神名龍子
現在発売中のオピニオン誌『正論』2月号(扶桑社)に、『これが高槻市公認の「女装クラブ」でございます』という記事が掲載されている。論者は「団地妻ユキ」こと主婦の粕淵由紀子さん。「おぉ!ついに公営の女装クラブが!?」などと喜んではいけない(笑)。ここで書かれているのは、大阪市中央区の「メンズセンター」で行なわれた「男のフェスティバル」というイベントの話であって、高槻市が主催したものではない。ただ、その模様が大阪府の高槻市人権擁護推進協議会編集・発行の『は〜と&ハート情報誌アクティブ』(No.23)に肯定的に掲載されたことをもって「高槻市公認」と表現しているようだ。
では、この「男のフェスティバル」とは何であったのか。「メンズセンター」の方針は、従来の「男らしさ」を批判的に検討し、多様な個性を認めあい、「自分らしく」生きることを目的とした男性解放運動だそうである。では、彼らはどのような「自分らしく」を求めているのか。右に示したのが、『は〜と&ハート情報誌アクティブ』(No.23)に掲載された「男のフェスティバル」の写真である。
恐ろしいことだが、保守系の人間(大部分の『正論』読者がそうだろう)の中には、このような活動と T's を混同してしまう人がそれなりの比率で存在している。T's をまるごと「性差を否定しようとしている集団」であるかのように誤解する人がいるのだ。この現実が続く限り、TS の戸籍訂正であろうと、あるいは戸籍そのものの廃止であろうと、いかなる要求を掲げても実現することはない。なぜならこのような誤解が、現状では保守派である与党内の意見をまとめることを、著しく困難にするからである。
しかし、こんなのと一緒にされてはたまらない。「女装クラブ」といっても、もちろん T's であれば、これが大阪のエリザベスやパレットハウスとは、似ても似つかないものであることは、一目瞭然であろう。外見だけとっても、私達の感覚でいえばこれはドラッグ・クイーンと呼ぶほうが近い。しかし、T's についてあまり知識を持たない多くの人々にとっては、「女装」という言葉でひと括りにされてしまいかねないし、事実そのような誤解をする人たちがいるのである。私はこの数ヶ月間、保守系(この場合には反フェミニズム系)のサイトの掲示板に参加し、何度かこのような誤解の持ち主に対する説得・説明を試みてみた。その手応えから言えば、幸いなことに、大部分に人に対してこのような誤解を解くことは充分に可能であるといえる。
| ※ | 私はこの記事がいつ頃に書かれたものか知らないが、少なくとも現時点において、執筆者の粕淵さんにはそのような誤解や混同はない。為念。 |
私のこれまでの理解では、この「メンズセンター」のような運動は、セクシャルマイノリティとは関係ない。特に、T's についていえば、個人的に賛同する人はいるかも知れないが、カテゴリーとしての T's はこのような運動とは何の関係もない。理由は簡単で、このような運動の理論的な支えになっているのは、セクシャルマイノリティがどうのという話ではなく、ポストモダン思想だからである。フェミニズムも、マルクス主義やポストモダン思想などの「社会批判の思想」のアイデアを剽窃して使っているが、男性解放運動でも事情は同じなのである。
ポストモダン思想は、「反・真理主義」を中心的なモチーフとしているため、人間がある特定の形に落ち着くことを否定する性質を持っている。これはセクシャリティについても同様で「多様な性」とか「n個の性」というのも、ポストモダン思想に由来する概念なのである。
このような主張の根拠はおおまかには2種類あって、ひとつは文化人類学を根拠としたものだ。南洋のなんとかいう島では我々の世界とは全く違った男女の在り方をしているとか、歴史を遡れば同性愛が公認の社会だってあったのだという主張である。しかし、まず現在の地球上に限っていえば、マーガレット・ミードのように報告そのものが間違っていること、そして実際には「男」とや「女」の性二分制が、文化や文明の違いを超えた普遍性を持っていることが明らかになっている。少なくとも、その否定事例はこれまで発見されていない。
