神名龍子
以下は、最近ある掲示板に書き込んだものを、このコーナー用にまとめ直したものである。私としては、これまでに自分が書いてきたものの「まとめ」のようなものなのだが、再確認の意味も含めて掲載しておこうと思う。
このところ、ジェンダーフリーの一環として東日本(特に北関東から東北地方にかけて)で「男女別学」に対する反対運動が起こっているのをご存知だろうか。「男子校」や「女性校」を性差別とみなして、共学化を推進しようという運動である。この、共学化推進派の主張の一つに「性差意識の解消」がある。
しかし本当に「性差意識」は解消すべきものなのだろうか?
なぜフェミニストが「性差意識の解消」を主張するのかといえば、フェミニズムの考え方では「性差=性差別」だからである。もう少し詳しく言うと、これはラジカル・フェミニズムから出てきた考え方で、「性差別があるのは性差があるからだ」というわけだ。だから、「性差別をなすくためには性差をなくさなければならない」という結論になる。それがさらに単純化されて、いつのまにか「性差=性差別」という考え方になっているのである。
このような考えに対しては、まず「性差と性差別は違う」ということをいう必要がある。差別というのは、まず相手をカテゴライズする。「女」とか「朝鮮人」とか「部落」、「黒人」とかのカテゴリーに当てはめる。その上で、そのカテゴリーを不当に劣位に位置付ける。それによって相対的に自分を高める、アイデンティティ補償をする。これが差別の本質である。
カテゴライズのためには、相手と自分が別のカテゴリーに属するといえるような、彼我の差異に着目する必要がある。そういう意味で、差別は差異を利用するけれども、差異が差別の本質なのではなく、あくまでも差別の本質は、それを利用して行うアイデンティティ補償にある。したがって性差別も性差を利用するけれども、しかし性差は性差別の本質ではない、ということになる。
もっとも、ごく近年になってジェンダーフリー論者の側からは、以下のような主張が出てくるようになったのも事実である。「ジェンダーフリー」は、ジェンダーバイアスからのフリー(解放)であって、ジェンダーレス(性差の否定)とは違うと、というのだ。
しかし両者は、必ずしも別物ではない。ジェンダーとは社会的・文化的・心理的性別を意味する。したがってジェンダーは、性別と無関係なものとされた時点で「ジェンダー」ではなくなる。別の言い方をすれば、「ジェンダーバイアスからのフリー」は、それをとことん追求すれば自動的に「ジェンダーレス」の追求になってしまうような構造を持っているのである。「ジェンダーバイアスからのフリー」と「性差否定」とは、もともと連続しているものであって、両者の間に、あらかじめ明確な境界線が存在しているわけではない。
また、性差と性差別を同一視し、「性差別があるのは性差があるからだ」と主張し続けてきたラジカル・フェミニストが、ジェンダーフリーを主張していることも事実である。たとえばこの分野で著名な一人として、江原由美子(都立大教授)の名を挙げることができる。彼女は例えば、東京都文京区区民部女性青少年課発行の季刊「PARTNER」21号(平成14年2月発行)の特集「あらためてジェンダーフリー」にも文章を書いている。
ジェンダーフリーが性差を否定するものではないというのなら、江原はいつラジカル・フェミニズムから転向したのだろうか。私は彼女の転向宣言も知らなければ、彼女がかつて性差と性差別を同一視していたことの自己批判の表明も見たことがない(もし、そんなものがあるのなら教えて欲しい)。「ジェンダーフリー」は「ジェンダーレス」とは違うと主張するジェンダーフリー論者が、「江原由美子はニセモノだ」と断言するのも、寡聞にして私は知らない。少なくとも80年代以降の日本のフェミニズムのおおよその流れさえ知っていればジェンダーフリーは性差を否定するものではないという主張が、いかに取って付けたような場当たり的な路線変更か、よくわかるはずである。
いまどきフェミニスト相手に、フェミニスト(ジェンダーフリー論者)は「差別=性差別」と考えてる、と言おうものなら「どこのバカよ!そんな人!」という罵声が返ってきそうな気がする。そう人に対して私は、「江原由美子というバカだ」といえばよいと答えておいた、これもつい最近のことである。
