神名龍子
以下は、今月13日に大坂で開催した『gid.jp』第2回フォーラムで発表させていただいたもので、内容は前回紹介した、吉岡純子さんの「TSとTVはなぜケンカになるの?」のテーマを受けた考察である。掲載に当たって加筆訂正の上、文体を文語調にしていたが、当時の雰囲気が伝わり難いため、再び口語体に改めた(改訂 2003.05.03)。
彼女のモチーフは「当事者同士のトラブル」、刑法犯に始まって、脅迫、恫喝、名誉毀損、ストーカー行為、怪文書、迷惑メール、インターネット上での口喧嘩にいたるまで…(会場内から笑い声)、たくさんありますけど、私が言ってるんじゃありませんよ。全部、吉岡さんが挙げているんです(笑)。実に様々ですが、なぜこのようなトラブルが多いのか、について考えるということです。私はこのような当事者間のさまざまなトラブルを、全部ひっくるめて「当事者間の内紛」と呼ぼうと思います。この「当事者間の内紛」の原因は、吉岡さんの考えでは、
この3つが挙げられています。1番目は、人間関係が少数の人々の中だけでやりとりされている社会の中で、お互いの関係が濃密になるために、互いの感情が、たとえば「好き」とか「嫌い」とかが強烈に増幅される現象です。次に2番目ですが、性同一性障害の当事者は、自分の本心を他の人に語るということを、成長の過程で充分に行なってきていません。そのために自己表現のスキルに工夫の余地が残っていて、そのせいでトラブルが増えるわけです。3番目の「投影」は、これは精神分析学の用語ですが、自分の内にある感情を、自分の外にある、他者やモノの中にあるかのように感じてしまう作用をいいます。
この3つの現象は、性同一性障害に特有のことではなく、人間社会には普通によく見られることです。ですが性同一性障害の場合、それが悪循環を起こすことで、より事態が深刻になる、というのが、吉岡さんの考えです。
根底にあるのは「アイデンティティ不安」で、それが「依存的な他者への投影」を引き起こし、「対人関係のトラブル」をかかえやすくなる。その結果、対人関係が限定されて、少数の判り合える人たちとだけつきあう傾向に拍車をかけ、人間関係の密度があがる。それが「対人関係スキルの低下」につながり、さらに自分は社会に受け入れてもらえないという形で「アイデンティティ不安」を引き起こし、ますます「依存的な投影」をするようになり……、といった形で、悪循環現象が起こるわけです。
これをどう防ぐかというと、吉岡さんは最初に挙げた3つの原因のそれぞれについて、次のような方法を挙げています。
私は、2番目の「アサーショントレーニング」というのは知らないのですが、これをご存知の方によれば、被差別部落問題や在日朝鮮人問題など差別の問題でも用いられているそうで、これもマイノリティのために60年代のアメリカで始まったカウンセリング技法なのだそうです。ロジャーズ派の精神療法や「アサーショントレーニング」について参考文献については、皆さんにお配りした今日のレジュメの最後に、吉岡さんお勧めのものを書いておきましたので、興味のある方はそちらを参照してください。
それは何かというと、「GIDであるということ」、これはTGやTVでも同じことですけれども、これは自己選択的なことではなくて、「到来」するものだということです。「到来する」というのは、ハイデガーという哲学者が『存在と時間』という本の中で使っている言葉なんですけど、本人にとって自分の意志に関係なく、向こうから「やって来る」ということです。あるいは、自分の意志に関係なく「GIDである」という状態の中にいつの間にか投げ込まれている、といってもいいですね。これはどちらを使っても構いません。今回は「到来」という言葉を使いますけれども、要するに「GID当事者は自己選択的にGIDになったわけではない」ということです。
この「到来」という作用によって、自分が GID(あるいはTV / TG / TS というカテゴリー)に分類されてしまう。このようなカテゴリーにはそれなりの意味があるのですが、しかし個々の当事者にとって「自分がカテゴリーに属することの意味」が必ずしも了解されているとは限りませんし、これはカテゴリーの必要性とは別のことです。
自分達が抱える問題の解決も、全く進展がないというわけではないにせよ、遅々としている。その中で自分が何をしてよいのか判らない、あるいは自分が何かすることによって何かが変わるという実感が得られない。それにも関わらず、自助グループや、GID関係のサイトから離れることも出来ず、GIDというカテゴリーから自分自身を引き離すこともできない。なぜかというと、GIDについての情報も得にくくなりますし、他の当事者に置いていかれるような不安を感じるからです。GID当事者の多くはそういう状況の中で、「GIDであること」に一種の倦怠感を感じているように思います。
