80.“Yes, but…” −戸籍訂正立法について−

神名龍子


 既にご存知の方も多いと思うが、ごく最近になって与党内で GID 当事者の戸籍上の性別訂正を認める立法の動きが出始めている。あまりに突然なので、むしろ当事者の方が戸惑っている、というのが実際のところだろう。戸籍訂正のための条件として、巷に流布しているところでは、

  1. 2名の精神科医が性同一性障害として診断している
  2. 20歳以上
  3. SRS を終了している
  4. 生殖が不能
  5. 現に婚姻していない
  6. 子がいない

などが挙げられているようだ。この内の1番目から4番目までは、ガイドラインに沿った治療を受けていれば満たされる要件だと考えられる。ただし、ガイドラインに沿った治療を受けた人だけに限定されるのではなく、国外やいわゆる「ヤミ」の SRS を受けるなどの、ガイドラインからの逸脱といわれる人たちにも可能性が開かれていることは、注目に値するだろう。

 5番目は、新聞によっては「未婚」などと表記されたために誤解されることがあるようだが、戸籍変更の時点で配偶者がいない、という意味である。だから過去に婚姻歴があっても、戸籍変更の時点で離婚している人は、この要件を満たすものと認められる

 ただし現に配偶者がおり、配偶者と良好な関係にある場合には、離婚して戸籍変更をとるか婚姻生活の継続をとるかという、当事者とその配偶者にとって酷な選択を強いることになる点が気がかりである。私自身は一部のフェミニストのように「家族」や「婚姻」という制度それ自体に異議を唱えるつもりは毛頭なく、むしろそれゆえに、配偶者と良好な関係にある者が離婚を考えなければならなくなるという、この案に対して疑問を感じざるを得ない。しかしこれは、同性婚の問題とあわせて考える必要があり、別にまとまった考察を必要とするので、今回はこれ以上は言及しないことにする。

 現在、当事者間で最も問題視されているのが、「子がいない」という要件である。この要件がどのような意味なのか、いま一つわかりにくい。ごく単純に、生物学的・医学的に誰かの親になっていること、という意味ならば、これは既に子を為した当事者に対する絶望的な宣告である。過去を変更することは不可能だし、まさか我が子を殺すわけにもいかないからだ。

 きちんと調べたわけではないが、私個人の見聞に基づく印象では、子のいる当事者は30代でもそれなりに存在し、40代以上ではその比率はさらに増えるように感じられる。20代以下は比較的少ないようだ。これが何を意味するかといえば、それぞれの世代の結婚適齢期においての、性同一性障害の扱われ方と、社会規範の強さであろう(社会規範の強さについては世代間だけでなく、都市と地方とでも格差があるかもしれないが、これは調べてみないとわからない)。

 結婚適齢期そのものが晩婚化の傾向にあって変化しているが、仮に40代以上の人たちの結婚適齢期を20代半ばと考えれば、この人たちが結婚適齢期を迎えた時期は十数年(もしくはそれ以上)前である。この時期は、自分が T's であるとカミングアウトすることが、著しく困難だった時代に該当する。どうしてもそのような生き方を選びたければ、親兄弟と縁を切ってでもゲイボーイ(現在のニューハーフ)になるか、あるいは隠れた女装癖という形で密かに自分自身と折り合いをつけるというのが、大方の選択だった時代である。しかも社会的には現在以上に、結婚するのが当たり前という意識が強かった。また現在のように性同一性障害について広く一般に知られていたわけではないので、当事者自身も自分の性質を「異常」と考え勝ちだった。そのため、自身の性同一性障害という性質は自他共に、それが何であるかを充分に了解されることなく、脱却あるいは克服すべきものだという考えが強かった。これらの諸条件が複合的に、当事者を結婚に踏み切らせる要因として働いたと考えられる。簡単に言いかえれば、伝統や常識あるいは社会的慣習に対して従順であるほど、結婚しやすく、子を為しやすい傾向にあると考えられる、ということである。

 一方それよりも若い30代や20代では、年齢が下になるほど、上の世代に比べて家族(親兄弟)に対するカミングアウトもしやすく、性同一性障害について知ることも容易になった。また、社会全体として晩婚化・非婚化の傾向が出て来たために、当事者を結婚に踏み切らせる社会環境が弱体化したと考えてよいだろう。

 与党の手になる立法に含まれる「子無し要件」は、おそらくは伝統的家族観に対する配慮から出たものだと思うのだが、それによって、伝統や常識、あるいは社会的慣習に対して従順な人ほど不利益を蒙る結果を招くというのは、おかしなことではないだろうか? こういう人たちの意見を聞いてみると、単に自分が戸籍変更を行なえないという不利益を訴えるのみならず、子供に対する責任への感度の持ち主であり、父性や母性の持ち主であることが多いことに気付かされる。なるほど伝統的な在り方に照らしてみれば、この父性や母性はやや変則的ではあるかもしれない。しかし、それでもなお、非当事者の中に「父性や母性の否定」を唱える人たちがいることを考えれば、このような当事者達はずっと健全な存在なのではなかろうか。


