69.やっぱり反対、夫婦別姓

神名龍子


 先日、「お龍さんの徒然草」のマルクス主義・ポストモダン・保守の中で、夫婦別姓について触れた。しかし、あとから考えると、あまり突き詰めて考えた内容になっているとは思えない。日記程度の記事だからそれはそれでしかたがないとしても、この問題はもう少しきちんと扱うべきものではなかったか、と思えてきた。そこで今回、ここで改めて夫婦別姓について考えることにする。はじめの方の内容は先日書いたものとほぼ同じだが、今回はさらに考察を追加する。


 性に関する問題、というよりも端的に「結婚」や「家族制度」に関係する問題として、「夫婦別姓」ということが、何年か前から言われている。夫婦別姓を実現すべきだという意見もあれば、これに反対する意見もある。しかし、推進派の主張するメリットも、反対派が主張するデメリットも、私には共によく理解できない。

 先に反対派についていうと、反対理由は「家族の一体感が破壊される」というものと「伝統」くらいのものだろうが、この「伝統」というのは何のことを指しているのだろうか。

 江戸時代には士農工商の内の「農工商」には原則として苗字はなかった。ついでながら、皇室にも「姓」も「苗字」もない。残りの武士や貴族、神主などを合わせても、日本の人口の1割かそこらだろう。その武士にしても、親子なら必ず同じ姓を名乗っていたわけではない。典型的なのは、尾張・紀伊・水戸のいわゆる徳川「御三家」である。ただし「御三家」の中でも「徳川」を名乗っていたのは当主(藩主)だけで、一族の他の者は「松平」姓だった。15代将軍・慶喜は水戸藩主「徳川斉昭」の息子だが、彼は水戸家においては「松平」姓である。後に養子に出て「一橋」姓になり、15代将軍になって初めて「徳川慶喜」になった。つまり、明治以前には姓がなかったり、姓が異なる例がほとんどだったのである。ならば家族が同じ姓を名乗ることによって「家族の一体感」を感じるのも、それを「伝統」だというのも、少なくとも明治以降の話であろう。

 そもそも「姓が異なるから一体感が持てない」というような家族なら、同じ姓を名乗ってもやはり崩壊するのではないか。家族の一体感という問題において、姓は本質的なものではない。同じ家の中に「磯野」と「フグ田」の二つの姓が同居していても、一つの家族としての一体感が維持されるということもある。家族の一体感が大切だというのなら、その本質が何であるかを付きとめるのが先決である。家族の一体感が醸成され維持される条件は、姓とは別にあるのだ。

 一方、別姓推進派が挙げる理由の一つに、女性が結婚して夫の姓を名乗るのは「家」制度の名残だというのがある。しかし法律には「夫の姓を名乗れ」とは書いていない。夫婦いずれかの姓を名乗ればよいのである。婚姻時に多くの夫婦が男性側の姓を名乗るのは法律の問題ではなくて、あくまでも慣習によるものだ。つまりこれは人々の意識の問題であって、法制度の問題ではない。

 そもそも、戦後の日本には連綿と続く「家」の制度などない。だから結婚は両性の同意にのみ基づくものとされ、成年に達しない内に結婚しても親権者の親権は消滅する。戸籍もその夫婦のものが作られる。つまり結婚とは双方の親から独立した個人(男女)の結合として規定されている。逆に、中国や韓国は「家」制度を重視する儒教社会だが、昔から現在に至るまで夫婦別姓である。つまり「家」制度と夫婦同姓とは、何の関係もないのである

 また、やはり別姓推進派が挙げる理由として、姓が変わるとそれ以前の職業上の実績が無視されるというのがある。昔の実績を別人のものだと勘違いされるというのだ。これについては私は、何年か前に初めてこの話を聞いたとき、それなら作家のペンネームのように、戸籍名とは別にワーキングネームでも使うという事も可能ではないかと考えたことがある。現在では実際にそのような案も出されているらしい。

 そもそも、姓が変わったくらいで支障が出るというなら、それはその人が「忘れられるような仕事しかしていない」ということを示してはいないだろうか。「荒井由美」が「松任谷由美」になったからといって、「荒井」姓時代の実績を忘れられたりはしないのである。逆に、嘉門達夫はその昔、落語家に入門して「笑福亭」一門にいたことがあるそうだが、その当時の実績が広く記憶されているという事はない。売れなかったからだ。これが橘家円蔵なら「あぁ、私が子供の頃の『円鏡』だ」とすぐにわかる。性別に関係なく、忘れられるような仕事しかしていないものは忘れられる。ただそれだけの話なのではないか。

 こう考えると、夫婦が同姓であろうと別姓であろうと、どうでもよい、という気になってくる。賛否両論のいずれの根拠にも、説得力を感じないからだ。それなら各夫婦ごとに好きにすればよいのであって、選択性の別姓案くらいが妥当な線ではないかと思えてくるのである。


 以上は推進派や反対派の意見に対する私の見解である。しかし、私自身は「夫婦の姓」について、どのように考えるのか。それは、上に述べたのとはまた別問題のはずである。「賛否いずれの意見にも説得力を感じないというならば、お前が納得する意見とはどういうものなのか」という問いを、私は自分自身に対して突きつけてみようというのである。当然の事ながら、そのためには推進派や反対派の意見とは、全く異なる考え方が要請されるはずだ。

 そもそも「夫婦」とか「結婚」とは何であるのか。それは上に述べたように、さしあたり「双方の親から独立した個人(男女)の結合」と考えることが出来る。これは現行の憲法では「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」(第24条)と規定されていることからもうかがい知ることが出来る。この憲法の規定と同様の考え方は、ヘーゲル『法の哲学』にも書かれている。ヘーゲルの哲学は近代哲学の例に漏れず「個人」を出発点として「社会」を考える。「個人」はバラバラな「孤人」のままで在り続けるのではなく、夫婦・家族や市民社会や国家などの、大小各種の共同体を作るのである。

