神名龍子
高校の教師の集まりに「中地区教組教文研」というのがあるらしい。過日、そこで行なわれたジェンダーフリー(男女共同参画)についての研究発表について知る機会があった。CMチェックの表が配られ、そこには「子どもが家にいて、テレビを見る時間帯のものばかり」、23のCMの名前が挙げられている。その表では、CMの名前の一つ一つに「1.ステレオタイプ」、「2.優劣付け」、「3.アイキャッチャー」、「4.アンチステレオタイプ」の欄があり、CMのビデオを見ながら、それぞれのCMがこの四つのどれにあたるか、該当すると思われる欄に丸をつけるのだという。この四つのタイプは、それぞれ、
ということらしい。要するに「4.アンチステレオタイプ」以外はダメ、ということだ。これに参加したある男性教師は、最初は意味がわからなかったそうだが、「先輩の女性の先生がたに教わって勉強して分かるようになりました」と述べたらしい。しかし教師たるもの、小難しい芸術論などは別にしても、「表現」や「CM」などの、それが何であるかということについて常識程度は心得ていなければまずいのではないか。CMの分類が出来るようになったといって喜んでいるようでは、言葉はきついが、私にはこの男性教師が人並みの知性を持ち合わせているとはどうしても思えないのである。
80年代のフェミニズムでも、ミスコンテストに反対したり、ここに挙げた1〜3に該当するようなポスターに「これは女性差別です」というステッカーを貼りつけて歩くことがあったが、この話しを知った私は、「いまだにこんな事をしているのか」と呆れる思いがした。これは現在では「メディアリテラシー」と呼ばれているらしいが、要するに「フェミニズムによる検閲」である。呼び方を変えたところで、やっている事はこの20〜30年、本質的には何も変わっていない。
当然のことながら、CMの製作に関わる人たちはイメージ作品の多義性に自覚的だ。その上で、自分達が意図するメッセージが受け手に伝わるような工夫をする。その際に大切なのは、CMを製作するその都度の時代に生きる人達の「気分」がどのあたりにあるか、を嗅ぎ分けることである。そのためにマーケティングがあり、あるいはコピーライターの感性に期待が寄せられる。現在のCMは、宣伝する製品がいかに優れているかを効能書きのように説明するのではなく、この気分を「射抜く」こと(それによって購買意欲を掻き立てること)を目的としているのである。
CMは「気分」をターゲットにするので、しばしばエロス性を多用する。それは水着やレオタード姿の女性であったり、若い男女の夫婦や恋人像であったりするわけだ。たとえば、ハワイ(沖縄、グァム、etc.)旅行のポスターなら、若くてスタイルのよい女性の水着姿と、ハゲて腹の出た中年男性の水着姿と、どちらをモデルとして選択するか。このとき、女性の水着姿の方が、男性だけでなく女性に対しても好感を与えるという判断が働くはずである。逆にいえば、一方の性に好感を与えながら、もう一方の性に不快感を与えるようなCMは、性差別ウンヌンという問題以前に、CMとして失敗作なのである。それは、フェミニストが糾弾しなくても、スポンサーが採用しないという形で淘汰されることになる(そこで淘汰されなければスポンサーが淘汰される)。このような淘汰の対象とならないCMを、フェミニストだけが糾弾するという事は、その糾弾がフェミニストに独特の感性に基づくものだという事を示している。
ところで、ここでいう「エロス性」とは、エロティックということではなくて、各人が自分の価値観に照らして「よい」と思うもの(こと)、自分にとってプラスに感じられること、という、広い意味で使っている。80年代以降の広告は「この商品を使うことによって得られるライフスタイルの提案」という形を取ることが多い。「提案」というと大袈裟だが、たとえば洗濯機の広告で、「この洗濯機がいかに優れているか」ということを説いても意味がない。洗濯機の性能など、今となってはどこのメーカーでも似たり寄ったりだからである。そこでイメージとして、洗濯のシーンでもそこに「幸福な家庭」が感じられるようなビジュアルを作ったりする。つまり、洗濯機というモノと「幸福感」をセットにして売り出す。あくまでイメージだから、本当に幸福になるかどうかは保証しないが、このような「幸福感」も一種のエロスである。なんだかんだといっても、アンケートを取ってみれば、まだまだ結婚願望・専業主婦願望は根強く存在するから、そういう気分を「射抜く」広告になるわけだ。
しかし上に書いたように、フェミニストはこのような多くの男女が持つ感性を共有していないため、フェミニスト独特のメッセージの受け取り方をしてしまう。つまりフェミニストは、作品評価を他の男女と共有できないのだ。そこで、自分達の「見方」こそが正しいと考えるところに発生するのが「検閲」の思想である。それぞれのCMがどのような文脈で作られたかということを無視して、ただ自分達の政治思想に合うか合わないか、それだけを唯一絶対の基準として判断する態度を取ることになる。
