74.ミードの幻想(ニューギニア編)

神名龍子


 前回の「サモア編」に続いて、「ニューギニア編」である。ここではマーガレット・ミード(Margaret Mead,1901〜1978,米)の『3つの原始社会における性と気質』(“Sex and Temperament in Three Primitive Societies”1935)から、特にチャンブリ族について取り上げる。この本は、男女の性別役割が逆転した社会の実例として、つまり性別役割がそれぞれの性別に固定的なものだという主張に対する否定事例として、ジェンダーフリー論者が好んで取り上げるものである(ただしそのほとんどは、ミードの例を引いた本の受け売りや孫引きなのだが)。しかし現在の文化人類学においては、サモアの例と同様に、ここでもミードが誤った観察と記述をしていることが明らかになっている

 また、ミード自身が「自分は性差の存在を否定するような実例を見つけたなどとはどこにも書いた覚えはない」「女性が統治する社会について立て続けに成された主張は全てナンセンスである。そのような社会が存在すると信じる理由はどこにもない」と述べていることは、まったくといってよいほど知られていない。今回はこれらの点について明らかにし、彼らのいう「学問的検証」や「文化人類学の成果」の正体を暴いてゆく。

1.ミードが描くチャンブリ族
2.チャンブリ族の実像
3.男女逆転社会は存在しない


1.ミードが描くチャンブリ族

 ミードは『3つの原始社会における性と気質』の中で、男性と女性の気質のパターンが異なる3つの社会を紹介している。1つは(ミードの形容によれば)男女ともに西洋の理想的な男性のようであり、もう1つは男女とも西洋の理想的な女性のようであった。3番目の社会、つまりパプア・ニューギニアに住むチャンブリ族の社会についてミードは、

と記述している。女性が優位だという理由は次の3点である。

  1. 経済的な生産の役目を女性が果たしている。
    女性は漁労のほとんどを担い、他の部族との間で魚をサゴ(サゴヤシの幹から得られる食用澱粉)やその他の食糧と交換する。また重要な交易品である蚊帳を編む。
  2. 女性は強い結束を示す。
  3. 女性は男性よりも情緒的に安定しているように見える。

 それに対してチャンブリ族の男性は、事実上女性に依存しており、女性から食糧や金を得る。大半の時間を絵を描いたり踊りなど、非生産的な芸術活動に費やし、些細なことにいらついて口論をし、身繕いに気を配り、あるいは買い物に出かけるのである。


2.チャンブリ族の実像

 しかし現在では、ミードが主張するチャンブリ族の性質もまた誤りであることが、デボラ・ゲワーツ(Deborah Gewertz)の1974年から75年にかけてのの再調査によって明らかにされている。ゲワーツの関心はチャンブリ族の交易・交換にあったが、その調査の中で、ミードが報告したチャンブリ族の男性と女性の姿が現実には当てはまらないことに気がついた。

 チャンブリ族の伝統的概念では、男性は攻撃的で女性は服従的であり、この傾向は調査し得る範囲だけでも、少なくとも1850年までさかのぼれることがわかった。確かにチャンブリ族の女性は一家の稼ぎ手ではあったが、その労働の産物をコントロールするのは夫や父親であった。ミードは、自らの労働の収益を渡すかどうかは女性に選択権があると述べているが、そのような実例を挙げているわけではなく、これもゲワーツの調査によって女性には「自分の生産物を誰に、どのようなときに与えるかを決める自由はなかった」と断言している。

 私なりに喩えていうなら、この経済領域における男女の関係は、現在の私達の社会での、工場の経営者と労働者に似ているように思える。直接に生産に携わるからといって、工場労働者に生産物に対する自由な裁量権があるわけではない。

 チャンブリ族の女性が「男性的に」振舞う場面がなかったわけではない、しかしそれは、他の部族の女性に対するものである。魚とサゴを交換する相手の部族に対して、チャンブリ族は優位に立ち、相手部族はチャンブリ族の優位に服従していた。もちろんこのことは、チャンブリ族の女性がチャンブリ族の男性を支配することを、全く意味しない

