神名龍子
今月の読売新聞の記事で、高校生の2人に1人が、同年代の少女が金銭目的で性的交渉を持つことについて「問題はあるが本人の自由」と考えていることが、警察庁が実施したアンケート調査でわかった、という報道があった。アンケート対象は、3133人の中高校生である。「同じ年ごろの女の子が、見知らぬ人とセックスをして小遣いをもらうことをどう思うか」という質問に対して、
| 「問題ではあるが本人の自由」 | 「しても構わない」 | |
| 高校男子 | 50・1% | 8・2% |
| 高校女子 | 50・5% | 3・9% |
また、中学生に対する同じ質問では、「してはいけない」と答えた生徒が、中学男子の55・3%、女子の54・6%という数字も出ている。しかしこの調査結果は、中高校生の多くが売春を「してはいけない」または「問題である」と感じていることを示していないだろうか。
私の考えでは、中学生ではまだ教え込まれた道徳をそのまま答える傾向が強いのに対して、高校生はその根拠を考えるのだろうと思う。一般に思春期前の子供は、親などから教えられた規範をそのまま受け取るが、思春期に入ると、その規範の意味を考えて自分なりに納得しようとするし、納得できないような規範に対しては反抗的な態度を示すのである。そのため高校生では、直感的には「問題ではある」と感じているにも関わらず、なぜそれが悪いのかと言うことが説明できないので「〜が本人の自由」という答えになってしまうのであろう。
私は、大人に対して同じ調査をしても、やはり高校生と同じか、もう少し深刻な結果が出るのではないかと思っている。つまり「売春がなぜ悪いのか」といういうことを説明できる言葉を、多くの大人達もまた持っていないのではないか、ということだ。だから高校生が売春を「問題ではある」と感じていても、大人がそれを裏付けることができない。大人が「売春がなぜ悪いのか」を教えることができない以上、高校生は上記のように答えることしかできないのは当然であろう。
「問題ではあるが本人の自由」と「しても構わない」以外の回答をした高校生は、男子41・7%、女子45・6%。その中には「無回答」とか「わからない」というのも含まれているかもしれないが、これに「問題ではあるが本人の自由」と答えた生徒も加えて考えると、実は大部分の生徒は売春を「いけないこと or 問題である」と感じていることになるのだ。
フリーセックスを推奨するような教育が好ましくないのは当然だが、それを廃止するだけでは、あまり効果は期待できないだろう。それよりも、私たち大人が「売春がなぜ悪いのか」を教えることができないということの方が、より本質的な問題であるように思う。
なぜなら学校から「フリーセックスを推奨するような教育」が消えたとしても、学校の外には中高生が目にすることのできるセックス情報があふれているからである。したがって「××をなくせ」という消極策ばかりではだめで、現状では「売春がなぜ悪いのか」を教える言葉を作り上げて行くなどの「攻めの姿勢」が欠けているのだ。このような言葉を編み上げてゆくことで、現に多くの生徒が売春を「いけないこと・問題である」と感じている、その直感をより確かなものに育むことが可能になるのではないか。
この記事では、児童買春禁止運動に取り組んでいる坪井節子弁護士のコメントを取り上げているが、そこでは「国際的には、性被害に遭った児童を処罰しない流れになっており、むしろ男性の摘発に力を注ぐべきではないか」と述べられている。しかし私には、この指摘にまったく妥当性が感じられない。
確かに児童の売春については、1996年の「児童の商業的性的搾取に反対する世界会議において「被害者」と位置付けられ、保護対象とされている。しかしこのように、あらゆる売春を一括りに語ろうとすることに、私は全く納得できないのである。例えば、貧しい国々では、生活の為の売春や、悪徳業者によって無理矢理に売春を強制させられる例も多々あろうかと思う。もしかしたら後者は先進国にも見られるのかも知れないが、これらの例においては、確かに売春「させられる」児童を「被害者」と位置付けることに妥当性があるし、そのような子供達を処罰するのは不当である(ただし更正施設に送る必要は生じるかもしれないが)。しかし現在の日本の援助交際(という売春)を、無条件にこれらの例と同列に置いてしまうような思考の持ち主が、本当に児童の売春について「考えている」といえるだろうか。
この弁護士は、「問題は、少女の性を買う大人の側にある」といい、児童買春の被害者をみると、心を打ち明けられる親や友人がなく、その寂しさを埋めるための少女が多いこと、さらに「お金がほしいというのは表面的な理由にすぎない。家庭環境などの大きな背景があることに注目してほしい」というが、これはあくまでも、彼女達を「被害者」に位置付けたいという直感補強に過ぎない。寂しいからという理由で売春をする少女が、女子中高生の中でどれほどの割合を占めるというのか。そもそも今も昔も、この多感な少女期に、寂しさを感じたことのない女子中高生などいるとは思えない。したがってこの弁護士の理屈でいうなら、すべての女子中高生が売春経験者という事にもなりかねない。また、近年の少女売春の増加を説明する根拠にもなっていない。これは単に人々の同情心に訴えかけるための不合理な理屈であって、根拠に乏しいといわざるを得ない。