また過去の世界も含めていえば、そこに見られる特色は、私達の近代社会がとっくに乗り越えて、現代ではせいぜい辺境的な意味しか持たなくなったような「ひどさ」を伴っている、ということが見て取れるのである。たとえば、インドのヒジュラを「第三の性」として捉え、これを性二分制の否定事例だと考える人がいるが、このような場合も、実は女性性のバリエーションに過ぎず、「男性」から「女性」からも独立したまったき「第三の性」とは言い難い。しかもこれらの例では、聖性を伴う存在であるか、あるいはそれと表裏一体の価値観と考えられる形で賤民視されている。その意味でも、けっして普通の「男性」や「女性」と同じ意味においての「第三の性」ということはできない。
むしろ、このような非合理的な差別性を克服する原理を提出し、また、いまだ不完全とは言えども現に克服しつつあるのが近代社会ではないだろうか。非近代社会にこそ問題克服の可能性が見出せるかのような言説は、「第三の性」を語る際に必ずといってよいほど彼の社会においてそれと不可分とされているはずの差別性を捨象することで、ようやく「それらしい」主張をして見せているに過ぎない。そもそも、ヒジュラの存在する世界に、そのような差別性をなくそうという運動があるだろうか。たとえあるとしても、それは外部から近代思想としての「平等」を持ち込んだ結果であって、近代思想が彼の社会の矛盾を解決する原理として持ち込まれているのではないのか。したがって、非近代社会にこそ行き詰まった近代社会の問題を克服する可能性が見出せるという考えは、事実に反するのではないだろうか。
もうひとつはフロイトを曲解したものである。フロイトが幼児性欲の多型倒錯性を指摘したことを論拠とし、この多型倒錯性こそが人間の本来の姿であって、ほとんどの人間の性愛が異性愛の形を取るのは抑圧的な文化体系によるものだと考える。したがって、人間はもっと違った様々な形のセクシャリティの可能性に向かって開かれているはずだというわけだ。しかしフロイトは幼児性欲の多型倒錯性を、単に事実として指摘したのであって、それが人間本来の姿であるとはいっていない。またその後の研究も含めて、むしろ各発達段階において、上手く次の段階に進めなかったことが精神疾患(神経症や人格障害など)の原因だというのが、現在の有力な説であろう。
それから、「メンズセンター」が推奨する「女装」が、ポストモダン思想に由来しているといえる証拠が(これは状況証拠だが)もう一つある。上に掲載した写真で「彼ら」がどのような衣装を身に着けていたかというと、普通の洋服でもなければ和服でもない、どこかの辺境の民族衣装みたいな得体の知れないものを着ているのである。これは何かというと、性別だけではなく、特定の文化からの脱却も志向しているのだ。アメリカで六〇年代、日本では七〇年代に流行したヒッピーと同じことである。日本ではファッションが先に流行したのでわかり難いが、あれは明らかにポストモダン思想の表現なのだ。「メンズセンター」の女装は、T's とは何の関係もない、さしずめ「性のヒッピー」と呼ぶべきものであろう。しかし私には、今さらこのようなヒッピーファッションが流行るとは思えないし、それが定着しないであろうことは、なおさらである。
セクシャルマイノリティが、やむをえず自らの性質を引き受けてゆかなくてはならないのに対して、「彼ら」の女装はあくまでも自己選択的な「思想的態度」なのである。私はこれを明確に T's とは「別物」であると断言できる。正確にいえば、「メンズセンター」推奨の女装は、「女装」というよりも「脱男性装」と呼ぶべきものなのだ。
しかい、普通の(非 T's の)男性が女装をしたところで「楽」になれるはずがない。たとえば TG や TS にとっては、それが「本来の自分に戻る」という意味があるから自我の安定に役立つのであって、そうではない普通の男性に対して、同様の効果が期待できる道理のあろうはずがない。
この場合の「自我の安定」は「アイデンティティの安定」といい替えてもよいのだが、前述の通り、ポストモダン思想は人間がある特定の形に落ち着くことを否定する。したがって、このような男性解放運動の背景にポストモダン思想が存在する以上、理論に対して誠実であろうとすればするほど、いかなるアイデンティティも拒否せざるを得ず、「自我の安定」そのものを拒否してしまうことになるのだ。そこでは、ひたすら「自我の改変」という強迫観念に追い立てられることになり、「解放」も「自分らしく」も決して実現することはあり得ないのである。
