神名龍子
1.批判対象を取り違えた『週刊新潮』記事
『週刊新潮』(1月30日号)に、「高校生にも男女同室で着替えさせる「ジェンダーフリー」教育の元凶」という記事が掲載された。このタイトルにある「高校生の男女同室での着替え」の他にも、小学生に対する露骨で非常識な性教育の現状など、複数の例が挙げられ、それを徹底的に批判する記事である。私としても、この記事の全体的な趣旨に対しては異論はない。ただし今回のテーマは、それとは別のところにある。私がこの記事から取り上げたいのは、ジェンダーフリー教育の一例として取り上げられている、女装家・三橋順子さんについての話である。
『世界でいちばん受けたい授業2』(小学館)という本に、三橋順子さんを招いて行なわれた『「差異」と「差別」を考える』という、授業が掲載されている。足立区立第11中学校(東京)で行なわれた、藤原和博氏が提唱する総合的な学習[よのなか]科の授業の記録の一コマである。『週刊新潮』の記事では、ジェンダーフリー教育の一例としてこの授業を取り上げ、高崎経済大学の八木秀次助教授のコメントを掲載している。
八木氏がこの授業についてコメントするのは、初めてのことではない。少なくとも昨年に一度、『正論』(8月号)で、この授業について述べている。これについては昨年の9月に「68.確信犯的 GID 批判」の中で述べた。今回の記事を読んで気がついたのは、八木氏のこの授業に対する批判のポイントが前回とは異なるのではないか、ということである。八木氏は昨年の『正論』では、
|
誤解のないように言っておくが、私は何も「女装家」を世の中から排除すべきだと言っているのではない。ただ教壇に立ち、子供たちを特定の方向に誘導するのは公教育としては不適切ではないかと言いたいのだ。 義務教育、それも公教育は人として、日本人として、日本国民としての基礎・基本・スタンダードを教えるべきところであるはずだ。人間の複雑性や、「異端」や「例外」の存在とそれへの寛容などはその上で教えればよいことである。しかし藤原氏の教育実践はその順序が逆で、「多様性」や「個性」を強調しながら、いきなり「異端」や「例外」を教え、人としての「基本」を強調するのだ。 |
と述べている(同誌P39)。この記事の批判の対象が、あくまでも[よのなか]科の提唱者である藤原氏であることは、一読して明らかだ。そして以前にも述べた通り、この記事での批判はあくまでも授業の進め方や内容に関するもので、「女装家」の存在を否定するという事はしていない。また、セクシャルマイノリティについて教えることについても、その時期を問題にしているのであって、必要性そのものを否定しているわけでもない。「女装家」を「異端」や「例外」というのは心理的には抵抗を感じるものの、ここに示された義務教育観については正しいといわざるを得ない。
ただし、『世界でいちばん受けたい授業2』を見る限り、八木氏のいうところの「異端」や「例外」を教える授業は、三橋順子さんを招いて行なわれたこの『「差異」と「差別」を考える』の他には見当たらない。ならば、これは八木氏の義務教育観を肯定した上でいうのだが、3年間の内の1時限くらい「異端」や「例外」を教える授業を設けたからといって、義務教育の何であるかが崩壊するとは、私にはどうしても考えられないのである(もちろん、たとえばこういう授業が3年間・毎週3時限ずつあるというのなら、まったく八木氏の主張する通りだと思うが…)。
もちろん、今回の『週刊新潮』の記事にあるように、小学校1年生に性器やセックスについて必要以上に露骨に教えるとか、同じく小学校1年生にインターセックスについて教えるというのなら、これは回数の問題ではない。性教育の内容が、それを教えられる児童の年齢に鑑みて、非常識だとしか言いようがないからである。しかし、そういう非常識な性教育と、中学生に1時限かぎり性同一性障害や「女装家」について知らしめることとは、問題の質が全く異なるのではないだろうか。
