神名龍子
【online magazine Sexual Science】(http://www.medical-tribune.co.jp/ss/index.html)というサイトを見たら、『ジェンダーフリーバッシングと「性別訂正法案」に思う』(http://www.medical-tribune.co.jp/ss/2003-7/ss0307-4.htm)という記事が掲載されていた。同サイト編集部による、三橋順子さんに対するインタビュー記事である。この記事の中では、八木秀次氏による、三橋順子さんに関する批判にも言及されているが、これについての私の意見は、既に「77.『差異』と『差別』と『いじめ』について考える」で述べているので、今回は扱わない。私には今のところ、あれ以上に八木氏の真意を知る手立てがないからである。
この記事の三橋さんの発言の中で、私について言及している箇所がある。
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編集部 昨年あたりからジェンダーフリー教育へのバッシングが強くなっています。三橋さん個人が,たまたま巻き添えになっているのではなく,実はセクシュアルマイノリティ全体が巻き込まれていることなのに,その全体としての関心がちょっと低いようで,それが気になるんですが。
三橋 関心は低いと思いますね。それどころか……。トランスジェンダーの当事者でありながら,ずっとジェンダーフリー批判の言説をウエッブ上で発信し続けている神名龍子さんという方がいます。 |
この記事の前半は、いわば共にジェンダーフリー派である編集部と三橋さんによる「ジェンダーフリーバッシング」批判がテーマになっている。その文脈の中で、八木氏とともに私の名が挙げられているわけだ。もちろん、私がジェンダーフリー批判をしてきたことは事実であるから、いつかこんなこともあるだろうとは思っていた。だから、このことはまったく驚くに当たらない。
しかし、私の主張が「社会改革に抵抗する形で終始一貫している」というのは、具体的に何を指しているのか。私自身は、これについてまったく心当たりがない。私が何年も前から私が一貫して主張して来たのは「社会改革の方法」と「社会改革の意味」の問題点の指摘であって、社会改革それ自体に抵抗ないし反対した事実はない。
「社会改革の方法」の問題点とは、現実には社会の中のごく一部に過ぎない集団が、自分たちの意見で勝手に世の中を変えることは不当だ、ということである。たとえば「人民の代表」を騙る前衛気取りの左翼や、「女性の代表」を僭称するフェミニストがこれに当たる。そういう方法ではなく、社会のルールを編み変える際には、きちんと人々の意見を集約する必要がある。この「ルールの編み変え」ということは、これまで何度も繰り返し使ってきた言い回しなのだが、私を批判したい人の目には見えないらしい。それとも、「ルールの編み変え」は「社会改革」とはまったく無関係な話だと思っている、ということなのだろうか。
上の引用部分も含め、このインタビューに通底しているのは、「セクシャルマイノリティならジェンダーフリーに賛同してしかるべし」という、身勝手な思い込みである。この思い込みは、「女性ならフェミニズムを支持しなければならない」とか、「労働者なら左翼政党を支持しなければならない」というのと同型である。しかし私の考えでは、このような考え方が、現在では既に古臭く、通用し難いものになっているのだ。
日本でマルクス主義がそれなりに力を持っていた約30年ほどの昔であれば、この論法もそれなりに通用したかもしれない。その背景には「人々が矛盾の中に置かれているのは、この社会が間違っているからであり、その矛盾を解決すれば人々は解放される。社会の改革に寄与することが正しい生き方だ」という考えがある。そして、かつては「自分の生き方を考えること」と「社会のあり方を考えること」とが、比較的に無理なくつながっていたのである。
しかし現在では、このような考え方自体が受け入れられなくなっている。「社会のことを考えるべきだ。社会をよくするべきだ」というような「正義の押し売り」は、左翼思想の没落とあいまって、もはやウサン臭さしか感じさせないものになっているのだ。人間は誰でも(性同一性障害の当事者も含めて)「自分はどう生きるのか」という問題を考える。この問題は今も昔もあるが、しかし現在では、この問題を考える前提として、自分の問題と社会の問題とのつながりを自明のこととして感じられなくなっているのである。
「社会改革の意味」の問題点とは、このことを指している。三橋さんが現在問題視しているような状況は、私にとっては何年も前から予想していたものであり、だから私は何年も前から「マルクス主義型の運動は先がない」と言い続けてきた。
