得力がないことを知りながら言っているとすれば、「それは一種の確信犯といふしかない」。