また『週刊新潮』の記事では、昨年の『正論』と異なり、批判の対象が三橋さんにシフトしているように思える。明言されているのは、あくまでも授業の内容に対する批判なのだが、そこには藤原氏の「ふ」の字も出てこない。『正論』の記事が八木氏本人が書いたものであるのに対して、『週刊新潮』の記事はライターもしくは編集者が書いたものであり、後者では八木氏の意見はあくまでもコメントとして差し挟まれているに過ぎない。そのために両者の論調に違いが生じたのかもしれない。しかし、記事中に藤原氏の名がなく、三橋さんの名だけが挙げられているために、まるで八木氏が、藤原批判ではなく三橋批判をしているように読めてしまうのである。しかし、昨年の『正論』での八木氏本人の弁を参照する限り、彼の批判が藤原氏に向けられていることは明らかであって、この点においては、今回の『週刊新潮』の記事にはミスリードの感が拭い去れない。
誤解のないように書いておくが、私が今回この問題を取り上げたのは、三橋さんを擁護するためではない。私もまた藤原氏に批判的だからであり、もしかしたら、その点では三橋さんとは意見を異にするかもしれない。ただし私の藤原批判は、八木氏とはその趣旨が異なる。私がここで言いたいことは、この授業の内容がとても『「差異」と「差別」を考える』といえるようなものになっていないということであって、性別の問題ではない(性別の問題に限らない)。そもそもこの点に関しては、八木氏は私の知る限り何も言っていない。
『世界でいちばん受けたい授業2』を読む限り、「差異」や「差別」とは何であるかということがまったく「深い次元で考え」られていないし、「いじめ」を「差別」と同一視しているという点では、教育に関しても充分な考察がされているとも思えない。
まず気がつくのは、「差異」は認めるが「差別」は否定されているということだ。この点では、「差別」をなくすためには「差異」(例えば性差)をなくさなければならない、という主張よりは一歩進んでいる。しかし、ここで言われている「差異」とは、私から見ればあくまでも見せかけの「差異」に過ぎない。なぜなら、この授業で言われている「差異」とは、一切の価値判断を排除した、純粋に形式的な違いという以上の意味を持たないからである。実際に、授業を受けた中学生が、自分が差別された体験としてどのようなことを挙げているのか見てみよう。
「勉強ができないってよく言われる」ということが「差別」だというのは、勉強の出来の良し悪しについて価値判断をするな、というのと同じことだ。したがって、もしこの授業の内容を認めるならば、「差別」をなくすためには、あらゆる「差異」について価値判断をなくさなければならないという話になってしまう。認められるべき「差異」とは形ばかりの違いであって、その価値的な違いを論じることが禁止されることになる。これがつまり、上に書いた「一切の価値判断を排除した、純粋に形式的な違い」ということの意味である。他人に対して一切の価値判断をするなということだから、誰かが悪いことをしても不干渉で通さなくてはならなくなる。なにしろ、親が子供に「勉強できない」ということも「差別」だというのだから。
しかし実際には「差別」というのは、一切の価値判断を排除しなければ解決できないようなものではあり得ない。「差別」とは「不当な価値付け」のことである。たとえば「朝鮮人は日本人よりも劣った民族だ」というのは「差別」である。これが、「朝鮮人」というカテゴリーに対して、何の妥当な根拠もなしに不当な価値付け(それも劣位の)をする行為だからである。
また、単に自分がマイノリティ(=少数派)になったというだけでは「差別」されたとはいえない。あくまでも、「マイノリティであること(そのカテゴリー)」に対して「不当な価値付け」がなされた場合に、初めて「差別」といい得るのではないだろうか。しかしこの授業では、少数派であることと「差別」されることとが同義に扱われてしまっている。とても「差別」の本質にせまる内容になっているとはいえない。「差別」の解決に必要なのは、あくまでも不当な価値判断の排除(禁止)であって、一切の価値判断を禁止する必要はないのだ。親が子供に「勉強できない」ということが不当だというのなら、これは教育の自殺に他ならない。それもわからないような人物に、新しい教育のあり方を提唱する資格があるのだろうか。
そして、どのような価値判断が正当であり、また不当であるのかを判断するためには、まずもって八木氏が指摘するように、「基礎・基本・スタンダード」を教えることが不可欠なのである。