といっても、別に江原個人に恨みがあるわけではない(そもそも恨みを持つほどの関わりがない)。私がここで彼女の名前を挙げるのは、彼女には著作や編著作が多く、それらの本は現在でも充分に入手可能だし、おそらくは図書館などでも確認することができるからだ。私は自分の主張を他者に「押しつける」つもりはない。私が上に書いたことは、各人が、それが本当かどうかを実際に確かめることが可能である。
ついでに書いておくと、江原の著作は、性差別の意味で「性差」と書いてあったり、性差の意味で「性差別」と書いてあったりするのが特徴だ。だからその都度、どちらの意味なのかを前後の文脈から判断して読み進む必要がある。これが江原の本を読むコツである。
話を戻そう。確かに「性差」をなくしたら「性差別」はなくなるかもしれない。しかし、それで差別する側の動機が解消できるわけではない。差別する側にアイデンティティ不安があり、アイデンティティ補償を必要とする動機が残っている限り、それは別の差異を利用した、性差別以外の差別へとシフトするに過ぎないのである。
結局、差異と差別を同一視する限り、「あらゆる差別を無くすためにはあらゆる差異を無くさなくてはならない」という話にならざるを得ない。つまり、人間をあらゆる側面について画一化しなければならないという危険な思想になってしまう。また、こういう考え方に立つと、たとえば黒人差別は肌の色の違いがなくならない限り絶対になくならないという、絶望的な話になってしまうわけだ。
しかし近代原理というのは、このような差異をなくそうというものではなく、逆に人間にはいろいろな違いがあるということを前提にしている。「違いがあるにもかかわらず」、ある側面(労働とか政治とか権利とか)では同じに扱う。たとえば宗教が違っても「市民」としての権利には差をつけないとか、そういうことなのだ。これが近代の「平等」ということの意味である。差異の否定の思想ではなくて、むしろ差異を差異として認める思想なのだ。黒人差別は差異と差別を同一視する思想では解決不可能で、きちんと近代における「平等の意味」を捉え直す必要がある。
現在のフェミニズム(ジェンダーフリー)は、平等の意味も、差別の本質も捉え損なっているために、問題の表面しか見ていない。それが「差異と差別の同一視」という誤謬を生み出してしまっているのだ。
ところで、ジェンダーフリーに反対する側(ジェンダーフリー論者から「バックラッシュ」と呼ばれている)からは、性別を身体的なそれ(セックス)と、社会的・文化的・心理的なそれ(ジェンダー)に分けて考えること、それ自体に疑問を持つ人がいる。
かくいう私も、人間の「男らしさ」や「女らしさ」は、100%生物学的とか100%文化的というのではなく、「文化的・社会的要因」と「生物学的・遺伝的・進化的要因」の両方が作用していると考えるべきではないかと思う。
しかし、この考え方でゆくと、ある一つの「困難」が出てくる。まず、「文化的・社会的・要因」と「生物学的・遺伝的・進化的要因」とが、それぞれどのような作用を果たしているのかを、測定することができない。具体的な方法が見当たらないのである。
原理的な話をすると、生物学的な側面というのは物質的な側面であるから、これは物理法則等による解明が可能だ。ただしそれは、DNA が物質として何であるかとか、そう言う話に限られる。しかし、生き物を調べるとどうしても「意味」や「価値」の問題、あるいは「目的論」が介入してくる。そうすると、人間の意見というのは必ず割れる。だから生物学や進化論というのは、数学や物理学と同じレベルで意見の一致が見られるという事がなく、論争のタネに事欠かない(分子生物学のようなものは話が別で、これは後者に近いと思うが)。
そこで性についての考察は、自然科学とは異なる方法が必要とされる。私が採用してきた方法では、まず仮に(=方法論的に)、性を「身体的な性別」と「文化的・社会的・精神的な性別」とに分ける。前者が「セックス」、後者が「ジェンダー」と呼ばれるものだ。
そしてこの「ジェンダー」を自分が、あるいは人々が、「どのようなものとして生きているか」ということを考える。そうすると、実は「ジェンダー」の中に「身体」が繰り込まれている事が、誰にも思い当たるはずなのである。
