神名龍子
マーガレット・ミード(Margaret Mead,1901〜1978,米)という文化人類学者がいた。彼女はサモア諸島におけるフィールドワークによって、サモアでは競争も抑圧もなく性が解放されているがゆえに青年期のストレスや葛藤がないということを『サモアの思春期』(蒼樹書房1976,“Coming of Age in Samoa”1928)という本にまとめた。また『3つの原始社会における性と気質』では、彼女が研究した社会の一つ(チャンブリ族)における「女性の男性的性質」と「男性の女性的性質」とを誇張して発表した。
前者は「人間の在り様は生物的(遺伝的)に決定されるのではなく文化的に規定される」という誤った主張の根拠となり、後者については「男女の性別役割が逆転している社会が現実に存在する」という、これも誤った主張の根拠とみなされている。これは、どちらもミード自身の研究に重大な誤りがあること、さらにはミードの論文に対する文化決定論者達のさらなる誤解の産物である(もちろん、ここでいう「文化決定論者達」には、フェミニズムでいう構築主義者も含まれる)。
今回は「サモア編」と題して、『サモアの思春期』に見られる誤りと、そのような誤りが生じた背景について扱う。もちろん後日、「ニューギニア編」(仮称)としてチャンブリ族等の研究についても、その誤りを指摘する予定である。この問題は「性」についての考察のみならず、学問というものが持つ危うさ(それはそのまま人間の知の危うさでもある)の問題でもある。
ミードがサモアに滞在したのは、1925年8月31日(ミード23歳)から翌年5月までの9ヶ月間である。彼女はその後、再びサモアに戻ることはなかった。この当時、サモア諸島は欧米のいくつかの国のに分割され植民地(あるいは統治領)となっていたが、ミードが訪れたのはアメリカ海軍が統治する東サモアである。したがってこの当時、サモアは既に欧米人にとって「未知の世界」ではなかった。
しかしながら、ミードはサモアを訪れるにあたって、事前にサモアの文化について調べたわけでもなく、サモア語も習得していなかった。その上、彼女自身も記しているように「実のところあまりフィールドワークについて知らなかった」。では彼女はサモアでどのような調査をしたのだろうか。
まず最初にミードが取り組んだことは、6週間ほど(ミードがタウ島に移るまでと考えても最大で10週間ほど)のサモア語の習得である。そしてこの期間に、彼女はサモア人の家族と非文明的な生活を共にすることに、根強い反感を抱くようになる。10月には師のポアズ教授に、やたらとでんぷん質の多い現地の食事で6ヶ月の生活は無理だが、ホルト家と一緒であれば海軍人の酒保特権のおかげで充分に眠れるベッドとずっとよい食事が手に入れられそうだと手紙を書き送っている。その目論見通り、11月に調査地のタウ島へ移動してもアメリカ人家族(ホルト家)の家庭に寄宿する。10日ほどの短期間を現地人とともに暮らすことはあったが、ミードはサモア人の生活にそれほど深く接したわけではない。また、1926年は元日から猛烈なハリケーン(とフリーマンは書いているが、これは台風というべきであろう)に直撃され、その後の何週間かはサモア人が広域な被害の復旧に追われていたため、調査どころではなかった。
このような状況の中で、ミードはサモア人の生活に関する研究の多くを「全くもって情報提供者に依存」せざるを得なくなっていた。その上、彼女はサモアの社会や文化を「非常に単純だ」「複雑ではない」と思いこんでいた。ミードは「未開の民族」に関してはややこしい問題はあまりないので、訓練を積んだ学者なら2〜3ヶ月もあれば「未開社会の基礎構造をのみこむ」ことができると、『サモアの思春期』の序に書いている。現実にはサモアの社会や文化はかなり複雑で、サモア語もそれを反映して複雑なものになっているのだが、ミードにはそのような認識が完全に欠けていた。
ミードの研究テーマとしての関心は、文明国に共通して見られる思春期の葛藤(当時のアメリカでも問題視されていた)が、生物学的な原因によるものか、それとも文化的な原因によるものなのかという事にあった。そのためにミードは、サモアの社会や価値観をほとんど理解することなく、タウ島において10代後半の女性を相手に、片言のサモア語で調査を試みたのである。ミードのサモア滞在の全体を通じて、事前の準備が不充分な上に、粗略な調査であったというしかない。
このような調査の結果として、ミードは以下のような「サモア像」を描き出した。その中のいくつか箇条書きの形で挙げてみよう。
このようなミードの「サモア観」に対して徹底して批判を加えた人物がいる。『マーガレットミードとサモア』(みすず書房1995,“Mararet Mead and Samoa”1983)の著者、デレク・フリーマン(DerekFreeman,1916〜)である。彼は最初からミードの見解や、それを踏まえた文化決定論を否定しようとしていたわけではない。