 ところで、これはミードも記録していることだが、チャンブリ族は近隣の部族との戦いに負けたために、長期にわたって住む土地(セピック河近くの湖の中の島)を追われて放浪していた時期があった。ミードの彼らに対するフィールドワークを行なったのは、彼らが自分たちの島に戻ってきたばかりの時期だったのである。

 かつて島から追い出された時に、チャンブリ族の建物や儀礼用具はすべて焼かれてしまっていた。ミードがニューギニアでフィールドワークを行なった1930年代は、チャンブリ族の男性にとっては、これらの失ったものの再建に取り組んでいた時期である。ミードの報告にある、チャンブリ族の男性の非生産的な芸術活動とは、この儀礼用具等の再建活動に他ならない

 チャンブリ族の男性は妻にしばしば暴力を振るう人々であり、また、チャンブリ族では男性が成人するための通過儀礼の一つとして殺人を行う。そして、チャンブリ族の男性はこの通過儀礼を済ませて初めてその顔にフェースペイントすることが許されるのだが、このフェースペイントこそミードが女性的と考えた「男性の化粧」なのである。これらのことも、その後の研究で明らかになった。


3.男女逆転社会は存在しない

 フェミニストはジェンダーの常識を相対化するために、しばしば「神話」という表現を用いる。この場合の「神話」とは、根拠が確認できないにも関わらず真実として共有されている思い込みの意味だろう。しかし、「神話」という表現をこの意味で用いるなら、「女性が男性よりも優位に立つ社会が存在する、あるいはかつて存在した」という思い込みこそが「神話」なのである。そのような社会の存在、あるいはそれを示す信頼できる報告は、いまだ一つとして見つかっていない。

 ジェシー・バーナード(Jesse Bernard, フェミニスト社会学者)はミードの結論を受け入れるのはやぶさかではなかっただろうが、その彼女でさえ、もし読者が形容詞を無視したなら、チャンブリ族が他の社会と非常に異なっているとは思わないだろうと指摘した。「精力に乏しい」狩人と「好戦的な」子どもに食事を与えている女というのは、それでもやはり狩人は男であり、子どもに食事を与えているのは女であり、男女の役割が逆転しているようにさえ示しているのはマーガレット・ミードが使っている形容詞のみなのである、と。

 これに対してミードは「アメリカ人類学」への投稿で、自分は性差の存在を否定するような実例を見つけたなどとはどこにも書いた覚えはない、私の研究は普遍的な男女の性差が存在するかづかに関するものではなかった、と述べている。またミードは、スティーブン・ゴールドバーグ(Steven Goldberg, ニューヨーク市立大学社会学部教授)の著書『家父長制の必然性』(“The Inevitability of Patriarchy”)への書評の中でも、

It is true, as Professor Goldberg points out, that all the claims so glibly made about societies ruled by women are non-sense. We have no reason to believe that they ever existed. . . . Men have always been the leaders in public affairs and the final authorities at home.

実際、ゴールドバーグ博士が指摘しているように、女性が統治する社会について立て続けに成された主張は全てナンセンスである。そのような社会が存在すると信じる理由はどこにもない。・・・男性は常に公事における指導者であり、家庭における最高権力者でありつづけたのであるから。

と述べている。つまり、ミードはあくまでも男女の気質について述べたのであって(前述の通りそれすらも誤解が混じっているのだが)、男女の社会的な性別役割が逆転した実例があるといっているのではない、ということを自ら認めているのである。