1970年代のインスタントラーメンのCMで、恋人か新婚に見える若い男女が出てきて「私作る人、僕食べる人」というのがあった。このCMは多くの、男女に好感を持って迎えられていたにも関わらず、当時の女性団体からの「男女の役割を固定化する」という抗議で中止された。結婚して長年連れ添っているうちに、男性の方もだんだん新婚当初の感動が薄れてゆくということはあるだろうが、そういう夫婦関係においての家事労働と、恋人関係や新婚家庭においての家事労働とを同一に評価することは出来ない。一口に「男女」とか「夫婦」といっても、女性にとって、彼が食べるものを作ることがうれしい関係もあれば、作るのがアホらしくなる関係もあるはずである。これがフェミニストの目に「男女の役割を固定化する」ように見えようと、「私作る人、僕食べる人」の両方が幸福を感じるような関係にある若い男女は現実にいくらでもいる。そもそもこのCMに政治性などあるはずがなく(そのような文脈で作られたCMであろうはずがなく)、抗議する側がそれを政治的に解釈していたに過ぎない。
もう一つ指摘しておかなければならないのは、このような形でCMを中止した場合、それは「企業側が非を認めた」という形で語り継がれてしまうということだ。事実、このCMの逸話は、現在でもフェミニズムの実績として語り継がれている。これと好対照なのが、さだまさしの「関白宣言」という歌だ。この歌も当時はフェミニズムの糾弾の格好の的となったが、さだがそれを意に介することはなかった。もちろん、さだ本人も含めて誰も(フェミニスト以外は)、「関白宣言」が「女性蔑視の推進」という政治的なメッセージを込めて作られた歌だと考えるはずがない。その結果、この歌は現在も残り続け、フェミニズム側もこの歌に関してはほとんど口をつぐんでいる。もし、さだが抗議に屈していたとしたらどのような事になっただろうか。今ごろは、「さだまさしがかつて『関白宣言』という女性差別的な歌を作ったことがあったが女性団体の抗議によって封じこめた」等、フェミニストの手柄話の一つとして語り継がれていたに違いないのである。
長い目で見て、CMを中止した企業と、「関白宣言」を歌い続けたさだと、どちらの判断が正しかったか。このような抗議には毅然とした態度を取るべきであり、普通の男女に支持されている限りは、フェミニストも執拗に「勝てないケンカ」にこだわり続けることは出来ない。
もちろん今後も、このような「検閲」の対象がCMだけに留まるという根拠は何もない。なぜなら、CM以外にもイメージ作品は存在していて、そのいずれにおいてもここまで述べてきたようなことが当てはまるからである。だから、もしかしたらいずれ、『ミロのヴィーナス』や『モナリザ』も検閲されるかも知れない。あるいはフェミニストが教会に押しかけて、「聖母子像」はすべて「女性=母性・固定化された性別分業のパターン」であるとして糾弾を始めるかも知れない。お伽話も含めた文学作品は、すでに糾弾の対象にされているようだ。この「検閲」の基準には歯止めが存在しない。
もうひとつ指摘しておきたいのは、実はフェミニストも自分達の感性が世の人々とズレていることを知っている、ということだ。これが、フェミニストの行動が強迫的にならざるを得ない動機なのである。人間は誰でも、自分の確信を維持するためには、他者との間に「確かめ合い」を必要とする。ただ、フェミニストはそれをフェミニスト同士でやる。あるいは、自分たちの話を聴いて納得してくれそうな人たちを集めてやる。そこに異論を持つ人が紛れ込んでいる場合には排除する。そうしないと、自分たちの信念を維持できないからである。開かれた言語ゲームを拒否して「関係の病」に陥る。左翼もそうだが、「検閲」の思想には必ずこの「関係の病」がセットになっている。もちろんこれは左翼だけの専売ではなく、たとえばヒトラーが絵画等の芸術活動に干渉したことは有名である。左右を問わず、思想や言論が統制されるところでは必ず見られる症状だといってよい。
そこで話しをCMから文学その他の芸術活動に移せば、表現活動をする人間の意識と、社会運動家の意識は異なる。この違いを無視したのが、かつての社会主義リアリズムやプロレタリア文学だった。社会運動家の理屈でいえば、一切の価値は社会変革にどれくらい寄与するかという事で決まる。そこから「この作品は人民の正しい発展のプロセスを描いていない」といった、的外れな批評が出てくる。文学その他の表現活動の本質は、自分自身の中にわだかまっている感情や問題を、理論的には表現できないけれども、文学や音楽、絵画など、それぞれの分野の表現形式によって表現し、自分を了解したり、その了解を他者と共有することにある。このような活動が、あらかじめ特定の思想によって決められた「正しさ」に拘束されなければならないとしたら、それは表現活動の弾圧に他ならない。
ただし、ここでの問題の本質は、「政治と表現とのいずれが優先か」という事ではない。このような「検閲」志向は、ある種の思想が絶対的な「正義」になろうとする時、必ず見られる兆候だということだ。簡単にいえば、これは社会の不健全さのメルクマールなのである。