そういう人たちが何を始めるかというと、自分たちのお互いの「関係」をオモチャにする。学校でいう「いじめ」のようなことが起こります。「いじめ」というのは、集団が目標を持って行動している時には、それが集団の目標であれ、個々のメンバーの目標であれ、起こり難いのです。だから中学校では受験を控えた3年生になると「いじめ」が減るし、予備校では学校に比べて「いじめ」が問題になりにくいですね。
しかし1年生や2年生の場合には、そういう条件がありません。なぜ自分が教育を受けなくてはならないのか。毎日のように、1日の中のかなりの時間を、空間的にも規律的にも束縛されなければならないのか。なぜ自分は「1年B組」という集団の一員でなければならないのか。その理由が、たとえ頭では何となくわかっていても、心の底から納得しているとはいえない。たまにクラス対抗でスポーツを競うということはあるかも知れません。でも、学校生活全般を通じての「クラスの目標」とか「自分がこのクラスに属すことの意味」というのは、ありませんよね。皆さんも、中学や高校時代のことを思い出してみれば、多くの方がこのような思いを持っていたのではないでしょうか。
しかし今日は、教育問題について述べることが目的ではありませんし、また私はそういう立場にもありません。このような学校の問題は脇に置きます。
私がここで言いたいことは、人間は、そこから抜け出すことが出来ないにも関わらず、自分がある集団の一員として存在することの「意味」が充分に納得できないような場合、退屈するということです。人間は何につけ、無意味なことには退屈するという心理的な習性を持っていますね。そういうときに、人によっては、無理にでも何らかの意味を見出そうとしたり、あるいは意味を創り出そうとしたりします。自分たちの「関係」をオモチャにするというのも、そういう行動の一種です。もっと簡単にいえば、「いじめ」というのは、退屈しのぎの「遊び」なのです。
そこで「差別」をなくすために、カテゴリーやその根拠となる「差異」そのものを否定したり、あるいは物事についての価値序列そのものを否定したりしようとする人がいます。だけど、これは「差別」を表面的にしか見ていない、「差別」の本質を突き外した考えです。
人間が他の動物と違うのは、身体的な快苦の価値観だけでなく、真偽・善悪・美醜といった精神的な価値観を持っていることにあります。もし、あらゆる価値付けを否定するならば、「差別は不当だ」といえる根拠も否定してしまうことになりますね。それだけではなく、善悪の価値観なしには、社会そのものが成り立ちません。あらゆるルールは不当なものだという話になってしまいます。だけど、その結果として実現するのは「完全に自由な理想社会」ではなく「弱肉強食の無法世界」です。よほど能天気な性善説に立つ人でない限り、このことは誰でも容易に想像がつくでしょう。そうではなくて、どのような価値観が正当であり、また不当であるのか、それをきちんと考えなければ、「差別」の問題を考えることにはなりません。
GID当事者にも同じ構造があって、当事者間の内紛というのは、「差別」的なもの、つまり内部差別と、「いじめ」的なものがあり、また両者が重なり合うようなものがあると考えると、その大部分が分類可能になるのではないかと思います。
内部差別は「アイデンティティ補償」を目的として起こります。これは、TV / TG / TS といったカテゴリー間で起こりやすく、また、たとえば TS 内部であっても「私は真のTSで、あなたはニセモノ」というように、新しいカテゴリーを作ることによって行なわれる場合もあります。もちろんこの場合も、「真のTS」は「ニセモノ」よりも上位の価値を占めているという、ワケの判らない不当な価値付けを伴っています。
「いじめ」的内紛の場合には、これは別の話になります。重要な問題をかかえているにも関わらずそれが解決できないもどかしさと、解決できないにも関わらず自分を集団から引き離すことの出来ないもどかしさ。このような倦怠感が、お互いの関係をオモチャにして当座の集団の話題を無理に作る作用をもたらしているのではないか。たとえば、インターネット上の匿名掲示板によく見られる、デマや誹謗・中傷などは(会場内から笑い声)、このような動機から生じているのではないかと思います。