 では、夫婦とはいかなる性質を持つ共同体なのか。まず上げることが出来るのは、それがエロス的な関係であって、ヘーゲルのいう「市民社会」(経済活動の領域)のような契約を媒介とする関係ではないということである。この「エロス的な関係」とは、お互いが夫婦という関係の中から「エロス」(=よい感じ)を汲み上げるということであり、あるいは「エロス」を与え合う関係といってもよい。だから、お互いに「エロス」を感じなくなったら、一緒にいるのが面倒になる。これだけなら「同棲」と同じ事だが、そういう関係になったということを対社会的に宣言し、社会から承認されるという点で異なっている。

 ところで、結婚という制度に縛られることを嫌って、同棲関係にも法的に結婚した夫婦と同等の権利や処遇を求める声がある。しかしこの主張は、明らかに結婚(婚姻)と同棲との違いを見誤っている。「同棲を始めたので法律上の夫婦と同等の処遇を求めます」という事は、要するに同棲という関係を社会的に認めろという要求である。しかし、そもそもそういう関係を社会的に認めるのが「婚姻」なのであり、社会的承認を求めないのが同棲なのである。このような要求は、例えば転居先の区役所に対して「転入届は出さないけど区民として認めろ」というのと同じだ。ただし、転居ならば転出・転入届の提出は義務だが、異性と生活を共にするにあたって婚姻届を出すか出さないかは、当人たちの意志によって決める問題である。「結婚という制度に縛られる」と考えること自体がおかしい。なぜなら「結婚という制度」に縛られるか否かは、当人自身が選択するものだからだ。婚姻は「婚姻は、両性の合意のみに基」くものであって、私達が国や自治体から婚姻を命じられることはない。

 さて、結婚する二人が、自分たちを法的に婚姻関係に置くということは、一種の選択である。選択である以上、そこにはある種の決意がある。それは、互いを排他的に独占し合うような関係を持つ決意であり、その関係を維持するという決意である。そしてそのような関係の維持は、「相互の協力により」なされなければならない。もちろん、だからといって婚姻を届け出るということが、関係の維持を保証するわけではない。上に述べたように、お互いに「エロス」を感じなくなったら、一緒にいるのが面倒になる。相手にエロスを感じるかどうか、また相手にエロスを与えることが出来るかどうかということは、法や制度によって保障する事はできないからだ。だからこそ、その維持のためには当人たちの決意を必要とするのである。

 ここまで考えて気付くことがある。夫婦が同じ姓を名乗るということは、その姓は単に「夫の姓であると同時に妻の姓でもある」ということではない。つまり姓とは、夫や妻という「個人」の名称なのではない。それはいわば「夫婦」という、社会の中の最小の「共同体」の名前なのである。つまり、企業や国家に名前があるように、夫婦にも名前がある。それが明治以降、近代日本における「姓」なのだ(法律上の用語では「氏」という)。ならば、夫婦は同姓であるべきである。企業において「社員別社名」は成立しないし、国家において「国民別国名」もあり得ない。それと同様に「夫婦別姓」もまたあり得ようはずがないのだ。

 この考え方は、結論だけ見れば別姓反対派と同じである。しかし私のこの結論は、最初の方で挙げた別姓推進派と反対派との、両方の主張と対立するような考え方から導き出されている。

 私の考えの前提にあるのは、あくまでも現在の結婚(婚姻)が、「家」から切り離された個人同士の結合とする考えだ。だから、もちろん反対派の伝統主義とは相反するし、また推進派のいうように夫婦が同じ姓を名乗ることを「家」制度の遺物だと見るのも当たらない。馬鹿な話で、別姓推進派が夫婦同姓を「家」制度の遺物とみなし、別姓反対派が「伝統」を理由にするのは、どちらも話が逆なのだ。「伝統」を言うならば別姓(もしくは無姓)を主張すべきだし、「家」制度からの脱却を主張するならば夫婦同姓を主張するべきなのである。私がどちらの意見にも納得出来ないのは、このためだったのだ。

 また、これも既に述べたことだが、夫婦が同じ姓を名乗ることが、その夫婦(あるいは家族)の関係の維持を保障するわけでもない。それは夫婦の決意と努力によるものであって、「夫婦の名」としての姓は、そのシンボルに過ぎない(これは例えば、国旗というシンボルの存在が国家の安定を保障するわけではなく、だからといってそれを理由として「国旗をなくせ」という話が出てこないのと同じことである)。

 それから、上では挙げなかったが、別姓推進派の主張にはもう一つ、「永年使っていた旧姓がその個人のアイデンティティにとって重要な意味をもつ」というのがある。しかし、それはあくまでも結婚前のアイデンティティの話であり、正確にいうならば結婚を決意する以前の話である。結婚し、結婚生活を維持することの決意が自らのアイデンティティに組み込まれないのであれば、その結婚の決意は何であるのかと問われても仕方がないのではないか。

 以上に述べてきたような理由で、「伝統」よりも近代原理を重んじる私としては、やはり「夫婦同姓」(=夫婦別姓反対)を主張せざるを得ないようだ

追記(02/09/14)
 本文中に、江戸時代に苗字を名乗っていた人たちを「日本の人口の1割かそこらだろう」と書いているが、もちろんこれは苗字を「公称」できた人という意味である。たとえば公文書では名のみ書かれている人物が、寺社への寄進帖には姓名を記されているという例もあり、このような「私称」も含めれば、この割合はもっと多くなる。

L.Jin-na


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