 現在、この要件のために当事者間で論争が巻き起こっている。その中には、このような立法そのものを潰してしまえという意見もないではない。しかし、私はこのような極論には反対である。なるほど「子無し要件」は、他の要件に比べて過酷なものだといえる。これを認めがたいと思う気持ちを持つ人が出てくるのは必然的であろう。だから私も、この法案を「無条件に」認めよという気にはなれないのである。しかし、それではこの法案を潰した先に、どのような「よりよい可能性」が開かれるのだろうか。

 このような要件が含まれている背景には、この法案を現在の与党内で賛成の得られるものにしようという、現実的配慮がある。当たり前だが、与党内で多数の賛成を得られない法案は、それがどんなに当事者の意に添うものであっても、法律として成立しない。これは野党が作った法案でも同じことである。このような条件を考えれば、要件の一部に不満はあっても、難しい状況の中で何とか戸籍変更を実現させようと尽力してくれている議員に対して、やはりそれにふさわしい感謝が捧げられるべきだろう。交渉に臨んではフェアネスであるべきだ。

 もし現案が当事者達の反対によって葬られるようなことがあれば、現在立法に尽力してくれている議員達はどうするだろうか。より当事者の意に添う法案を作るよりも、この件から手を引くだろう。現実にそういう感触があるし、理屈で考えても、成算のないことがわかりきっている法案を作る努力など、誰もするはずがないからだ。したがってこの場合、間違いなく、ゼロからのやり直しではなく、マイナスからの再スタートからになる。それによって次に法案が作られるのが何年先のことになるかわからないが、少なくとも2年や3年で済むとは思えない。しかもその時に、今度こそ完全に当事者の意に添う法案が作られる可能性は、全く保証されない。となれば事実上、当事者達は再び闇の中に投げ返されるのと同じことなのである。

 したがって私達は現案に対して、“無条件の Yes”も“無条件の No”も突きつけることは出来ない。つまり、この問題は“オール・オア・ナッシング”の思考法では解決しない、ということだ。したがって私達は、「Yes か No か」という単純な二者択一の問いを立ててはならない。それは解決不可能な問いを立てることによって、自らを袋小路に追い込む愚行である。では、私達はどのような選択をすべきか。それは、“無条件の Yes”でも“無条件の No”でもなく、タフ・ネゴシエイターになって“Yes, but…”と答えることである。つまり基本的には現案に賛成するが、当事者の未来のために少し条件をつけさせてもらう、というあたりが落とし所になるのではないかと考えられる。

 これまでにも何人かの人から誤解されたようだが、この“Yes, but…”は、子を持つ当事者を見捨てるということでは、まったく「ない」。現案は通す。しかし、それは今後に向けて、法改正の可能性が開かれたものとして成立させる。これは完全な解決ではないが、しかし現実的条件に照らして、最も展望を持つことの出来る選択肢なのだ。ないものねだりの理想論を論外として現実的に考える限り、子を持つ当事者にとっても、現状ではこれが最良の選択である。

 この「展望」についてさらにいう。“無条件の No”を突きつければ、与党は今後、当事者の声に耳を貸さなくなるだろう。それは単なる決裂である。決裂によって困窮するのは、政治家ではなく当事者の側だ。だから、どんなに「子無し要件」を不快・不満に思っても、決裂だけは避けなければならない。決裂を選択することは、今現在の不快感を満足させるために、自分(達)の未来の可能性を投げ捨てるという、あまりにも割に合わない取引を意味する。

 したがって、“無条件の No”を言わないということは、当事者の声が届くような通路を今後も確保しつづけるために必要な条件である。しかし“無条件の Yes”でもいけない。“Yes, but…”によって、この法案に見直し条項を盛り込み、3年後なら3年後に、要件についての見直しの審議が行なわれるような布石を打つ。ただし見直し条項は、必ずしも所定の年数が経過した後の審議を保証するものではない。だからこの方法ではダメだという人もいるが、それは心得違いというものである。私達は将来の保証を、今の時点で誰かから与えられるものとして考えてはならない。

 もし、私達が今後「何もしない」のであれば、おそらく見直し条項は何の効果もない、単なる修辞に成り果てるだろう。そうならないためには、法案可決後から将来の見直しに向けて、効果の期待出来るような運動を展開して行くことが必要なのである。その場合、見直し条項は、ないよりもあった方がよい、というものなのだ。見直し条項の実効性についても、私達は決して“オール・オア・ナッシング”で判断してはならない。見直し条項それ自体に実効性があるかどうかを問題にするのではなく、見直し条項を有効に機能させるために、私達が何をすべきかを考えるべきなのである

 原則賛成、その尽力に対して感謝する。ただし要件については留保をつける。当面は、この“Yes, but…”を基本方針とすべきである。もちろん現段階でよりよい修正が行なわれる可能性があるならば、そのための努力を禁じるものではない。ただしそれもこの原則内のことであって、『角を矯めて牛を殺す』ようでは本末転倒である。

 これからの運動は、対立によって自分たちの利益を図るのではなく、協調を基調としながらその中で自らの利益に配慮することを考えなければならない。何年も前から繰り返し書いているように、「マイノリティ vs マジョリティ」という図式の「対抗主義」型の運動を続けていては、もはや先がない。現在の当事者に必要なのは、理念を守るための運動ではなく、あくまでも当事者を守るための運動なのであって、「出来ねば無意味」なのだ。この問題に関わる運動は、マジョリティとの間にどのように上手に合意を形成するか、という事にその本質を見出して行かなければならない。

L.Jin-na


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