こちらの大阪ではどうか知りませんが、東京では一つの自助グループに TV / TG / TS がみんな参加しているということは、まずありません。TV の場合には自助グループに参加する人は、ほとんどいないように思います。それから、インターネット上の匿名掲示板でも、誹謗・中傷をする人とされる人とが「濃密な人間関係」にあるとは限りません。そういう意味では、吉岡さんの考察には必ずしも当てはまらないケースもあるわけです。
むしろ、必然性のない希薄な関係、たとえば「私とあの人がなぜインターネット上では同じカテゴリーに属していなくてはならないのか」ということが、「いじめ」的な内紛を生み出したり、あるいは「差別」的な内紛の標的を見出す原因になっているのではないでしょうか。もちろん、グループ内で起こる内紛のような場合には、吉岡さんが指摘するようなケースも存在すると考えることが出来ますが、それに該当しないようなケースは、そのほとんどが、私がここで述べたような理由で起こっているように思います。
しかし、「当事者間の内紛」を「減らす」原理ならありそうです。
まず「差別」的内紛についていうと、これは「差別」の問題全般に言えることですけれども、人々が「差別」をする動機が低くなるような社会の条件をつきとめて、それをつくりだすべく努力することです。「差別」の動機というのは、先ほども言いましたが「アイデンティティ補償」にあります。「差別」をする人はそれによって自分の位置を高めようとする。しかも不当で勝手な価値付けによって、他人を一方的に利用してそれをする。こういう行為は「悪」という以前に、「醜い」行為、カッコ悪い行為ですね。そして、「差別」をすることによって、実は自分が「アイデンティティ不安」を抱えていることを暴露してしまう、ということでもあります。
つまり、やたらと他人を差別することで偉そうにしている人を見たら、「よほど自分に自信がないんだな」と思って間違いありません(笑)。もし、「差別」をする人に対して皆がそう思うのであれば、その人は「差別」によっては「アイデンティティ補償」が出来なくなります。「差別」をすればするほど、「自分に自信がないやつだ」と思われてしまうからです。これは一つの例ですけど、徹底的に「差別」をなくそうと考えると難しいけれども、「差別」することが馬鹿々々しくなるような条件なら実現できる、ということです。
次に「いじめ」的内紛を減らす原理ですが、「いじめ」の根底には、退屈や閉塞感があります。学校や予備校の例でわかる通り、これは何らかの目的を持ち、その目的に向かうことで解消されて、「いじめ」が減るわけですね。
この退屈や閉塞感を別の言い方でいうと、一種の挫折です。人が何らかの理由で挫折して、それを乗り越えられない場合にとる態度の基本形が3つあります。プラトニズム、シニシズム、それに、ルサンチマンですね。プラトニズムは、挫折を絶対的なもので打ち消すこと。たとえば理想の社会を思い描いて、自分を正当化することです。
シニシズムというのは、聞きなれない言葉かもしれませんが、形容詞形で「シニカル」という言葉がありますね。「シニカルな態度」。あれのことです。他者や世界との関係性を放棄して自意識を守ること。世界に対して皮肉で冷笑的な視線を向けるわけで、簡単にいえば根性がひねくれてしまうこと。
そしてルサンチマンは、恨み・妬みの感情です。現実があまりにも受け入れがたいときに、「あいつのせいで、あるいは世の中のせいで自分はこうなってしまった」と、何かのせいにして自分を守ろうとすること。攻撃性が外に向いて、問題の本当の原因に向かいません。
プラトニズム、シニシズム、ルサンチマンのいずれにしても、結局自分の気持ちがくさって、他人との開かれた関係が取れなります。どんな人間にとっても、対人関係においてこれが一番致命的なことです。
ですから、「いじめ」を減らす原理、あるいは挫折を乗り越える原理というのは、他人や世界に向かって開かれた関係を持つことです。「開かれた関係」については、吉岡さんも「当事者以外の人と接触する機会を増やす」という形で指摘されていますね。彼女が言うのは、閉じた関係の中にしがみつくなと言うことだと思いますが、もう一つ大事なことがあります。他人や世界に向かって開かれた関係を持つ、ということは、常に自分の可能性が世界に向かって開かれている、ということなのです。
ちょっと、難しくなりましたね…。他人と「よい関係」を持ったり、あるいは様々な能力や知識を身につけること。そういう努力は、自分に何が出来るか、あるいは自分が何であり得るかという「自分の可能性」を増やすことにつながる、という意味です。他人や世界を冷笑的に見るのでもなく、また敵対するのでもなく、他人との間に「よい関係」を持つことによって、自分自身の可能性が広がって行きます。これは、シニシズムやルサンチマンとは正反対の態度です。自分自身の可能性を実感することが出来ると、その人にとっての世界が「意味のあるもの」に見えてくるわけです。