 しかしながら、大きな書店に行って文化人類学の本を何冊か手にとって見ると、日本ではこの事実がほとんど知られていないことがわかる。この事情はアメリカでも同様らしい。

 上記のゴールドバーグ博士が興味深い指摘をしている。彼がアメリカの大型書店でみつけた初級社会学の本38冊のうち、なんと36冊が性別役割の章でミードのチャンブリ族の研究についての議論を冒頭に持ってきており、それが男性・女性の行動がどのように環境に影響される性質があるかを示しているというのである。確信的に事実を歪曲して記載する教科書は、それらが代表する学派と同様、男女の性差が性別学的に決定されるということを否定しなければならないという、イデオロギー上の使命感をもって作られている。日本の女性学や文化人類学の本にも、まったく同様の事情が存在している(後者については、そのすべてがそうだとは思わないが)。

 日本では国語の教科書にすら、そういう歪曲本がある。来年度から使用される『展開 国語総合』(桐原書店)には、「ジェンダーの視点から」という伊藤公雄(大阪大学教授)の文章が掲載されている。出展は『ジェンダーで学ぶ社会学』という本で、これがやはりミードのチャンブリ族の研究などを引いて、性差を否定する文章なのである。伊藤は『ジェンダーで学ぶ社会学』に先だって、『男性学入門』という本で、

 ミードのこの研究から、すでに六〇年以上の年月が経過している。
 しかし、最近の文化人類学の成果では、フェミニズムの立場から研究を行なっている研究者からも、ミードの例に対していささか懐疑的な考察が増加しているようである。
 つまり、「性役割」や、<男らしさ><女らしさ>の文化的な規定性については承認するが、同時に、あらゆる文化を通じて[男/女]のニ項対立図式が普遍的に存在しており、また、そのほとんどすべてにおいて、男性の側が“文化”を、そして女性の側が“自然”を代表するという、“男性優位型のものの見方”が存在しているというのである(オートナーほか『男が文化で女が自然か』山崎オヲル監訳、新評論など参照)。
    (中略)
 もちろん、これらの人類学者たちはフェミニストであるから、この現状を肯定するわけではない。むしろ、女性の劣位の原因が、育児への拘束にあるのだから、育児を男女共同の作業とすることで、女性の社会参加を拡大することの必要性こそ、彼女たちは主張しているのだ。
 すべての文化が「男性優位主義」になっているかどうかという点については疑問があるのだが、

と述べている(P167〜168)。ちなみに『男性学入門』は初版1996年、『ジェンダーで学ぶ社会学』は1998年である。したがって伊藤は「ジェンダーの視点から」を書いた時点では既に、「フェミニズムの立場から研究を行なっている研究者からも、ミードの例に対していささか懐疑的な考察が増加している」ということを知っていたはずである。ところが伊藤は、このようなミードの見解に対する懐疑(実際には「否定」というべきだが)について、いかなる反証も示さないままに正しいものとみなし、ぬけぬけと「育児は女性に向いているという意見には、さきに挙げたミードの研究が反論してくれるだろう」と書いてしまう。これは「確信犯的に」ミードの研究成果を正しいものとして(事実を歪曲して)扱ったと考えざるを得ない。私はこの教科書がどれくらいのシェアを占めるのか知らないが、少なくとも来年度から何割かの高校生が、このデタラメな教科書を使うことになるのは確かである。

 ジェンダーフリー論者は、性差の否定ないし相対化を主張するに当たって、しばしば「学問的検証」や「文化人類学の成果」ということを口にする。しかしその実態は、誤った研究成果であっても自分たちの主張にとって都合のよい見解であれば採用し、もちろん厳密な検証もせず、さらに自分たちの主張にとって都合よく拡大解釈するという手口が使われているに過ぎない。むろん、このような営みを「学問」とは呼べない。またこのような行為をする者は、それがどのような肩書きの持ち主であっても(たとえば「大阪大学教授」という肩書きの持ち主であっても)「学者」と呼ぶに値しないだろう。

 「学問的であること」と「学問を騙ること」とは、明らかに異なった、区別されるべきことと考えなければならないのである。

 参考:『ヒューマン・ユニヴァーサルズ 』(ドナルド・E・ブラウン/鈴木光太郎・中村潔訳・新曜社)

L.Jin-na


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