フェミニストは「ジェンダー」をあくまでも身体とは無関係なものとして扱おうとする。そうしないと、ジェンダーにもやはり性差があるという話になってしまうからだ。しかし、たとえ「ジェンダー」が「物質としての身体」からは生じないとしても(いわゆる本質主義を否定しても)、人間が自分や他者の身体を認識する事によって、その精神(意識)の中に「身体観」を得るということは否定できない。そして「ジェンダー」には様々な形で、この「身体観=身体という概念」が繰り込まれている。たとえば、「しぐさ」とか「美容」とか「服装」などを考えてみればわかるだろう。
フェミニストが「ジェンダー」を身体とは無関係なものとして語るとき、「物質としての身体」に触れないのは当然としても、なぜ「身体観」に触れないのか。フェミニストは「ジェンダー」をあくまでも、人間にとって外側(文化や社会)から注入されるものとしてしか語らず、人間の意識に直接に与えられる「身体観」を無視する。それは「ジェンダー」を身体と無関係なものと結論付けるために、都合の悪い事実だからである。
しかし、人間の精神(意識)だけに定位して「ジェンダー」を語ろうとしても、そこに「身体観」が存在することは否定できない。したがって「ジェンダー」においても、性差否定はできないということがわかるります。少なくとも、男女の身体をまったく同じものとして認識してしまうという人でもない限り、それは不可能なのである。
さらに言えば、人間は「自分が何であるか」を認識すると同時に「自分が何であり得るか」を認識するような存在である。自分の様々な可能性を意識的・無意識的に思い描いて、その中の好ましいと思われるものを実現しようとする。その時に、自分の「身体」を抜きにして実現出来る可能性は非常に少ない。空想遊びをするとか、そんなことくらいだろう。
女性が「妊娠・分娩・授乳のための器官」を持つということは、客観的・科学的にそうだというだけではなくて、女性自身にとって自分の「身体観」という形で保持されている。そうでなければ、誰かと結婚して子供を生み育てる可能性を思い描き、それを追求する事ができない。また逆に、結婚も出産もせずに一生を職業に捧げようと考えている女性でさえ、自分が「妊娠・分娩・授乳のための器官」を持つということは、自分の「かくありたい」を妨げる可能性として認識される(たとえば避妊の配慮も、このような認識なしには生じない)。
自分が「妊娠・分娩・授乳のための器官」を持つという認識は、自分が「妊娠・出産するポテンシャルを持つ存在である」ことの認識であり、それはどちらの生き方を選択するにしても、何かにつけて意識せざるを得ないものだ。それが肯定的な価値観を持つものとしてであれ、ネガティブな意味を持つものとしてであれ、意識されざるを得ないということには、変わりはない。そうである以上、そこに「妊娠・分娩・授乳のための器官」を持つ者に特有の行動様式が現れざるを得ない。これも「ジェンダー」である。
したがって、フェミニストが主張するように、性別を「セックス」と「ジェンダー」に分けて考えたとしても、やはりフェミニストが望むような結論は出てこない。これが私の結論である。
さて、スレッドの最初の話題である、本当に「性差意識」は解消すべきものかという問いについては、ここまで来れば答えが出たも同然である。
「性差」というものは、それが「セックス」レベルのものであれ「ジェンダー」レベルのものであれ、そもそも「解消不可能なものとして在る」ということだ。したがって「性差」や「性差意識」については「解消すべきか否か」という問い自体が、この事実の前では意味を持たない問いなのである。なぜなら、仮に「解消すべし」と結論付けたところで、人間が身体を持つ存在である限り、それは不可能な要請、つまり「ないものねだり」にしかならないからだ。
したがって、この事実に立脚し、なおかつ、もし現在の「性差意識」に何らかの問題があるのだとしたら、「問いの立て方」それ自体を変更しなくてはならない。つまり「どのような性差意識を持つことが好ましいのか」あるいは「性差意識とどのように付き合うことが好ましいのか」というように、問いの形を変える必要がある。