また、売買春は需要と供給があって初めて成立するものである。この売買の関係において、どちらか一方だけに問題があるというものではない。これは売春の代わりに、覚せい剤や麻薬の問題を考えてみればすぐにわかる。「問題は、覚せい剤を買う側にある」などという理屈が成立するはずもなく、常識的に考えれば売買の双方にそれぞれ問題があると考えるべきなのだ。冒頭に挙げたアンケートを参照すれば、多くの中高生が売春を「いけないこと・問題である」と感じているのは明らかであるから、そこに何らかの処罰を課すことが不当だとは言えない。あとは、どれくらいの量刑が妥当であるかということだけが問題であろう。
また「性の自己決定」という概念を振り回して、このような規制に反対する向きもあるようだが、そもそも「自由」や「自己決定」には必ず責任が伴う。責任能力が十全であるとはみなされない未成年者に、無条件に「自己決定」という概念を適用するのが間違っている。このような意見は、「自由」や「権利」についてまともに掘り下げられた考えになっていないのである。上記の弁護士も含めて、これらの意見は「売春がなぜ悪いのか」を教えることができない大人の典型だといってよい。
ヘーゲルの考えを借りると、人間には「家族・市民社会・国家」の3つの側面がある。「市民社会」というのは契約で成り立っている経済の領域のこと。そこで「生じる利害対立を調停するのが「国家」。売買春は、この3つの内のどの側面に属するのかというと、「市民社会」つまり契約に従って金銭的な売買をする市場原理の世界である。それに対して「家族」というのは、契約や金銭的な売買で成立している世界ではない。これは、友人や恋人といった関係でも同じことだが、人間同士のエロス的なつながりの世界である。つまり、「市民社会」とは異なる原理で成立している世界なのだ。
「売春がなぜ悪い」という主張は必ず「市民社会」の原理(市場原理)の主張になっている。「当人同士が納得して自分の身体を売ったり買ったりするのがなぜ悪い」という話になる。「自分の身体」を「商品」に置き換えて考えてみれば、これは正当な主張である。そして「自分の身体」を「商品」にしてはいけない、という理由も、市場原理に照らして考える限り説明できないのだ。
一方、売買春を悪と考える根拠になるのは「家族」の原理である。「家族」というのは、俗に言われるような「血縁」の結びつきであるよりも、人間同士のエロス的な結びつきであることがその本質である。「家族」を描いたよい話というのは、必ずそういう側面が強調されているはずなのだ。そういうエロス的な結び付きは金銭では買えない。だから、性的なエロスを金銭で売り歩くのは、「家族」(あるいは「恋人」等)という関係においてのモラルに反することだ、という位置付けになるのである(したがって、「ジェンダーフリーと社会主義」で示したように「家族」の解体を志向する社会像は、必ずフリーセックス&スワッピングの乱交社会として描かれることになる)。
「売買春それ自体が是か非か」という二者択一の形での問いは、実は始めから答えが出ない問いなのだ。これは、必然的に「家族」の原理と「市場原理」との水掛け論になるからである。「家族」の原理と「市場原理」とは、どちらが正しいという性質のものではなくて、最初から異質なものについての原理である。だから「ノー バット イエス」になってしまう。しかし人間は誰でも、複数の側面があると言えども、身体は一つしか持っていない。したがって身体を「家族」と「市民社会」に分けるわけにはいかない。それをどう解決するのか。
昔の日本では基本的には、これは空間的な「場の原理」として使い分けていたように思う。つまり売春をする女性は遊郭に属する(そうじゃない夜鷹なんかは、もっと低い存在に見られていた)。遊郭には家庭と異なるモラルがあって、それぞれ人間が「どこにいるか」によって、従うべきモラル(と、そのモラルに従っての振るまい方)が複数存在していたのである。
それに加えて、「場(家庭)」と「場(遊郭)」との間の行き来のモラルも存在した。男性は決して無制約な好き勝手をしていたのではなく、たまに遊郭に行ってもいいけど、それは「必ず家庭に帰る」ということが条件である。遊びにはまりすぎると、かえって「だらしないやつ、男の風上にも置けないやつ」として、男性同士の間でも低く見られることになる。今でも勘違いした男性が「浮気は男の甲斐性」ということがあるが、本当は「浮気しても妻の元に帰る、家庭を壊さない」ことが男の甲斐性だったはずではないのか。浮気相手の女性から「いつ奥さんと別れてくれるの」と言われるような男性は、「甲斐性なし」といわれても仕方がなかろう。
こういう場所論的(トポロジカル)に出来ていたモラルを崩すのが、援助交際(を含む素人売春)なのである。買う方のモラルが崩れるのは当然だが、売るの側(女性)も、家族原理と市場原理との整合性がとれなくなってしまっている。これが現代の、売買春をめぐる問題の本質なのである。