このような変化を無視し、また、なぜこのような「社会と個人の分裂」が生じたのかを考えることもせずに、「右傾化」だとか「目先の実利だけを追って」いるなどと批判をすることには意味がない。むしろこのような態度の取り方こそが、「ジェンダーフリーという正義の押し付け」と、「セクシャルマイノリティたる個々人の要求」との乖離を雄弁に物語っている。T's のジェンダーフリー離れは、けっして「目先の実利」などという一時的な問題ではなく、ジェンダーフリーという思想それ自体に、人々から見放されるような欠陥を孕んでいるのである。しかし、「自分たちこそが真理を握っている」と信じて疑わないジェンダーフリー論者は、ジェンダーフリーという思想の欠陥を再検討しようという発想を持ち得ない。そのような思想が、衰退すべくして衰退してゆくのは当然である。
そもそも、社会批判や社会改革の「根拠」とは何か。個々の人間が、その生の中で感じる「生き難さ」の内で、社会の制度やルールのあり方などに起因すると考えざるを得ないものがある。このような場合、その個々人には、現行の制度等に異議申し立てをし、制度変更やルールの編み変えを要求する権利があるのだ。
そして、これらの問題について、どのように考えればよいのか、また解決策としてどのようなものがあり得るかということを「提案」するのが思想の仕事なのである。ここで重要なことは、私も含め、思想を担当する者は人々の「指導者」ではない、ということである。思想が「提案」するアイデアを採用するかどうかを決めるのは、あくまでも問題を抱える個々人(個々の当事者)である。私が扱う問題でいえば、その権利は個々の T's の当事者にある。
私の主張が「はっきり言って孤立した言説だった」のだとしたら、それは T's の当事者が私の主張に魅力を感じなかったということ、私が魅力ある提案をできなかったということである。そして「最近になって,必ずしも孤立した論説ではなくなりつつある」のだとしたら、私の「提案」の有効性が認められ始めたということになる。しかし、もちろん私の「提案」とて「真理」ではないのだから、いつまでも支持され続ける保証はなく、再び「孤立」する事もあり得るのだ。これはその都度、どれだけの当事者が私の「提案」を必要と感じるかという問題であって、誰も私の「提案」を採用しない、けしからん、といって済ませるような問題ではない。受け入れられなかった「提案」は反省的に再検討し、当事者が何を求めているのかを察知して、それに応える新しい「提案」を考えるべきなのである。
ジェンダーフリーについても同じことが言える。ジェンダーフリーもまた、決して「真理」ではなく、諸提案の中の一つとしての「ジェンダーフリーという提案」であるに過ぎない。もちろん T's を含むセクシャルマイノリティには、それに従わなければならない義務などない。まして、それが T's にとっての「必要」に応じられない思想なら、なおさらの話である。たとえば、三橋さんのこんな発言がある。
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私たちが「TS原理主義」と呼んでいるんですが,性同一性障害の当事者の一部には,男女二元論を絶対視し,既存の男らしさ女らしさの枠組みをとても固定的に考える人たちがいます。 世の中のジェンダーの枠組みを変える必要はなくて,既存の枠組みにどうやったら自分を合わせられるかを最重要の関心事とする人たちです。私に言わせれば,男女二元制への徹底的な従属ですね。 |
この少し後に、「TS原理主義は,当事者の間では極端な意見と思われて孤立していました」と発言されている。しかしもし「TS原理主義」がこの発言にあるような意味だとしたら、これは「極端な意見」などではなく、GID 当事者の中で少数派を占めてきたわけでもない。多くの GID 当事者は、男あるいは女という性自認を持っている。それは男女二元制と親和性を持ち、あるいは男女二元制を前提としているが、しかし「極端な意見」だとはいえず、むしろ多数派とみなすべきであろう。そしてジェンダーフリーが、このような人たちの要求に応えることのできない思想だということは、この発言からも明らかである。
| ※ | ついでに書いておくと、私自身は「TS原理主義」という言葉を、三橋さんと同じ意味では受け取っていない。私がこの言葉から受け取る意味は、勝手に「TS(あるいは GID)はかくあるべし」という条件を設けて他の当事者を排斥し、それによって独断的な優越感に浸ろうとする内部差別主義者である。こういう人たちは、確かに極端かつ独善的な意見な持ち主と思われて孤立する傾向にあった。 |