もう一つ大切なのは、その時にあまり遠大な目標、理想的な目標を立てないということです。つまり、プラトニズムの逆の態度、ということですね。出来ることをする、あるいは、出来そうなことをする。それによって、なるほど確かに「私は出来る」ということを実感する。この積み重ねが大切なのです。“Ich kann…”、英語で言うと“I can…”ですが、この「私は出来る」を実感すると言うこと、自分の可能性を信じることは、人間が生きて行く上で欠かすことができません。
この「私は出来る」という感覚が失われ、「自分で自分の生をつくって行ける」という感覚がなくなっている時には、「私は不運な生の中を孤独に生きている」という気分になっています。他人や世界が悪意に満ちていて、自分を嘲笑っているかのように感じられてしまうんですね。実際に「いじめ」や「差別」に走っていない人でも、GID当事者には、こういう感覚を持っている人が多いのではないでしょうか。これも、いわば「いじめ」予備軍、「差別」予備軍です。お互いに気をつけましょう(笑)。
そういう時は、一度「自分のことは自分で何でも判っている」という気持ちを脇に置いて、改めて「私はどうしたいのか、何だったら『出来る』のか」を考えてみること。これを積み重ねることで、「私は出来る」という感覚が少しずつでも回復してきます。それと同時に、他人や世界は、悪意に満ちたものではなくなってゆくはずです。
「私は私である」という自己中心性が強い例として考えられるのは、まず赤ん坊です。赤ん坊の内は、周囲の人間が関係の網の目を作っているという事が認識できないので、誰を相手にしても、自分と相手との「2人関係」しか認識できません。その最初は、普通は自分と母親の「2人関係」です。あるいは自分と父親、自分とお兄ちゃん。常に自分が中心にいるわけです。
だけど赤ん坊でも3歳くらいになると、他人同士の関係を認識できるようになります。つまりそれまでの「2人関係」に第3者が登場するわけです。フロイトがこの年齢の話としてエディプス・コンプレックスを持ち出したのも、それなりの根拠があるわけですね。こうして「3人関係」あるいはそれ以上の人数の関係、つまり「関係の網の目」を認識するようになります。そうすると、自分はその中の一人に過ぎないという事がわかってくる。この認識が出来ないと、人間は社会性を持つことが出来ません。では、「2人関係」の認識はなくなってしまったのかというと、そうではなくて、たとえば恋愛に熱中している時には、再び「2人関係」の世界にもどります。
ですから、2種類の自己像というのは、特定の相手にとって自分が何であるかという自己像と、社会一般の中で自分が何であるかという自己像です。私達は普通は、この2つの自己像をバランスを取りながら両方とも持っていて、これを場面によって上手く使い分けています。そして、このバランスが崩れたときには、アイデンティティが不安になりやすい。例えば失恋です。恋愛で「2人関係」の世界にドップリと漬かっていて、そちらにウェイトを置いていたのに、肝心の相手を失ってしまう。この時に「私は出来る」という感覚も崩れてしまう。つまり、自分の可能性が失われたように感じられて、世界が絶望の色に染まるわけですね。こういう時には、2つの自己像のバランスを元に戻す必要があります。
逆に、「大勢の中の私」の、この「大勢」という範囲をあまり大きく取りすぎると、自分の存在が相対的に小さくなりすぎます。たとえば、明日にも戸籍の性別変更を認める法律が出来たらいいな、と思っても、自分では具体的にどうすることも出来ません。そうするとやっぱり「私は出来る」という感覚が薄れてしまいます。あるいは、自分一人の力が、世界平和のために何をなし得るかということを考えると、絶望的な非力さを感じます。これは先ほどお話したプラトニズムの問題ですね。
「差別」的内紛や「いじめ」的内紛の原因は、アイデンティティ不安や閉塞感を抱えていることにあります。そして、そういう人たちは、たいていの場合この2つの自己像のバランスを崩しているんです。
ただ、誰でも自分のそういう問題点を明確に自覚できるかというと、これは現実的にはとても難しいものがあります。これは能力や素質の問題ではなくて、あくまでも慣れの問題です。誰でも、冷静に自分の内面に視線を向けていれば、いつか必ず出来るようになります。でも、それでは間に合わない、という人もいますよね。