それどころか、彼もまた文化人類学者であり、しかもフランツ・ボアズ(ミードの師であり文化決定論の旗手でもあった)の曾孫弟子にあたる人物である。彼自身が初めてサモアを訪れた時点(1940)では、彼はミードの「サモア像」を信じていた文化決定論者だったと、この本の序で述べている。ミードと同様にいわば「ボアズ学派」に属していたのだから、1940年の時点ではそれが当然であろう。
この時にフリーマンが訪れ滞在したのは、ミードが訪れた東サモアではなく、西サモアである。期間は1943年11月までと、ミードに比べて長期に渡る。彼は西サモアでミードの報告に反する数々の実例を目の当たりにし、それが東西に関係なくサモア全体の風習だという事を知るに及んで、ミードの報告を検証しなおす必要を悟った。以後、40年間に渡って何度もサモアを訪れ、繰り返し調査に当たった結果として著したのが、この『マーガレットミードとサモア』である。そして彼によれば、上に挙げたミードの見解はすべて間違っている。
※1920〜30年代は、母親が「どれが自分の子供か」を知らないようなシステムを理想とする思想が一部に流行しており、サモアの幼児期に関するミードの主張は、このような思想の影響を強く受けている。J.B.ワトソンは『幼児と児童の心理学的保護』(“Psychological Care of Infant and Child”1928)においてこのようなシステムを奨励し、このシステムのもとで思春期は「ひと続きの豊穣な時期」になるだろうと述べている。これは私が「ジェンダーフリーと社会主義」で示したように、フーリエの空想的社会主義から、現代のジェンダーフリーに至るまで一貫して左翼思想に見られる主張であり、現実には失敗の歴史しか存在しない杜撰な提案である。
※ミードは、サモアにおける結婚式のこの風習の存在を知っていたにも関わらず、サモアでは処女であることは重視されていないと主張した。彼女の主張では、花嫁になる女性が非処女である場合には、鶏の膀胱に鶏の血を詰めて、性器の中に仕込んでおく習慣があるという。また婿となる男性もそれを承知しており、もし出血がない場合には、処女でないことよりも鶏の血を仕込んでいなかったことを責められるのだとも主張している。しかしこれは、男女を問わずあらゆるサモア人が否定するところであり、ミードの主張には全く根拠がない。また解剖学的にも、鶏には膀胱が存在しない。
以上に述べて来たように、ミードが『サモアの思春期』で描いたサモアの社会や文化は、そのほとんどが誤りである。既に述べたように、この原因として、ミード自身に研究者としての知識や技量が決定的に不足していたことは疑いようもない。
彼女はサモアを「非常に単純」で「複雑ではない」未開社会だと考えていた。サモアについて事前に調べることもなく、その先入観を持ったまま現地に赴き、それからドロナワ式にサモア語を身につけ、しかもサモア人の生活に入り込んで行くことをせず、十代後半〜二十代前半の年齢の女性を招いて話を聞く方が多かった。これでは「フィールドワーク」と呼ぶに値しないといわれても仕方がないだろう。しかし彼女の誤りについて、その原因を彼女一人に負わせることは必ずしも正当とはいえない。
これは時代背景として、当時の学問の状況が大きく作用していたと考えられるからである。この当時は、人間の様々な性質や性格が、生物学的(遺伝的)に決定されるのか、それとも文化的(外遺伝的)に決定されるのかということが重要な問題とされていた。それよりも数十年前、19世紀半ばにダーウィンが進化論を唱え、また1900年にメンデルの法則が「再発見」される。このような状況の中で、社会や文化も含めた「人間」について科学的に解明し得るという考えが生じる。たとえば、「未開」社会と「文明」社会の差異は、すべて各人種の生得的特性の差異として説明できるという考え方である。それは間もなく、人間の品種改良という発想をも生み出してゆく。今では悪名高い「優生学」である。1900年代には優生学の思想が宗教的な熱意をもって唱えられ、1910〜20年代には欧米を席巻するほどになった。
これに異を唱えたのが、前出のボアズを始めとする文化決定論である。ミードがサモアを訪れる1920年代には、文化決定論を基盤とした文化人類学の理論がほぼできあがっていた。1900年代には文化と生物学との関係の本質を究明するものだったが、やがて文化人類学は生物学との訣別を宣言するに至る。
この考えのベースになっているのは、フリーマンは触れていないが、おそらくはヒュームの経験論である。人間は生得的には何の観念も持たない「白紙(タブラ・ラサ)」として生まれ、様々な経験を経て諸観念を(したがって世界観を)構成してゆくという考え方である。この考え方には一定の説得力があるが、限界もある。つまり、人々の世界像が必ずしも一致しないことの説明は出来るのだが、数学や自然科学のように(例えば「2+3=5」のように)、ある領域では人々の間で共通の理解が成立する理由がわからなくなってしまうのだ。ボアズやミード、そして彼らの見解を今でも信じている諸分野の学者は、この問題にまったく鈍感である。