現在の状況は、決して私が当事者の考えを変えたというようなものではない。私にそんな影響力はない。私はただ、当事者にとって何が必要になるか、それを見越してものを考えていたに過ぎない。その予想が当たれば、私の「提案」は支持される。予想が外れれば、私の「提案」は当事者にとって、自分たちの「必要」に応えるものとはみなされない。ただ、それだけの話なのである。
三橋さんもまた、このような当事者の実態を知らないはずがない。それにも関わらず、T's にとっての必要に応える「提案」を考えず、ジェンダーフリーを信奉している。私が理解に苦しむのは、この点である。いうまでもなく、ジェンダーフリーは T's が感じている「必要」から立ちあがった思想ではなく、あくまでも「借り物の思想」の思想なのだ。
また、三橋さんは、
| もし「ジェンダー保守派」が理想とするようなジェンダー秩序がガチガチに硬直した社会だったら,困ると思うのですね。だからこそ,ジェンダーフリー運動が必要なんです。性同一性障害の当事者が「ジェンダー保守派」に同調するのは、私には,自分の首を絞めるのを手伝ってるようにしか見えないのですけどね。 |
とも発言されているが、ジェンダーフリーを批判している人たちのほとんどは、実は「ジェンダー秩序がガチガチに硬直した社会」を理想だとは考えていないのである。「ガチガチの伝統主義者」も皆無ではないが、それは一割にも満たぬ非主流派として存在しているに過ぎない。
たとえば、三橋さんが挙げている「正論」02年8月号を見てみよう。三橋さんは触れていないが、実はこの号ではフェミニズム批判の特集が組まれている。この特集の執筆者は、林道義、高橋史朗、粕淵有紀子、長尾誠夫の4氏で、私は高橋史朗氏については知らないが、他の3人の中で性同一性障害を否定する人は誰もいない。それは彼らのHPを見たり意見交換を通じて確認済みである。八木氏の「拝啓 石原慎太郎知事」というコラムは、連載記事だからこの特集に含まれていないが、そこで八木氏が「私は何も「女装家」を世の中から排除すべきだと言っているのではない」と書いていることは、既に紹介した通りである。フェミニズムやジェンダーフリーを批判する人たちが、性同一性障害の当事者が困るような「ジェンダー秩序がガチガチに硬直した社会」を理想としているというのは、明らかにミスリードだといわざるを得ない。
大部分のジェンダーフリー批判者が反対しているのは、あくまでも、ジェンダー秩序をひっくり返そうとか、男女二元制を否定するような過激な改革に対するものである。既存のジェンダー秩序を認めつつ、性同一性障害の当事者も暮らしやすいような利害調整、意見のすり合わせによる穏当な「ルールの編み変え」に反対する人は、ジェンダーフリー批判者の中にはほとんどいない。いきなり過激な主張をするから反発を呼ぶのであって、きちんと説明すれば理解が得られるのだ。なまじジェンダーフリーなど振りかざせば、かえって理解が得られないという事態を招くことは間違いない。このことは、少なくとも昨秋以来、私が実際に接触を試みた経験から明らかだ。
もし、対立し排斥されることが目的ならば、ジェンダーフリーを主張すべきである。
しかし、理解を得て普通に暮らすための合意を形成したいのなら、それは愚の骨頂である。
T's にとっての「必要」に応えるのはどちらの「提案」なのか。その判断は、個々の当事者にお任せしたいと思う。
社会思想には大きく分けて2つのタイプがある。ひとつは、まず最初に社会のあるべき姿を掲げ、そこから個人のあり方を規定しようとするもの。もうひとつは逆に、個人を思考の出発点と視点そこから社会のあるべき姿を描き出すものである。右翼や左翼はどちらも前者に属する。名前にだまされて、右翼と左翼とは懸け離れた思想だと思っている人も多いかもしれない。しかし実は、どちらも最初に掲げる「社会のあるべき姿」の中身が違うだけで、「国家主義・国粋主義」であれ「社会主義・共産主義」であれ、やっていることは本質的には同じなのだ。
近代思想は、個人を思考の出発点とする後者である。私の思想的立場は、この近代思想にある。この観点から左右を批判することもあるのだが、左翼から見れば私は「右」に見え、逆に右翼的な立場(たとえば伝統主義)からは私は「サヨク」に見えるらしい。しかし私は、「あるべき社会像」から個人を規定するような思想的立場にはないので、左右対立の内部のどこかに位置付けられること、それ自体が的外れな批判だと思っている。右だろうが左だろうが、私にすれば「あるべき社会像」から個人を規定すること、それ自体が余計なお世話だからだ。