誤解のないように付け加えておくが、私は、学校で教えられたことをすべて鵜呑みにせよというのではない。教えられたことを疑って検証し直したりすることを私はおおいに推奨するが(私自身、これは武術や哲学の分野でも身に覚えのあることなのだ)、しかしそれは「基礎・基本・スタンダード」を教えられた次の段階に位置することだ、といいたいのである。上に引用した『正論』の記事の中で八木氏が、
| 人間の複雑性や、「異端」や「例外」の存在とそれへの寛容などはその上で教えればよいことである。しかし藤原氏の教育実践はその順序が逆で、「多様性」や「個性」を強調しながら、いきなり「異端」や「例外」を教え、人としての「基本」を否定するのだ。 |
と述べているのは、まさに「正論」である。どんな分野でも「基本」を否定して応用ばかり教えたら、小粒で小器用な人間が出来るばかりではないか。藤原氏の年齢で応用偏に取り組むのはよいが、それをそのまま中学生に当てはめることに妥当性があるとは思えない。
ところで授業を受けた中学生が、自分が差別された体験として挙げていることで、他にこんなものがあった。
この2つはいわゆる「いじめ」の例と考えてよいだろう。前者の場合、相手が「餓鬼大将みたいな女の子」一人だとしたら、これはマイノリティ(=少数者)体験とは言い難いような気もするが、おそらくこの状況では周囲の誰も助けてくれなかったという状況が背景にあったのだろう。
マイノリティであることも、「いじめ」に遭うことも、この授業ではすべて「差別」として括られているが、しかし、「いじめ」は「差別」と同義に考えてよいのだろうか。私は上に、「差別」とは「不当な価値付け」であると書いた。では、その動機は何か。これもずいぶん以前から何度も書いているが、「差別」の動機はアイデンティティ補償である。他人の価値をおとしめることで相対的に自分を高めようとすることが「差別」の動機である。
しかし「いじめ」の場合には、必ずしもこの条件に当てはまらない。もちろん差別的な心情(アイデンティティ補償)を含む「いじめ」も存在するだろう。しかし、「いじめ」を単純に「差別」として片付けたのでは、「いじめ」について理解したことにはならない。「いじめ」には「差別」一般にはない特徴があるからだ。
学校における「いじめ」の特徴は、人間関係をおもちゃにするという点にある。上に挙げた例では「カツラ」の件が典型的だが、「いじめ」は単にアイデンティティ補償(自己の優位性の確認)の行為ではなくて、一種の遊び(悪ふざけ)という側面を持っている。だから、これを単純に「差別」だと捉えてしまうと、かえって解決不可能な問題になるのだ。まして、巷にいわれているような「受験戦争の重圧」によるものでもありえない。もしそうだとしたら、「いじめ」は学校よりも予備校でこそ深刻な問題にならなければおかしい。「いじめ」は遊びという側面を持つからこそ、予備校ではなく学校に現れるのであり、また中学校でいえば受験を目前に控えた3年生よりも、1〜2年生に多く見られるのである。
また上の幼稚園での話については、これは他の子供に対する「いじめ」という遊びを邪魔された腹いせと考えられる。この例での「いじめ」という遊びでは、特定の子を無視するのが(不当な)ルールであり、そのルールを破った子が報復されたわけだ。
したがって「いじめ」の問題の根底にあるのは、「学校の退屈さ」であり、「学ぶ意味」の喪失である。学ぶ意味や学校に行く意味が充分に了解できていないにも関わらず、毎日のように一定の時間を学校という閉鎖的な空間で過ごさなければならない、そのストレスといってもよい。かえって受験のような目標があると「いじめ」は減る。逆にどんなに「差別」はよくないといっても、そのために「いじめ」が減ることはないし、それどころか「いじめ」の本質を突き外しているのである。
この「学校の退屈さ」を解決するのは「考える授業」や「楽しい授業」ではなく、「学ぶ意味」が感じられる授業である。つまり、学ぶことに目的意識を持てることが必要なのだ。これは授業のやり方を工夫したくらいでは、せいぜい小手先の工夫に過ぎず、根本的な解決にはつながらない。「教育」あるいは「学校」という制度の意味そのものについて捉え直す必要があるのであって、「差別」のついでに扱うことの出来るような問題ではあり得ないのである。