文化決定論が正しいと主張するためには、実例を挙げなくてはならない。つまり、人類に普遍的だと考えられている事柄について、「否定事例」を発見しなければならない。ミードがサモアを訪れたのは本来は「思春期の行動が、どの程度生理学的に、また文化的に決定されるのかを解明するための研究」の必要をボアズが認めていたからであった。しかし、彼女はサモアでの粗雑な研究から、すべて文化的に決定されるかのような結論を出してしまう。これがボアズが求めていた「否定事例」であるかのように受け取られたのである。またこのような結論を導出するにあたっては、ミードと親しかったルース・ベネディクト(日本では『菊と刀』の著者として有名)の影響も大きかったようだ。
ミードの報告は、よほどボアズの欲求に適うものであったらしい。ボアズは他の業績や言動を見る限り、冷静な学者という印象を受けるのだが、この時はミードの報告に対して何の検証もせずに最大限の賛辞を贈ってしまうのである(その気になればボアズは、サモアに関する他の文献に照らして、ミードの報告がそれらのいずれとも異質なものであることに気がつくことが可能だったはずである)。こうして、ミードの荒唐無稽な報告は、アメリカの文化人類学において事実である「かのような」扱いを受けてしまうことになる。
『サモアの思春期』はその後、ニュージーランドやアメリカの大学に留学したサモア人の目にとまったり、サモアを知る他の人たちから反駁され続けたにも関わらず、今でも事実である「かのような」扱いを受けている。
ミードの報告には、彼女がサモアを訪れたのと同じ時期の他の報告とも食い違いが見られる。例えばこの時期に大きな争いがあり、また特にミードが訪れた東サモアでは米海軍の統治に対する反発から、以上に緊張感の高い時期でもあった。それにも関わらず、彼女はサモアに争いらしい争いが存在しないかのようなことを述べているのである。また、彼女にはサモアについての知識も、サモア語の習得もかなりレベルが低かった(彼女のサモア語は片言程度のもので、彼女の著作にはサモア語の間違いが多数見られるとのことである)。既に示したように、サモアについてのミードの主張には根本的な誤りが多く、とんでもないウソも数多く混じっている。
ただしミード自身はまったく意図的な「でっちあげ」をしたわけでもなさそうである。ミードがサモアの文化、特に思春期の女子の性について聞き取り調査の対象とした少女(当時)が後に述べたところによると、彼女達はミードをからかってウソを教えたのだという証言がある。しかしながらミードの能力では、サモアの娘達から聞いた話が事実であるかどうかを、現地において確かめることができなかった。
サモアでは厳しい性道徳(あらゆる面で厳しい道徳)のせいで、外部の人間や目上の者とセックス談義をすることがはばかられ、特に娘はそのような話をしない。このことは他の女性の報告でも述べられており、質問が性行動に及ぶとサモアの娘は恥ずかしそうに押し黙ってしまうというのが、通常の反応なのである。
ところがミードの彼女達に対する質問は、まさにこの種の情報に集中していた。ミードはサモアの若い娘達に対して、触れられるだけでも困惑するようなことについて、何もかも正直に言えという非常識な強制をしたのである。しかもの頃のミードは年齢よりも若く見え、背も低くて外見はまったくの少女だった。サモアの娘達がミードを年上の女性として尊敬に値すると考えたなら、やはりミードの質問に対して「恥ずかしそうに押し黙って」しまっただろう。しかしミードは、外見と質問のために、おそらくはサモアの娘達に「なめられた」ようだ。サモアの娘達にすれば「おもしろい白人の娘がカタコトで卑猥なことばかり聞くので作り話をでっち上げてやった」というのが事実のようだ。
もちろんこの時、サモアの娘達はまさか自分達のウソがアメリカで学術論文として出版されるなどとは考えていない。しかし、このサモアの娘達の罪のないウソが、当時の欧米での生物学的決定論と文化的決定論の対立という時代背景の中で、過剰な評価を得て行くことになる。そして、日本でもいまだに信奉者が存在しているような「神話」となってしまったのである。
このような「ミード神話」は、現在の日本でも、文化人類学やフェミニズムに関する本で、再三に渡って取り上げられている。手っ取り早いところでは、『文化人類学辞典』や『女性学辞典』といった類いの本を探せば必ず書いてあるだろう。彼らはミード描くところのサモア像を疑いもしない。ミード批判に対して反論するわけでもなく、そのような批判は存在しないかのように、ただひたすらミードの報告だけを盲信する。これは1920年代のボアズ(や他の文化人類学者)と同様、自分が信じる説に都合のよい事実だけを受け入れるという、学者にあるまじき態度である。
しかし、ミードが描いたところの「サモア」は、過去においても現在においても地球上のいかなる場所にも存在しない。それはただ、人間を考察するに当たって生物学的な要因を完全に排除したいと願う人たちの「世界観」の中にのみ存在するのである。
参考:『マーガレットミードとサモア』(D・フリーマン/木村洋二訳・みすず書房)