私は、「近代原理は人間がいろいろな違いを持っていることを前提としている」と書いたが、ここでもこの考え方が使える。
まずひとつは、性差を意識してもよい(あるいは意識した方がよい)領域と、性差を無視すべき領域との違いを立てるということ。これも何度も書いていることだが、経済や政治の領域では、「原則として」性差は無視する。つまり、同じ仕事をしたのに性別によって給料に差があるとか、選挙のときに女性は1票、男性は2票を投票するとか、こういうのは誰でもおかしいと思う。なぜかというと、政治や経済の領域では、人間は性別に関係なく対等な「個人」であるという事が前提になっているからだ。別の表現でいえば、社会全体の中で共有されているルールがあり、そのルールの下で対等な個人として扱われる領域ということである。
それに対して、私的な領域、社会の中のごく一部だけにルールが共有されるような領域では、必ずしも性差を無視する必要はない。この典型的な例が「夫婦」や「家族」、あるいは「恋人」とか「友人」といった関係である。誰と結婚するか、誰と友人になるかということは、「平等」や「機会の均等」とは関係がなくて、個人的な「好み」のようなものを基準として恣意的に決めてよいものと考えられており、私達はそれを「差別」とは呼ばない。
それから家事や育児の分担も、私は必ず女性が全部やるべきだとは思わないが、そこに政治が介入するのはおかしな話である。これは、各家庭ごとにその内部でルールを作って運営すべき問題なのだ。当人同士が納得できるのであれば、「10対0」でも「5対5」でも構わない。そういう問題である。
政治・経済の問題でも、選挙に立候補する・しないとか、就職する・しないというのは、「個人」がそれぞれ自分に与えられた状況の中で、現実的と思える選択肢の中から、自由に選べばよい。就職しないと生活できない人は就職すべきだが、共働きをしなくても生活に困らないなら専業主婦(あるいは専業主夫)を選んでもよい。
これに付け加えていうと、各人の持つ身体に違いがある以上、それぞれの人間に可能な「あり得る」の種類も異なるということだ。だから、「個人」がそれぞれ自由意志によって自分の生き方を選択しても、その結果としてどうしても性差が生じてしまう。これは当たり前のことなのだ。
もちろん、身体の違いというのは性別だけではない。だから、たとえば身障者の夫が専業主夫になり、健常者の妻が外で働くということもあり得るだろう。これを、たとえば「それは伝統に反する」等の理由で禁止するとしたら、愚かの極みである。ただし、全体としてどのような分布になるかといえば、やはり男性が働き、女性が家事をするという「傾向」が出てくるだろう。これを、特定の思想によって統制しなければならない正当な理由はない。
だから私は、「男はこうあるべき、女はこうあるべき」ということを、あまりにガチガチに固定しすぎると暮らしにくくなると思うのだが、しかし全体的な傾向として性差が生じることは避けられないと思う。そして、こうしたお互いの傾向の違いを踏まえて(違いがあることを認めた上で)、むしろその「違い」を活かし合い、男女が調和できる在り方を模索することが、最も建設的な思考法であろう。
社会的な条件が変われば、それによって男女の役割が編み替えられることはあり得るが、まったく均一化してしまうということは、予期し得る将来においてはなさそうだ。また、均一化しなければならない正当な理由もない。そして、男女それぞれの役割の中身が時代と共に徐々に変化するとしても、「男女がその違いを活かし合って調和できる在り方をする」ということ、それ自体はいつの時代にも必要かつ共通する知恵であり続けるだろう。
以上、私が書いたのは、問の立て直しと、それについてどのように考えればよいのかという筋道について、自分の考えを示したに過ぎない。具体的な答えについては、今後考えるべき問題である。ただし、話が具体的になればなるほど、一般論として語ることが難しくなるのではないかと思う。最終的にはカウンセリングのように、各人ごと、あるいは夫婦ごとの話になってゆくだろう。だからさしあたって、どこまでが思想の領域なのか、ということにも、私は頭を悩ませている。