そういう時には、誰かに相談してみるというのもよい方法です。お友達に相談するのもいいし、カウンセラーという相談のプロもいます。ただ、その時に大切なことは、「相手に答を期待しない」ということです。相手に答を期待するのではなく、相談相手と対話を進めて行く中で、自分自身が答に気付くことを期待する。カウンセラーは、そのためのお手伝いをする人です。
吉岡さんが名前を挙げている、ロジャーズのカウンセリング理論でも、この方法を提唱しています。カウンセリングにはいくつかの系統があって、カウンセラーが「ああしなさい、こうしなさい」と指示をするような場合もありますが、逆にいえばすべてのカウンセラーが答を教えてくれるわけではありません。また、答を教えてくれるカウンセラーがいても、その答が自分に納得できるものでなければ意味がありません。
したがって、どういう方法を取るカウンセラーが相手の場合でも、カウンセリングの本質は一つです。本人が自分の状態を捉え直し、その上で自分が納得できる答に巡り会うこと。それによって、自分によりプラスになるような生き方を探り当てること。これがすべてです。シンプルに言うと、「自己了解」と「態度決定」ですね。
何か壁に突き当たった感じがする。「何か違う」とか「何かが足りない」と思う。程度の差はあっても、人は何か自分の「生き難さ」を感じた時に、それを解決したいと思うわけですね。そしてその時に、思いっきり背伸びをして理想にしがみつくプラトニズムも、他人を見下すように冷笑するシニシズムも、ひたすら他人や世の中に恨み言をいうルサンチマンも、それぞれ一つの「その場しのぎの方法」ではあるのです。
でも、これって楽しくありませんよね(笑)。なぜかというと、本当に問題が解決したわけではないからです。実は人間が抱える問題のほとんどは、何らかの形で他人や社会との関係が上手く取れないときに感じるものです。そして、プラトニズムやシニシズムやルサンチマンというのは、同じ不満を持つ者同士が集まることもありますけど、個人でも小人数のグループでも、一種の「孤高の態度」を取るということなのです。この「孤高の態度」から抜け出して、「他人とよい関係を結ぶ」ことを考える必要があります。
「他人とよい関係を結ぶ」ということは、相手に理解される、わかってもらえるという事です。理解された、わかってもらえたというのは、すごく嬉しいことですね。少しでも過去のそういう「嬉しかった体験」を思い出して、また同じような嬉しさを味わってみたいと思うこと。これが「他人とよい関係を結ぶ」動機になります。
そうすると、そのためには、プラトニズムやシニシズムやルサンチマンの態度から抜け出さなくてはならないという事がわかります。そのためには、考えたりカウンセリングを受けたりする必要があるということも納得できる。つまり、考えたりカウンセリングを受けたりする動機が、自分の中に出来るわけです。
自分で考える場合には、まず自分の感情をじっくりと観察すること。自分では認めたくないような感情も、客観的に観察するつもりで、できるだけ「ありのままに」感じ取ってください。ここで自分を誤魔化してしまうと、考える意味がありません。かえって悪い方向に行きます。
そしてそれを、言葉で表現してみる。これが、慣れないとちょっと難しいんですね。モヤモヤとした気持ちはあるんだけど、それが上手く言葉に出来ない。でも、そこをなんとか工夫して、「あ、上手く表現できた」とか、「まだ何かビミューに違うな」とか考えながら、自分の気持ちを言葉に置き換えて行きます。これが上手くゆくと、「私は自分の中にこういう価値観を持っていたんだな」とか「私は本当はこうしたかったんだ」ということを、「腑に落ちる」感覚を伴って了解することが出来ます。
そうしたら次に、どうすればよいのかを考える。その時に、何が自分に出来るのか、を考えます。不可能を望むことが、苦しみの原因になることも多いんですね。だから「どうすればよいのか」と同時に、「何が出来るのか」を考えると、方向が定まって行きます。すぐに決められない時は、「もう少し様子をみよう」と決めます。これも「どうすればよいのか」を決めるときの選択肢のひとつです。
この「考える方法」についても、参考になると思える本をいくつか、レジュメの最後のところに書いておきました。できるだけ読みやすい本を選びましたので、自分の問題を自分で考えてみたいという方は、そちらも参考にしてください。
性同一性障害の問題に限らず、皆さんが何か悩みを感じたときに、今日の私の話が少しでもお役に立てば幸いです。ご静聴ありがとうございました。
(さらに進んで考えたい人のために…)
